【小説・宵待酒場−「御堂蓮司は、来なかった人の席を片づけない。」】
その日の宵待酒場には、いつもより椅子が多かった。
カウンターの六席。
丸テーブルの椅子。
さらに壁際から二脚。
夜坂朔は、そのうちの一脚を少しだけ動かした。
「そこ、通りにくいです」
御堂蓮司が振り返る。
「じゃあ五センチだけ」
「十センチ」
「五でいける」
「俺が通るんで」
「じゃあ七」
夜坂は無言で十センチ動かした。
御堂は笑った。
「店主、強いな」
「店なんで」
時刻は十八時四十分。
今夜の宵待酒場は、十九時から二十二時まで貸切だった。
企画者は御堂蓮司。
イベント名は、
『まだ名前のないものを持ち寄る夜』。
仕事にするほどではない。
作品と言うには早い。
人に説明すると壊れそう。
けれど、一人で持っているには少し重い。
そんなものを一つだけ持ってきて、誰かに話す。
御堂らしい企画だった。
派手ではない。
名刺交換もない。
営業も禁止。
六人だけ。
「まだ価値が決まっていないものを、価値が決まる前に見たい」
御堂はそう説明した。
夜坂は、
「それなら」
と言って店を貸した。
十九時。
誰も来なかった。
御堂はスマートフォンを見る。
「まあ、こんなもんだろ」
夜坂はカウンターの中でグラスを拭いている。
「何がです?」
「十九時ちょうどに六人揃う会なんて気持ち悪いだろ」
「そうですか」
「クリエイターって遅れるんだよ」
夜坂は時計を見る。
「職業で遅刻を正当化しないでください」
「俺じゃない」
「知ってます」
十九時十分。
誰も来ない。
御堂は一度だけ入口を見る。
そしてまたスマートフォンを見る。
通知はない。
「一人、仕事終わりだから」
「はい」
「もう一人は電車で来るって言ってた」
「はい」
「二人くらい同時に来るかもな」
夜坂は、
「そうですね」
とも、
「来ませんよ」
とも言わなかった。
十九時二十五分。
階段を上る足音がした。
御堂が顔を上げる。
扉が開く。
「こんばんはー」
朝倉咲耶だった。
御堂の表情が一瞬止まる。
咲耶も止まる。
「何この椅子」
夜坂。
「今日、貸切です」
「あ」
咲耶はスマートフォンを取り出した。
「見てなかった」
「書きました」
「ごめん」
帰ろうとする。
御堂が言った。
「咲耶ちゃん」
「何?」
「暇?」
「その聞き方どうなの」
「イベントやってる」
咲耶が店内を見る。
誰もいない。
もう一度御堂を見る。
「やってる?」
「これから」
「始まってる時間じゃなくて?」
「細かいな」
夜坂。
「二十五分経ってます」
「店主も細かい」
咲耶は椅子を見た。
「誰も来てないの?」
御堂は笑った。
「まだな」
咲耶は何か言いかけた。
やめた。
そしてコートを脱いだ。
「じゃ、一杯だけ」
御堂。
「参加する?」
「何するの?」
御堂は企画を説明した。
咲耶は途中から面白そうな顔になった。
「それ、いいじゃん」
「だろ?」
「なんで誰も来ないの?」
「まだ来てないだけ」
咲耶は御堂を見た。
夜坂を見た。
夜坂はグラスを拭いていた。
咲耶。
「はいはい」
それ以上は言わなかった。
十九時四十二分。
また階段の音。
今度は楮原繭だった。
「あれ、今日……」
「貸切です」
夜坂が言う。
「すみません」
繭はすぐ帰ろうとした。
咲耶。
「繭ちゃん、ちょっと待って」
御堂。
「面白い会やってるから」
繭は店内を見る。
咲耶。
御堂。
夜坂。
空席。
「……参加者、これですか?」
御堂。
「今のところ」
繭。
「少ないですね」
御堂。
「始まりは少人数の方が話しやすいから」
夜坂が少しだけ御堂を見る。
御堂は気づかないふりをした。
二十分後。
榊冬馬が来た。
その十分後に御影岐。
さらに少し遅れて水城澪。
全員、貸切の告知を見落としていた。
そして全員、
帰らなかった。
結果。
本来招待されていた六人は、一人も来ないまま。
いつもの宵待酒場の面々が五人、
御堂のイベントに座っていた。
「じゃあ」
御堂が立つ。
表情が変わった。
さっきまで入口を気にしていた男ではない。
人前に立つと、
御堂蓮司はちゃんと御堂蓮司になる。
「改めまして」
咲耶。
「始まるんだ」
「始めるよ」
御堂はテーブルを見る。
「今日持ってきてもらう予定だったのは、“まだ名前のないもの”です」
榊。
「名前?」
「作品でも企画でも感情でもいい」
御影。
「宇宙観でも?」
マイルがいたら止めただろう。
今日は、いない。
御堂。
「長すぎなければ」
「じゃあ宇宙観は駄目だ」
「自覚あるんだな」
笑いが起きた。
御堂は続ける。
「まだ説明できないものを、説明できるようにする会じゃない」
榊が少し反応する。
咲耶がそれを見る。
御堂。
「今日ここで商品にしなくてもいい。答えを出さなくてもいい。ただ、一回だけ他人の前に置いてみる」
夜坂がカウンター越しに聞いている。
御堂。
「置いてみた時、自分がどう感じるか。それを見る」
繭が小さく頷いた。
榊。
「結構ちゃんとした企画ですね」
御堂。
「“結構”いらないよ」
最初は繭だった。
鞄から、一枚の和紙を出した。
少し歪んでいる。
厚さも均一ではない。
「失敗したやつです」
御堂。
「なんで持ってるの?」
「捨てようと思って」
榊が身を乗り出す。
「でも、この繊維の残り方、面白いですよ」
繭が榊を見る。
榊は止まった。
「あ」
咲耶。
「先生」
榊。
「まだ何も説明してないでしょう」
「顔が説明してた」
繭は紙をテーブルへ置く。
「捨てようと思ったんですけど、今日、なぜか鞄に入れたままで」
御堂。
「じゃあ、それでいい」
「何がです?」
「今日は、“なぜ持ってきたか分からない”でも成立する」
榊が言う。
「それ、企画として逃げじゃないですか?」
御堂。
「名前のないものを持ってこいって言ってる会で、名前つけてどうするんだよ」
榊は黙った。
咲耶。
「御堂さん、今日ちょっといいこと言うね」
「今日“も”だよ」
澪は、
最近見た夢の話をした。
誰もいない駅。
列車は来ない。
でもアナウンスだけ聞こえる。
何を言っていたのかは覚えていない。
御影がすぐ口を開く。
「それって――」
途中で止まった。
澪が見る。
「何です?」
御影。
「いや」
少し考える。
「今、勝手に意味つけようとした」
咲耶。
「成長した」
「最近言われるんですよ、それ」
御堂。
「じゃあ、意味は?」
澪。
「分かりません」
御堂。
「それでいい」
澪は少しだけ笑った。
榊の番。
何も持っていなかった。
「俺、こういうの苦手ですね」
咲耶。
「説明できないもの?」
「いや」
榊は考える。
「説明できない状態で、人に見せること」
御堂。
「それ、今日の持ち物でいいんじゃない?」
榊が御堂を見る。
「何がです?」
「説明できないものを見せたくない自分」
榊は少し嫌そうな顔をした。
「そういう抽象化、俺がやる側なんですけど」
御堂。
「今日は客だから」
夜坂がカウンターの中で笑った。
咲耶は最後まで、
「何もない」
と言っていた。
ところが。
みんなが一通り話したあと、
グラスを見ながら言った。
「私さ」
急に声の温度が変わった。
「人の背中押すの、好きじゃん」
誰も答えない。
「最近、押さない方がいい時もあるって分かってきたんだけど」
少し笑う。
「じゃあ私、何する人なんだろうって思う時ある」
御堂は何も言わなかった。
咲耶。
「可能性見つけるのが好きで、やったらいいじゃんって言うのが好きで」
「うん」
「それ取ったら、私、ただうるさい人なのかなって」
御堂。
「それ、名前ついてない?」
咲耶。
「つけないで」
「分かった」
咲耶が笑った。
「御堂さんにしては早い」
「俺も今日は学習する会だから」
二十一時を過ぎた頃。
店の空気は完全に変わっていた。
誰かが話す。
誰かが笑う。
誰かが黙る。
御堂は、
必要な時だけ言葉を入れる。
繭の紙と榊の話を無理につながない。
澪の夢を企画へしない。
咲耶の迷いを「新しいステージ」と呼ばない。
でも、
話が止まりそうになると、
次の人へ渡す。
御影が広げすぎると、
「一回そこまで」
と戻す。
榊が整理しすぎると、
「今日は資料作らなくていい」
と笑う。
人が集まった時。
御堂蓮司は、
やっぱりうまかった。
夜坂は、
カウンターからそれを見ていた。
一度だけ。
御堂がスマートフォンを見た。
二十一時十三分。
通知はない。
最初に招待した六人からは、
一件も。
御堂は画面を伏せた。
咲耶が気づいた。
でも何も言わなかった。
二十二時。
貸切時間が終わった。
「これ、普通にまたやった方がいいですよ」
榊が言った。
御影。
「次は俺、ちゃんと何か持ってきます」
繭。
「意味つけないものにしてください」
「難しいな」
澪。
「私はまた夢持ってきます」
咲耶。
「夢って持ち物なんだ」
澪。
「今日そうなりました」
みんな笑った。
御堂も笑っていた。
「じゃあ次回」
夜坂。
「まだ決まってません」
「店主」
「予約してください」
「現実的だなあ」
一人ずつ帰る。
最後に、
御堂だけが残った。
店は急に広くなった。
夜坂がグラスを下げる。
テーブルを拭く。
椅子を戻す。
一脚。
二脚。
御堂はカウンターに座って、
スマートフォンを見ていた。
夜坂が、
壁際の椅子を持つ。
「それ」
御堂が言った。
夜坂が止まる。
「まだ置いといていいんじゃない?」
「なんで?」
「連絡来るかもしれない」
夜坂が時計を見る。
二十二時四十六分。
「イベント、何時からでした?」
「十九時」
「終わりましたよ」
御堂は笑った。
「分かってるよ」
夜坂は椅子を持ったまま待つ。
御堂。
「でもさ」
スマートフォンを見る。
「普通、一言くらいあるだろ」
夜坂は答えない。
「行けなくなりましたとか」
「はい」
「忘れてましたとか」
「はい」
「何でもいいじゃん」
「そうですね」
御堂は画面を伏せる。
「理由が分かれば、次どうするか決められる」
夜坂。
「御堂さんは」
「うん」
「返事がないと、まだ途中なんですね」
御堂は少し黙った。
「……そうかもな」
夜坂は椅子を戻そうとする。
御堂。
「ちょっと待って」
夜坂が止まる。
御堂は、
誰も座らなかった席を見る。
何時間も。
ずっとそこにあった。
料理も置かれなかった。
グラスも使われなかった。
誰も遅れて来なかった。
御堂。
「来ないことも」
少し間があった。
「答えなんだな」
夜坂。
「たぶん」
御堂。
「嫌な答えだな」
「そうですね」
「もっとちゃんと言えよって思うけど」
「思っていいんじゃないですか」
御堂は夜坂を見る。
「でも?」
夜坂。
「椅子は片づけていいと思います」
御堂は笑った。
「そこに戻る?」
「閉店なんで」
夜坂が最後の椅子を持ち上げた。
壁際へ戻す。
それだけだった。
誰かとの関係が終わった音なんて、
しなかった。
ただ、
木の脚が床を軽く擦った。
その時。
階段を上ってくる足音がした。
夜坂が眉を寄せる。
「もう閉店ですけど」
扉が開いた。
見覚えのある客が顔を出す。
「すみません。まだ一杯だけいけます?」
夜坂。
「一杯だけなら」
御堂が振り返る。
客が御堂を見る。
「あれ。御堂さん?」
「久しぶり」
「何してるんです?」
「イベント終わり」
「何の?」
御堂の顔が変わる。
「まだ名前のついてないものを持ち寄る会」
客。
「何それ。面白そう」
御堂。
「だろ?」
夜坂はカウンターの中へ戻る。
三分後。
御堂はもう、
その客の仕事の話を聞いていた。
「それさ」
御堂が言う。
「一人、絶対話合う人いるよ」
夜坂。
「早いですね」
御堂。
「何が?」
「別に」
さっきまで、
六人分の空席を見ていた男が、
もう次に来た一人の話を面白がっている。
それも、
御堂蓮司だった。
来なかった人を待つ。
理由を知りたがる。
終わったものを、
まだ途中だと思いたがる。
それでも。
新しく扉を開けた人を見れば、
ちゃんと嬉しくなる。
夜坂は、
新しい客の前へグラスを置いた。
御堂の前にも水を置く。
御堂が言う。
「俺、もう帰るところだったんだけどな」
夜坂。
「帰ればいいじゃないですか」
「この話の途中で?」
夜坂は少し笑った。
「途中なんですね」
御堂が一瞬止まる。
それから笑った。
「うるさいな」
来なかった人の席は、
もうなかった。
でも。
新しく来た人の席は、
ちゃんとあった。
御堂蓮司は、
たぶんこれからも人に期待する。
来ると言われたら、
来ると思う。
面白いと言われたら、
次も見てくれると思う。
一度つながった人とは、
その先も何かあると思ってしまう。
それを全部やめたら、
彼の仕事はたぶん、
少しつまらなくなる。
だから。
期待することまで、
捨てなくていい。
ただ。
来なかった人のために、
いつまでも椅子を出しておかなくてもいい。
必要なら。
また来た日に、
出せばいい。
宵待酒場には、
椅子ならある。
そして御堂は今夜も、
さっきまで空いていた場所とは別の席で、
新しく来た誰かと、
もう次の面白い話をしていた。

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