【短編小説】三秒遅れの影
熱帯夜
エアコンが壊れた。
猛暑の夜、窓を全開にしても空気は動かない。汗が背中を伝う。時計は午前二時を指していた。
男は冷蔵庫を開けた。水だけが入っている。空になった冷えたビールの缶が、床に転がっている。
「……もう一本、あったはずだが」
そう呟いた瞬間、背後でドアが閉まる音がした。
男は振り返った。誰もいない。鍵は内側からかかっている。
彼はゆっくりと部屋を見渡した。 壁に自分の影が一つ。 ……いや、二つ。
もう一つは、わずかに遅れて揺れているように見えた。
男は手を挙げた。普通の影はすぐに従った。もう一つの影は、ほんの三秒遅れて同じ動作をした。
「……お前は、誰だ」
遅れて動く影が、初めて口を開いた。
「熱帯夜に、ビールの中にいた俺だよ。 お前が飲みたくて仕方なかった、もう一人のお前だ」
男は笑った。
「幻覚だ」
影は静かに言った。
「じゃあ、証明してやる。今すぐ、冷蔵庫を開けてみろ」
男は従った。
冷蔵庫の中に、さっきまでなかった一本の冷えたビールが立っていた。
ラベルにはこう書かれていた。
『お前がさっき飲んだ一本』
男の手が震えた。
影が続ける。
「お前は今、二本目を飲もうとしている。 だが、その一本目を飲んだのは、俺だ」
男は缶を掴み、影の方へ放り投げた。
缶は床に落ちて転がった。中身は何もなかった。
転がった缶の先で、影がゆっくりと立ち上がる。 形だけがそこにあって、中身が透けているように見えた。
「熱帯夜は、まだ終わらない」
影が男の体に重なった瞬間、部屋の温度が急に下がった。
エアコンが、いつの間にか直っていた。
翌朝。
男はベッドの上で目を覚ました。汗ひとつない。
冷蔵庫を開けると、ビールが一本だけ残っていた。
ラベルにはこう書かれていた。
『お前が昨夜、飲まなかった一本』
男はそれを飲み干した。
窓ガラスに映った自分の顔が、ほんの一瞬だけ、遅れて瞬きをした。
男は窓を閉めた。
外は、まだ熱帯夜が続いていた。
