舟に乗ると街の裏側が正面になる|ヴェネツィアの話
MOON side episode|旅の途中 No.25
イタリア|ヴェネツィア
この街には、
道路の代わりに水が流れている。
水の上に出ると、
街の「正面」が突然変わった。
イタリア、ヴェネツィア。
石畳の細い路地を抜けると、
建物と建物の間に、
突然、細い運河が現れ
水面には古い建物が映り、
小さな舟がゆっくりと揺れている。
壁は淡い黄色や赤茶色。
ところどころ塗装が剥がれ、
長い時間と水の跡が残っていた。
乗り込んだゴンドラの船頭は、
こちらを見るなり大きく笑った。
「Buongiorno!」
よく通る声。
片手で櫂を持ち、
もう片方の手で大げさなくらい
街のあちこちを指差す。
こちらが右を見れば、
今度は左を指す。
何を言っているのかは
…あまりわからない。
それでも、
楽しそうなことだけは伝わってきた。
舟が岸を離れる。
水面がゆっくり揺れ、
石畳の街が少し遠ざかった。

舟に乗ると、
街の裏側が正面になった。
水面から見上げるヴェネツィアは、
歩いているときとは少し違う。
建物の壁は、
そのまま水際まで続いている。
水へ直接つながる扉。
小さな船着き場。
窓辺に並ぶ植木鉢。
洗濯物が風に揺れる家もある。
頭上の小さな橋では、
観光客が足を止めていた。
若い女性が欄干へ身を寄せ、
ゴンドラへスマートフォンを向ける。
隣の男性は、
こちらを見て小さく手を振った。
船頭もすぐに手を振り返す。
知り合いではない。
けれど、
水の上ではそれだけで
少し会話をしたような気分になる。
🛶
船頭は細い運河でも、
長い櫂を器用に操っていく。
建物の角へ近づくと、
身体を少し傾ける。
櫂を深く入れる。
ゴンドラの先端が、
するりと向きを変えた。
向こうから別のゴンドラが来る。
船頭同士が声を掛け合う。
一人が眉を上げ、
もう一人が笑いながら何かを返す。
会話の意味は分からない。
けれど、
二人の表情を見れば十分だった。
狭い水路ですれ違う瞬間、
こちらの船頭は少し得意そうに
顎を上げた。
たぶん、
この道を知り尽くしている人の顔だった。
🛶
この街では、
水面が道路であり、
玄関であり、
生活そのものだった。
人を乗せる舟。
荷物を運ぶ舟。
水上バス。
モーターボート。
岸辺では、
荷物を舟から建物へ運ぶ人がいる。
誰かがロープを引き、
誰かが受け取る。
私たちの街なら
道路の上で起きていることが、
ここでは
水面の上で当たり前のように続いていた。
観光名所としての水ではない。
暮らしを運ぶ水だった。
🛶
やがて、
細かった運河が開ける。
カナル・グランデ。
大運河へ出た瞬間、
視界が一気に広がった。
空まで大きくなったように感じる。
両岸には、
水際から立ち上がる建物。
窓から差し込む光。
石造りの壁。
水面を走る無数の波。
船頭が遠くを指差した。
リアルト橋。
橋の上には、
多くの人が並んでいる。
川を見下ろす人。
写真を撮る人。
隣の人と笑い合う人。
こちらから見れば
橋の上の人たちも風景の一部。
でも向こうから見れば、
私たちもまた、
水の上を通り過ぎる
旅の途中の一人なのだろう。

夕方。
建物の間へ、
少しずつ橙色の光が落ちていく。
運河にも灯りが映り、
舟が通るたびに細長く揺れた。
乗る前に飲んだ
小さなエスプレッソの苦味が、
まだ少し口に残っている。
船頭は最後まで陽気だった。
岸へ近づくと、
櫂を大きく動かして舟を寄せる。
ロープを取り、
舟を固定する。
そして振り返り、
また笑った。
「Grazie!」
こちらも同じ言葉を返した。
ヴェネツィア。
水の都。
美しい。
ただ、それだけではなく
舟から街を眺めると、
人が水と一緒に暮らす街だった。
古びた壁も。
水へ続く扉も。
行き交う舟も。
そのすべてが、
この街の長い時間の一部で。
ゴンドラを降りて、
もう一度運河を見る。
一艘の舟が、
建物の間へゆっくり消えていった。
その向こうから、
また別の船頭の陽気な声が聞こえてくる。
この街には今日も、
道路の代わりに、
人々の暮らしを乗せた穏やかな水が流れていた。
了
🌙観測note
この作品に登場したもの
ゴンドリエーレのイタリア語は、
最後までだいたい分かりませんでした。
でも、景色だけはよく分かった。
次に行くなら、
せめて地図くらいは持っていこうと思います。
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