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最後の意識が消えたあと、世界はまだ「そこにある」のか?──誰にも経験されない宇宙を考える


想像してみてください。



宇宙に存在する、
最後の「意識」が消えます。
人間はいない。
動物もいない。
何かを感じる人工知能もいない。
もし地球外生命がいたとしても、
すべて消えた。
もう二度と、
「見えた」
「聞こえた」
「痛い」
「きれいだ」
と感じる存在は現れません。
それから一秒後。
地球は、まだ回っているでしょうか。
一億年後。
新しい星は生まれるでしょうか。
百億年後。
二つのブラックホールが衝突したとして。
その出来事は、本当に「起きた」と言えるのでしょうか。
なぜなら。
それを見る者も、
記録を読む者も、
思い出す者も、
未来永劫、誰もいないのです。




最後の意識が消えた、一秒後


まず、
有名な問いを少しだけ使います。
誰もいない森で木が倒れたら、
音はするのか。
答えは、
「音」という言葉を何に使うかで変わります。
木が倒れれば、
周囲の空気には圧力変化が生じます。
それは耳や脳がなくても、
物理現象として記述できます。
でも、
「ドーン」と聞こえる経験
には、
その振動を受け取り、処理する主体が必要です。
色も似ています。
ある物体が特定の波長の光を反射することと、
「赤く見える」という経験は同じではありません。
ここで一つ、
重要な区別が見えてきます。
世界に物理的な出来事があることと、その出来事が誰かに経験されることは、少なくとも同じ文ではありません。
では。
最後の意識が消えた宇宙には、
圧力波はあっても「音」はない。
光は飛んでいても「明るさ」はない。
物体の反射特性はあっても「赤さ」はない。
そう考えるなら。
世界そのものは残っていて、
そこから「経験された世界」だけが消えた
のでしょうか。




「誰にも確かめられない」と「存在しない」は同じなのか


ここで、
問いを一度ひっくり返します。
誰にも経験されない宇宙について、
私たちは確かめることができません。
最後の意識が消えたあと、
何が起きても、
それを報告する存在はいない。
では、
確認できないなら、
存在しないのでしょうか。
ここには、
二つの違う問題があります。
一つは、
存在論。
何が存在するのか。
もう一つは、
認識論。
私たちは、それをどうやって知るのか。
「私には確認できない」
から、
「それは存在しない」
は、そのままでは導けません。
たとえば、
人類が誕生するはるか前にも、
地球では火山が噴火し、
星は爆発し、
生物は絶滅したと私たちは考えています。
その瞬間を人間は見ていません。
それでも、
地層。
化石。
元素の分布。
光。
現在に残る痕跡から、
私たちとは独立した過去の出来事を推論します。
つまり科学は日常的に、
「私たちが直接経験していない世界」
について語っています。
しかし。
そこからさらに、
「だから世界が心から独立して存在することまで科学が証明した」
と進んでよいのでしょうか。




科学は、なぜ「見ていない世界」まで信じるのか


ここで登場するのが、
scientific realism──科学的実在論
です。
細かな立場には違いがありますが、
大ざっぱには、
成熟した科学理論が語る世界について、
観察できるものだけでなく、
電子や場のような観察不能な対象を含め、
かなりの程度、本当に世界のあり方を捉えていると考えます。
実在論を支える有名な発想の一つが、
no-miracles argument──奇跡論法
です。
科学理論は、
単に過去のデータへ後づけで合うだけではありません。
まだ観測していなかった現象を予測する。
精密な数値を当てる。
技術的な介入を可能にする。
互いに異なる現象を一つの理論で説明する。
もし理論が世界の構造をほとんど捉えていないのに、
これほど成功し続けるなら。
その成功の方が、むしろ奇跡のようではないか。
という考えです。
この立場から見れば、
最後の意識が消えても、
星は燃える。
重力は働く。
ブラックホールは合体する。
世界は私たちの存在とは独立して続く。
私たちの意識は、
その世界の一部として後から生じたものだ。
かなり自然な見方に思えます。
でも。
科学がよく当たることは、
科学が描く「見えない世界」まで、そのまま本物だと信じる理由になるのでしょうか。




科学が当たることは、「世界そのもの」を知った証拠か


ここで、
科学哲学者Bas van Fraassenの
constructive empiricism──構成的経験主義
を考えてみます。
van Fraassenは1980年の
The Scientific Image
で、
科学の目標を、
世界の見えない部分まで含めた完全に真の物語を得ることだと考える必要はない、
と論じました。
彼の立場では、
科学に求める中心的な成功は、
empirical adequacy──経験的適切性
です。
つまり、
観察可能な現象について理論が正しく振る舞うこと。
理論を受け入れるとき、
その理論が語る観察不能な対象まで、
文字どおり実在すると信じる必要はない。
重要なのは。
これは、
「世界は存在しない」
という主張ではないことです。
また、
「意識が見ていないものは消える」
とも言っていません。
科学理論を受け入れることと、その理論が描く見えない存在者すべてを本当にあると信じることを分けよう
という立場です。
すると、
科学の予測が成功している。
だから、
最後の意識が消えたあとも理論が記述する宇宙が「本当にそのまま」存在する。
この一歩には、
科学データだけではなく、
哲学的な立場も含まれていることが見えてきます。
さらに科学史は、
実在論へ別の難問を投げます。
過去には、
当時としては非常に成功していたのに、
後に重要な部分が捨てられた理論もあります。
そこでJohn Worrallは1989年、
structural realism──構造実在論
という中間的な方向を擁護しました。
理論が語る「世界の中身」を全部そのまま信じるのではなく、
理論交代を越えて保持される数学的・関係的な構造に実在論的な信頼を置く。
世界が私たちから独立していると考えながら、
私たちがその本性を完全に言い当てているとは言わない。
そんな立場もあり得るのです。




「誰も見なければ存在しない」という立場も、本当にそんなに単純なのか


では、
もっと根本から、
心と世界を切り離さない考えも見てみます。
18世紀の哲学者George Berkeleyは、
物質的対象が心から完全に独立して存在するという考えを批判しました。
Berkeleyについて有名なのが、
esse est percipi──存在するとは知覚されることである
という表現です。
ここだけ聞くと、
「人間が部屋を出た瞬間、机が消える」
という話に聞こえます。
しかし、
Berkeleyの体系はそこまで単純ではありません。
彼の世界観では、
神が重要な役割を持ちます。
人間が見ていない対象の安定性や、
自然法則に従った世界の継続も、
神との関係の中で説明されます。
その具体的な解釈については研究者間でも議論がありますが、
少なくとも、
「人間が見ていない=即座に存在しない」
とだけ要約するのは不正確です。
むしろ今回の思考実験をBerkeley的な世界へ持ち込むと、
別の問いが現れます。
最後の「有限な意識」が消えることと、
宇宙からあらゆる精神的なものが完全に消えることは同じなのか。
そもそも、
経験するものが一切存在しない宇宙という設定そのものを、
Berkeleyの存在論は認めるのでしょうか。
ここまで来ると、
「誰も見ない月はある?」
という素朴な問いは、
世界は心から独立しているのか
という本格的な存在論へ変わります。




思考実験──二つの「無人宇宙」


ここからは、
この記事独自の思考実験です。
最後の意識が消えました。
その後、
二つの可能性を考えます。
宇宙A。
誰にも経験されないまま、
世界は続きます。
星は燃える。
銀河は衝突する。
惑星は冷える。
ブラックホールも変化する。
途方もなく長い物理的歴史が続く。
でも、
それを経験する存在は二度と生まれません。
宇宙B。
最後の意識が消えた瞬間、
宇宙そのものも存在しなくなります。
空間も。
星も。
物理法則が働く対象も。
何もない。
ただし。
AにもBにも、
もう二度と意識は生まれません。
Aの星を見る者はいない。
Aの記録を読む者もいない。
AとBを比較する者もいない。
宇宙の未来全体を通して、
この二つの違いを経験する主体は一人も存在しません。
では。
AとBには、
本当の違いがあるでしょうか。
科学的実在論者なら、
もちろん違う、
と言うでしょう。
主体に知られるかどうかとは無関係に、
Aには物理的状態と歴史があり、
Bにはない。
一方。
もしあなたが、
存在そのものを経験や心と深く結びつける立場なら、
問いはもっと難しくなります。
そして、
ここでもう一つ分けてみます。
存在。
誰にも経験されなくても、物理状態はあるのか。
経験。
赤さ、痛み、音、明るさのような経験的性質は、主体なしでもあるのか。
意味。
美しい。
恐ろしい。
重要だ。
価値がある。
そうした意味は、誰もいない宇宙にもあるのか。
この三つを一緒にしてしまうと、
「世界があるか」という問いは必要以上に曖昧になります。
もしかすると。
最後の意識が消えたあとも、
物理的な世界は残る。
しかし同時に、
経験された世界と、価値づけられた世界は消える。
そんな答えもあり得ます。




世界が残ることと、「世界」が残ること


最初の宇宙へ戻ります。
最後の意識が消えた、一秒後。
私たちの現在の物理学をそのまま外挿するなら、
地球はすぐには消えません。
重力場も、
電磁場も、
恒星の核融合も、
意識の存在を方程式へ入れなくても記述できます。
この意味では、
「誰も見ていなくても世界は続く」
という考えは、
現代科学の実践と非常に相性がいい。
でも。
それは、
科学だけによって実在論という哲学的立場が最終決定された、
ということではありません。
科学的実在論。
構成的経験主義。
構造実在論。
観念論。
それぞれは、
科学の成功や経験と世界の関係を違う仕方で捉えます。
そして今回、
もう一つ見えてきました。
私たちが普段、
「世界」
という一語で呼んでいるものには、
少なくとも、
物理的状態。
それを経験する主観。
そこに見いだす意味や価値。
が重なっています。
最後の意識が消えます。
星は、まだ燃えている。
少なくとも、
私たちの物理学はそう記述するでしょう。
でも。
そこにはもう、
まぶしさも。
音も。
痛みも。
美しさも。
それを経験する者はいません。
では、
そのとき残っているものを、
私たちは今と同じ意味で
「世界」
と呼ぶのでしょうか。
それとも。
私たちが普段「世界」と呼んでいるものには、
物質や法則だけではなく、
それを経験する誰かまで含まれていたのでしょうか。




参考資料


van Fraassen, B. C. (1980). The Scientific Image. Oxford University Press.
Putnam, H. (1975). What is Mathematical Truth? In Mathematics, Matter and Method: Philosophical Papers, Vol. 1. Cambridge University Press.
Worrall, J. (1989). Structural Realism: The Best of Both Worlds? Dialectica, 43(1–2), 99–124. DOI: 10.1111/j.1746-8361.1989.tb00933.x.
Berkeley, G. (1710). A Treatise Concerning the Principles of Human Knowledge.
Berkeley, G. (1713). Three Dialogues between Hylas and Philonous.
Stanford Encyclopedia of Philosophy. “Scientific Realism”; “Constructive Empiricism”; “Structural Realism”; “George Berkeley”.

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