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転職したサクラは働き直すことにした|第4話

Project MOON No.06-2

信頼は契約から始まると知った話

「おめでとうございます!!!」

ぱちぱちぱちぱち、
と事務所のあちこちから拍手が起こった。

「よっしゃー!ありがとうございます。
どうもどうも、みなさんのおかげです」

サクラの直属の上司である新垣が、
いつもの調子で周囲の祝福に応えていく。
片手を軽く上げ、
まるで
表彰台にでも立っているような顔をしていた。

「1,000万の契約か。
これで個人の契約ノルマは達成だな」

「いやー、何とか。
でもまあ、結局は全部私の実力ですかね。」

サクラの会社では、
リフォーム工事の契約をいただいたとき、
こうして事務所のみんなで祝うのが
恒例になっている。

契約を取ってきた営業は、
事務所の入口を入ってすぐの掲示板に、

・お客様名
・工事内容
・住所
・契約金額
・粗利益金額
・工事予定日

を自分で記入する。

契約金額が変わればランキングも動くため、
その順位の入れ替えまで自分で行う。

もっと便利な管理方法は
いくらでもあるはずなのに、
この作業を楽しみにしている営業は多いらしい。
だから、
この“セレモニー”は今も続いている。

「お客様のところに行く前は
受注は難しいかもって言ってなかったか?
すごいじゃないか」

掲示板の近くで打ち合わせをしていた主任が、
上半身だけ振り向いて声をかけた。

「他社と金額を比べて迷われていたんですが、
最後は
『新垣君の人柄を信頼してお願いするよ』
って言っていただいて」

新垣は、
少し照れたように笑ったあと、
すぐに胸を張った。

「まあ、それも含めて全部、私の実力ですよ」

(また調子のいいこと言ってる……)
そう思いながら、
サクラは
新垣の後ろにある大きな掲示板に目を向けた。

事務所の入口を入ると、
正面の壁いっぱいに
営業成績の掲示板が貼られている。
出社すれば必ず目に入る場所だった。

左側には、
営業全員の請負契約金額ランキング。
右側には、
工事完了金額ランキング。
二つの表が並んで貼られている。

契約ランキングの
中ほどより少し上の位置に、
新垣の名前があった。

サクラたちの会社は、
この地域ではいちばん知られている工務店だ。

決して大企業ではない。
けれど、
地域に根ざし、
お客様の暮らしに寄り添いながら、
長い時間をかけて信頼を積み重ねてきた。

新築、
リフォーム、
不動産。

住まいに関わる仕事を幅広く手がけながら、
少しずつ会社の規模を広げてきた。

店舗は10拠点。
営業は60人。
従業員はアルバイトを含めて150人。
年間売上は約50億円。

建設業では、
従業員300人以下、
または資本金3億円以下の会社が
中小企業とされている。
地域の暮らしや雇用を支えながら、
社会の土台を支えている会社だ。

そしてサクラは、
そんな会社で働いている。

そう。
私たちの会社は、
地域の経済を支え、
地域のお客様の暮らしに寄り添い、
家のことで困ったときに
まず最初に思い出してもらえる
そんな存在でありたいと思っている。

……と、ここまでは入社研修で、
人事課の男性スタッフに
何度も何度も繰り返し教え込まれた言葉だ。

いまでは、
そらで言えるくらい耳に残っている。

さて、
新垣の後ろにある大きな掲示板に話を戻す。

新垣は、
請負契約金額ランキングでは
比較的上位にいる。
それに対して、
すぐ右側にある工事完了金額ランキングでは、
名前がかなり下の方にあった。

(ふむ……)

新垣が嬉しそうに
契約金額のマグネットを
入れ替える姿とは対照的に、
右側の工事完了ランキングはどこか静かで、
少し忘れられているようにも見えた。

その違和感には、
少し離れた若手社員のデスクから
掲示板を眺めていたサクラも気づいていた。

サクラは今年この会社に転職してきた、
入社6か月の営業社員である。

前職では、
カフェを4店舗展開している
会社の本社で働いていた。

規模は大きくはないが、
店舗ごとの雰囲気づくりや接客の質、
ブランドとしての統一感を
とても大切にしているカフェチェーンで、
本社では店舗運営を支える仕事に関わっていた。

けれど毎日忙しさに追われ、
次第に疲れきってしまった。

そして、
このリフォーム業界に転職してきた。

新卒からずっとカフェに関わる会社で
働いていたサクラにとって、
リフォーム業界はまったくの未経験だった。

いまも毎日が勉強で、
分からないことばかりの連続である。

入社2ヶ月目からは、
小さいながらもノルマを持つようになった。

周囲に助けられながら、
なんとか毎月の目標を達成してきた。
当然、ランキングはほとんど最下位だ。

名前のマグネットを上位の人と入れ替える。
いま新垣がやっているような経験は、
まだ一度もない。

ただ――

(先輩、いつも工事完了ランキングは
下の方なんだよな……)

新垣は、サクラの直属の上司である。

入社して最初の2ヶ月ほどは、
本来サクラに付き添いながら、
OJTとして現場同行をしてくれる予定だった。

――予定では。

実際には1か月ほど過ぎたころから、

「サクラは勘がいいから、一人でいけるだろ」
と都合のいいことを言って、
単独行動が増えていった。

そのせいで――
いや、そのおかげで……
いや、お客様にとってはそのせいで。

契約をいただいたトイレ工事で、
排水芯を取り違えたまま商品を発注してしまい、
工事が遅れるという痛恨のミスが起きた。

あのお調子者が、
きちんと確認してくれていれば
防げたはずだった。

そのときは、
水道設備の職人である代田が機転を利かせ、
代替の便器を手配してくれたおかげで、
被害は最小限で済んだ。

もし代田の協力がなければ、
お客様にさらに迷惑をかけていたはずだ。

入社して6か月。

会社のルールや仕事の流れ、
そして先輩である新垣の働き方が、
少しずつ見えてきた。

そして分かってきたのは、

新垣は契約を取るまでの熱量と、
契約をもらったあとの熱量が、
明らかに違うということだった。

“キーンコーンカンコーン”
昼休みのベルが鳴った。

サクラは案件一覧の画面を閉じ、
椅子にもたれながら考えた。

請負契約は始まり。
工事完了は終わり。
そのあいだには、
思っていたより長い時間がある。

契約書を書くとき、
お客様は、
「この人なら大丈夫」
そう思って、
大切な家を預ける決断をしてくれている。

けれど、
請負契約書を交わしてから
決めていくことの方が、
実は多い。

仕様を決める。
工事規模によっては、
膨大な項目を一つずつ確認する。
決まった内容を、
その都度図面に反映する。
必要なタイミングで現場を確認する。
現状と設計プランに
ズレがないかを確かめる。

違和感があれば、
職人にも確認してもらう。
工事前にリスクや懸念点を洗い出す。

確認に確認を重ねて、
工事は少しずつ形になっていく。

その途中で、
約束していた工事内容が変わることもある。
それに合わせて金額が変わることもある。
工事が大きく膨らむこともあれば、
小さくなることもある。

契約条件によっては、
工事そのものがなくなることさえある。

契約はゴールではない。

そこから先に、
むしろ本当の仕事が始まるのだ。

どうやら新垣は、
契約後に工事内容が縮小して、
結果として契約金額が下がることが多いらしい。

隣の席にいる
3年先輩の女性営業、真野が言う。

「うーん。新垣先輩って、
お客様から契約をもらうことを、
ゲームみたいに考えてるところがあるんだよね」

真野は椅子の背にもたれながら、
腕を組んで少し首をかしげた。

「契約を取ったら、それでクリア。
そこで満足しちゃって、
そのあとのお客様への関心が
急に薄くなる印象があるの」

そして小さくため息をついた。
「だからクレームも多いでしょ」

そうなのか。

サクラが返事をする前に、

「サクラ。お昼ご飯行こうよ」
と真野が立ち上がった。

今日は会社の斜め向かいにある、
おしゃれなカフェで
パスタランチをする約束をしていたのだった。

「あ、はーい!」
サクラは急いでデスクの上の資料を重ね、
ペンを揃えてから立ち上がると、
真野のあとを追いかけた。



真野は入社3年目の営業社員だ。
前職はアパレル関係。
そのほかにもプールの管理人をしていたり、
マッチングアプリの
スタートアップに関わっていたりと、
少し不思議な経歴の持ち主だった。

外国人のようにはっきりした目鼻立ちに、
すらっと伸びた手足。
白くて透明感のある肌。
髪はいつも高い位置でまとめたポニーテール。
歩くたびに軽く揺れていた。

ただ、
話し始めると、とにかく長い。
でも彼女には彼女なりのルールがあるらしい。

「あなたが始めた話でしょ」
質問した側が最後まで聞くのが当然、
というスタンスだ。
どこかで聞いたことのあるような言い回しだった。

とにかく真野は、
美人で、
パワフルで、
おしゃれで、
そして一目置かれる存在だった。
しかも
契約金額ランキングと
工事完了金額ランキング、
その両方で常に上位にいる実力者だ。

次の人事考課では主任に上がるだろう、と
社内でも当然のように噂になっている。

ただ、
新垣は入社5年目。
真野の2つ先輩にあたる。

(もし真野さんのほうが先に昇格したら、
新垣先輩は荒れるだろうな……)

そう思ったが、
すぐに考えるのをやめた。
同情するほど新垣に助けてもらった覚えもない。

それにサクラは、
真野のほうが好きだった。
女性社員の期待の星として、
その実力で主任どころか店長まで
一気に駆け上がってほしいと本気で思っている。

カフェの扉を開けると、
コーヒーのやわらかい香りがふわっと広がった。

店内には木目のテーブルと大きな窓。
昼の光が白い壁に反射して、
空気が明るく見える。
スピーカーからは静かなジャズが流れていた。

席に着くと、
ほどなくして料理が運ばれてきた。

湯気の立つクリームパスタ。

ベーコンの香ばしい匂いに、
ほうれん草の鮮やかな緑がよく映えている。
ソースはとろりとしていて、
見るだけで濃厚さが伝わってきた。

真野はフォークを
くるくると巻くこともなく、
自然な動作でそのままパスタを口に運んだ。
ためらいのない食べ方なのに、
不思議と雑な印象はない。

「私、そんな上品な育ちじゃないからさ。
食べ方きれいじゃないの。
あんまり見ないでね」

そう言って軽く笑う。

けれど本人が言うほど乱暴には見えなかった。
むしろ迷いのない動きが、
なんとなく気持ちよかった。

しかも特盛。
それでこの体の細さ。

うらやましい。

サクラもフォークにパスタを巻いた。
クリームソースのコクと
ベーコンのほどよい塩気が口いっぱいに広がり、
思わず少しだけ頬がゆるむ。

すると真野が、
さっきの続きを話し始めた。

「新垣先輩の改装工事の案件さ、
店長がちゃんと進捗見ておかないと、
またクレームになって
工事規模も金額も下がるよ」

さらに真野は、
特盛パスタに加えてピザまで頼んでいた。

ルッコラとパンチェッタのマルゲリータ。

焼きたての生地から香ばしい匂いが立ちのぼり、
とろけたチーズの上に
鮮やかなルッコラがふんわりとのっている。

……これ全部食べるの?

真野はピザを大きめに切ると、
くるっと丸めてそのまま口に放り込んだ。
話も手も止まらない。

「そうなんですか?」
サクラは少し驚きながら相づちを打った。

「設計の同期が言ってたんだよね」
口いっぱいに頬張ったまま続ける。

「新垣先輩って、
1,000万円以上の改装工事を
まとめきる力ないって」

「契約したら、
そのあと仕様打ち合わせを設計に丸投げして、
お客様との信頼関係を崩しちゃうことが多いって」

そしてフォークを止めて、
少しだけ真剣な顔になった。

「あの人、
掲示板の左側にしか興味がないんだよ」

「でもこの業界って、
本当に大事なのは右側なんだけどね」

真野のほっぺは、
口いっぱいにパスタとピザを頬張っていて、
漫画みたいにぷくっと丸くふくらんでいた。

それでもおかまいなしに話を続けている。

言葉は少し聞き取りづらかったけれど、
内容ははっきり伝わってきた。
サクラは必死に耳を傾けた。

「契約したら終わりじゃないの」
「むしろそこからがスタートラインなのに」
「あの人はそれが分かってない」

そして静かに言った。
「この仕事の本質を理解してないんだよ」

なるほど。
サクラは真野の目をまっすぐ見て、
深くうなずいた。

私が新垣先輩に感じていた違和感は、
そこだったのか。



それは、2週間後のことだった。
会社に一本のクレーム電話が入った。

「新垣さんから、
次回の打ち合わせについて
2週間も連絡がありません」

「契約前は何度も足を運んでくれて、
連絡もこまめだったのに、どういうことですか」

電話を取った事務員の女性が、
受話器を肩に挟みながら、
何度も頭を下げている。

「申し訳ございません。
本当に申し訳ございません」
その声は少し震えていた。

契約したとき、
お客様は
この人なら大丈夫だ
そう思ってサインをしてくれている。

でも、
契約のあとも、
打ち合わせを重ね、
工事の準備を進め、
現場が動き、
そして工事が終わったあともなお、
同じ気持ちでいてもらえるかどうかは、
また別の仕事だった。

契約は、
信頼の終わりではない。
信頼の途中だった。

サクラは電話対応をしている
事務員を遠目に見ながら、
その奥にある掲示板へ視線を移した。

事務所の奥では、
営業、設計、施工管理、
そして職人が図面を広げて
打ち合わせをしている。

誰かがペンで図面を指し示し、
誰かがメモを書き込み、
誰かが静かにうなずく。
営業の机には
進行中の案件資料が積まれている。

その中心にいるのは真野だった。

椅子の背にもたれず、
少し前のめりになって話を聞いている。
みんな真剣な顔で議論している。

(そういえば……)

あんな打ち合わせを、
新垣がしているところを見たことがない。

工事は、契約のあとに始まる。
そして、終わるまで続いていく。

サクラは掲示板を見た。

左側の契約金額ランキングと、
右側の工事完了ランキング。

同じ大きさで並んでいるはずなのに、
なぜか右側の数字のほうが大きく見えた。



その日の夕方だった。
店長と一緒に新垣が戻ってきた。

ドアが開く音が、
少しだけ重かった。

新垣は、
ぐったりした表情だった。
ネクタイが少し曲がっていた。
事務所に入っても、
車の中から続いていたらしい
説教は終わっていなかった。

店長は歩きながら言った。

「これで何度目なんだ」
「契約してくれた
お客様の信頼をないがしろにしたのは」

そして立ち止まり、
新垣のほうを正面から見た。

「俺たちの仕事は、
契約をもらってからが本番だぞ」
店長は続けた。

「契約から工事完了までのあいだに
信頼を積み重ねていくんだ」

「そして最後に引き渡すとき、
工事の結果と
その過程の両方で満足してもらう。
それがこの仕事だ」

新垣は、
いつものように
顔だけは深く反省しているように見えた。
この世の終わりみたいな表情だった。

「はい。おっしゃる通りです。
申し訳ありませんでした」

本来なら、
打ち合わせのたびにWEBの進捗表へ入力し、
期間が空けば
アラームが鳴る仕組みになっている。
ところが新垣は、
意図的なのか無意識なのか、
その入力がずれていることが多かった。

結果として
店長の管理アラームもすり抜け、
本人も進捗のズレを確認しないまま、
今回のクレームにつながったらしい。

店長が言った。
「今回の工事は、私と真野で引き継ぐ」

事務所の空気が少しだけ静かになった。

「お客様から、
新垣を担当から外してほしいと言われている」

そして少しだけ声のトーンを落として言った。
「契約まではよく頑張ってくれたのにな」

新垣は肩を落とした。
掲示板の数字が下がるのだろう。
お客様からの信頼と一緒に。

そのときだった。
後ろから真野が声をかけた。

「それでいいんですか、先輩」

(……え?)

真野は腕を組んだまま、
まっすぐ新垣を見ていた。

「もう一度行きましょうよ」
「一緒にお願いしてきましょう」
「チャンスをくださいって」

そして店長のほうを見る。
「あのお客様、
契約したのって先輩の人柄ですよね?」
「だったら、まだ終わってないですよ」
「あきらめるの早すぎますよ。ねえ店長」

店長は目を丸くしていた。
予想外の割り込みだった。

すると真野は、
もう決めたような顔で言った。

「よし、決まり」
「今から3人で行きますよ」

まるでブルドーザーみたいに、
店長と新垣を巻き込み、
三人は事務所を出ていった。



翌日の朝、
その後の話を聞いた。

3人でお客様のところへ行き、
新垣が玄関先で深く頭を下げたらしい。

それは店長本人が戻ってきてから
話していたことだった。
店長は少し疲れた顔をしながらも、

「ちゃんと謝ってきたよ」
と静かに言っていた。

そして、
今後は会社として進捗管理を強化すること、
打ち合わせ体制を複数名で支えること、
さらに真野が
次回以降の打ち合わせに同席することを約束した、
と説明していた。

最初はかなり厳しい雰囲気だったらしい。
腕を組んだまま話を聞いていた、
と新垣が言っていた。

でも、
真野が図面を広げながら説明を始めると、
少しずつ表情がやわらいでいったそうだ。

「ここから先は会社として責任を持って進めます」

そう真野が伝えたとき、
空気が変わった気がした、
と店長が話していた。

結果、
条件付きで
担当を続けさせてもらえることになったという。
もともと会社の評判を
信頼してくれていたお客様だったことも
大きかったらしい。

新垣は、
戻ってきてから真野に何度も頭を下げていた。
それも事務所にいたみんなが見ていた。

店長もそのあと、
少し感心したように言っていた。
「真野はすごいな」

新垣は、
これからは意識を変えると話していたそうだが、
その場で真野に

「意識じゃなくて行動ね」
とすぐ言い返されていたらしい。

その話を教えてくれたのは、
昨日遅くまで残業していた事務員さんだった。

コピー機の前で書類を揃えながら、
少し興奮した様子で言った。

「昨日ね、
店長が戻ってきてから
ずっと真野さんの話してたんだよ」

そして声を少し落として、
こっそり教えてくれるように続けた。

「最初すごく空気重かったらしいんだけど」

「真野さんが説明始めたら、
お客様の表情が変わったって店長が言ってた」

さらに少し笑いながら言った。
「名刺出したときから
安心してもらえてた気がするって、
新垣さんも言ってたよ」

そして最後に、
少し誇らしそうに言った。
「真野さん、かっこよかったよ」

そう。
真野さんは、
本当にかっこいいのだ。

その日も、
着工前の社内打ち合わせを終えたあと、
真野は何事もなかったように席に戻ってきた。

椅子に座ると、
すぐにパソコンを立ち上げて、
淡々とキーボードを打ち始めた。

私は思わず声をかけた。

「真野さん、聞きました。昨日のこと」
「新垣先輩の担当、戻してくれたって」

真野は少し間をおいて、
いつもの人懐っこい笑顔で言った。

「私いま案件けっこう抱えてるからさ」
「これ以上案件増やされたら
困ると思って動いただけ」

少し肩をすくめて笑う。
「でも結果的に、
みんなハッピーになってよかったよね」

そして続けた。
「新垣先輩のためじゃないよ」
「お客様の信頼を取り戻すために、
店長にはちゃんと管理してもらわないとね」

どうやら店長にも、
新垣の行動管理を
しっかりするよう伝えていたらしい。

私は少し圧倒されながら、
その横顔を見ていた。

涼しい顔でキーボードを打つ、
信頼を積み重ねていく人。
それが、私の隣の席に座る先輩、
真野さんなのである。

サクラは姿勢を正し、
目の前に積まれている自分の案件資料を
一つひとつ丁寧に見直し始めた。

どこか抜けているところはないか。
連絡の間が空いているお客様はいないか。
次に自分がやるべきことは何か。

隣の席では、
何事もなかったような顔で
キーボードを打ち続けている真野がいる。

その横顔をちらりと見て、
サクラは小さく息を吸い込んだ。
隣に座る偉大な先輩に、
失望されるわけにはいかない。

そして私は──
契約してから信頼を積み上げていける営業になる。
そう自分に言い聞かせた。

サクラは資料を順番にそろえ、
角をそろえてカバンに入れた。
立ち上がり、少しだけ背筋を伸ばして、
事務所の中を見渡す。

少し先では、
新垣が真剣な表情で
パソコンの画面を見つめながら、
お客様との次回のアポイントを
取り直している姿が見えた。

(うん。いいじゃん)

サクラは小さくうなずいた。

「行ってきます」

声に出してそう言い、扉を開いた。
外には、まぶしい青空が広がっていた。
大きな太陽の光が、
これから向かう現場のほうへ
まっすぐ続いているように見えた。

サクラは一歩、前に踏み出した。


サクラシリーズ
続きです。もし良かったらどうぞ。

▶第5話「まだこの家の朝を知らなかった話」


転職してリフォーム営業になったサクラの成長記録です。
現場の失敗と気づきを一つずつ積み重ねながら、
“働き直す”物語を書いています。

▶「転職したサクラは働き直すことにした」シリーズ一覧はこちら


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