イメージをイメージできない・音が色や形となって見える
つい先日、何気なく見ていたニュースの中で、
生まれて初めて耳にした言葉があった。
それが【アファンタジア】という言葉だ。
頭の中で映像や形を思い浮かべることが難しい、
いわば「イメージをイメージできない」
という特性の一つだという。
恥ずかしながら、これまでの人生で
一度もこの言葉に出会ったことがなかった。
しかし同時に、不思議な感覚も湧き上がってきた。
それは、方向性はまったく逆でありながら、
どこか自分と似ているのではないか、
という感覚だった。
筆者がこれまで何度か
自身の記事の中でキーワードとして
取り上げてきた特性がある。
【共感覚】だ。
音を聞くと、
それに応じて文字や形が浮かんだり、
特定の色が見えたりする。
医学的な診断を受けたわけではなく、
あくまでセルフチェックの範囲内ではあるが、
当てはまる項目は決して少なくない。
むしろ、チェックリストを読み進めるたびに
「これも、これも」と頷く自分がいた。
アファンタジアが「思い浮かべられない」特性だとすれば、
共感覚は「余計なものまで浮かんでしまう」特性だ。
方向はまるで正反対なのに、どちらも
「多くの人にとっての当たり前」から外れている点では、
根っこの部分でどこか通じ合っているように感じられる。
だからこそ、ニュースでその言葉を知ったとき、
初めて聞いたはずなのに、どこか懐かしいような、
妙な親近感を覚えたのかもしれない。
筆者自身は、この共感覚という特性に加えて、
ADHD気質、HSP気質、そして
やや強めのアスペルガー気質までも併せ持っている。
いわば特性の掛け合わせのような状態だ。
それぞれ単体でも周囲との違いを感じやすいものだが、
これらが複合的に重なり合うことで、
日常生活の中で感じる生きづらさは、
決して小さなものではなかった。
音に色や形を感じてしまうこと、
些細な刺激にも敏感に反応してしまうこと、
集中力の波が激しいこと、
場の空気を読むことが苦手なこと。
これらはすべて、他人とは違う感覚で
世界を捉えていることの表れなのだと思う。
厄介なのは、この話を誰かにしたときの反応だ。
多くの場合、悪気なく、しかし確実に、
その場に妙な空気が流れる。
「え、それってどういうこと?」
という戸惑いの表情や、
時には理解しがたいものを見るような、
どこか白い目にも似た視線を向けられることもあった。
相手に悪意がないことは分かっている。
ただ単純に、想像の及ばない感覚だからこそ、
戸惑ってしまうのだろう。
それも当然のことだと今では思う。
だからこそ、筆者はいつしか、
自分からこの特性について話すことを避け、
人との距離を置くようになっていった。
話せば話すほど、相手との間に見えない溝が
生まれていくような気がしたからだ。
気づけば一人で過ごす時間ばかりが増え、
深く付き合うような友人と呼べる存在も、
ろくに残らなかった。
このことを寂しいと感じるかどうか、
と問われれば、答えは時期によって違う。
若い頃は、たしかに寂しさを強く感じていた。
周囲が当たり前のように友人関係を築き、
グループの中で笑い合っている様子を見るたびに、
自分だけが取り残されているような
そんな感覚に苛まれたこともある。
誰かと分かり合いたいのに、分かり合えない。
その苦しさは、当時の筆者にとって
決して小さなものではなかった。
しかし今は、その感覚がずいぶんと変わってきている。
人間関係を維持するために余計な気を遣ったり、
無理に話を合わせたりする必要がないということが、
むしろ心地よく感じられるようになったのだ。
誰かに合わせて自分を偽ることも、
理解されないことに落ち込むこともない。
そうした煩わしさから解放された今の生活の方が、
性に合っていると感じている。
その代わりに、というわけではないが、
筆者は自分の持つ特性を、少しでも前向きな形で
活かせないだろうかと考えるようになった。
たとえばデジタル一眼レフカメラを手に、
写真撮影というクリエイティブな作業に
没頭する時間を持つようになったのも、その一つだ。
共感覚によって研ぎ澄まされた色や形への感覚は、
もしかすると写真の構図や色彩選びにも、
何らかの形で活きているのではないかと感じている。
もっとも、今のところ、その活動が何か目に見える成果や、
いわゆる「芽」として結実しているわけではない。
地道に撮り続け、試行錯誤を繰り返している段階だ。
それでも、誰かと無理に足並みを揃える必要のない、
自分のペースで打ち込める時間があるということ自体が、
今の筆者にとっては大きな支えになっている。
生きづらさを抱えながらも、
それを完全に消し去ろうとするのではなく、
うまく付き合いながら日々を過ごしていく。
そんな筆者でも、決して器用ではないかもしれないが、
それなりに卒なく、自分らしい形で生きている。
アファンタジアという言葉との出会いは、
そんな自分の在り方を、
あらためて見つめ直すきっかけになった出来事だった。
