レフト イズ ライト 密室蒸発事件2
-密室02-
ぼくは、神野さんの待っている別館に足早に向かった。丸顔で小柄なので幼い印象のある神野さんは、年下だけれど、言いにくいことなどないかのように、冷たい口調で核心を突いた物言いをしてくる。そして、彼女は刃の付いたベルトをしていて、いざという時には頼りになる保安部のエースだ。ただ、肉体派というわけではなく、頭も切れる。だから、問題が起こってみんなが困っているような時にも、ぼくは神野さんと一緒に考えを巡らしていると、すこし楽しい気持ちになってしまう。今回はただのインキーだろうから、考えるまでもないだろうけれど。
そんなことを思いながらロビーを通り、別館への渡り廊下を進み、左側にあるエレベーターへと進む。別館にあるジュニアスイートは法律上は三階の扱いだが、傾斜地なので本館の三階よりは一階分高い。つまり、見晴らしがいいと同時に本館の一階にあるフロントからは、階段で昇るのはきつい。エレベーター前では別のゲストが待っていたので、函が降りてくると、ぼくは開ボタンを押して、ゲストに先に乗るように促した。ぼくも後から乗り込み、左側にあるコントロールパネルで三階のボタンを押す。エレベーターは速すぎるでもなく遅すぎるでもなく、すうーと上がっていく。ゲストは二階で降りたので、すこしリラックスする。ホテルによってはゲストが乗っているエレベーターを利用してはいけないという決まりを持っている。貨物と共用のエレベーターを従業員が使うことを求めているホテルもある。ただ、ザ レフト ホテル神山は創業以来、左利き用のピアノでコンサートをしたり、左手で鏡文字を書道する会を催すなどして、ゲストもホテリエも互いに左利きという繋がりで親近感を持つように努めてきた。常連客も多い。だから、ぼくがエレベーターの同情しても不快に感じたり、奇異な目で見てくるゲストは基本的にいない。ただ、ぼくは人の顔を憶えられないので、今のゲストが常連なのか、初めてのご利用なのかがわからなかった。それで、いくぶん緊張していたのだ。
三階に着いて、ぼくはぎこちなく左に数歩移動する。外の世界では意識することもないけれど、このホテルではすべてが左利きに使いやすいように設計されているので、それに慣れてしまっているようだ。だから、利き足が左にとっては曲がりにくい左方向への歩行というのは、どうにも不自然に感じてしまう。
揃えているわけではないのだろうが、ピンクの制服を着た保安部の二人がゲストと共にジュニアスイートのドア前に陣取っている。巡回中に、困っているゲストに出くわしたのだろう。異様に耳のいい神野さんは、おそらくぼくがエレベーターに乗り込んだ時点で気付いていたのだろう、こちらを見て待ち構えている。その顔は「遅いぞ」と言っているのがありありとわかる。ぼくは頭を下げて、頭の中でごめんさないと言った。巨躯の樺沢さんは、こちらに背を向けてしゃがんでいる。通称は岩男だ。
「坂下様、お待たせいたしました」
声をかけると、ゲストがこちらを向いた。左頬にほくろがある。帯さんの教えてくれた通りだ。そもそも保安部はゲストの顔を憶えるのも仕事なので、二人が一緒にいるということは、この部屋のゲストで間違いないとも言える。
「あ どうも。ドアが開かなくて。すみません」
坂下様が申し訳なさそうに軽く頭を下げるので、ぼくは「いえいえとんでもない、お気になさらないでください」と声をかけた。怒られなくてよかった。そして、「失礼いたします」と三人に場所を空けてくれるように頼むと、握りしめていたマスターキーをカードリーダーに差し込んだ。しかるべき場所が青く点滅したことを確かめると、取っ手を左手で押し下げる。そして、引こうとするが、動かない。
「開かないでしょう?青く光っているのに開かないんですよ」
坂下様がそう声をかけてくる。おかしいよねという表情だ。ということは、そういうことか。
「もしかして坂下様は、鍵をお持ちなのですか?」
「鍵?あるよ?ほら」
と言って坂下様がシャツの右に付いている胸ポケットから左手でカードキーを取り出す。どうやらインキーではないらしい。神野さんに顔を向けると、「わたしが知るか」といった表情で見返してくるばかりである。うーむ。取っ手が下がったということは、カードリーダーは機能しているということだ。つまり、鍵は開いていると考えて間違いはない。チェーンロックか?
「お子様が一緒でございましたよね?」
「ああ、うん。娘は気分が悪いと言って寝ているから、部屋にいるはずだけど」
うーん。そうであったとしても、チェーンロックというものは、このホテルでは7.5cmの隙間以上にドアが開かないようにと、防犯上の理由で取り付けられている。人が中にいて、チェーンロックをしていても、7.5cmまではドアは開くはずなのだ。それともチェーンを何重にも絡ませて、1mmたりとも開かないようにすることは可能だろうか。この推察を神野さんに話すと、可能性は少ないと言われてしまった。
「それが成立するためには、何重にも巻いた時にチェーンがちょうど微動だにしない位置に来ないといけないわけだろう。偶然それが成立するものだとはにわかには思えんな」
「うーん」
「やってみろ」
「え?どういうことですか?」
「お前はマスターキーを持っていて、うまい具合に隣の部屋は空室だ。予約しているゲストがまだ来ていないんだろう。そこのチェーンで試してみたらどうだ」
「なるほど」
ぼくは推理は得意だが、それは思いつかなかった。それで、さっそく隣の部屋のドアを開けて、チェーンをぐるぐる巻きにしようとしたが、
「するまでもなかったな」
「はい」
研修の時に、同じフロント部門に属しているということで、ハウスキーピングの仕事も一通りしたのだが、主業務である掃除をすること、備品の交換に集中していたらしく、チェーンロックの構造に目を向けていなかったということを、いま自覚した。
ゲストの元に戻ると、怪力の樺沢さんが、またもやしゃがんでいて、「どうでした?」というふうに下から問いかける顔をしている。
「チェーンのそばに巻き付けられる構造物がありませんでした。つまり、チェーンを通す穴になっているようなところがないんです。引っかけるとしたらドアノブくらいですけど、ドアノブに少しでもチェーンを巻き付けたら、そのチェーンは、もう本来ロックするところに届かないんです」

「部屋に何か変わりがなかったか、ハウスキーピングに訊いてみましょう。ええと」
今日はぼくと同期の彼と誰がシフトに入っているんだっけ? バックヤードのホワイトボードに貼られていた名前を思い出そうとする。
「三根さんです」
樺沢さんが低めのこもった声で三根さんの名前を口に出した。
「それと麻田だ」
神野さんにも先を越されてしまった。そう、そういう名前だった。それにしても保安部というのはハウスキーパーのシフトまで把握しているのか。これではフロントの名折れだ。
しばらくして、その三根さんと新人の麻田くんが、二人揃ってピンクの制服でやってきた。三時までは仕事なので帰っていなかったようだ。坂下様は人数が増えたことで、大問題が発生しているのではないかと感じたようだ。
「娘に何かあったのでしょうか?」
坂下様は部屋にいる娘の沙織さんを心配し始めた。それはそうだろう。
「いや、心配はご不要だと思います。ドアが開かないこととは関係ないと思います」
ぼくは、穏やかな声でそう告げた。とりあえずゲストを安心させるのが大切だ。それにお子さんは十四歳だということで、内側からドアノブを必死に押さえているということはありえないだろう。怪力の樺沢さんに力比べで勝てるわけがない。それなら、いまごろドアは開いているはずだ。テーブルをドアの近くまで持ってきて、ドアノブとテーブルを紐で結び付けていたとしても、樺沢さんなら開けられるだろう。そもそも樺沢さんが動かせないものを中学生が動かせるわけがない。ぼくが三根さんに話を聞くと、三根さんは少しずつ思い出しながら、説明をしてくれた。
「お子様が寝ているけれど、掃除をするようにとゲストから依頼があったとのことで、フロントから指示を受けています。ただ、ベッドルームからは物音はしませんでしたので、いらっしゃったかどうかは私にはわかりません。麻田くんは? 気づいた?」
三根さんが問うと、
「いえなにも」
麻田くんは特に考えるでもなく即座に答えた。その様子を神野さんが冷たい目で見ている。
「それにしてもここはなぜ外開きなんだい?ホテルで外開きは珍しいよね?」
坂下様が疑問を口にする。
「ほら、内開きなら六人がかりで体重をかければ開くかもしれないし、中に立て籠もる人がいても開けやすいでしょう。よく映画で観るし」
もどかしい表情が顔にありありと出ている。
別館のジュニアスイートは、ワンフロアに二室である。従って、部屋前の通路も広く取ってある。ルームサービスの台車を置くスペースがあるし、そもそもホテリエは、ゲストが開けた扉から見える位置に立つのがマナーなので、外開きだからドアにぶつかったということもない。また、実質は四階なので洪水の心配もないから水圧でドアが閉まったり、逆に開かないということもない。ワンフロアに二室なので、他のゲストの避難の際に妨げになることもほとんどないし、そもそも内側から押して逃げやすい。
「部屋の中を少しでも広く感じていただくために、、デッドスペースを作らないようにということと、スリッパを利用されるお客様が部屋に入る一歩目からスリッパを置けるようにとの配慮からでございます」
ぼくは坂下様にそう答えた。これは、マニュアルにもそう書いてあった。内開きのドアだとどうしてもドアを押さえながらスリッパを履かないといけない。外開きの場合、大きく開けておいて、ゆっくり閉まる前に履き替えることも可能だ。そのため、このレフトホテルではシューボックスが手を伸ばせばすぐのところにあり、部屋に入らずともスリッパを取り出すことができる。また、脱いだスリッパがドアに引っ掛かることもないので、部屋の出口寸前にスリッパを脱いで出掛けることもできる。
それにしても開かない。ぼくも念のため力を入れて引いてみるが、びくともしない。神野さんがドアノブに力を入れてがちゃがちゃとすると、やはり上下には動くのだが、ドア自体は開かない。神野さんはドアに耳を当てて中の様子を窺っている。彼女は耳がいいのだ。
「うるさくて人がいるかどうかがわからない」
「だれもしゃべっていませんけど」
岩男がしゃがんで口を出すが、神野さんは見もせずに「そうじゃない」と、その言葉を払いのけるように空中で手を振っている。
「中がうるさいんだ。掃除機をかけているような」
麻田くんはまさかという表情をした。こちらは顔の前で手を横に振っている。
「掃除機を部屋に置きっぱなしということはありない。さっきしまったし」
そう言うと、通路の突き当りにある小部屋を指さした。ぼくは、研修の時に備品室を覗いたことを思い出す。備品室には掃除道具一式、ベビーベッド、予備のベッド、ベッドカヴァーなどが収められているはずだ。神野さんはハウスキーパーの二人に何か気づかなかったかと質問をしている。
「そう言えば」
三根さんは左のこめかみに手を当てながら思い出したことを口にした。
「スリッパがドアの近くぎりぎりまで置いてあって、一足は先の方が潰れていました」
つまり、ドアの下にスリッパが引っかかって、期せずしてストッパーの役目を果たしているということだろうか。内開きのドアならそういうこともあるかもしれないけれど、外開きでは可能性はかなり低い。それが成立するのは、誰かが部屋の中から無理矢理スリッパをドアの下に押し込んでいる場合だけだ。しかも、スリッパがドアを越えて部屋の外にはみ出すくらいでないと、大した摩擦力にはならない。だから、この線は却下だ。でも、そうする理由はなんだろう。カードキーを持っている父親が部屋に入ることを娘さんが嫌がっているとして、チェーンロックを掛ければ済む話だ。チェーンロックはせずに、つまり、拒絶の意思表示をせずに入らせない方法を考えたということになる。ここまで考えたところで、神野さんが坂下様に声をかけた。
「端末で部屋にいるお嬢様に連絡を取っていただけますか?」
そうだ。ぼくは考えればなんとかなると思って、行動を思いつかないことがある。さっきもそうだったが、こういうところを成長しないといけない。だが、坂下様は申し訳なさそうに
「端末は持っていないんです」
と言った。答えを聞いた神野さんは、ぼくに
「隣の部屋で念のため、スリッパをドアに挟んでストッパーになるかどうか確かめるぞ」
と言ってきた。たしかに、一応の可能性はあるので、確かめてこの線を潰しておくほうがいいだろう。神野さんがドアの内側からスリッパを押し込むと、スリッパは容易にドアを越えてはみ出した。このスリッパは薄いので、ストッパー代わりにはならないようだ。二人してまた301号室に戻った。神野さんは端末でフロントに連絡する。ぼくも顔を近づけて会話に参加する。
「うん。ハウスキーパーの二人が出て行った後、誰も入っていないよ」
帯さんの声が聞こえてくる。フロントではカードキー管理システムを観られるようになっているので、いつどの部屋にゲストやホテリエが入って出たかがわかるようになっているのだ。
「ルームサーヴィスの利用はありますか?」
ぼくが訊くと
「朝食の時だけで、それ以降はないね」
という答えだ。娘さんがいるいないに関わらず、この現象は起きていると考えたらどうだろう。ん?待てよ。さっき三根さんはスリッパの片方ではなく、一足と言わなかったか? その時、閃いた。
「わかった。空気清浄機だ」
ここで麻田くんが異議を唱える。
「え、空気清浄機ならフロントから言われていたので、消しましたけど」
そうなのか? けど、そうなると、この音の説明がつかない。それにこの音は確かに空気清浄機だ。消したつもりで消していなかったと考えざるを得ない。いまはともかくその線で対応を考えるのがいいだろう。けど、そうだとして、なぜ開かない? 考えをすすめようと窓から庭を見ると、にぎやかな声が聞こえてくる。こちらとは違って、ゲストが陽気に楽しんでいる様子が見て取れた。いくよーという声の後 ポンという音があって、きゃー、わーという歓声、つづいてパンパンと小気味よい破裂音が響く。スパークリングワインとクラッカーで、ちょっとしたお祝いのようだ。ホテルはこれでなくては、と思っていると閃いた。
「そうか、スパークリングワインのコルクが開かないのと同じ理屈ですね」
「どういうことだ」
神野さんが興味深そうな目でぼくを見ていた。
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