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マシロさんは距離をとらなかった|制度の前に立っていた人の話

Project MOON No.08-2

中国・武漢で原因不明の肺炎が確認されたとニュースが伝えていた。


その頃、市役所の健康支援課では、
例年どおり乳幼児の定期接種の案内と、
高齢者向け予防接種の準備が静かに進んでいた。
保健所との連絡も普段どおりだった。
感染症は、毎年やってくる。

ただ、その年の様子は少し違っていた。
最初はひっそりと、
そしてその影は少しずつ大きく広がっていった。

「濃厚接触者」

という言葉が、会議資料の中に現れたのは、
それからしばらく経ってからのことだった。

後にコロナウイルスと呼ばれる
未曽有のパンデミックについても、
流行り始めのころはまだ誰も深刻には
受け止めておらず、
どこか他人事のような空気があった。

感染症に深く関わる健康支援課の職員でさえ、

「今年は少しやっかいな感染症が来たな」

と受け止めている程度だった。

原因もはっきりせず、
有効な対策も示されないまま、
不安だけが少しずつ広がっていった。

そして、それは突然訪れた。

課内で最初の濃厚接触者が出たのである。
それは、保健所から応援に来ていた
若手の男性保健師だった。

保健所で数少ない男性職員の彼は、
無造作に整えた黒髪が眉にかかり、
目元はいつも少しゆるんでいる。
今はマスクで隠されているが、
笑うと歯茎が見える。
人懐っこい顔で課員に近づいては、
軽口をたたく。
女性職員からはよくその立ち振る舞いをいじられ、
男性の若手職員を茶化し、場を盛り上げる。
いまや健康支援課の
ムードメーカーとも呼ばれる存在だった。

彼は静かに部長に呼ばれた。

神妙に部長のデスクに向き合う顔立ちは、
距離をあけて立っているにもかかわらず、
いつもの彼ではなかった。
部長は温度をなくした声で、
そのことを伝えた。

「昨日、窓口に来ていた女性が
新型コロナウイルス感染症の
陽性と確認されたと
保健所から連絡があった」

「昨日の昼以降に
一定時間近距離で接触した可能性がある
職員や周囲の人について、
すべての行動履歴を整理してほしい」

「そして、わかると思うけど、
まずは自宅待機になる」

「これもわかると思うが、
発熱などの症状が出た場合は、
保健所の指示に従って検査を受けてくれ」

健康支援課は健康福祉部に属している。

ただ、健康支援課に応援で来ている彼にとっても、
部長と会うのは月に数度しかない。

彼の人柄は部長も知っていて、
いつもは笑顔で
声をかけてくれる間柄だったはずだ。

いつも飲み会で
お調子者の彼をそばに呼び、
場を盛り上げてもらう。
そして2次会、3次会へと連れまわす。
そんな間柄だったはずだ。

彼はその日、久しぶりに部長と対面した。

そして、
部長は明らかに、他人だった。
視線が少し揺れて見えたのは
気のせいだったのかどうか。

後に一般社会から
ソーシャルディスタンスと呼ばれる距離を取り、
表情は未知のウイルスにおびえていた。
目の奥に、戸惑いが残っていた。

彼が荷物をまとめるために課に戻ってくると、
空気はすでに冷え切っていた。
誰も何も言わず、
ただ、距離だけが生まれていた。

「大丈夫?」

「自宅待機になるの?」

「あのお母さん陽性だったの?」

誰もが静かに、そしておびえた目と震えた声で、
少し離れた位置から声をかけた。
いつだって、
事が起こると制度は先に動いていく。
それが社会であり、それが行政である。
ましてや、
ここはその制度の中心に近い
感染症対応の現場だった。

接触履歴を急いで整理し、
動線を確認し、
待機期間を確認した。
濃厚接触者は
原則14日間の健康観察と
自宅待機が基本とされていた。
ニュースでも繰り返し伝えられていた
その無機質な言葉の羅列は、
当然課内でも使われた。

彼は、書類の中の存在になった。



その後、時は過ぎ、
判断は毎日変わっていった。

待機期間の扱いも、
検査の対象も、
接触の定義も、
日々更新されていった。

部長も、課長も当時心の底から迷っていた。
葛藤していた。
誰も正解を知らなかった。
だが、
彼が所属する組織は感染症対応の最前線だった。
皆がその事実に立ち向かい、
同じだけ恐れていた。

ただそれだけだった。



彼は席に戻り、机の引き出しを開けた。
書類をまとめた。
書類を揃えるその手は少し震えていた。

誰も話しかけなかった。
誰も視線を外さず、一定の距離を保った。
彼が動くと、周囲の人も同じだけ動いた。
静寂が課内を包み込む。

こうなると、
みんな他人なのだなと思った。

昨日まで隣でじゃれ合い
冗談を言っていたおばちゃんも、
「今度、飯でも食いに行こうぜ」
と向かい側の席でカンペを出し合いながら
冗談を言っていた後輩も、

みな彼から物理的にも
心理的にも距離をとっていた。

それは彼の思い込みだったのかもしれない。

ただ、
少なくとも彼はやるせないほど傷ついていた。
でも、責める気持ちにはなれない。

(たぶん自分でも同じことをしてるだろうな)

人は弱いのだなと思っただけだった。
荷物をまとめ、
事務所の出口から帰ろうとしていたその時。
マシロが神妙な面持ちで近づいてきた。

なんだ。

マシロさんもか。

マシロさんは健康支援課唯一の主任で、
飲み仲間で、
いつも一緒にふざけて、
市役所内にいる
飲み仲間の女癖の悪さを陰で咎め合う、
そして尊敬する先輩だった。

マシロは黙って彼に“手”を差し出した。

「ん?」

マジックハンドだった。

先端が開き、
レバーを握るとつかめる、あの生活用品だ。

マシロは神妙な顔のまま、
それをぐいっと彼に伸ばし、
先端をカチャカチャと開いたり閉じたりしている。

……つまり握手を求めていた。

目元だけが、にやっと笑う。

「これが、ソーシャルディスタンスってやつだ」

「また2週間後な」

ニュースでは、
濃厚接触者は14日待機と
繰り返されていた。
それは制度の通達だった。

でも、
その制度の前に立つ人がいた。

それが、
マシロさんだった。

ぼさぼさ頭の男の目の奥が、
じんわりと熱をもち、
視界の奥がかすかに滲んだ。

「はい。また2週間後に。」

少しだけ軽くなった足取りで、
彼は自宅待機するための帰路についた。


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