七夕の歩幅 1500字バージョン
約1500字・ショートショート
子供の頃から、七夕の願い事はひとつだけだった。
『翔真に追いつけますように』
幼馴染の翔真は、いつも私の三歩先を歩いている。
夕焼けに染まる帰り道。
彼の背中からは、ほんのり汗とシャンプーの混ざった匂いがした。
生まれつき歩幅の狭い私は、その背中が遠ざかるたび、胸がちくりと痛む。
置いていかれたくなくて、必死にスニーカーの紐をきつく結び直す。
それが、私の癖だった。
高校生になった、今年の七夕の夜。
地元の小さな神社の境内で、私は翔真と待ち合わせをしていた。
浴衣の裾を気にして、少し遅れてしまう。
息を切らせて境内に駆け込んだけれど、そこに彼の姿はなかった。
スマホの画面に、短いメッセージが届いた。
『急な用事ができた、ごめん』
ぽつり、と胸の奥に寂しさが広がる。
ふと、空をみあげると、夜風に揺れる笹の葉のなかに、一枚だけ、見慣れない透明な短冊が紛れていた。
星屑を溶かして固めたような、ひんやりとしたアクリルの短冊。
そこには、綺麗な文字が書かれていた。
『一歩を、星の距離に』
切なさに背中を押されるようにして、私はいたずら心でその短冊に触れてしまう。
その瞬間、世界がぐにゃりと歪んだ。
悲鳴は、喉に張りついて出なかった。
ふらつくように右足を一歩、踏み出す。
次の瞬間、足の下にあったのは境内のコンクリートではなかった。
赤茶けた、冷たい砂。
火星だ。
理科の教科書で見た光景が、目の前に広がっている。
パニックになって、もう一歩。
今度は、白く光り輝く土星の環の上だった。
さらにもう一歩、踏み出す。
息が詰まるほど濃密な、群青色の天の川のど真ん中へ、私は躍り出ていた。
宇宙を数歩で旅する、神様のような力。
けれど、私の心を支配したのは、喉をかきむしりたくなるほどの恐怖だった。
無音の静寂。
自分の心臓の音だけが、耳の奥でうるさいほどドクドクと響く。
身体の芯まで凍りつきそうな、暴力的な冷気。
きらめく星々はあまりに眩しかったけれど、私を歓迎してはくれなかった。
ただ冷たく、遠くで光っているだけ。
(嫌だ、怖い。翔真のいない世界は、こんなに寒いんだ――)
涙がこぼれた。
それはまたたく間に凍りついて、白い粒になり、頬を刺した。
私はただ、あの夕焼けの匂いが恋しかった。
私の遅い歩みに呆れながらも、いつも振り返って待ってくれた、あの不器用な優しさに触れたかった。
「翔真……!」
声にならない叫びとともに、地球があるはずの方向へ、がむしゃらに足を一歩踏み出す。
視界が激しく回転した。
気がつくと、私は神社の境内に尻餅をついていた。
じわりと、アスファルトに残る昼間の夏の熱気が、浴衣を通して身体に伝わってくる。
どこからか聴こえる、風鈴の音。屋台のソースの匂い。
夢……だったのかな。
「おい、大丈夫か!?」
頭上から、焦ったような声が降ってくる。
聞き慣れた、大好きな声。
見上げると、息を激しく切らせた翔真が立っていた。
用事を片付けて、全力で走ってきてくれたのだ。
彼の額からは汗が流れ落ち、胸が大きく上下していた。
「悪りぃ、待たせた。……って、なんで泣いてるんだよ」
翔真は困ったように眉を下げると、しゃがみこんだ。
そして、私の泥だらけの手を、ぎゅっと握りしめる。
彼の大きな手は、火傷するほどあたたかかった。
その体温が、宇宙の冷気に凍りついていた私の心を、ゆっくりと溶かしていく。
大きな歩幅なんて、何の意味もなかった。
この狭い歩幅でいい。
不器用にしがみつきながら、世界で一番あたたかいこの手の隣を、ゆっくりと歩いていくこと。
それこそが、私にとっての、宇宙で一番の贅沢なのだから。
私は握り返した手に力を込める。
きっと赤くなっている頬を隠しながら、今度こそ一歩、歩み寄った。

