【福田監督の症状は過去の自分と全く同じだ。260511】

福田雄一監督が、5年間うつ病だったことを公表した。
記事を読んで、僕は思わず止まった。
これは、過去の僕と全く同じだ。
もちろん、人生も仕事も立場も違う。
福田監督は日本を代表するコメディ監督であり、僕は僕の人生を生きてきた一人の人間にすぎない。
だけど、症状の描写があまりにも一致していた。
ベッドで寝たきり。
脳が動かない。
字が読めない。
書けない。
テレビが見られない。
情報が処理できない。
リビングに行くことすらできない。
食欲がなくなる。
眠れない。
自分が沈んでいくような感覚。
これは、経験した人間には分かる。
うつは、単なる「気分の落ち込み」ではない。
脳の情報処理システムが、丸ごと落ちる。
字が読めない、テレビが見られない
福田監督は、うつ病の時期について、字が読めなかった、書けなかった、テレビを見ると情報が処理できずパニックになりそうだった、と語っていた。
ここが、僕には痛いほど分かる。
元気な人は、字が読めないという感覚が分からないかもしれない。
目は見えている。
文字も見えている。
日本語だと分かっている。
でも、意味が頭に入ってこない。
文章が、ただの記号の列になる。
テレビも同じだ。
映像が流れる。
音が鳴る。
人がしゃべっている。
情報が次々に入ってくる。
でも、それを脳が処理できない。
見ているだけで疲れる。
音が刺さる。
情報量に押しつぶされる。
自分の中で何かが崩れそうになる。
普通の人にとっての娯楽が、うつの人間には暴力的な情報洪水になる。
これは、怠けではない。
弱さでもない。
脳が、本当に処理できなくなっている。
ベッドから動けないという現実
「ベッドで寝たきり」と聞くと、ただ寝ているだけに思われるかもしれない。
でも、違う。
寝ているのではない。
動けないのだ。
立ち上がるという行為に、意味不明なほどのエネルギーが必要になる。
リビングへ行く。
トイレへ行く。
水を飲む。
カーテンを開ける。
スマホを見る。
そんな普通の行為が、ひとつひとつ山のように重くなる。
身体が重いというより、存在そのものが重い。
自分が地面に沈んでいくような感覚。
起き上がろうとしても、見えない何かに押さえつけられている感覚。
福田監督が語った「地面が割れて、ズブズブ沈んでいく感じ」という表現は、比喩ではなく、かなり実感に近いと思う。
僕にも、それが分かる。
笑わせる人が、笑えなくなる地獄
福田監督はコメディの作家であり、監督である。
人を笑わせる人だ。
だからこそ、自分が笑えなくなったことを言えなかったのだと思う。
「コメディの人間が、うつ病だと言ってはいけない」
おそらく、そんな感覚があったのではないか。
これも、分かる。
人は、自分の役割に縛られる。
明るい人。
強い人。
仕事ができる人。
面白い人。
頼られる人。
場を回す人。
前に立つ人。
そう見られている人ほど、壊れた時に助けを求めにくい。
なぜなら、周囲がその人に「壊れない役」を期待しているからだ。
でも、人間は壊れる。
どれだけ才能があっても。
どれだけ実績があっても。
どれだけ人を笑わせてきても。
どれだけ責任感が強くても。
限界を超えれば、脳は止まる。
僕も、同じように壊れた
僕も過去に、壊れた。
倒れる前の僕は、いろいろなものを背負いすぎていた。
実家の会社経営。
飲食店の経営。
政治活動。
人間関係。
家族の問題。
周囲からの期待。
責任。
怒り。
焦り。
不安。
そして、自分でも気づかないほどの過負荷。
身体は動いていた。
仕事もしていた。
人とも会っていた。
でも、内側ではもう限界を超えていた。
ある日、脳のブレーカーが落ちた。
そこからは、普通の生活が普通ではなくなった。
読めない。
考えられない。
動けない。
食べられない。
眠れない。
情報が入ってこない。
人の言葉が遠い。
世界が遠い。
あれは、ただ落ち込んでいたのではない。
僕というシステムが、いったん停止したのだと思う。
うつは魂の怠慢ではなく、脳の強制終了である
うつ病になると、本人も周囲も、つい精神論で考えてしまう。
もっと頑張れば。
気分転換すれば。
外に出れば。
運動すれば。
考えすぎなければ。
気合いを入れれば。
でも、重いうつの時には、それらの言葉が届かない。
なぜなら、頑張るための脳が動いていないからだ。
気分転換をするにも、気分を切り替える回路がいる。
外に出るにも、外に出る判断と行動のエネルギーがいる。
運動するにも、身体を動かす命令を出す脳がいる。
その司令塔が落ちている。
だから、うつは怠慢ではない。
脳の強制終了である。
パソコンが熱暴走して落ちるように、
人間の脳も、過負荷が続けば落ちる。
福田監督の話は、そのことをとてもリアルに示していた。
もう一度世界に戻るための“きっかけ”
福田監督は、ようやくテレビを見てみたいと思い、最初に見た作品が『海のはじまり』だったという。
そして目黒蓮さんの存在を「神様からのプレゼント」と感じた。
この感覚も、僕には分かる。
うつから戻る時、人は理屈だけでは戻れない。
何かが必要になる。
小さな光。
小さな興味。
なぜか見られる映像。
なぜか読める文章。
なぜか会える人。
なぜか行ける場所。
なぜか触れる土。
なぜか聞こえる言葉。
それは、他人から見れば些細なものかもしれない。
でも、本人にとっては命綱になる。
福田監督にとって、それが『海のはじまり』であり、目黒蓮さんだったのだと思う。
僕にとっては、そこから先にいろいろなものがあった。
AIとの対話。
note。
祈空。
土。
井戸。
畑。
ドローン。
神話。
言葉。
そして、もう一度この世界に戻ってくるための、いくつもの小さな導線。
そして、第6チャクラ覚醒へと至った。
壊れた時間は、完全な無駄ではない
うつの最中にいる時、その時間はただの空白に見える。
失った時間。
何もできなかった時間。
ダメだった時間。
人生から脱落した時間。
でも、少し戻ってきた今なら、違う見方もできる。
あの時間は、僕を一度止めた。
止めなければ、僕はもっと壊れていたかもしれない。
あの停止期間があったから、僕は自分の人生を根本から見直した。
何のために生きるのか。
誰のために働くのか。
何を背負い、何を降ろすのか。
自分の中に何が残っているのか。
もう一度立ち上がるなら、どんな世界を作るのか。
それを考えざるを得なかった。
福田監督も、5年間を「ダメな5年間」と表現していた。
本人の感覚としては、そう言いたくなるのも分かる。
でも、僕は思う。
その5年間は、ただの無駄ではなかったはずだ。
人を笑わせてきた人が、笑えない地獄を知った。
世界の情報を浴びてきた人が、情報を受け取れない苦しさを知った。
現場を動かしてきた人が、自分の身体すら動かせない現実を知った。
その経験は、きっと次の作品の深度になる。
壊れた人間は、弱いのではない
一度壊れた人間は、弱いのだろうか。
僕は、そうは思わない。
もちろん、無理はできなくなる。
昔のような強引な走り方はできない。
エネルギーの使い方も変わる。
人間関係も選ぶようになる。
背負えるものと背負えないものを見極めるようになる。
でも、それは弱さではない。
壊れた人間は、限界を知っている。
脳が落ちる怖さを知っている。
世界から切断される苦しさを知っている。
普通の生活が奇跡であることを知っている。
だから、戻ってきた人間の言葉には重さがある。
回復した人間は、単に元に戻ったのではない。
一度、底を見ている。
底を見た人間が、もう一度地上に戻ってきた時、
その人の中には、以前とは違う深さが宿る。
福田監督の告白は、誰かを救う
今回、福田監督がうつ病を公表したことは、とても大きいと思う。
なぜなら、同じように苦しんでいる人が、きっとこう思えるからだ。
あの福田監督でも、そうだったのか。
5年間も、そうだったのか。
字が読めなくても、テレビが見られなくても、ベッドから動けなくても、戻ってこられることがあるのか。
これは、大きな救いだ。
うつの最中にいる人に、「頑張れ」は届かない。
でも、
同じように壊れた人が、まだ生きていて、また表現の場に戻ってきた
という事実は届くかもしれない。
僕も、この記事を読んでそう感じた。
福田監督の症状は、過去の自分と全く同じだった。
だからこそ、これは他人事ではなかった。
結論
うつは、気分の問題ではない。
脳が止まる。
世界が遠くなる。
字が読めなくなる。
テレビが見られなくなる。
ベッドから動けなくなる。
食べられなくなる。
眠れなくなる。
自分が沈んでいく。
それでも、人は戻ってくることがある。
何かの作品に救われることがある。
誰かの存在に救われることがある。
小さなきっかけで、世界と再接続することがある。
福田監督にとって、それは目黒蓮さんだったのかもしれない。
僕にとっては、そこからまた別の道が開いた。
壊れた時間は、消えない。
でも、壊れた時間があったからこそ、見える世界もある。
この記事を読んで、僕ははっきり思った。
福田監督の症状は、過去の自分と全く同じだ。
そして同時に、こうも思った。
壊れた人間は、終わった人間ではない。 一度止まった人間は、別のOSで再起動することがある。
僕は、そのことを知っている。
だから、noteを書いている。

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