「自分にできること」から考えていいのだろうか~令和8年熊本地震への支援を見て
令和8年熊本地震が発生してから、さまざまな支援について報じられるようになりました。
募金や物資の提供だけではなく、被災地の地場産品を購入したり、ふるさと納税を利用したりすることも「支援」の一つとして紹介されています。
そんな報道を見ていて、私は少しだけ違和感を覚えました。
もちろん、地場産品を購入することや、ふるさと納税を利用することが被災地の役に立たないと言いたいわけではありません。むしろ、地域の産業や自治体を支えるという意味では、確かな効果があるのだと思います。
ただ、「支援」という言葉だけで一括りにしてしまってよいのだろうか、という感覚が残りました。
以前、ふるさと納税について記事を書いたことがあります。そのとき、ふるさと納税は利用者にとって、純粋な「納税」というよりも、「地場産品がもらえる節税制度」として機能している面もあるのではないか、と考えました。
そう考えると、たとえば1万円分の地場産品を購入するのであれば、その1万円をそのまま募金すれば、より大きな金額が支援に回る可能性があります。
ふるさと納税についても、同じことが言えると思います。
もちろん制度を利用することによって自治体にお金が入り、地域産業への需要が生まれるという効果はあります。それでも、「支援する側も何らかの対価を受け取る」という支援の形に、私は少し引っかかりました。
そこで、生成AIに壁打ちをしてみました。
ここでいう壁打ちとは、AIに自分の考えを話してみて、別の視点や意見をもらいながら考えを整理していくことです。
今回は、被災した人たちへの支援にはどのような形があり、それぞれがどのような作用をもたらすのか、そして被災した人たちの心理にどのような影響を与える可能性があるのかというところまで、整理してみました。
すると、自分が最初に感じていた違和感とは別の側面が見えてきました。
たとえば、ふるさと納税には、自治体にお金が入るというだけでなく、地域産業への需要や地域ブランドの維持、将来的な観光や消費への広がりといった効果も考えられます。
地場産品や特産品を購入することも、単純に商品を買うだけではありません。
その売上は企業や生産者の収入になるだけでなく、流通業者の利益にもつながります。地域企業が雇用を維持することにつながったり、生産設備の復旧資金になったりする可能性もあります。
つまり、「支援者が商品を受け取るから支援として不純だ」と単純に考えることはできないのだと思います。
一方で、AIから示されたある指摘には、少し驚きました。
それは、「被災地の商品だから買おう」という気持ちが過剰になると、被災地側に「売らなければならない」というプレッシャーが生まれる可能性がある、というものでした。
確かに、報道でアンテナショップの商品が売り切れたという話を見たときには、「それだけ多くの人が被災地を応援しているのだな」と感じました。
でも、在庫があるうちはよくても、在庫がなくなり、新たに生産しなければ商品を用意できなくなった場合はどうでしょうか。
災害によって生活そのものが大きく変わっている中で、「もっと作らなければ」「期待に応えなければ」と感じる生産者がいたとしたら、応援する側の善意が、意図せず負担になる可能性もあります。
もちろん、実際にどの程度の負担が生じるのかは、個々の状況によって違うでしょう。
それでも、「支援する側にとって良いこと」と「支援される側にとって良いこと」は、必ずしも完全に一致するわけではないのだと気づかされました。
また、地場産品や特産品を扱っている企業や生産者には支援が届きやすくても、そうではない企業や事業主には、同じ形では支援が届きにくいという点もあります。
「被災地の商品を買う」という支援だけを考えていると、どうしても支援の対象が限定されてしまいます。
そして、もう一つ印象に残ったのが、「励ますことが必ずしも支援ではない」という考え方でした。
災害によって、家を失う。
財産を失う。
仕事を失う。
家族との関係が変わる。
地域のコミュニティが壊れる。
これから先の生活が見えなくなる。
そんな状況に置かれている人もいるはずです。
災害は、本人の意思とは関係なく突然起こります。自分ではどうすることもできない状況に置かれることで、強い無力感を抱くこともあるでしょう。
そんな状態にある人に対して、外から「頑張ってください」と声をかけることは、励ましになる場合もある一方で、場合によっては追い打ちになってしまうこともあるのかもしれません。
そう考えると、支援を「どれだけ純粋な善意で行ったか」という尺度だけで考えるのは、少し違うように思えてきました。
むしろ、支援する側の満足感と、被災した側の心理的な負担。
支援者側に生まれるメリットと、被災地側に生じる利益。
その両方を考えながら、「被災地側の負担ができるだけ小さい支援」を考えることも大切なのではないでしょうか。
少し言葉遊びのように聞こえるかもしれませんが、「何もしない」ということも、場合によっては「邪魔をしない」という支援の一つなのかもしれません。
発災直後は、「自分にも何かできることはないか」と考えます。
私自身も、何か行動しなければと思ってしまいます。
けれども、今回考えてみて、「自分にできることは何か」だけではなく、「被災地は今、何を必要としているのか」と考えることも大切なのだと感じました。
生成AIとの壁打ちを通して、私は支援について考えるための、いくつかの軸も得ました。
一つ目は、被災者中心で考えること。
二つ目は、被災者自身が使い道を決められるような自己決定を尊重すること。
三つ目は、支援者側にもメリットがある支援を、必ずしも悪いものと決めつけないこと。
四つ目は、支援によって別の負担や悪影響が生じていないかを見ること。
そして五つ目は、「自分にできること」から考えるのではなく、「被災地に今必要なこと」の中から、自分には何ができるのかを考えることです。
どれも特別に難しい考え方ではありません。
それでも、これまで「支援する」という言葉からあまり意識していなかった視点でした。
今回の壁打ちでは、経済的な支援を中心に考えましたが、もちろん支援にはそれ以外にもさまざまな形があります。
今回考えたことだけで、支援の在り方について答えが出たわけではありません。
むしろ、支援とは何なのかを考え始めるための視点が少し増えた、というくらいなのだと思います。
また別の機会に、今度は経済的な支援以外の形も含めて、支援することと支援されることについて考えてみたいと思っています。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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