『白鳥とコウモリ』を観て数日。私はまだ、この映画の中にいる
※映画『白鳥とコウモリ』の内容・結末に触れています。
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映画『白鳥とコウモリ』を観た直後、
私がいちばん強く感じたのは、
「145分じゃ足りない!」
だった。
原作を読んでいたわけでもなく
事前に口コミを見て行ったわけでもない。
これがまず第一声。
登場人物それぞれの心の動きを、
もっと見たかった。
誰かの感情が大きく揺れて、
「あ、今この人に感情移入しそう」
「涙が出そう」
と思った瞬間、
次のシーンへ行く。
また誰かの感情が動く。
やっとその人の中に入れそうになる。
でも、また次へ。
その繰り返しだった。
最後の和真と美令のシーンもそう。
ようやく二人の気持ちを
受け止めようとしたところで、
映画は終わった。
エンドロールで流れる
大森さんの『灰色』を聴きながら、
なんとか自分の中で
最後の場面を回収しようとした。
でも、追いつかなかった。
エンドロールまで、
ものすごく短く感じた。
だから最初は、
「展開が急すぎる」
「もっと人物を描いてほしかった」
と思っていた。
でも数日経っても、
この映画のことが気になって仕方がない。
どうして、
わざわざこんな映画にしたんだろう。
考えているうちに、
少しずつ見え方が変わってきた。
もしかしたら、
私が“追いつけなかった”こと自体が、
登場人物たちの感覚に近かったのではないか。
と思った。
美令は一年後になっても、
まだ父親の死や過去を
整理しきれていなかった。
考えてみれば、
当然なのかもしれない。
ある日突然父親が殺され、
その理由を追いかけていったら、
自分が知っていた父親とは
まったく違う過去が次々と出てくる。
それまで信じていた人生が、
短い期間の中でどんどん書き換えられていく。
そんなもの、
心が追いつくはずがない。
和真も同じだったのだと思う。
父親があの事件に、
あれほど深く関わっていた。
父親を信じたい気持ち。
疑う気持ち。
過去を知りたい気持ち。
知りたくなかった気持ち。
そのすべてを抱えながら、
一緒に過去をたどったのが美令だった。
だから和真が美令を忘れられなかったのは、
単純な「好き」という感情だけではなかったのかもしれない。
あの期間、
自分がどれだけ揺れたのか。
どれだけ苦しかったのか。
その重さを、
説明しなくても分かる人。
美令にとっての和真も、
きっと同じだった。
会いたい。
でも簡単には会いに行けない。
それでも、
「あの時の自分を
本当の意味で理解できるのは、
この人しかいない」
そんな存在になっていたのではないか。
そう思って最後の二人の表情を思い出すと、
急に胸にくる。
そして、知希の存在。
彼の犯行動機は、
単純な復讐ではなかった。
「人を殺してみたかった」
そんな中で白石健介という存在を知り、
自分にとって都合のいい“理由”がくっついた。
もし知希が白石健介の存在を知らなかったら、
この事件そのものが
起きなかった可能性もある。
別の誰かが標的になっていたかもしれない。
そうなれば、
過去の事件の真実も、
ずっと封印されたままだったかもしれない。
倉木達郎は、少なくとも、
真実を明らかにしないことを選んだ。
そう考えると、
この物語では“真実が明らかになること”さえ、
単純に正しいとは言えなくなる。
真実を明らかにすることが、
必ずしも誰かを救うわけではない。
だから彼は、
誰かを守るために真実を抱え続けた。
でも、
誰かを守るために隠した真実が、
別の誰かを苦しませていた。
ここまで考えたところで、
『白鳥とコウモリ』という
タイトルの見え方まで変わった。
映画を観る前は、
白鳥=被害者側の美令
コウモリ=加害者側の和真
くらいに考えていた。
一度観た後は、
それがただ逆転した?
それとも、
白鳥=真実を明らかにすること?
コウモリ=真実を隠すこと?
色々な考察が巡った。
でも、さらに考えていると、
それさえ違う気がしてきた。
誰かが完全な白鳥で、
誰かが完全なコウモリなのではない。
白石は被害者であり、
過去には加害者でもある。
達郎は真実を隠した。
でも、
その根には誰かを守りたい気持ちがあった。
知希は過去の事件によって
家族を傷つけられた側でもあり、
自ら人を殺した加害者でもある。
美令と和真でさえ、
被害者家族と加害者家族という
最初の立場だけでは語れなくなっていく。
誰の中にも、
白鳥とコウモリがいる。
白と黒に、
きれいに分けられる人なんていない。
そこで、
主題歌『灰色』を思い出した。
この歌の中にある、
「愛してるから」と
「愛してるなら」。
父親を愛しているから、
知りたい。
愛しているから、
信じたい。
愛しているから、
守りたい。
でも、
愛している“なら”、
その人のきれいな部分だけではなく、
汚れた部分まで受け止められるのか。
そんな問いにも聞こえてきた。
美令も和真も、
真実を知ったことで、
それまで真っ白だった父親像を失った。
でも、
だから愛せなくなったわけではない。
映画を観た直後は、
『灰色』が爆音で流れるエンドロールに
気持ちがついていかなかった。
でも今、
こうして何日も考えてから思い出すと、
鳥肌が立つ。
もしかしたらこの映画は、
一度観てすべて理解するための映画ではないのかもしれない。
一度目は事件を追う。
二度目は、
人物の表情を見る。
そして映画館を出てから、
「あの人は、あの時何を感じていたんだろう」
と考え続ける。
私自身、
映画を観終わったはずなのに、
数日経った今のほうがずっと
『白鳥とコウモリ』を観ている気がする。
最初は、
「短すぎる」
「もっと見せてほしい」
と思った。
今は少し違う。
もしかすると、
足りなかったのではなく、
“足りないまま”渡されたのかもしれない。
登場人物たち自身が、
まだすべてを整理できていないように。
観客にも、
すぐには答えを出させない。
白か黒かを決めさせない。
その間にあるものを、
自分で考えさせる。
だからきっと、
『白鳥とコウモリ』なのに、
最後に残る色は
「灰色」なのだと思う。
ここまで考えた今、
もう一度、
この映画を観たい。
今度は事件ではなく、
一人ひとりの表情を
じっくり見ながら。
ここまで読んでくださり
ありがとうございます🎬️

