マサイ族の彼女になった夏④ 恋か、愛か──私が選んだもの
3日ぶりにパジェに戻った。
白い砂浜とヤシの森。やっぱりここは素晴らしい。
ホテルの門を、彼が開けてくれた。
目が合った瞬間、肌が触れていないのに、お互いの瞳の奥と心が熱くなったのが分かった。
────この高鳴りとは裏腹に、私はこの夜、ひとりで枕を濡らすことになる。
いつものように、彼は私の部屋に来てくれた。
すぐに甘い雰囲気に持っていこうとする彼に、私はどこか違和感と寂しさを感じていた。
それでも、その流れを受け入れて、二人で夜を共にした。
そのあと、トイレに立ったとき、彼の様子が少し違うことに気がついた。
これまでは彼が持っていた避妊具を使っていたが、今回は私が持ってきた日本製のものを使ったからだろうか。捨て方の形が、いつもと違っていた。
嫌な予感がして、ベッドにいる彼にスワヒリ語で尋ねた。
「ちゃんと使えた?」
すると彼は、「ok I understand」とだけ答えた。
──いや、私は質問したんだけど。
確かにスワヒリ語は、イントネーションで疑問を伝える言語だ。
私の発音が悪くて、伝わらなかったのかもしれない。
でも私は、文字が読めない彼のために、一生懸命スワヒリ語を読んだ。
少しくらい、汲み取ろうとしてくれてもいいんじゃないか。
そう思ってしまい、彼の態度に呆れてしまった。
その後どう別れたのかは、よく覚えていない。
不安を抱えたまま一人になると、強い孤独感に襲われた。
彼の香りが残る枕の温もりが、二人でいた時よりも温かく感じる。
それに気づいた瞬間、涙があふれて止まらなくなった。
気づけば夜が明けていた。
避妊が成功したのかは分からない。
もし失敗していたら──緊急避妊薬を飲むしかない。
眠れないまま、昼前に開く薬局へ向かった。
途中で、友達と歩いている彼に会った。
友達と別れたあと、彼は薬局までついてきて、「何を買ったの?」と聞いてきた。
私は袋を見せて、「これ。知ってる?」と聞いた。
彼は「うん、知ってるよ」と答えた。
──知ってるのに、その反応?
あまりのあっさりさに、苛立ちがこみ上げた。
でも、寝ていない頭では何も言えず、ため息だけついてホテルに戻った。
部屋に戻ってすぐ、薬を飲んだ。
ひとまず安心して、ようやく眠ることができた。
夜になり、また彼と会った。
昨日と今朝の出来事があって、もう身体を重ねる気にはなれなかった。
ちょうど妊娠しやすい時期でもあったので、「1週間くらいは外で話すだけにしよう」と伝え、部屋の前のベンチに座った。
しばらく話していると、彼が言った。
「ここは蚊が多い。手は出さないから、部屋で話そう」
私は思わず、「ええ…」という顔をした。
すると彼は言った。
「君は僕を信じていないんだね」
そして続けた。
「I know you don’t like baby I know. but why you don’t believe?」
私は、その感情をうまく英語にできず、言葉に詰まった。
その様子を見て、彼はそのまま帰ってしまった。
次の日、モヤモヤした気持ちのまま、ホテルの外の通りを歩いていた。
洋服屋をしている若い女性が、子どもをあやしていた。
その子と遊んでいるとき、ふと彼の言葉を思い出した。
“I know you don’t like baby”
──そんなわけない。
子どもは、可愛くて、愛おしくて仕方ない。
そう思った瞬間、涙がこぼれた。
言葉が通じなくても、その女性は優しく寄り添ってくれて、子どもは私をぎゅっと抱きしめてくれた。
そのあと私は、「なぜ彼を信じられないのか」、そして「なぜ今すぐの妊娠を望まないのか」を整理した。
自分の想いを伝えるために、スワヒリ語スピーチの日本語原稿も読もうと決めた。
どちらも、インターネットがない中で無理やり翻訳した。長い文章になった。
数日後、森の中で彼に会い、その文章を読んだ。
10分ほどかけて、慣れないスワヒリ語を読み切った。
すると彼は言った。
「言いたいことは分かった。で、なんで僕を信じられないの?」
──振り出しに戻った。
私は呆然とした。
確かに、あのスワヒリ語を理解するのは難しかったかもしれない。
でもそれ以上に、何も届いていないことが苦しかった。
一方で、彼は本当に悲しそうな顔をしていた。
涙は流していないのに、泣いているように見えた。
私は、その姿がつらくて、「抱きしめてもいい?」と聞いた。
すると彼は、「君の部屋に行ってもいい?」と返した。
もういいか、と思ってしまった。
私はそれを受け入れた。
その夜、部屋で彼を待った。
深夜だったのか、明け方だったのか、はっきり覚えていない。
彼は来て、ベッドに座った。
私は隣で横になっていた。
すると彼は、私の体に触れながら、避妊具があるか聞いてきた。
私は言った。
「ないとかあるとかじゃなくて、今はやらない」
彼は小さく落胆し、そのまま部屋を出ていった。
──何を信じてほしかったんだっけ。
「手は出さないから信じて」と言っていたのは、誰だったっけ。
その矛盾に、心の中で皮肉を言わずにはいられなかった。
次の日、カカにこれまでの出来事をすべて話した。
するとこう言われた。
「全員じゃないけど、子どもができて逃げるタンザニア男性もいる。彼はそのタイプかもしれない」
彼の味方になりやすい立場のカカがそう言うなら、もうそうなのだろうと思った。
私は、洋服屋の子どもを思い出した。
今でも彼を愛している。
でも、それ以上に大切にしたいものがある。
それは、まだ見ぬ子どもの未来だ。
もしこのまま子どもができて、彼がいなくなったら。
もし彼が、話を聞かない父親のままだったら。
もし子どもにまで「泣くな」と言ったら──
私は、その子の幸せを守りたいと思った。
彼と、別れよう。
できるだけ早く、伝えよう。
そう決めた。
