(短編小説)夫は嫌いではない。でも一緒にいたくなかった
美咲は、夫のことが嫌いではなかった。
むしろ、いい人だと思っていた。
朝、ゴミを出してくれる。
仕事から帰ると、「今日もお疲れさま」 と言ってくれる。
休日には、「どこか行きたいところある?」 と聞いてくれる。
怒鳴ることもない。
浮気をすることもない。
家事も手伝ってくれる。
だから、美咲は誰かに夫の愚痴を話すことができなかった。
「旦那さん、優しいんでしょう?」
そう言われると、
「うん。すごく優しいよ」
と答えるしかなかった。
結婚して十年が経つ。
何も問題はない。
それなのに、
美咲は、少しずつ夫と一緒にいる時間が苦しくなっていた。
夕食を食べる。
テレビを見る。
同じ部屋でスマートフォンを見る。
夫が、
「明日、休みだね」
と言う。
「うん」
と美咲は答える。
それだけだった。
夫は悪くない。
だからこそ、美咲は自分を責めた。
こんなに優しい人なのに。
どうして一緒にいたくないんだろう。
ある日、夫が言った。
「今度の連休、二人で旅行でも行かない?」
美咲は一瞬、笑顔になった。
でも、そのあと胸の奥が重くなった。
「どこに行く?」
と聞きながら、
本当は、
「一人で行きたい」
と思っていた。
その夜、美咲はベッドの中で眠れなかった。
隣では夫が静かに寝息を立てている。
昔は、この寝息を聞くと安心した。
誰かが隣にいる。
自分には帰る場所がある。
そう思えた。
でも今は違った。
隣に夫がいるのに、
ひどく一人だった。
そして、美咲は初めて思った。
私は夫が嫌いなのではない。
私は、
「夫と一緒にいる私」
から逃げたいのかもしれない。
結婚した頃の美咲は、
「幸せな妻になりたい」
と思っていた。
優しい夫と暮らして、
きちんと家事をして、
休日は二人で出かける。
周りから、
「幸せそうだね」
と言われる人生。
それが幸せだと思っていた。
だから、十年間、その役割をちゃんと生きてきた。
いい妻でいようとした。
夫を大切にしようとした。
不満があっても、
「贅沢を言ってはいけない」
と思った。
でも、
いつの間にか、
「幸せな妻であること」
が、
「自分自身であること」
より大切になっていた。
そのことに気づいた瞬間、
美咲は涙が出た。
夫が悪かったわけではない。
結婚が間違いだったわけでもない。
ただ、
あの頃の自分が欲しかったものと、
今の自分が欲しいものが、
少し変わってしまったのだ。
翌朝、
夫がコーヒーを淹れていた。
「飲む?」
「うん。ありがとう」
美咲はカップを受け取った。
そして、少し迷ってから言った。
「ねえ」
「ん?」
「私、少し一人の時間が欲しい」
夫は黙った。
美咲は怖くなった。
嫌われるかもしれない。
責められるかもしれない。
でも、夫はしばらく考えてから、
「そうなんだ」
と言った。
そして、
「じゃあ、そうしようか」
と続けた。
それだけだった。
美咲は、なぜか泣きそうになった。
夫のことは嫌いではなかった。
今でも、大切な人だった。
だからこそ、
「一緒にいたくない」
という気持ちを、
「愛がない」
と決めつけなくてもいいのかもしれない。
人を愛していても、
一人になりたい日がある。
一緒に生きていても、
別々の時間が必要なことがある。
そして、
誰かを大切にすることと、
自分を失わないことは、
両立していい。
その日の午後、
美咲は一人で街を歩いた。
特別なことは何もなかった。
小さな喫茶店に入り、
窓際の席に座った。
コーヒーを飲みながら、
久しぶりに、
「私は今、何がしたいんだろう」
と考えた。
答えは、まだ分からなかった。
でも、
分からないままでもいいと思えた。
幸せな妻でなくてもいい。
誰かにとっての理想の妻でなくてもいい。
夫に愛されている自分だけが、
自分ではない。
美咲は窓の外を見た。
夕方の街を、人が一人ずつ歩いている。
みんな、それぞれの人生を生きている。
美咲もまた、
自分の人生を生きていい。
そう思った。
夫のことは嫌いではない。
でも、
一緒にいたくないと感じる自分も、
嫌いにならなくていい。
そのことが分かっただけで、
美咲は少しだけ、
息がしやすくなった。
