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江戸・明治に学ぶ、集まる楽しみ(待ち遠しい年中行事)

「集まること」が江戸・明治時代の人口の大多数を占めた村人たちの楽しみの出発点でした。近所で集まる(交通手段は徒歩ですから)、おしゃべりをする、歌い踊る、手軽な楽しみ方ですね。

いつも村で暮らしていた彼ら彼女らは、年中行事を待ちこがれていました。年に一度の鎮守の祭りだけでなく、ほぼ毎月、さまざまな行事で集まり楽しんでいたのです。ヘッダーの写真は横浜の新年の挨拶(1905年)。



1.年中行事が多い日本

私が日本語を教えているアメリカ人生徒は、「日本はイベントが多い。次々とイベントがある」と感心しています。

お正月が終わったら節分、ひな祭り、お花見。コンビニの陳列を見て気づいたそうです。販売戦略かもしれませんが、日本では昔から行事=集まる機会が多いのです。

ちなみに、アメリカでは、クリスマス、イースター、ハロウィーンを祝いますが、日本ほどは陳列の変化が目立たないとのことでした。

日本は世界的にみても年中行事が多い国だそうです。

前の記事で取り上げた祭りは神事、年中行事のひとつです。
他にも、盆や彼岸などの仏教行事、節供や月見のような宗教色が強くない行事があります。

祭りは村単位、正月やお盆は他家も回る地域単位の行事でしたが、節供のような家単位・一族単位の行事もありました。

お盆で相互訪問する人々


2.江戸・明治時代の人たちにとっての年中行事

エンタメが少なかった当時の人たちは、年中行事を指折り数えて待ちました

私たちは「今日はパーッと行こう!」と気分転換できますが、彼ら彼女らにとっては、それが年中行事(盆正月や祭りなど)や通過儀礼(結婚式など)だったのです。

行事にかける時間は長く、その回数も多かったのです。いつも、当時は時間の余裕・心の余裕があったのだと思います。
加えて、先祖代々が住んできた村は、アメリカとは違って、みんなが顔見知り。集まりやすい集団でした。

民俗学の創始者・柳田國男(1875-1962)は、次のように書いています。

一年は三百六十五日、その三百日余はただの日、またはフダンの日といって、きまった仕事をくり返し、忘れて過ぎて行くのをあたりまえのように思っている中に、特に定まったある日のみは、子供が指を折って早くから待ち暮し、親はそのために身の疲れもいとわず、何くれと前からの用意をして、四隣郷党一様に、和やかにその一日を送ろうとする。これが今日いうところの民間の年中行事であった。

柳田國男[1955]『年中行事覚書』、講談社


3.村の年中行事

正月、盆、祭りが三大行事です。他に、節供や農作業の打ち上げなどがありました。

千葉県流山市の吉野家の日記をもとに紹介します。
吉野家は百人に満たない小規模な村の名主でした。

元旦、村人は鎮守に集まり年始の挨拶。翌日からは親戚縁者への年始回りですが、なんと2月初めまで続きました。親戚縁者も年始にやってきます。
この間、小正月の祝い、若者組や子ども組の泊まり込みの集まり、田んぼへの初鍬入れや蔵開きといった儀式もありました。
薪集めや藁仕事はしたのですが、農作業はほとんどありませんでした。農閑期です。
正月休みは特別で約1ヶ月、待ち遠しい気持ちがわかります。

2月は初午、馬繕い、災厄の村への侵入を防ぐ辻切り、3月は節供と彼岸、4月は花祭り(灌仏会)でお寺へ、5月は節供、6月は早苗振(田植えの打ち上げパーティー)、うどんパーティー、7月は雨乞いのお参りに行く人の歓送迎会とお盆。お盆は7月13日から18日頃までで他家の仏壇にも参ります。

稲を刈って9月は鎮守の祭り、10月は日待(ひまち)、11月は年貢皆済の日待、12月は餅搗き。日待は朝陽が上がるまで行うパーティーです。

仕事は禁止にして、行事を執り行います。
子どもの頃に早苗振に参加したご婦人の話をうかがいました。アルバイトを含めて田植えに携わった人たちが集合し、食べて歌う楽しい会だったそうです。親が楽しんでいたから、子どもにも伝わったのでしょうね。


地域ならでは行事としては、幕府の馬牧場(小金牧)での馬捕り見物、名刹・東漸寺の御忌祭りの見物に出かけました。

さらに臨時の行事(相撲興行など)や通過儀礼(出産祝いや結婚式など)も加わります。旅行へも行きます。伊勢などへの長旅に発つのもこの季節。そのうえ「兎を三匹捕ったので休日」という記載まであります。 

農作業でへとへとだと、こんなに行事をこなせません。

各地の年中行事は市史や町村史としてまとめられているので、住んでいる地域の行事がわかりますよ。(松本盆地では、行事の時に数発の花火を上げるのが特徴。文化祭で花火を上げる高校もあります。驚きました。)

 
以下に吉野家のお正月(1851年)を詳細に紹介します。
お時間がありましたら、目を通してくださいね。

元旦は例年の如く、鎮守参詣、村人との相礼からはじまりました。菩提寺にも参ります。

2日からは年頭挨拶の来客。数が多いのか、3人の名前をあげたあとは“所々より”と記されています。年始の挨拶は2月10日まで続きました。
名主も挨拶に出かけています。スタートは、母の親戚がいる柏でした。

9日:鎮守奉謝。村人・重三郎さんの家で催行。酒食付きだと思います。また、〝若者共、日待似宿治三郎〟との記載があり、若者組は別の家で集まっていました。若者組が名主を招待した年もあったのですよ。

10日:村人の家に茨城県から来客。声がかかった名主は、昼から出かけました。会がおわったのは夜4つ半(10時半ごろ)。タフですねえ。

11日:蔵開き。蔵を開けて子どもたちに振る舞いをしたと思われます。〝田畑耕始〟も、この日。豊作を願う年中行事です。(大阪では田の神に扮した男が喜劇を演じていました。杭全神社の御田植神事は、1月13日の夜中から朝方にかけて行われ、面をつけたシテは鍬を入れたり、田の神と考えられる市松人形に食事や小便をさせたりする田遊びを行っていました。農耕のはじまりを祝う行事て、いまも全国各地に残っています。)

12日:村の奥様がたから年始の挨拶を受けました。戸主の年始が少し落ちついてから主婦たちの年始が行われます。

14日:〝例の通り、若餅つき、松飾取り払い〟と書かれていて、翌日の小正月の準備です。当時の最高のごちそう=餅を作ります。15日は〝例の通り、村方の者共、礼に来る〟とあり、小正月の挨拶に村人たちが来たようです。

19日:〝例の通り、宵盛、宿重三郎〟とあります。重三郎さんの家で翌日に行われる山王様奉謝の前夜祭です。

20日:〝例の通り、山王奉謝、宿重三郎〟とあり、重三郎家は賑やかですね。宿(主催者であり開催場所)は輪番です。流山市では現在も御奉射(おびしゃ)神事がこの時期に行われ、五穀豊穣を祈願して弓を射ます。同様の神事だったのかもしれません。

21日:〝例の通り、昼より休日〟と書かれているので、山王奉謝のお疲れ休みかと思いきや〝夕、辨天講 宿予〟と書かれていて名主の家で講(弁天様を信仰する集まり)が開かれました。

22日:〝夜夷講〟とあり、講の集まりは続きます。元気です、遊びすぎだと思います。

23日:名主は出府、翌日20時ごろ(五つ頃)帰宅。江戸にいる領主(旗本)や親戚への年始挨拶、なじみの店への挨拶だったと思いますが、大都会で羽根をのばしていたのかもしれませんね。正月ですから。

25日:天神奉謝。天神様は学問の神様。読み書きそろばんの上達を願う子どもたちの泊まりがけの行事・天神講だったと思います。
天神講は全国的に行われていました。若者は若者で、子どもは子どもで、お泊まり行事があるのが当時の特徴です。

28日:〝例の通り、中寺本尊へ神酒壱樽上る〟とあり、菩提寺の縁日にお酒を持参します。お寺へもお神酒をあげるのが神仏習合の時代らしいですね。

参考:『流山市立博物館編 [1995]『流山市史 近世資料編Ⅴ』流山市教育委員会

「例の通り」との記載が多く、毎年毎年、顔見知りと同じように行事をこなしていたのがわかります。
しかも、1か月の農休み。私がそんな生活をしたら、正月ぼけから抜け出せないでしょうね。

みなさんも、そんなに行事があるのか、そんなに人が訪ねてくるのか、そんなに集まるのか、と思われたかもしれませんが、私は農繁期と農閑期(正月)のメリハリがハッキリした上手な休み方、楽しみ方だと思います。
みなさんは、どう思いますか?

吉野家がある地域。現在は宅地開発が進んでいます。


4.年中行事の価値

正月は特別として、年中行事の日を月に一度ぐらい決め、その日は盛り上がりストレスを解消し、そして、また普段の生活に戻る、というのが江戸・明治時代の人たちのスタイルでした。

年中行事には実務的・実用的な目的はありません。神仏・祖霊への感謝が第一、地域・親族の親睦が第二の目的なのです。今風にいうと「余白」でしょうか。

実務的な目的はなくても、年中行事には価値があります。三郷村(現長野県安曇野市)の村誌には、追憶的に記載されています。長い引用なので、私が注目した部分を太字にしました。

 自然の営む春夏秋冬の季節の変化を、人間の生活を区切る節として、暦を活用して四季折々の行事を設定し、労働に明け暮れる人々の日常生活の中に、休養を巧みに取り込む形で年中行事がなされてきた。同時に、生産活動に従事する日常生活の連続を断ち切る形で、非日常的な祭りを催すことにより、生活にめりはりをつけて、緩急自在な生活のリズムを生み出してきた。これにより、人間の生活機能は、順調に運営され進展してきたことが理解できる。

 こうした日常生活の様子を一般に、「褻(け)」と呼び、褻を断ち切る非日常生活の様子の現われを、「晴れ」と称している。神社の祭礼などはもとより晴れの一面ではあるが、その基盤となっているのは、季節の移り変わりごとに設定された年中行事の儀礼にあるといえる。民間信仰の晴れの最初の姿をそこにみることができ

 新玉の年の初めに、今年こそはよい年でありますようにと祈り、雪と氷に閉ざされた寒い冬は、暖をとって体を休ませながら春を待ち、若草の萌え出づる春に夢を膨らませる。暑い夏空の下では、汗を流してせっせと働き、秋の実りが多ければ大いに喜び、実りが少なくても、これも神の思し召しと感謝する。そして、いつかはよい日が来ると信じて、神や先祖の霊の導きに背かぬよう精進し、必要以上に多くは望まず、日々の糧を求めて労働に励み、朝な夕なに、命あって生かされていることを感謝する

 ふだん、こうした生き方をしていた人々が、貧しくて不便な過去の生き方をまったく否定し、豊かさと便利な暮らしをもっぱら快適なものとして、これぞ新時代にふさわしいもの、「時は金なり」とばかりに自然の流れに棹(さお)さしている。享楽と飽食に走る中で、何時しか年中行事も忘れ去られ、合理主義の中に民間仰も呑み込まれて消え入りそうな状況のこのごろである。

三郷村誌編纂委員会編[2004]『三郷村誌Ⅱ第五巻民俗編』、3章こころの風景、三郷村誌刊行会

著者は年中行事が失われていくことを嘆きますが、農林水産業を生業とする家が減り、国際競争にさらされて、地域外だけでなく海外にも目が向けられている今では、やむを得ない流れだと思います。私たちは忙しいのです。

年中行事が失われていくことは柳田の時代から指摘されています。彼は、多くの時間が生産にむけられるようになり、祭りと盆正月以外の行事は小型化され消滅している、と指摘しました(『年中行事覚書』)。

また、柳田は年中行事を家々が大切にしている行事としています。
〝たいていは一つの大きな家、または神社とか寺とかにおいて、必ずこれだけのことは守って続けて行かなければならぬということを、ただ忘れぬように書き留めておいたものである〟と同書に記しています。

私は、家族で「正月かお盆」などと集まる日を決めるだけでもよいと思います。それでも、「時は金なり」の価値観をしばし離れ、「生かされていることの感謝」の心持ちを共有できるのではないでしょうか。
特定の祭りや花火など、家族そろって毎年出かける行事(地域の行事)があれば、なおよいと思います。

数ある年中行事は、祖先から受け継いだ価値ある仕掛けだと思います。
生かすも殺すも私たち次第ですね。



まとめ

江戸・明治時代の人たちは、ほぼ毎月ある年中行事をうまく使ってストレスを発散し、次の行事を楽しみにして、また働きました。切り替えが上手なのです。
私たちは実用的でないのに集まることを嫌います。また、私たちはハレの日ばかりで刺激に慣れすぎていると思います。豊かなのです。しかし、ハレの日を絞って、一点豪華主義で楽しむのもよいのではないでしょうか。特に、お金は十分でなくても人生を楽しみたい私のような人には適していると思います。


江戸明治に学ぶ、集まる楽しみ(さまざまな集まり)


出典:『定年後を豊かにするシンプルライフ』ごきげんビジネス出版


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