086 飛鳥・藤原の宮都
「飛鳥・藤原の宮都」が世界遺産に登録された。古代史に興味を持つ者として大変喜ばしい。本音は、遅すぎたということではある。日本の古代史にとって最も重要な地域である。何故、こんなに時間が掛かったのか。答えは簡単である。この地域は天皇家(明治以降)との関わりが薄いからである。教科書では、この辺りはヤマトと称し、ヤマト政権があった場所とする。しかしながら、このことは限りなく怪しい。かつては、大和と記しヤマトと呼ばせていたが、根拠が薄弱なので漢字をやめてカタカナにしたようである。
世界遺産登録では、飛鳥と藤原京を一緒くたにしているが、そのことも大いに疑問である。飛鳥は7世紀初頭、物部氏との戦いを制した蘇我氏によって築かれた王朝文化の中心地である。推古天皇の時代とされるが、実際には聖徳太子らが活躍している。飛鳥は新羅との関わりが極めて強い。しかしながら、飛鳥王朝は、百済系の中大兄皇子らの侵攻によって滅亡する。実権は、河内・近江王朝へと移り、その後白村江の戦などによって政権の混乱が続く。
新羅系と百済系の勢力は、壬申の乱で雌雄を決することとなる。勝利者となった新羅系天武天皇は、藤原京の造営を進めるが道半ばで逝去する。その事業を引き継ぐのが持統天皇である。持統天皇は、新羅・百済の融和を進めるが、これをサポートする異才藤原不比等によって、百済が復権する。藤原氏は百済王朝の末裔である。こうして、奈良時代から平安時代にかけて続く藤原王朝の基盤が築かれた。奈良時代に、新羅系の系統は完全に排除されている。天武天皇から称徳天皇まで7人の位牌は、天皇家の菩提寺である泉涌寺には置かれていない。平城遷都までの16年間ではあるが、日本で最初の本格的な宮都の名前がなぜ「藤原」なのか、そのことに触れている歴史書はない。
