なぜ『CUBE』は数学がわからなくても最後まで観られるのか?考察──説明する情報と、しない情報の境界線
素数の話が始まったあたりで、内容を理解しきるのを諦めた。
途中からレブンが数字を見ながら、素因数だの累乗だの言い始める。たぶん私と同じように、よくわからないまま「なるほど」とわかった顔して聞いていた人も多いと思う笑
でも別に困らなかった。
計算は全然わからないが、映画から置いていかれた感じはあまりしない。むしろ次の部屋に何があるのか気になって、そのまま最後まで観てしまう。
『CUBE』の面白さって、意外とここにあるんじゃないかと思う。
■ 『CUBE』はけっこう説明している
『CUBE』は「何も説明しない映画」と言われることが多い。
たしかに、肝心なことは何ひとつ教えてくれない。
誰が作ったのか。
何のために作ったのか。
なぜこの六人なのか。
外の世界はどうなっているのか。
最後までほぼわからない。
ただ、観ている最中に必要なことに限れば、むしろかなり説明している。
部屋には三組の数字が刻まれている。
最初は「素数の数字がある部屋にはトラップがある」という話になる。でも、それだけでは説明できない部屋が出てくる。そこで素数の累乗という話が追加される。
さらに数字は座標として読めることがわかり、最後には部屋そのものが移動していることまで判明する。
振り返ると、かなり忙しい。
90分ほどの映画なのに、「この迷路はこういう仕組みらしい」という理解が何度も何度も更新される。
だから『CUBE』って、説明を捨てているわけじゃない。
何を説明して、何を説明しないかの線引きがハッキリしている。
■ わからなくても、次に何をすればいいかはわかる
この映画を観ていて不思議なのは、全体のことは何もわからないのに、登場人物が今やるべきことだけはだいたいわかることだ。
この部屋は安全なのか。
次はどこへ進むのか。
この数字は何を意味しているのか。
映画が投げてくる問題は、基本的に目の前の一部屋についてのものだ。
「そもそもここは何なのか」みたいな話を延々と考え始めたら、たぶん映画は一気に停滞する。
もちろん登場人物もそれを考えるけど、答えがないので、結局また次の扉を開けるしかない。
観客も同じだろう。
だから数学がわからなくても、それほど問題にならない。
レブンの計算を自分で再現する必要はないからだ。
「あ、この子には何かわかったらしい」
「クエンティンは全然ついていけてないな、こいつヤバい」
そのくらいで十分観られる。
というか、途中から数学そのものよりも、レブンが情報を握ることで立場が変わっていく方が重要になってくる。
最初は守られる側に見えた少女が、いつの間にか全員の生死を左右する。
その横でクエンティンは苛立っている。
私があの場面を面白いと思った理由も、素因数分解ではなく、たぶんそっちだった。
ちなみに、あの数学は適当に作ったわけではない。
監督のナタリは脚本を書く段階で数学者に相談し、「一度は正しいように見えるけれど、途中で破綻するルール」を考えてもらったという。
つまり「素数だと思っていたら違った」という展開まで、最初から計算に入っている。
観客にルールを覚えさせて、それを一回壊す。
『CUBE』はそれを何度もやる。
■ 最初に死ぬ男には、何の説明もない
この映画の情報の出し方で一番好きなのは、やっぱり冒頭だ。
最初に出てくるアルダーソン。
初見なら「この人が主人公なのかな」と思ってもおかしくない。
ところが数分もしないうちに、ワイヤーのトラップでバラバラになる。
名前もわからない。
何をしていた人なのかもわからない。
家族がいるのかもわからない。
本当に何も教えてくれないまま死ぬ。
でも、この場面だけで一つだけはものすごくよくわかる。
この場所では、誰でも普通に死ぬ。
わざわざ誰かに「ここは危険な場所だ」と言わせる必要がない。
映画が説明をしないときって、単純に情報を隠している場合もあるけど、『CUBE』の場合は映像で済むところはかなり雑に映像だけで済ませている。
アルダーソンなんて、その最たる例だと思う。
■ ワースの言葉を、どこまで信じていいのか
物語の途中で、ワースが自分はCUBEの外殻の設計に関わっていたと明かす。
ただし、彼も全体像は知らない。
何のために作られたのか。
誰が指示しているのか。
中で何が行われているのかは全く知らない。
そして彼は「出口なんてない」と言う。
初めて観たとき、ここは少し引っかかった。
いや、本当に出口がないのか、と。
彼らがどうやってCUBEの中へ入れられたのかは映画では説明されない。でも、少なくとも何らかの方法でここへ入れられたはずだ。
だったら物理的に出入りする方法そのものは存在するんじゃないか、と考えた。
だから私は、ワースの発言をCUBEの正式な設定だとは思っていない。
あれはたぶん、ワースが知っている事実と、彼自身の絶望が混ざった言葉なんだろう。
巨大な組織が、誰も全体を把握しないまま意味のないものを作り続けた。
そういう彼の話も同じだと思う。
もちろん『CUBE』を官僚制や社会システムの寓話として読むことはできるし、私もその読み方はかなりしっくりくる。
誰も全体を知らない。
誰も責任を取らない。
なのにシステムだけは動き続けている。
CUBEそのものが社会みたいだ、という話だ。
ただ、それが映画の「答え」として確定しているわけではない。
あくまでワースがそう考えている。
映画はその違いを、わざわざ説明してくれない。
だから観客側が勝手に線を引くしかない。
■ この映画の欠点
ここまで褒めてきたけれど、私は『CUBE』を大傑作だとは思っていない。
人物はかなりわかりやすい類型だし、台詞も説明的なところがある。
演技も正直かなり怪しい。
特に終盤、クエンティンが追いついてくるあたり。
手を離す場面から、その後のリアクションまで含めて、私は毎回、笑ってしまう笑
ご都合主義っぽいところもある。
なので、その辺まで全部「低予算映画ならではの魅力」で擁護する気はない。
普通に弱いところだと思う。
ただ面白いのは、そういう欠点と、この映画の強さがかなり近い場所から出ていることだ。
人物の過去をほとんど描かない。
時代を示すものもほとんど出さない。
外の世界も見せない。
だから人物は薄くなる。
その代わり、映画自体は約30年経ってもほとんど古びていない。
携帯電話も街並みも車も出てこないので、「九〇年代の映画を観ている」という感覚がかなり薄い。
ずっと箱の中にいるだけだからだ。
ナタリ自身も後年、この作品について「時間の外にある」ような映画になったという趣旨のことを話している。
もし登場人物一人一人に長い回想を入れて、家族や仕事や人生まで丁寧に描いていたら、もっと人物には感情移入できたと思う。
でも今ほど奇妙な映画にはなっていなかった気もする。
このへんは、たぶん両取りできない。
■ 60点でも、また観てしまう
去年最初にこの映画について書いたとき、私は52点をつけた。
その後、もう一度レビューした時は、60点に上げている。
個人的には、大体50〜60点くらい。
それでも定期的に観たくなる。
ここが自分でも少し不思議だった。
映画としての完成度と、「また観たい」という気持ちは、どうも同じではないらしい。
『CUBE』には粗がかなりある。
でも、それ以上のパワーも感じる。
一度あの箱に入ると、次の扉を開けたくなる。
全体像はわからない。
誰が作ったのかもわからない。
何のためなのかもわからない。
でも、とりあえず次に進むしかない。
そして次の部屋に入ったら、また次を考える。
この感覚には、身に覚えがある。
月曜日になったら仕事に行って、火曜日になったらまた次の一日をこなす。
全体がどこへ向かっているのかなんて、ほとんどわからないまま。
私が『CUBE』を何度も観てしまうのは、社会の縮図という「意味」に納得したからではなく、あの進み方そのものを身体が覚えているからなのかもしれない。
数学はわからなくていい。
次の扉を開ける理由さえあれば、この映画は最後まで進める。
▼この記事では触れなかった「誰が、なぜ六人を選んだのか」については、別の記事で書いています。
なぜ“意味のない迷路”に放り込まれたのか?映画『CUBE』考察──選ばれた6人と、仕掛けられた“本当の目的”
こちらを読んでから戻ると、ワースの告白も少し違って聞こえるかもしれません。
