短編小説「小さな傘の下で」
土曜日の夜。
退勤の打刻をして、更衣室で着替えているときから、嫌な予感がしていた。
バイトに来るときはあんなに晴れていたから、大丈夫だと信じたい。
ロッカーの扉をパタンと閉め、更衣室を後にする。
階段を降り、ガラスのドア越しに外を見た私は、思わずため息をついた。
嫌な予感は、見事に的中した。
ザーッという轟音とともに、大粒の雨が降りしきっている。
スマホを取り出して天気を確認すると、明日の朝まで雨は続くようだった。
止む気配は、全くない。
なすすべもなく、私はドアの前に立ち尽くした。
「…高宮さん?」
聞き覚えのある声がして振り返ると、折りたたみ傘を片手に、不思議そうな顔をした修也さんが立っていた。
「修也さん…」
「もしかして、傘、忘れたの?」
彼の言葉に、私は首を縦に振った。
「あれまぁ、今日、夜から雨降るって予報だったじゃんか」
「だって、昼間はめちゃくちゃ快晴だったじゃないですか。こんな急に降るなんて…」
私がぶつぶつ言っている間に、修也さんは折りたたみ傘のカバーを外し、傘を開いた。
「家までここから10分ぐらいだろ、送っていってやるよ」
俺も傘これしか持ってないから入れてくれ、と彼は付け足した。
「え!? いや、そんな、申し訳ないですよ」
「いいって、コンビニも近くにないのに、傘なしでどうやって帰る気なの」
確かに、それはそうだ。
バイト先から自宅までは徒歩15分ほどとはいえ、この大雨の中を傘なしで帰るのは無理がある。
「…じゃあ、お言葉に甘えて…」
修也さんをちらりと見ると、彼は「だよな」と笑った。
その笑顔に、胸が高鳴った。
修也さんは、バイト先の一つ上の先輩だ。
私が入ったばかりの頃、彼は私の教育係に任命された。
それがきっかけで話すようになった。
聞き上手で優しい彼は、よく私の話し相手になってくれた。
いつも相槌を打ちながら聞いてくれるし、そこから話題を広げていくのも上手だった。
他愛のない話も、真剣な相談も。
気づけば私は、何でも彼に話すようになっていた。
それに、私が困っていると、すぐに気づいて助けてくれる。
彼の優しさに触れるたび、胸がきゅっとなって、すごく嬉しかった。
―これって、恋なのかな。
そんな気持ちが、私の中で浮かんでは消えて、を繰り返していた。
*
外に出ると、かなりの土砂降りだった。
修也さんがドアの前で傘を開き、私の方に差し出す。
彼は右側に入り、傘を支えている。
私は空いている左側に入った。
「折りたたみだから、ちょっと狭いけど」
彼の言葉通り、折りたたみ傘は2人で相合傘をするには小さすぎた。
傘に収まりきらない私の左腕に、雨粒が少し当たる。
2人はゆっくりと歩き出した。
一向に雨が止む気配はない。
降り止まない雨は、ザーザーと音を立てながら、地面に水たまりを作っていく。
時折、私の右肩が修也さんの左腕に触れた。
ドキドキしながら彼の方を見る。
私の視線に気づいた彼は、傘を私の方へ少し傾けた。
「ごめんごめん、濡れちゃうよな」
「や、私は大丈夫ですよ! これだと、修也さんが濡れちゃう」
「俺は別にいいよ、帰ってすぐ風呂入るし」
私は顔を赤くしてうつむいた。
それからずっと、彼は傘を私の方に傾け続けてくれていた。
心臓が速く脈を打っている。
私は服をぎゅっとつかんで、胸元を押さえた。
もう一度彼の方を見る。
彼は、何か言いたげな表情をしていた。
視線を泳がせている彼と、目が合う。
「…めちゃくちゃどうでもいいことなんだけど」
修也さんはためらいがちに切り出した。
「…俺、この前、彼女と別れたんだよね」
「…え!?」
思わず足が止まった。
傘から大きくはみ出した私の体に、雨が降りかかる。
彼女、いたんだ。
けど、別れたんだ。
ショックなような、でも、少しほっとしたような――いろいろな感情が、一気に押し寄せてきた。
私が立ち止まったことに気づいた修也さんは、「おっと」と少し後ずさりして、傘を私の方へ向けた。
「…彼女さん、いたんですね…」
私がそう言うと、修也さんはどこか寂しそうに笑った。
「…2年付き合ってたよ。なんか、もう好きじゃなくなったとか言われて、振られた」
話しながら、2人は再び歩き出した。
「今日も、本当は彼女の誕生日だったんだけど…振られちゃったからさ、バイト入れたんだ」
はは、と彼は笑った。
「…高宮さん、いつも俺にいろんなこと話してくれるじゃん?」
「だから、俺も話そうと思って」
私は何も言えず、ただ修也さんの持つ傘の柄を見つめていた。
しばらく歩いたところで、私は口を開いた。
「…修也さんは、優しい」
「…え?」
「誰に対しても優しいです。だって、彼女でもなんでもない私が傘なくて困ってたら、助けてくれたじゃないですか」
慰めたい。
励ましたい。
そんな気持ちで出てきた言葉だった。
けれど、自分でも何を言っているのか、よく分からなかった。
「…私でよければ、いつでも話聞くので」
修也さんは一瞬、驚いたような表情をした。
けれどすぐに、ふっと微笑んだ。
「…ありがとう」
彼は、それ以上何も言わなかった。
*
ザーザーという雨の音だけが、辺りに響いている。
さっきよりも、雨足が強まってきたようだった。
「雨、強くなってきたぁ」
修也さんは空を見上げながら、困ったように表情を曇らせた。
次の瞬間、
バシャッ。
1台の車が水しぶきを上げて、私たちの横を通り過ぎた。
「やばい、高宮さん、こっち」
彼はそう言うと、私の肩を持って軽く引き寄せた。
雨で濡れた服の袖が、腕にまとわりつく。
肩に触れた彼の手から、体温がじわじわと伝わってくる。
引き寄せられた私はバランスを崩し、彼の胸に寄りかかる形になった。
雨の匂いの中に、彼の柔軟剤の香りがふわりと漂っている。
「大丈夫?濡れなかった?」
彼の言葉に反応できず、私はただ顔を真っ赤にして固まっていた。
修也さんははっとしたように手を離した。
「あ…ごめん」
彼は少し恥ずかしそうに、傘を持っていない方の手で口元を覆った。
何、今の。
あまりにも距離が近すぎた。
雨の音に負けないくらい、心臓の音がうるさい。
彼の方をまともに見ることができず、私はうつむいたまま歩き続けた。
*
それからしばらく、沈黙が流れた。
傘を打ちつける雨粒が、二人の頭上でぱちぱちと音を立てている。
「…あ、私の家、そこのアパートなんで」
気づけば、自宅のアパートのすぐそばまで来ていた。
私は顔を上げ、アパートを指さした。
「…そっか、じゃあ、このへんで」
「ありがとうございました」
私は軽く頭を下げて、傘から出ようとした。
そのときだった。
「…待って」
修也さんが、今度はしっかりと私の腕をつかんだ。
「…今日、バイト入れて良かった」
彼は少しだけ笑った。
「高宮さんが話聞いてくれて、元気出た気がする。ありがと」
そう言って、彼は私の腕をゆっくりと離した。
私は顔を赤くしたまま、黙ってうなずいた。
「…じゃあ、お疲れ様」
「…お疲れ様です」
私は彼に手を振り、アパートの軒下へ駆け込んだ。
そこから、もと来た道を引き返していく彼の背中を、じっと見つめていた。
雨で濡れた体は、かなり冷えている。
なのに、頬だけがじんわりと熱かった。
さっきまであれほど激しく降っていた雨は、いつの間にか小雨になっていた。
