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【小説・夜坂朔と高瀬梢は、今夜は帰る。】


 高瀬梢がいなくなって、一週間。

 宵待酒場は、驚くほど何も変わらなかった。

 夜坂朔はいつもの時間に店を開けた。

 カウンターを拭く。

 氷を確認する。

 グラスを並べる。

 六席あるカウンターには、いつものように誰かが座り、誰かが帰った。

 高瀬梢のための席は、最初からなかった。

 だから。

 彼女がいなくなっても、空席はなかった。

     *

 梢から最初の写真が届いたのは、仕事先へ向かって三日目だった。

 古い木造建築の階段。

 何度も人の手に触れたらしく、手すりだけが妙に滑らかになっている。

《これ、夜坂さん好きそう。》

 朔は開店準備の手を止めた。

 写真を拡大した。

《好きですね。》

 送る。

 二分後。

《でしょうね。》

 それだけだった。

 その夜。

 カウンターの端で、マイル=ベルツが眼鏡を押し上げた。

「最近、スマートフォンを見る回数が増えましたね」

「そう?」

「増えています」

 窓際にいた楮原繭が顔を上げる。

「梢さん?」

「……まあ」

「順調そうですか」

「仕事は面白いみたいですよ」

「そうですか」

 繭は笑った。

 マイルが聞く。

「遠距離恋愛という分類でいいんでしょうか」

 朔が眉を寄せた。

「その言い方、なんか違うんだよな」

「何が違うんです?」

「分からない」

「では現時点では分類不能ですね」

「分類しなくていいよ」

 繭が少し考えてから言った。

「帰ってくる人がいる店になりましたね」

「前からそうですよ」

「そういう意味じゃなくて」

 朔が繭を見る。

 繭はそれ以上言わなかった。

     *

 梢の仕事は忙しかった。

 展示を見る。

 人に会う。

 文章を書く。

 写真を選ぶ。

 企画の順番を組み替える。

 現地にいると、仕事は増えた。

「これも高瀬さんならできる」

 そう言われれば、できるものが多かった。

 以前なら、引き受けたと思う。

 できるから。

 自分がやった方が早いから。

 期待されているから。

 けれど今回は、その言葉のたびに一度止まった。

 ――できることと、やりたいことは違う。

 あの地震の夜。

 宵待酒場でマイルに言われた言葉が残っていた。

 それでも、全部を断れるほど器用でもない。

 ある夜。

 ホテルへ戻った梢は、スマートフォンを持ったまましばらく迷った。

 そして夜坂へ電話した。

『はい』

「忙しい?」

『店です』

「じゃあ切る?」

『なんで電話したの』

「……相談」

 電話の向こうが一瞬静かになった。

『珍しいですね』

「それ、もう禁止にしない?」

『何を?』

「高瀬梢が相談すると、みんな“珍しい”って言うの」

『みんな?』

「マイルさんも繭さんも」

『じゃあ統計的に珍しいんじゃないですか』

「もういい」

『冗談です。何?』

 梢は仕事の話をした。

 追加される仕事。

 本来の企画から少しずつ広がる役割。

 できなくはない。

 むしろ、全部やろうと思えばできる。

『で、高瀬さんはどうしたいの?』

「それを相談してるんだけど」

『俺が決める話じゃないから』

「……そういうとこ、マイルさんに似てきたね」

『それは嫌だな』

「聞かれたら怒られるよ」

『聞かせないでください』

 梢は笑った。

 それからしばらく黙った。

「断りたい」

 口に出してみた。

 意外なくらい簡単だった。

『なら、断ればいいんじゃないですか』

「簡単に言うなあ」

『できないんです?』

「できるよ」

『じゃあ』

「……うん」

 電話を切ったあと。

 梢は思った。

 相談したのに、何も決めてもらわなかった。

 それが、妙に楽だった。

 翌日。

 梢は追加された仕事のいくつかを断った。

 全部やる代わりに。

 自分が本当にやりたかった部分へ時間を使った。

 仕事は少し減った。

 企画は、少し良くなった。

     *

 二か月ほど経った頃。

 連絡が途切れた。

 三日。

 四日。

 五日。

 梢の仕事が佳境に入っていた。

 朔も分かっていた。

 だから何も送らなかった。

 忙しいなら邪魔したくない。

 梢も同じことを考えていた。

 夜坂は店がある。

 わざわざ話すほどのことでもない。

 一週間。

 朔は閉店後、スマートフォンを見た。

 通知はない。

「……」

 そのまま伏せた。

 遠くの町で。

 梢もベッドの上でスマートフォンを見た。

 何も来ていない。

「……」

 二人とも、それで暮らせた。

 暮らせてしまった。

 一人でいられる人間同士というのは、こういう時に少し面倒だった。

 必要以上に踏み込まない。

 相手の生活を尊重する。

 連絡がないことを不安の証明にしない。

 全部、正しい。

 ただ。

 正しすぎる。

 八日目。

 梢はスーパーで妙な菓子を見つけた。

 地域限定らしい。

 パッケージだけは異様に自信満々だった。

 写真を撮る。

《これ、絶対まずいと思う。》

 送った。

 十秒ほどで既読がついた。

《買った?》

《買った。》

《どうだった?》

 梢は袋を開けた。

 一口食べた。

 しばらく考える。

《まずい。》

《でしょうね。》

 梢は笑った。

 それだけで。

 一週間が終わった。

     *

 三か月目。

 夜。

 梢が原稿を確認していると、机の上のペンが転がった。

 少し遅れて、窓が鳴った。

 揺れた。

 大きくはない。

 それでも身体が先に反応した。

 椅子から離れる。

 頭を守る。

 机の下へ。

 あの夜の音を思い出した。

 酒瓶。

 割れるグラス。

 突然消えた灯り。

 そして。

 自分の手の中にあった、夜坂朔の腕。

 揺れはすぐ収まった。

 梢は机の下から出た。

 スマートフォンを見る。

 震度三。

 大したことはない。

 何も壊れていない。

 怪我もない。

 なのに。

 気づけば夜坂へ電話していた。

『もしもし』

「起きてた?」

『店です』

「そっか」

『こっちにも速報出てます。大丈夫?』

「うん。全然」

『ならよかった』

「……」

『……』

「夜坂さん」

『はい』

「別に何もないんだけど」

『うん』

「ちょっと声、聞きたかったみたい」

 言ったあとで。

 梢自身が少し驚いた。

 以前なら、こんなことを口にしただろうか。

 電話の向こうで、少し間があった。

『俺も聞けてよかったです』

「そっか」

『はい』

「じゃあ切るね」

『それだけ?』

「それだけ」

『分かりました』

「おやすみ」

『おやすみ』

 電話を切る。

 何も解決していない。

 そもそも問題などなかった。

 ただ。

 声を聞いた。

 それだけだった。

 その夜、梢はよく眠った。

     *

 仕事は四か月目に形になった。

 展示が完成した。

 文章も出た。

 人が入った。

 静かだった空間に、人の声が生まれた。

 梢は少し離れたところから、それを見ていた。

 やってよかったと思った。

 自分で選んだ。

 断るところは断った。

 残したいものを残した。

 一人で来た。

 一人で仕事をした。

 一人でも、十分面白かった。

 そして。

 ふと思った。

 ――夜坂さんにも見せたかったな。

 以前なら。

 一人で面白ければ、それで完結していた。

 今も。

 一人で十分面白い。

 そこは何も変わっていない。

 ただ。

 誰かにも見せたいものが増えた。

 それだけだった。

     *

 高瀬梢が帰ってくる日を、夜坂朔は詳しく知らなかった。

《今週戻る。》

 数日前に、それだけ届いていた。

《了解。》

 朔も、それだけ返した。

 その週の木曜日。

 宵待酒場。

 マイルはカウンターの端でカードを整理していた。

 黒髪を後ろでまとめ、眼鏡の奥で一枚ずつ確認している。

 楮原繭は窓際で温かい飲み物を飲んでいた。

 朔はグラスを拭いていた。

 扉が開いた。

「こんばんは」

 三人が顔を上げた。

 高瀬梢が立っていた。

 荷物は少ない。

 髪が少し伸びたようにも見える。

 でも。

 ほとんど何も変わっていなかった。

 朔の手が止まった。

 数秒。

「おかえり」

 梢が笑った。

「ただいま」

 繭も笑う。

「おかえりなさい」

「ただいま」

 マイルが眼鏡を押し上げる。

「予定より二日早いですね」

「なんで知ってるの?」

「あなたが以前、“週末くらい”と言っていました」

「覚えてるんだ」

「情報なので」

「相変わらずだね」

 梢は空いている席へ座った。

 誰かが帰ったばかりの席だった。

 朔が何も聞かず、飲み物を置く。

 梢は一口飲んだ。

「これだ」

「何が?」

「帰ってきた感じ」

 朔は笑った。

「仕事、どうでした?」

 梢がため息をつく。

「長いよ」

「何が?」

「話」

「じゃあ、ゆっくり聞きます」

「どれくらい?」

「朝まで?」

 梢は朔を見た。

 一瞬だけ。

 あの夜を思い出した顔をした。

 そして笑う。

今日は帰るよ」

 カウンターの端で。

 マイルの手が止まった。

 カードを揃えていた指が、ほんの一瞬だけ静止する。

 窓際では。

 繭が口元まで運んでいたカップを、ゆっくり下ろした。

 二人の視線が、同時に梢へ向く。

 梢は気づいていた。

 気づいていないふりをした。

 マイルが眼鏡を押し上げた。

「……今日は、ですか」

 梢が振り向く。

「何?」

「いえ」

 マイルは何事もなかったようにカードを揃え直した。

「助詞に特別な意味はありません」

「何の話?」

 繭が小さく笑う。

「そうですね」

 一拍置く。

「“今日は”ですものね」

「繭さんまで何なの」

「何も」

 二人とも何も言っていなかった。

 ただ。

 ――では、以前は帰らなかった朝があったのですね。

 そんな文章だけが、なぜかカウンターの上に置かれたような気がした。

 梢は夜坂を見る。

「夜坂さん」

「はい」

「何とか言って」

「俺に振らないでください」

「なんでよ」

「何を言っても悪化するから」

 マイルが小さく頷いた。

「適切な判断です」

「マイルさん」

「はい」

「楽しんでるよね?」

「観察しています」

「同じだから」

 繭が笑った。

「梢さん」

「何?」

「帰ってきたばかりなのに、楽しそうですね」

 梢はしばらく繭を見て。

 やがて諦めたように笑った。

「誰のせいよ」

 宵待酒場に。

 久しぶりに高瀬梢の笑い声が戻った。

     *

 その夜。

 梢は四か月分の話をした。

 古い建物。

 面白かった人。

 うまくいかなかった企画。

 断った仕事。

 残した仕事。

 まずかった菓子。

「あれ、本当にまずかった?」

「ほんとにまずかった」

「俺、ちょっと食べたかったな」

「買ってきたよ」

「あるんだ」

「お土産」

「嫌がらせじゃないですか」

「共有したかったの」

「そういう共有いらないなあ」

 マイルと繭も笑った。

 やがて時間が遅くなる。

 繭が先に立った。

「そろそろ帰ります」

 マイルもカードをしまう。

「私も」

「二人とも今日は帰るんだ」

 梢が言った。

 マイルが梢を見る。

「“今日は”?」

「もういいから」

 繭が吹き出した。

 二人が店を出る。

 扉が閉まる。

 また。

 夜坂と梢だけになる。

 数か月前と同じだった。

 でも。

 少し違っていた。

 あの夜は。

 言葉にしなければならないことが残っていた。

 今夜は。

 もう、何も急ぐ必要がない。

 朔がグラスを片付ける。

「本当に帰る?」

 梢が見る。

「その聞き方、良くないと思う」

「マイルみたいに助詞を分析される?」

「される」

「じゃあ訂正します」

「はい」

「今日は帰るんですか」

「もっと悪くなった」

 二人で笑った。

 梢はコートを取った。

「帰るよ」

「うん」

「明日も仕事あるし」

「そうですね」

「それに」

 梢は扉へ向かう。

 少しだけ振り返った。

「朝までいなくても、もう分かってるから」

 朔は何も聞かなかった。

 何が。

 とは。

 梢も説明しなかった。

 朔はただ、

「気をつけて」

 と言った。

「うん」

「おやすみ」

「おやすみ」

 梢は扉を開けた。

 外は普通の夜だった。

 地震もない。

 停電もない。

 電車も動いている。

 街には灯りがある。

 あの夜のように、帰れない理由など何もない。

 だから。

 高瀬梢は帰った。

     *

 帰り道。

 梢は一人だった。

 それを寂しいとは思わなかった。

 夜坂も店を閉め、一人で帰る。

 それも寂しいことではなかった。

 一人で帰れる二人だった。

 一人で眠れる二人だった。

 一人で明日を始められる二人だった。

 それでも。

 面白いものを見つけたら、見せたくなる。

 怖い夜には、声を聞きたくなる。

 迷った時には、意見を聞いてみたくなる。

 そして。

 帰ってきたら、

 「おかえり」

 と言ってほしくなる。

 一人で生きられることと。

 誰かのいる人生を選ぶことは。

 最初から、反対側にはなかった。

 スマートフォンが震えた。

 夜坂からだった。

《お土産の菓子、ほんとにまずい。》

 梢は歩きながら笑った。

《でしょうね。》

 送る。

 少し考えて。

 もう一通。

《おやすみ。》

 すぐに返ってくる。

《おやすみ。》

 梢はスマートフォンをしまった。

 今夜は帰る。

 たぶん。

 明日も帰る。

 それでよかった。

 一度、朝まで帰らなかった夜があるから。

 もう。

 毎晩、確かめる必要はなかった。




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神原月見|言語化審神者(げんごかさにわ) 再び空を飛ぶ為の訓練費用に使わせていただきますm(_ _)m