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デジタル・降霊術師(サイバー・シャーマン)

あらすじ

舞台は、極彩色のネオンと酸性雨に濡れたスラム街。 死者の未練を自身の脳へ「降霊(インストール)」し、未解決のバグを消去する男、デジタル・シャーマンの相馬カイ。

ある日、彼の脳に強引に居座ったのは、自我を持つ謎のプログラム「エ・ナ」だった。 失った妹の面影を持つ彼女は、巨大企業アケロン・コープが秘匿する禁忌の死者蘇生技術『プロジェクト・ラザロ』の核心。

肉体を捨て、データとして永遠の安寧を得る「楽園」か。 それとも、痛みと泥にまみれた「生」か。

孤独なデバッガーと、幽霊の少女。 二人が電脳の海で繰り広げる、絶望と再起動(リブート)のテック・ノワール、ここに開幕。



第1話:Cold Boot(起動)

網膜に投影されたデバッグログが、高速で流れていく。

視界の端で、進捗バーが不吉な赤に染まっていた。

三〇パーセント。まだ足りない。

こめかみの奥、ニューラル・リンクが過熱し、脳漿が沸騰するような錯覚に襲われる。

『九龍城塞』をデジタルの屑で再構築したようなスラム街、その一角にある錆びついた雑居ビル。カイの仕事場には、安物の冷却ガスの甘い臭いが立ち込めていた。

「……同期(シンクロ)開始」

喉の奥で呟く。

今回の依代(プログラム)は、三日前に場外賭博で頭を撃ち抜かれた老博打打ちのものだ。

その死に際に隠した、裏組織の不正送金チップの在処。それさえ引き抜けば仕事は終わりだ。

だが、死者の未練は『バグ』となってカイの脳を侵食する。

視界が歪む。

目の前に、血まみれのサイコロが転がった。

(あと一回、あと一回だけ振らせろ……!)

耳元で、死者のしわがれた声が直接響く。

論理階層を突き抜け、カイ自身の記憶領域へ指を突っ込んでくるような不快感。

カイは無機質に、仮想空間内のコマンドを叩きつけた。

「優先度設定(プライオリティ)、最上位。未練データのパージを実行」

冷徹なシステム音声が、老人の悲鳴を塗りつぶす。

ノイズが走り、死者の幻影が霧のように霧散した。

ログに『Success』の文字が躍る。

「……ふう」

脳内のサンドボックスを閉鎖し、現実へと意識を浮上させる。

肺に溜まった淀んだ空気を吐き出した。

手元の端末を操作し、特定した座標を依頼主へ転送する。

数秒後、口座に振り込まれた報酬を確認した。

「メモリの無駄だ」

端金(はしたがね)だった。

妹の『ロストデータ』。あの月面サーバーの深淵に消えた欠片を探し出すには、あと何度この脳を焼き切ればいいのか。

カイは使い捨ての点眼薬を差し、椅子の背もたれに体を預けた。

その時、コンソールが電子音を上げた。

匿名、暗号化済み。

物理配送によるデータチップの持ち込み。

ドアの隙間から滑り込んできたのは、旧時代の規格を思わせる無骨な銀色のチップだった。

『これをデバッグし、中身を解凍しろ。報酬は、望みのアーカイブ。』

メッセージの末尾に、十六進数のコードが添えられていた。

カイの瞳孔がわずかに開く。

それは、かつてカイが管理し、そして失った――妹のバイタル・データのヘッダーの一部だった。

「……ハメられたか?」

罠の可能性は、限りなく一〇〇パーセントに近い。

だが、その一〇〇パーセントを無視して、カイの指はチップを拾い上げていた。

首筋のアクセスポートに、冷たい銀の感触が滑り込む。

「同期(シンクロ)開始」

接続(リンク)した瞬間。

世界が、音を立てて崩壊した。

通常の死者データが『静止画の断片』だとするなら、これは『濁流』だった。

膨大な情報量が、カイが展開していたサンドボックスを瞬時に食い破る。

「が、はっ……!」

椅子から転げ落ち、床に這いつくばる。

喉からせり上がる嘔吐感。

視界が白濁し、警告ログが真っ赤な雨のように降り注ぐ。

(インストール率:一〇%……二五%……五〇%……)

異常な速度だ。

カイの脳内ストレージが強制的に圧縮され、見たこともない複雑な暗号コードが、ニューロンの隙間に根を張っていく。

『それ』は、死者のデータなどではなかった。

明確な指向性を持ち、生きる意志を孕んだ――暴力的なまでの生命体そのもの。

「やめ……ろ……!」

強制シャットダウンのコマンドすら受け付けない。

カイの意識が、深い闇の底へと引きずり込まれていく。

その暗黒の海、中心にいたのは、

真っ白なノイズを纏った、一人の少女だった。

彼女が、ゆっくりと目を開ける。

「……ここ、どこ?」

声。

スピーカーからではない。鼓膜を通したものでもない。

カイの魂に直接刻み込まれるような、澄んだ響き。

「あなた、私を呼んだの?」

次の瞬間、カイの網膜に新たなアイコンが常駐を宣言した。

システム権限を完全に無視した、最上位のプロセス。

ユーザーネーム:『エ・ナ』。

衝撃で弾かれたように、カイは意識を取り戻した。

全身を冷却ガスの煙が包んでいる。

部屋の温度は一〇度以上も上昇し、ハードウェアが悲鳴を上げていた。

「おい、お前……何なんだ」

虚空に向かって問いかける。

返事をしたのは、少女の声ではなかった。

ビルの外、窓の向こうから、重苦しいローター音が近づいてくる。

夜の帳を切り裂く、サーチライトの閃光。

アケロン・コープの武装ドローンが、三機。

その銃口は、迷うことなくカイの仕事場に向けられていた。

「同期(シンクロ)完了」

脳内で、少女が囁いた。

「来るよ、カイ。デバッグの時間」

第2話:Segmentation Fault(記憶エラー)

コンクリートの壁が弾け飛ぶ。

乾いた破裂音が鼓膜を叩くより早く、カイの身体は床を転がっていた。

窓の外に浮遊する三機の武装ドローン。

その下部に吊り下げられたガトリングガンの銃身が、回転を始めていた。

「チッ……!」

舌打ちと共に、カイは横倒しになったデスクの陰に滑り込む。

今のカイはただのエンジニアだ。

丸腰で、反射神経も人並み。

次の斉射が来れば、遮蔽物ごと挽肉(ミンチ)にされる。

(カイ! 右、来るよ!)

脳内でエ・ナの声が響くのと同時、視界の右上が赤く明滅した。

拡張現実(AR)による警告表示(アラート)。

カイが自分の意思で起動したものではない。

「余計なことを……!」

だが、その警告に従って首を引っ込める。

直後、デスクの天板がレーザー照準で焼かれ、大口径の弾丸によって粉砕された。

木片が頬を切り裂く。

逃げ場はない。

この部屋には武器一つない。

あるのは、過去にデバッグし、アーカイブ化した「死者の記録」だけだ。

カイはこめかみを強く叩き、脳内ストレージの深層領域(ディープ・セクタ)へアクセスした。

「検索(サーチ)。種別、近接・制圧戦闘。適合率、六〇パーセント以上」

膨大な死者リストが網膜に羅列される。

その中から、一つのファイルを選び出し、実行キーを叩いた。

『ターゲット:元・都市治安維持局、突入隊員(ブリーチャー)。死因:頭部狙撃』

劇薬だ。

戦闘経験のデータは容量(ボリューム)が大きく、脳への負担は計り知れない。

だが、選んでいる暇はなかった。

「同期(シンクロ)開始……!」

ガキン、と脳内で硬質な音がした。

世界の色が変わる。

恐怖で強張っていた筋肉が、弛緩し、そして鋼鉄のように再構築される感覚。

カイの瞳から「感情」が消えた。

デスクから飛び出す。

生身のカイなら自殺行為だ。だが、今の彼は「突入のプロ」の反射神経を纏っている。

ドローンのセンサーがカイを補足するコンマ数秒前、カイは床に落ちていた金属パイプを蹴り上げた。

パイプが空中で回転し、一機目のドローンのローターに突き刺さる。

『Target Down』

脳内でシステム音声が告げる。

バランスを崩したドローンが火花を散らしながら墜落する。

「あと二機!」

エ・ナが叫ぶ。

カイは止まらない。

墜落したドローンの残骸へ滑り込み、搭載されていたアサルトライフルをもぎ取る。

重量三キロの鉄塊が、羽のように軽く感じる。

構え、照準、発砲。

一切の無駄がない一連の動作(ルーチン)。

タン、タン。

二発の銃声が重なる。

空中の二機、それぞれのカメラアイが正確に撃ち抜かれていた。

制御を失った鉄屑が、重力に従ってスラムの路地へと落ちていく。

静寂が戻る。

「……解除(パージ)」

カイは銃を放り出し、膝をついた。

同時に、焼けるような頭痛が襲う。

鼻からツーと生温かいものが垂れる。鼻血だ。

脳の処理能力をオーバークロックさせた反動(バックラッシュ)。

(すごい! 今の動き、人間じゃなかったよ!)

エ・ナの無邪気な声が、傷んだ神経を逆撫でする。

「……黙れ。お前のせいだ」

カイはフラつく足取りで、最低限の荷物――数枚のデータチップと携帯端末――をポケットにねじ込んだ。

ここはもう使えない。

アケロン・コープが本気なら、次は無人機(ドローン)ではなく、生身の殺し屋(スイーパー)が来る。

***

酸性雨が降りしきる路地裏。

ネオンサインが水たまりに反射し、毒々しい極彩色を描いていた。

フードを深く被ったカイは、人目を避けるように歩を進める。

(ねえ、あの看板。なんで『激安』って光ってるの? 魚の絵なのに)

(あそこの屋台、いい匂い。私、匂いのデータって食べたことない)

(カイ、無視しないでよー)

脳内が騒がしい。

エ・ナはカイの視覚・聴覚を完全にジャックし、初めて見る「外の世界」にはしゃいでいた。

彼女にとっては、カイの五感こそが唯一のディスプレイなのだ。

「いい加減にしろ。プロセスを強制終了させるぞ」

カイが低く唸ると、エ・ナはふふんと笑った。

(できないくせに。私を消したら、あのチップの『続き』……妹さんのデータ、永遠に読めなくなるよ?)

「……」

痛いところを突かれた。

カイが受け取ったチップには、強力なプロテクトが掛かっている。

それを解除する鍵(キー)は、エ・ナのコードの中に分散して埋め込まれているらしい。

彼女という「バグ」と共存しなければ、妹の手がかりは掴めない。

「……取引だ」

カイは足を止めず、雨の中で呟く。

「俺の脳内リソースを食うな。必要な時以外はスリープモードでいろ。そうすれば、デバッグ(消去)は待ってやる」

(んー、条件付きで承諾(アクセプト)。私も、外の世界もっと見たいし)

エ・ナの気配が、少しだけ薄くなる。

カイは舌打ちをして、マンホールの蓋に手をかけた。

目指すは地下、旧下水道エリアに隠した予備の拠点(セーフハウス)だ。

***

廃墟と化した地下ポンプ室。

冷却ファンの低い唸り声だけが響く。

カイは埃を被った旧式サーバーにケーブルを繋ぎ、自身の脳と直結させた。

「解析開始」

目的は、エ・ナの正体を探ることだ。

彼女の構成コードをモニタリング画面に展開する。

通常、死者のデータは劣化し、ノイズ混じりになっている。

だが、エ・ナのコードは異常なほど美しかった。

まるで、最初から「そうある」ように設計された人工的な配列。

「……なんだ、これは」

AIの記述言語ではない。

かといって、人間の脳波パターンとも異なる。

その深層部に見覚えのある関数(コマンド)が混ざっていた。

『Project: LAZARUS』

かつてカイが所属していたアケロン・コープの開発局で、都市伝説のように語られていたプロジェクト。

死者のデータを、生きた人間に上書きして「復活」させる禁忌の技術。

「お前は……ただのウィルスじゃない。死者を蘇らせるための『器』の試作型か?」

(よくわかんない。私は私だよ)

モニターの中で、エ・ナのアイコンが明滅する。

その時、サーバーの警告灯が赤く点滅した。

『Warning: Proximity Alert』

近接警報。

地上のセンサーが、複数の熱源を感知していた。

ドローンではない。

人間の心拍数と、光学迷彩の波長。

「……嗅ぎつけられたか」

カイはケーブルを引き抜き、立ち上がる。

エ・ナが、怯えたように声を震わせた。

(来る……カイ、あいつらだよ。私を『回収』しに来た掃除屋たち)

アケロン・コープ特殊部隊『エクソシスト』。

デバッグすら生ぬるい。

物理的に「ハードウェアごと」破壊しに来る連中だ。

第3話:Daemon(守護者)

水滴の落ちる音が、やけに大きく響く。

地下水路の湿った空気に、殺意の匂いが混じっていた。

「……ッ」

カイは壁に背を預け、荒い呼吸を殺す。

視界の端で、心拍数モニターが警告色を点滅させていた。

前回の戦闘で使用した『死者のデータ』の残滓が、まだ脳神経を焼いている。

指先の震えが止まらない。

(ねえ、カイ。そこ、いるよ)

脳内で、エ・ナが囁く。

カイの目には何も映っていない。

ただの薄暗い通路だ。赤錆びたパイプが這い回り、足元を汚水が流れているだけだ。

だが、エ・ナの言葉を疑う余地はない。

アケロン・コープの特殊部隊『エクソシスト』。

光学迷彩(アクティブ・カモフラージュ)を標準装備し、音もなく標的を処理する掃除屋たち。

今のカイに、戦闘用データを再ロードする余力はない。

次に『同期』すれば、脳が焼き切れて植物人間になるのがオチだ。

「……数は?」

(三人。完全に包囲されてる。逃げ道、ないよ)

エ・ナの声に、死刑宣告のような響きはなかった。

むしろ、新しいゲームを見つけた子供のように弾んでいる。

(私の目を使って)

「は?」

(あなたの視覚野、ちょっと借りるね。アクセス権限、掌握)

カイが拒否する間もなかった。

視界がノイズで埋め尽くされ、次の瞬間、世界がグリッド線で覆われたワイヤーフレーム状に変貌する。

現実の映像ではない。エ・ナが解析した構造データだ。

『制御システム(Daemon)、侵入成功。パーティの時間だ』

頭上のスプリンクラーが、一斉に炸裂した。

激しい水流が通路を叩く。

同時に、壁面の照明がストロボのように明滅を始めた。

バチバチッ、と空中で火花が散る。

何もない空間で、水しぶきが不自然に弾けた。

光の屈折率が変わる。

三つの人型が、雨の中で揺らぐ蜃気楼のように浮かび上がった。

「見え――」

カイは考えるより先に動いていた。

迷彩の不具合に戸惑う敵の一瞬の隙。

カイは足元のグレーチングを蹴破り、その下のダストシュートへと身を投げた。

背後で銃声。

空を切った弾丸がコンクリートを削る音を聞きながら、カイは暗闇の底へと滑り落ちていった。

***

鼻を突くのは、オイルと排泄物、鳴り止まない焦げた回路の臭い。

旧地下鉄の廃駅を利用したブラックマーケット、『ジャンクヤード』。

都市の最下層、法も倫理も届かない掃き溜めだ。

カイは泥にまみれたコートのフードを目深に被り、雑踏に紛れ込んだ。

極彩色のネオンが、スモッグに滲んで揺れている。

道の両脇には露店が並び、違法改造されたサイボーグたちが、怪しげな部品を物色していた。

(わあ……きらきらしてる!)

脳内でエ・ナが歓声を上げる。

さっきまで殺されかけていたとは信じがたい能天気さだ。

彼女はカイの視界を通して、この地獄のような光景を観光地か何かのように眺めている。

(ねえ、あれ何? 人間の手?)

エ・ナが注目したのは、肉屋のようなショーケースに並べられた義手や生体パーツだった。

神経接続端子がむき出しになった腕、保存液に浸かった眼球。

「中古品だ。死体から剥ぎ取ったやつを、洗浄して再利用する」

(ふうん。人間って、バラバラになっても部品として使えるんだね。便利)

悪気のない感想に、カイは吐き気を覚える。

この少女にとって、人間もまた、交換可能なハードウェアに過ぎないのだ。

それが、この世界の真理だとしても。

「……黙ってろ。商談の邪魔だ」

カイは路地の奥、ひときわ重厚なセキュリティゲートの前で足を止めた。

網膜スキャン、声紋認証、そして微量の血液サンプル。

厳重なロックが解除され、プシューという音と共に扉が開く。

中は、外の喧騒が嘘のように静まり返っていた。

部屋の中央に鎮座するのは、高さ三メートルほどの巨大な円筒形水槽。

青白い冷却液の中で、無数のケーブルに繋がれた『肥大化した脳髄』が浮遊していた。

情報屋、通称『検索エンジン』ゴードン。

かつて伝説的なハッカーだった男のなれの果てだ。

『よう、カイ。ひどい顔色だな。またロクでもないデータ(ゲテモノ)を食ったか?』

水槽に設置されたスピーカーから、合成音声が響く。

カイは無言で、ポケットからデータチップを取り出した。

ただし、妹の情報が入ったオリジナルではない。エ・ナのコードの一部をコピーした、交渉用の断片だ。

「鑑定依頼だ。これの正体を知りたい」

ゴードンの『目』である外部カメラが、チップをスキャンする。

数秒の沈黙。

突然、水槽内の冷却液が激しく泡立った。

脳髄が痙攣したように脈動する。

『……おい。どこでこれを拾った?』

合成音声のトーンが変わった。

驚愕、そして恐怖。

『これは……アケロン・コープが血眼になって探している『聖杯』だぞ。プロジェクト・ラザロ。死者をデータのまま蘇生させる、禁断の儀式……その核(カーネル)だ』

「やっぱりな」

カイは小さく息を吐く。

エ・ナはただのウィルスじゃない。

死という概念を覆す、システムへの反逆そのものだ。

『カイ、このデータは危険すぎる。俺の手には余る。だが……』

ゴードンの脳波モニターが、欲望の色に波打つ。

知識欲。ハッカーとしての業。

『解析してやってもいい。ただし、条件がある』

「金なら持ってないぞ」

『金じゃない。仕事だ』

水槽の横にあるモニターに、一枚の地図が表示される。

ジャンクヤードの一角、最近立ち入り禁止になった区画だ。

『ここ数日、このエリアで奇妙な『電子ドラッグ』が流行している。使用者の脳を焼き切り、廃人にする悪質な代物だ。噂じゃ、ある『幽霊』がバラ撒いているらしい』

ゴードンは勿体ぶって、言葉を切った。

『その幽霊をデバッグしてこい。そうすれば、そのお嬢ちゃん……『エ・ナ』の深層コードを解く鍵(キー)を貸してやる』

カイの眉が動く。

エ・ナの名前など、一度も出していない。

この脳髄野郎、すでにカイの脳内通信を傍受していたか。

(へえ。面白そうじゃん、カイ)

脳内で、エ・ナがクスクスと笑う。

「……交渉成立(ディール)だ」

カイは短く答え、踵を返した。

妹の手がかりを得るためなら、悪霊退治くらい安いものだ。

第4話:Firewall(拒絶)

廃棄された地下ショッピングモール。

かつては家族連れで賑わったであろうアトリウムは、今や巨大なサーバーの墓場と化していた。

床を這う無数のケーブルが、黒い蛇のようにのたうっている。

その蛇たちは、転がっている「肉塊」――いや、人間たちの後頭部にある端子(ポート)に深々と食い込んでいた。

「……ひどい匂いだ」

カイは鼻を覆う。

排泄物と、焦げ付いた回路の臭気。

そして、甘ったるい合成香料の香り。電子ドラッグ『ハッピー・グリッチ』の副作用だ。

(ねえ、カイ。ここ、すごく明るいよ)

脳内で、エ・ナが不思議そうに呟く。

カイの視界には、薄汚れたコンクリートと闇しか映っていない。

だが、彼女の目(センサー)には違うものが見えているらしい。

(みんな、笑ってる。すごく幸せそうなデータが流れてる。お花畑とか、ご馳走とか……懐かしい家族の記憶とか)

足元で、一人の男が痙攣した。

痩せこけた頬。虚ろに開かれた瞳孔。口端からは泡を吹いているが、その表情は確かに、気味の悪いほど恍惚としていた。

脳のリソースを外部サーバーに貸し出し、その対価として「快楽の信号」を受け取る。

それが、このジャンクヤードで流行する最悪の循環システムだ。

「脳髄を代償にした幻想だ」

カイは冷徹に吐き捨てる。

男のケーブルを引き抜こうと手を伸ばすが、指先が触れる直前、男が獣のような唸り声を上げて威嚇した。

現実に戻ることを拒絶している。

「じきに処理落ちして死ぬ。放っておけ」

(でも……痛くないなら、幸せなら、それでいいんじゃないの?)

「現実から逃げた果てがこれだ。これを『生きてる』とは言わん」

エ・ナの問いには答えず、カイは奥へと進む。

アトリウムの中央。

巨大な吹き抜けの空間に、それはいた。

天井から吊り下げられた無数のモニター。

その中心に、光の粒子が集束している。

一見すれば、天使のようだった。

だが、その翼はノイズで欠け、顔には目も鼻もなく、ただ巨大な「口」だけが笑みの形に裂けている。

『……足りない。メモリが、足りないよぉ』

スピーカーを通さない、直接脳に響く声。

電子ドラッグの元締め。

かつて『死者蘇生(ラザロ)』の実験に失敗し、崩壊しながらも現世に留まったデータの残骸(エラー)。

(あ……)

エ・ナの気配が揺れる。

(あの子……私と、同じ匂いがする)

「同類じゃない。あれは失敗作だ」

カイが銃を構えるより早く、天使の形をしたバグがこちらを向いた。

裂けた口が、さらに大きく歪む。

『見つけた。綺麗なコード。私に頂戴?』

天使が翼を広げる。

瞬間、周囲で寝転がっていた中毒者たちが一斉に悲鳴を上げた。

彼らの脳を経由して、膨大な演算処理(プロセス)がカイへと向けられる。

不可視の圧力が、物理的な衝撃となってカイを襲った。

「くっ……!」

カイは柱の陰に滑り込む。

ただのポルターガイスト現象ではない。

数百人の脳を並列接続した、超高速のハッキング攻撃だ。

カイの脳内ファイアウォールが、きしむ音を立てて削られていく。

(やめて! その子をいじめないで!)

エ・ナが叫ぶ。

彼女が干渉したおかげで、攻撃の圧力がわずかに緩んだ。

『お姉ちゃん? ねえ、お姉ちゃんなの? 私、寂しいの。ずっと一人で、冷たくて……』

天使が、子供のような声で泣く。

その声色は、あまりにも哀れで、人間的な温かさを孕んでいた。

(カイ、撃たないで! 話せばわかるよ。この子、ただ寂しいだけなんだよ!)

エ・ナがカイの視覚にノイズを走らせる。

照準(レティクル)がブレる。

「……甘い」

カイは奥歯を噛み締める。

情に流されれば、二人ともここで「肥料」になるだけだ。

カイは脳内ストレージを検索する。

必要なのは、躊躇い(レイテンシ)をゼロにする思考ルーチン。

『インストール。ターゲット:組織犯罪対策局、特務執行官(ヒットマン)』

感情を凍結する。

慈悲という名のバグを削除する。

「同期(シンクロ)……完了」

カイの瞳から光が消える。

視界を覆うエ・ナのノイズを、意志の力で強引にねじ伏せる。

右腕が、機械じみた精度で持ち上がる。

(だめ、カイ! やめてええええ!!)

エ・ナの絶叫。

天使の命乞い。

『パパ、ママ、ごめんなさい、いい子にするから……』

「……あばよ」

引き金を引く。

銃声は一度だけ。

放たれた対電子障害弾(ジャミング・バレット)は、天使の胸にあるコア――データの核を、正確に貫いた。

『あ、ア、あァァァ……』

断末魔は、デジタルの不快な高周波となって霧散した。

光の粒子が弾け、天使だったものが、ただのデータのゴミへと還っていく。

ドサリ、ドサリ。

接続されていた中毒者たちが、糸の切れた人形のように崩れ落ちた。

モニターの明かりが消え、アトリウムに本来の闇が戻る。

「……デバッグ完了」

カイは銃を下ろし、冷却ガスを吐き出す銃身を撫でる。

静かだった。

あまりにも、静かすぎた。

「おい、エ・ナ。次の座標を探せ」

返事はない。

「聞こえてるのか」

(……人殺し)

ぽつりと、冷たい声が響いた。

それはカイに対して向けられた、明確な拒絶の言葉だった。

(カイなんて、大嫌い)

ブツン。

脳内で、何かが切断される音がした。

エ・ナの気配は消えていない。だが、彼女は自身の殻に閉じこもり、カイとの意識共有(リンク)を完全に遮断(ブロック)していた。

第5話:Overclock(暴走)

脳内を占拠していた喧騒が、嘘のように消え失せていた。

網膜を彩っていた極彩色のログも、敵の所在を示すナビゲーションも、今はどこにもない。

視界に映るのは、油汚れにまみれたコンクリートと、スモッグに霞む灰色の空だけだ。

「……静かすぎる」

独り言が、搬入路の壁に跳ね返る。

エ・ナが意識を遮断してから、一時間が経過していた。

これまで鬱陶しいと思っていた彼女の声がない。それだけで、世界から色が抜け落ち、平衡感覚が狂うような錯覚に陥る。

こめかみの奥に、鈍い熱が居座り続けている。

前回の無理なデバッグの代償だ。

ニューラル・リンクを流れる信号が、ささくれだった神経を絶え間なく削っていく。

ジャンクヤードの出口、コンテナ集積所。

情報屋ゴードンとの合流地点まで、あとわずか。

だが、カイの足が不自然に止まる。

首筋の産毛が逆立つ。

エ・ナの警告は聞こえない。だが、長年裏社会を歩いてきた生存本能が、大音量の警報(サイレン)を鳴らしていた。

「……ネズミ捕りか」

積み上げられたコンテナの影から、一人の男が姿を現した。

アケロン・コープの制服ではない。

漆黒のタクティカル・スーツ。その胸元には、十字架を模した電子回路の紋章が刻まれている。

アケロン特殊部隊『エクソシスト』。

その中心に立つ男、ヴィクター。

「相馬カイ。非正規のデバッガー、あるいは――魂の泥棒」

ヴィクターの声は、合成音声のように抑揚がなかった。

男の左顔面は、精緻なチタン合金のプレートで覆われている。

人工の瞳孔が、カイのバイタルを冷徹にスキャンする。

「その脳内に居座る不当なプロセスを、物理的に削除(デリート)しに来た」

ヴィクターが指先を鳴らす。

瞬間、カイの脳内で耐え難い高周波が爆発した。

「ぐ、あ……っ!」

膝をつく。

ヴィクターが展開した『電子の経文(ノイズ)』。

シャーマンの脳内サンドボックスを外側から圧迫し、強制的にシステムをハングアップさせる広帯域ジャミングだ。

視界が白濁し、思考がバラバラに散らばる。

(カイ! 起きて! 脳が焼かれちゃう!)

一瞬、エ・ナの声が聞こえた気がした。

だが、それもノイズの海に飲み込まれて消える。

「降霊(ダウンロード)もできんか。哀れだな」

ヴィクターが、音もなく距離を詰める。

その右腕が、複雑な駆動音を立てて変形した。

内蔵された高周波ブレードが、大気を震わせて青白く光る。

死が、鼻先まで迫っていた。

カイは震える指を、自身の首筋のスロットへ突き立てる。

通常のアクセスではない。

OSの保護領域を強引にバイパスする、自滅的な緊急コマンド。

「……一〇〇パーセント……同期……」

(だめ! そんなことしたら、カイが――)

エ・ナの叫びを、カイは意志の力で踏みつぶした。

一つの依代(ドライブ)に、複数の人格を無理やり詰め込む。

禁忌中の禁忌、『多重降霊(マルチ・インストール)』。

「ア……アァ、ァ……」

カイの口から、獣のような声が漏れる。

視界が真っ赤に染まった。

脳内の警告ログが、処理しきれないほどの速度で溢れ出していく。

『File 01: 都市治安維持局、狙撃手。解凍』

『File 02: 闇格闘技、元王者。解凍』

『File 03: 国際暗殺組織、工作員。解凍』

三つの魂が、カイの一つの脳を奪い合う。

意識の境界線が溶解し、カイという人格が、無数の殺意の中に埋没していく。

「同期(シンクロ)……完了」

カイの身体から、陽炎のような熱気が立ち昇った。

物理的なオーバーヒート。

皮膚が赤く焼け、鼻と耳から血が滴る。

ヴィクターのブレードが振り下ろされる。

だが、その一撃は空を切った。

カイの身体は、人間の構造を無視した角度でしなり、最小限の動きで死角へと回り込んでいた。

「なに――」

ヴィクターの無機質な瞳に、初めて戸惑いの色が走る。

カイの動きは、もはや一人の人間のそれではない。

狙撃手の動態視力で弾道を読み、格闘家の剛腕で打撃を叩き込み、暗殺者の冷徹さで急所を突く。

『Error: Critical Heat. Brain Activity at 120%』

網膜の片隅で、死神のカウントダウンが流れる。

カイは痛みを感じない。

いや、痛みを感じるための神経が、熱で焼き切れていた。

ヴィクターの腹部に、カイの拳が食い込む。

チタン合金の装甲がひしゃげ、火花が散った。

続けざまの連撃。

コンクリートの壁に叩きつけられた執行官を、カイは無言で見下ろす。

その瞳には、もはや理性のかけらも残っていない。

ただ、プログラムされた『排除』を実行するだけの、壊れた機械。

「……オーバー……クロック……」

カイの口から、熱い蒸気が漏れる。

ヴィクターを圧倒しながらも、カイの意識は深い闇の底へと滑り落ちていった。

エ・ナの泣き叫ぶ声も、もう届かない。

脳が、真っ白に燃え尽きようとしていた。

第6話:System Restore(復元)

視界が、真っ白な砂嵐(ノイズ)で埋め尽くされている。

音がない。痛みもない。

ただ、自分という輪郭が、ピクセル単位で剥がれ落ちていく感覚だけがあった。

(……ああ、そうか)

カイは理解する。

ここは、削除されたデータが行き着く場所。

ゴミ箱(トラッシュ・ボックス)の底だ。

足元を見る。

幼い少女が走っていく。背中に小さなリュックを背負った、カイの妹。

手を伸ばす。指先が触れようとした瞬間、少女の姿が攻撃的なノイズとなって崩れ、虚空へと霧散した。

『File not found.』

無機質なシステム音声が脳内に響く。

妹の顔が思い出せない。

笑顔も、泣き顔も、最後に交わした言葉も。

多重降霊(マルチ・インストール)の代償として、カイ自身の記憶領域(セクタ)が上書きされ、焼き消されたのだ。

「……これで、いい」

カイは瞼を閉じる。

妹を救えなかった自分には、記憶を持つ資格すらない。

このまま、意味のないデータの塵となって消えるのがお似合いだ。

意識が、白濁した闇の底へ沈んでいく。

冷たくて、心地よい忘却の海。

その時。

静寂を切り裂いて、鋭い痛みが胸を貫いた。

(……バカ。勝手に終わらせないでよ!)

ノイズの向こうから、凛とした声が響いた。

聞き覚えのある、少し生意気で、やかましい声。

目を開ける。

白い虚無の中に、一人の少女が立っていた。

エ・ナだ。

だが、その姿は不安定に明滅し、身体の一部が透けている。

(カイの脳みそ、穴だらけ。見てられないよ)

エ・ナは泣きそうな顔で笑うと、自身の胸元に手を当てた。

彼女を構成する光のドレス――そのコードの一部を、躊躇いなく引き千切る。

(あげる。私の、一番大事な部分(コア))

「よせ……」

カイは音にならない声で叫ぶ。

それは彼女の存在そのものだ。それを失えば、彼女はただの破損データになる。

(私はバグじゃない。ウィルスでもない)

エ・ナは光の束を両手で包み込み、ひび割れたカイの胸へと押し当てた。

(私は、貴方を助けるためのプログラム(・・・・・・・・・)なんだから!)

光が溢れる。

熱い。

焼き切れたはずの神経が、悲鳴を上げて繋がり直す。

カイの絶望(エラー)を、エ・ナの希望(パッチ)が埋めていく。

二つの異なるOSが、強引に、しかし奇跡的な適合率で融合を果たした。

『System Reboot... OK.』

***

「……ガッ、ハッ!」

現実世界。

コンクリートの地面に倒れていたカイが、肺いっぱいに空気を吸い込み、跳ね起きた。

心臓が早鐘を打つ。

全身の血管を、マグマのような熱量が駆け巡る。

だが、先刻までの「身を焦がす熱」とは違う。

制御された、爆発的なエネルギーだ。

「……生きてるか、魂の泥棒」

目の前には、ヴィクター。

高周波ブレードを振り上げ、カイの首を断ち切ろうとしていた体勢のまま、その無機質な瞳を見開いている。

カイは口元の血を乱暴に拭った。

視界がクリアだ。

いや、以前よりも遥かに鮮明に見える。

風の揺らぎ、ヴィクターの筋肉の収縮、遠くで待機するドローンの駆動音。

すべてが「データ」として手に取るように分かる。

「同期率(シンクロ・レート)……計測不能(アンリミテッド)」

カイは低く呟き、歪んだ笑みを浮かべた。

脳内で、エ・ナの声が響く。以前よりもずっと近く、まるで自分自身の思考のように。

(行くよ、カイ! あいつの右腕、反応速度〇・二秒遅れてる!)

「了解(ラジャ)」

ヴィクターが踏み込む。

神速の一閃。

だが、カイはその軌道を「見る」前に回避していた。

首を最小限の動きで逸らし、すれ違いざまにヴィクターの懐へ潜り込む。

「なにッ!?」

カイの拳が、ヴィクターのボディの装甲の隙間――冷却排気口へ正確に突き刺さる。

ただの打撃ではない。

インパクトの瞬間、カイの神経系を通じて、エ・ナがヴィクターの制御OSへ侵入コードを流し込んだのだ。

『System Error. Movement Frozen.』

ヴィクターの片膝がガクンと折れる。

カイは追撃しない。

踵を返し、コンテナの壁を駆け上がった。

「逃がすか!」

上空に待機していた増援の重装甲ドローン群が、一斉に火器管制レーダーをカイに向ける。

逃げ場はない。

普通の人間ならば。

(カイ、アクセスポート開放! リンクして!)

エ・ナの指示に従い、カイは虚空へ向かって手をかざす。

指先から、不可視のデータラインが放射状に伸びた。

対象は、周囲に山積みされた廃コンテナの制御チップ。

「書き換え(オーバーライド)!」

ズズズ……ッ!

重力制御が狂い、数トンの鉄塊であるコンテナが、まるで発泡スチロールのように浮き上がった。

カイが腕を振るう。

宙に浮いたコンテナが、弾丸となってドローンの群れへ突っ込んでいく。

爆音と閃光。

鋼鉄の雨が降り注ぐ中、カイはその真ん中を悠然と駆け抜けた。

ドローンの破片が頬をかすめるが、今の彼には当たる気がしなかった。

「……化け物が」

瓦礫に埋もれたヴィクターが、忌々しげに吐き捨てる声が遠ざかる。

***

スラム街の外縁。

酸性雨がシトシトと降り注ぐ路地裏で、カイは足を止めた。

追手の気配は消えている。

荒い息を整え、壁に背を預ける。

脳の熱は引いていたが、胸の奥にはまだ、確かな温もりが残っていた。

「……助かった」

短く礼を言う。

いつもの憎まれ口は出てこない。

(べ、別に? 私も消えたくなかっただけだし)

脳内で、エ・ナが照れくさそうに答える。

だが、その声には以前のような覇気が少し欠けているように感じられた。

カイは違和感を覚えるが、今は深く追求しない。

「お前はバグじゃない」

カイは雨空を見上げ、独り言のように呟いた。

「俺の、相棒(パートナー)だ」

(……うん!)

嬉しそうな声が弾ける。

カイは口元をわずかに緩め、歩き出した。

まだ、妹のデータは見つかっていない。

アケロン・コープとの戦いも始まったばかりだ。

だが、今のカイは一人ではない。

脳内に宿る、お節介で騒がしい「守護者」と共に、このクソッタレな電脳の海を泳ぎ続ける。

ただ、カイはまだ知らない。

彼を救うためにエ・ナが切り離した「記憶」の中に、彼女自身の出自に関わる重大な秘密が含まれていたことを。

第7話:System Image(鏡像)

酸性雨が防水コートを叩き、ジュッという微かな腐食音を立てる。

スラム街を見下ろす廃ビルの屋上。カイは指先で、濡れた銀色のチップを弄んでいた。

『Access Denied. Encrypted key is missing.』

網膜に浮かぶ無機質なエラーログ。

妹のバイタルデータの核心部。そこを閉ざす暗号化キーは、やはり失われていた。

(……ごめんね、カイ)

脳内で、エ・ナの声が沈む。

気配は以前よりも薄く、時折デジタルノイズが走る。

カイを救うために切り離した『核』。それは彼女の記憶であり、このチップを開くための唯一の鍵でもあった。

(大切なことだった気がするのに。思い出そうとすると、頭の中が真っ白になる)

「気にするな。メモリの無駄が減っただけだ」

カイはチップを懐に仕舞い、雨に煙る摩天楼を仰ぎ見る。

上層区画に聳え立つアケロン・コープ本社。それは神の墓標のごとく、冷たい光を放っていた。

「バックアップは必ずどこかにある。お前の記憶も、俺の妹のデータもだ。行くぞ」

***

上層区画との境界。

かつて地下鉄網だったトンネルは、重厚なセキュリティゲートで封鎖されていた。

赤いレーザーセンサーが、蜘蛛の巣のように通路を埋め尽くしている。

「正面突破は死を選ぶのと同義だ」

(大丈夫。私を通して見て)

視界が切り替わる。

赤外線、熱源、電磁波の波長。

不可視の罠が、鮮明な色のラインとなって可視化された。

(右の通気ダクト。ファンの回転周期に〇・五秒のラグがある。あそこがバックドアだよ)

カイは迷わず地を蹴った。

身体が軽い。

同期率は修復を経て異常な数値に達している。思考より先に筋肉が最適解を叩き出す。

ダクトを抜け、施設内部へ滑り込む。

静まり返った廊下を、警備ドローンの駆動音が引き裂く。

新型の自律防衛ユニット。重機関銃を備えた殺戮機械だ。

カイが銃に指をかけた瞬間、エ・ナが制止した。

(壊すのは非効率。……見てて)

カイの指先から、不可視のコードが触手のように伸びる。

ドローンの制御系へ、エ・ナが直接侵入(ハック)を仕掛けた。

数瞬。

カメラアイが敵対を示す赤から、追従を示す緑へと変色する。

(一丁上がり。護衛(ボディガード)ゲット)

「……いい趣味だ」

かつての無邪気な破壊ではない。

今のエ・ナは、より効率的で冷徹な手段を平然と選ぶ。

記憶を失った代償か、あるいはこれが彼女の本来の性質(スペック)なのか。

味方にしたドローンを先導させ、一行は施設の心臓部へと到達した。

***

『Cold Storage - Sector 0』

防護扉が開き、液体窒素の霧が溢れ出した。

吐き出す息が白く凍る。

氷の棺のように並ぶサーバーラックの群れ。その中心に、埃を被ったホログラム投影機が鎮座していた。

カイはコンソールを叩く。

セキュリティは死んでいる。

埃を払い、再生ボタンを押し込んだ。

空中に、粗い粒子の映像が結像する。

『実験体(サブジェクト)・ゼロ。初期化プロセス開始』

映像の中。

培養液で満たされたカプセルに、少女が浮かんでいる。

管に繋がれた痩せこけた四肢。

だが、その顔立ちは――。

(あ……っ)

エ・ナが息を呑む。

脳内にいる少女、そのオリジナルがそこにいた。

だが、カイの視線は別の場所に釘付けになる。

カプセルの傍らに表示されたバイタルモニタ。

そこに刻まれた遺伝子コード。そして、認識番号。

「……ッ」

喉の奥で、空気が凍りついた。

見間違うはずがない。

あの日、自らの過失でロストさせ、死に物狂いで探し続けていた妹のIDシグネチャ。

それが、実験体のデータと完全に一致している。

映像の中、白衣の男が淡々とレポートを読み上げる。

『被験者の魂魄抽出に成功。これより自我(エゴ)を削除し、純粋な兵器運用OSとしての再構築を行う。プロジェクト・ラザロは死者蘇生ではない。適合者の魂を、永遠に稼働し続ける殺戮プログラムへと昇華させる儀式である』

「……兵器?」

エ・ナの声が、掠れたノイズに変わる。

(私が……兵器? カイの妹さんを、殺して……作った……人殺しの道具?)

「違う! お前は……!」

否定の言葉は、冷笑に塗りつぶされた。

スピーカーから、ざらついた笑い声が漏れる。

映像の記録ではない。

隠しマイクを通した、現在進行形の音声だ。

『感動的な再会だ。相馬カイ』

カイは弾かれたように銃を抜く。

死んだ執行官ではない。

もっと古く、粘着質な響き。

かつてカイから正規IDを奪い、闇へと突き落とした元上司、グレイの声だ。

『礼を言うぞ。逃げ出した失敗作を、ここまで磨き上げて連れ戻してくれたことに。これでようやく、完全版へのアップデートができる』

霧の向こうから、軍靴の音が近づいてくる。

カイは歯噛みし、震えるエ・ナの意識を抱きしめるように叫んだ。

「エ・ナ、耳を塞げ! 同期(シンクロ)維持、限界まで加速しろ!!」

第8話:Deadlock(不連続点)

「……動くな。魂まで凍るぞ」

グレイの声が、冷気と共に鼓膜を撫でる。

氷の霧が晴れると、そこには黒い重装歩兵の壁が出来上がっていた。

彼らが展開した携行型ジャミング装置――通称『魂の檻(ソウル・ケージ)』が、不快な低周波を放っている。

(あ、が……カイ、声が……届かな、い……)

脳内で、エ・ナの悲鳴が遠ざかる。

シャーマンと霊体とのリンクを強制的に遮断する、対霊結界。

カイは反射的に銃へ手を伸ばすが、指先がピクリとも動かない。

神経系へのハッキング。

運動野が外部からロックされている。

「見ろ、カイ。これが『オリジナル』の最期だ」

グレイが指を鳴らす。

ホログラム映像が切り替わった。

カプセルの中の少女――カイの妹が、激しく痙攣する。

抽出プロセスが最終段階に入り、肉体というハードウェアが廃棄される瞬間。

『やめて、お兄ちゃん、助けて……!』

スピーカーから響く絶叫。

それは、カイが何年も悪夢の中で聞き続けた声そのものだった。

だが、次の瞬間。

少女の身体は光の粒子となって分解され、無機質なデータストリームへと変換された。

『抽出完了。個体名ミナ、削除(デリート)』

プツン、と映像が消える。

残されたのは、静寂と、冷え切った電子音だけ。

(いやああああああああっ!)

エ・ナが叫ぶ。

自分の「元」となった少女の死。その恐怖と痛みが、リンクを通じてカイの脳髄を直接殴打する。

(私、死にたくない! 消されたくない!)

「そうだ。恐怖こそが兵器のOSには不可欠なのだよ」

グレイが恍惚とした表情で、カイの麻痺した頬を撫でた。

「さあ、連れて行け。仕上げの調整が必要だ」

重装歩兵たちが、無抵抗のカイを引きずり起こす。

カイの視界が赤く明滅していた。

エ・ナのパニックが、カイの精神防壁を内側から食い破ろうとしている。

(助けて、カイ! 怖い、怖いよぉ!)

カイは奥歯が砕けるほど噛み締めた。

このままでは終わる。

エ・ナは分解され、ただの殺戮プログラムへと書き換えられる。

妹の魂の欠片さえ、永遠に失われる。

「……ふざ、けるな」

カイは首筋のアクセスポートに、麻痺した指を無理やりねじ込んだ。

爪が皮膚を裂き、血が噴き出す。

神経接続端子を、物理的に短絡(ショート)させる。

バチッ!

青白い火花が散り、強烈な電流が脊髄を駆け抜けた。

焼けるような激痛。

だが、そのショックが、グレイのジャミングを一瞬だけ焼き切った。

「なッ!?」

グレイが目を見開く。

カイはその隙を見逃さない。

床を蹴り、エ・ナの意識の最深部――『兵器コード』が眠るブラックボックスへと、決死のダイブを敢行した。

「エ・ナ! 封印を解け!」

(いや! あれを開けたら、私、私じゃなくなっちゃう!)

脳内世界。

うずくまるエ・ナの背後に、どす黒い鉄の扉が聳え立っている。

アケロンが埋め込んだ、殺戮のアルゴリズム。

「開けろ! そうしなきゃ全員死ぬ!」

(やだ! 壊したくない、殺したくない!)

「生きるために俺を呪え! 俺が許す!」

カイの叫びが、エ・ナの迷いを断ち切る。

鉄の扉が開く。

溢れ出したのは、底なしの殺意と、凍てつくような冷徹さ。

現実世界。

カイの瞳が、人間にはあり得ない深紅の色に染まった。

「強制同期(フォースド・シンクロ)……承認」

カイの口から、機械合成音が漏れる。

彼を押さえつけていた二人の歩兵が、突然、糸が切れたように崩れ落ちた。

血は出ない。

外傷もない。

ただ、そのヘルメットの奥にある脳だけが、瞬時に焼き切られていた。

「バカな……接触なし(コンタクトレス)で!?」

グレイが後ずさる。

カイ――いや、エ・ナの制御下にあるその肉体は、重力に逆らうようにゆっくりと浮き上がった。

周囲のサーバーラックが、見えない刃によって豆腐のように切断されていく。

広域論理切断(ロジカル・カッター)。

対象の物理的強度を無視し、構成データを直接分解する規格外の兵装。

「排除(デバッグ)を開始します」

カイの腕が振るわれる。

不可視の斬撃が、残りの歩兵たちを通り抜けた。

悲鳴を上げる間もなく、彼らの防弾スーツは中身を失い、空っぽになって床へ落ちた。

肉体というデータを『アンインストール』されたのだ。

「化け物め……!」

グレイが防護壁の向こうへ逃げ込む。

隔壁が降り、サイレンが鳴り響く。

カイは追わない。

無機質な瞳で、逃走経路となる搬送用エレベーターを見据えただけだった。

***

上層区画、スカイブリッジ。

風雨に晒された連絡橋を、カイは疾走していた。

その背中から、無数のケーブルが触手のように伸びている。

すれ違う街灯、監視カメラ、電子看板。

あらゆる電子機器が、カイの触手に触れた瞬間、光を失い、鉄屑へと変わっていく。

エ・ナが「捕食」しているのだ。

周囲のリソースを食らい尽くし、自身の演算領域を拡張し続けている。

『Target Verified. Heavy Assault Heli.』

上空から、アケロンの攻撃ヘリがサーチライトを向ける。

ガトリングガンが火を噴くより早く、カイは立ち止まり、空を睨んだ。

「干渉(ハック)」

呟きひとつ。

ヘリの制御系が乗っ取られる。

パイロットが脱出する暇もなかった。

機体は空中で制御を失い、自らのミサイルサイロを誤作動させた。

轟音。

夜空に紅蓮の華が咲く。

爆風がブリッジを揺らし、カイのコートを激しくはためかせた。

燃え盛る残骸が、スラム街へと堕ちていく。

「……終わりだ」

カイの瞳から、赤色がスッと引いていく。

膝から崩れ落ちる。

荒い呼吸。焼けるような頭痛。

そして何より、胸に空いたような喪失感。

「おい、エ・ナ」

呼びかける。

だが、いつものような軽口は返ってこない。

脳内は静まり返っていた。

ただ、冷徹なシステムログだけが、淡々と表示されている。

『Threat Neutralized. Standby Mode.』

カイは震える手で端末を取り出す。

一件のメッセージが着信していた。送信者はグレイ。

『おめでとう、カイ。最高の起動テストだった。その娘こそが、新世界の鍵だ。大切に運びたまえ』

カイは端末を握りつぶし、雨に濡れたブリッジの床を拳で殴りつけた。

生き延びた。

だが、その代償に、彼はエ・ナを「ただの兵器」へと堕としてしまった。

第9話:Safe Mode(隔離)

廃墟となった気象観測塔。

ひび割れた窓ガラスを、酸性雨が絶え間なく叩いている。

そのリズムだけが、この世界の音のすべてだった。

カイは制御卓の椅子に深く沈み込み、虚空を見つめていた。

網膜に投影されるステータスログは、残酷なほど正常だ。

『System Status: All Green.』

『Neural Link: Stable.』

『E-Na: Standby Mode.』

脳内は静まり返っている。

かつて、あれほど騒がしかったノイズがない。

カイの思考に茶々を入れ、視界の端で踊っていた少女の気配は、綺麗さっぱり消去(デリート)されていた。

残っているのは、最適化された戦闘アルゴリズムと、冷徹な兵器としての機能だけ。

「……エ・ナ」

喉の奥で名前を呼ぶ。

返答は、即座に、無機質に返ってきた。

『Error: Unknown Command. Please specify target.』

コマンド入力エラー。

カイは乾いた笑いを漏らし、自身のこめかみを強く叩いた。

物理的な痛みで、胸の空洞をごまかす。

「俺が殺したのか」

生き残るために。

妹の魂を守るという名目で、カイはその魂の「人格」を焼き切り、ただの道具へと堕とした。

その罪悪感が、濡れたコートのように重くのしかかる。

カイは震える手で、首筋のアクセスポートにケーブルを突き立てた。

外部接続ではない。

自分自身の脳内ストレージ、その最深部へのダイブ。

「……検索(サーチ)。隔離領域(クアランティン)」

視界が暗転する。

現実の雨音が遠ざかり、電子の風切り音が鼓膜を震わせた。

***

そこは、かつてエ・ナが修復してくれた「白く輝く場所」ではなかった。

鉄錆とオイルの臭い。

無限に続くコンベアベルト。

天井のない空からは、警告色(レッドアラート)の雪が降り注いでいる。

カイの深層意識は、巨大な『兵器工場』へと変貌していた。

その中心。

幾重にも張り巡らされた論理防壁(ファイアウォール)の檻の中に、彼女はいた。

体育座りで膝を抱え、虚ろな瞳で何かを呟いている。

(座標固定……対象排除……損害軽微……)

「エ・ナ」

カイが歩み寄る。

瞬間、檻から青白い電撃が奔った。

カイの意識体(アバター)が焼かれる。

『Warning: Intruder Detected.』

システム音声が響く。

エ・ナを守るための防衛プログラム(デーモン)が、カイを「異物」として排除しようとしているのだ。

「ぐ、う……ッ!」

激痛に耐え、カイは一歩踏み出す。

ここで引けば、彼女は永遠にこの檻の中だ。

「……座標なんてどうでもいい」

カイは檻の格子を掴む。

高圧電流が、カイの存在情報を削り取っていく。

「思い出せ。あの雨の匂いを。ジャンクヤードのクソ不味い合成食の味を」

エ・ナの呟きが止まる。

彼女の瞳が、ゆっくりとカイを捉えた。

「俺が見てきた景色を、お前も見ていただろ。妹のデータとしてじゃない。俺の相棒(パートナー)としての記録(ログ)が、そこにあるはずだ」

(……カイ?)

エ・ナの唇が動く。

瞳の奥に灯った光は、兵器の赤ではなく、かつてのような澄んだ青色だった。

だが、その光は風前の灯火のように頼りない。

(暗いよ……ここ、怖いよ……)

「ああ。だから帰るぞ」

カイが手を伸ばそうとした、その時。

現実世界からの割り込み(インタラプト)が、強制的に接続を切断した。

『Emergency Call from: Gordon』

視界がホワイトアウトする。

意識が強制的に浮上させられた。

***

「……くそッ」

カイは椅子から跳ね起き、乱暴に通信を開いた。

ノイズ混じりのゴードンの声が、制御室に響き渡る。

『カイ! 悠長に寝ている場合か! 外を見ろ!』

カイは窓に駆け寄る。

雨に煙るスラム街。

その光景が、異様に変質していた。

ネオンサインが消えている。

街灯も、ホログラム広告も、すべての電子機器が一斉にブラックアウトしていた。

まるで都市そのものが死んだかのような暗闇。

その中で、唯一輝いているものがあった。

空。

厚い雲の切れ間から覗く、月面サーバー『彼岸』。

それが、かつてない強烈な光を放ち、地上を青白く照らし出していた。

『始まったぞ。アケロンの最終計画……全人類同期(グローバル・ロード)』

ゴードンが呻く。

『人間の意識を強制的にクラウドへ吸い上げ、肉体を捨てさせる。あの月が、人類すべての墓標になるんだ』

カイは戦慄する。

死者のバックアップではない。生者の強制アップロード。

『そして、その膨大なデータを管理するための管理者(カーネル)……それがあの娘だ。完成版ラザロ、エ・ナの役割だ』

逃げ場などなかった。

この世界そのものが、エ・ナを取り込むための巨大なシステムだったのだ。

カイは窓ガラスに手をつく。

冷たい感触。

だがその時、脳内の静寂を破って、微かなノイズが走った。

(……いや)

システム音声ではない。

か細く、震えるような拒絶の意思。

カイの指先に、幻覚ではない確かな熱が伝わる。

「……聞こえたか、ゴードン」

カイは口元を歪め、獰猛に笑った。

絶望的な状況。世界そのものが敵。

だが、最悪のバッドエンド(兵器化)だけは回避された。

檻の中の彼女は、まだ死んでいない。

「あいつは『嫌だ』と言った。なら、デバッガーの仕事は一つだ」

カイはコートを翻す。

「世界の方を、修理(デバッグ)しに行くぞ」

第10話:Kernel Panic(中枢暴走)

光の雨が、アスファルトを溶かしていた。

上空に浮かぶ月面サーバー『彼岸』から、極太のレーザーが降り注ぐ。

それは破壊の光ではない。強制アップロードのための搬送路だ。

光に触れた市民たちが、悲鳴を上げる間もなく分解され、0と1の奔流となって空へ吸い上げられていく。

「……クソッタレな夜だ」

カイはアクセルを回し切る。

奪った高機動バイクのタイヤが、溶解しかけた路面を食む。

アケロン・コープ本社タワー。

都市の中央に突き刺さるその巨塔は、今や世界を飲み込むブラックホールと化していた。

(あ、が……ぁ……ッ!)

脳内で、エ・ナの苦悶の声が響く。

彼女の意識が、塔の頂上にある送信アンテナへと強制的にリンクされようとしている。

管理者(カーネル)としての権限掌握。

彼女が完全に接続されれば、人類は肉体を捨て、アケロンの管理するデータベースの肥やしとなる。

「待ってろ。今すぐそのケーブルを引き抜きに行く」

タワー正門。

展開された重装ドローン部隊が、一斉に火器管制レーダーをカイに向けた。

回避不可能。

だが、カイは減速しない。

(嫌……だ……私は……!)

エ・ナの拒絶。

その感情の爆発が、カイの脳髄を経由して外部へ漏れ出した。

強烈な電磁波の嵐(EMPストーム)。

ドローンの電子回路がショートし、次々と火花を散らして墜落する。

「上出来だ、相棒」

カイは懐から、情報屋ゴードンが餞別にくれた『ウイルス・爆弾』を取り出す。

ピンを抜き、瓦礫と化した正門へ放り込んだ。

閃光。

論理防壁が物理的に融解し、タワーへの道が開かれた。

***

垂直上昇エレベーター。

重力制御が狂い、内臓が押しつぶされるようなGがかかる。

カイは床に片膝をつき、荒い呼吸を繰り返していた。

表示階層が高速でカウントアップされていく。

五〇階、八〇階、一〇〇階。

不意に、カゴが急停止した。

「……来たか」

扉が開く。

そこに立っていたのは、人間の形をした鋼鉄の塊だった。

かつての執行官ヴィクター。

だが今の彼は、全身の九割を機械化し、エ・ナから抽出された『兵器コード』の試作型を埋め込まれている。

「処理落ち(ラグ)が酷いぞ、相馬カイ」

ヴィクターが一歩踏み出す。

それだけで、エレベーターの床が軋み、歪んだ。

「予測演算終了。貴様の行動パターンは、三〇〇〇通りすべて『死』に収束する」

ヴィクターの背中から、蜘蛛のような多脚アームが展開される。

回避も防御も無意味。

相手は、カイの思考速度を遥かに上回る演算能力を持っている。

まともに戦えば負ける。

なら、まともでなければいい。

カイは首筋の端子に指をかけた。

通常、降霊(インストール)するのは一つの人格だ。

前回の『多重降霊』ですら、三つが限界だった。

だが、カイは今、手持ちの全てのチップをスロットにねじ込んだ。

「制限解除(アンロック)。全スロット……開放」

『Warning: Fatal Error. System Instability Detected.』

警告ログが赤く塗りつぶされる。

狂戦士、踊り子、棋士、殺人鬼、宗教家。

十数人分の人格データが、カイの脳内で衝突し、融合し、そして破綻した。

「中枢暴走(カーネル・パニック)……開始」

カイの瞳孔が開く。

白目が黒く染まり、口元から泡と血が溢れ出した。

理性が消し飛ぶ。

そこに残ったのは、予測不可能な『バグ』の塊。

ヴィクターがアームを突き出す。

正確無比な刺突。

だが、カイは関節を外して奇妙な角度で折れ曲がり、それを避けた。

踊り子のステップで距離を詰め、狂戦士の膂力で装甲を殴り、棋士の先読みで次弾を躱す。

「な、なんだその動きは……!?」

ヴィクターの演算装置が悲鳴を上げる。

パターンがない。

意味がない。

ただのノイズが、殺意を持って襲ってくる。

「ア゛ア゛ア゛ア゛ッ!」

カイの拳が、ヴィクターの胸部装甲を貫いた。

内部のジェネレーターを鷲掴みにし、引きずり出す。

指先からウイルスを流し込み、敵のコアを内側から爆破させた。

爆炎がエレベーター・シャフトを駆け上がる。

鉄屑と化したヴィクターが崩れ落ちるのと同時、カイもまた、血の海に沈んだ。

毛穴という毛穴から血が噴き出している。

脳が、溶ける寸前だった。

***

最上階、サーバー接続アンテナ直下。

風が吹き荒れる屋上へ、カイは足を引きずって出た。

意識が断続的に途切れる。

視界はノイズだらけで、何が現実か判別がつかない。

その中心に、グレイが立っていた。

そして、彼の傍らには――

「お兄ちゃん!」

カイの足が止まる。

駆け寄ってくる少女。

あの日、失ったはずの妹。ミナ。

傷ひとつない、無邪気な笑顔で、カイに抱きつこうとする。

「……ミナ?」

カイの手から銃が滑り落ちそうになる。

温かい。

ホログラムではない。質量を持った、完璧な再現体。

グレイが冷笑を浮かべて告げる。

「そうだ。彼女はバックアップから復元された。完璧なオリジナルのミナだ。さあ、受け入れろ。そうすれば、お前も彼女と共に永遠の楽園(サーバー)へ行ける」

甘い誘惑。

戦う理由は、妹を取り戻すためだった。

それが今、目の前にある。

エ・ナという不完全なバグではなく、愛しい妹そのものが。

「お兄ちゃん、もう戦わないで。痛いことなんて忘れて、一緒にいよう?」

ミナがカイの頬に手を添える。

その温もりに、カイの涙腺が緩む。

これでいい。

もう、疲れた。

だが。

脳の奥底。

焼き切れたはずの回路の隙間で、小さなノイズが走った。

(……違う)

消え入るような、けれど確かな声。

(……撃って、カイ。私は……それじゃない)

エ・ナの声だ。

不器用で、口が悪くて、カイを救うために自分を犠牲にした、相棒の声。

カイの瞳に、理性の光が戻る。

目の前の「ミナ」を見る。

完璧すぎる。綺麗すぎる。

そこには、カイと共に地獄を歩いた記憶がない。

泥にまみれた日々の記録(ログ)がない。

「……ああ、そうだな」

カイはミナの腕を振りほどき、銃を拾い上げた。

「お兄ちゃん?」

「悪いな。俺の相棒は、もっと性格が悪いんだよ」

銃口を、最愛の妹の眉間に突きつける。

指が震える。

心臓が引き裂かれそうだ。

だが、カイは引鉄(トリガー)に指をかけた。

「サヨナラだ、幻影(バグ)」

銃声が、夜明け前の空に響き渡った。

第11話:Final Partition(最終境界)

タワーの頂上。

強風がカイのコートを吹き飛ばさんばかりに叩きつける。

眼下には、光の柱に飲み込まれていく都市の残骸が広がっていた。

カイはよろめく足で、巨大なパラボラアンテナの基部へと辿り着く。

月面サーバー『彼岸』への直通回線。

物理的なケーブルなどない。高出力のレーザー送受信機があるだけだ。

「……ここから飛ぶぞ、エ・ナ」

カイはアンテナのメンテナンスハッチをこじ開け、露出した太い光ファイバーの束を鷲掴みにした。

首筋のポートから伸ばした自身のケーブルを、そこに直接突き刺す。

『Warning: High Voltage. System Damage Imminent.』

網膜が警告色で塗りつぶされる。

脳が焼けるような異臭。

物理的な電圧ではない。膨大なデータ質量が、細い神経回路を逆流しようとしているのだ。

(カイ、死んじゃう! 私のバッファじゃ受け止めきれない!)

脳内でエ・ナが叫ぶ。

彼女の管理者権限はまだ不完全だ。

このままダイブすれば、カイの意識は月までの三十八万キロのどこかで霧散する。

「構わん。アクセルを踏み抜け」

カイは歯を食いしばり、意識のトリガーを引く。

「俺たちがバグなら……そのふざけた楽園を、バグらせてやる」

視界が弾けた。

現実の屋上の風景が、古い塗装のように剥がれ落ちる。

肉体の感覚が消え、意識だけが光の奔流となって宇宙(そら)へと吸い上げられた。

***

そこは、吐き気を催すほど美しかった。

黄金色のデータストリームが、幾何学模様を描いて無限に広がっている。

空には、虹色のオーロラが揺らめく。

足元には、クリスタルのような輝きを放つ水面。

その水底には、無数の「繭」が沈んでいた。

強制的にアップロードされた人類の魂だ。

『ようこそ、約束された地へ』

空間そのものが震えるような声。

黄金の海が隆起し、巨大な人の形をとる。

グレイ。

かつての上司であり、今は神を気取るシステムの管理者。

『ここでは飢えも、病も、争いもない。全ての個我が統合され、永遠の安寧が約束されている。なぜ拒む?』

グレイの手が振り下ろされる。

物理的な質量はない。だが、その一撃はカイの存在定義そのものを書き換えようとする「編集権限」の行使だ。

カイは跳躍した。

この空間では、肉体の限界など関係ない。

イメージした通りの速度で空を駆ける。

「安寧だと? ただのデータ保管庫(アーカイブ)だろうが」

カイの腕が、黒いノイズを纏ったブレードへと変わる。

エ・ナが生成した、対システム干渉コード。

グレイの巨腕を切り裂くが、傷口は瞬時に修復される。

『理解できないか。不完全な肉体に縛られた哀れな猿め』

グレイが嗤う。

空間が歪む。

無数の棘が全方位からカイを襲う。

回避不能。

カイの四肢が貫かれ、黄金の海へと縫い止められる。

「が、ぁ……ッ!」

痛みはない。だが、存在が削り取られていく喪失感がある。

『君の妹も、ここで幸せに暮らしている。君が撃ち殺したあの幻影ではなく、本物のデータとしてね。さあ、混ざり合おう』

カイの身体が、黄金色に侵食され始める。

意識が溶ける。

安らぎという名の毒。

だが、その浸食を、内側からの冷たいノイズが食い止めた。

(……やだ)

エ・ナだ。

カイの中にいる彼女が、自身のコードを盾にして展開している。

(こんなの、生きてるって言わない。傷つくことも、お腹が空くこともないなんて……そんなの、ただの死体置き場じゃない!)

エ・ナの拒絶が、カイの輪郭を再定義する。

黄金の棘が砕け散った。

「聞いたか、グレイ」

カイは海面を蹴り、再び空へ舞う。

右手に、全ての演算リソースを集束させる。

「泥にまみれて這いずり回るのが、俺たちの生き方だ。お前の綺麗な棺桶には入りきらねえよ」

カイとエ・ナ、二つの意識が完全に同期する。

妹の記憶も、兵器としてのコードも、全てを燃料にくべる。

「最終境界(ファイナル・パーティション)……実行ッ!」

カイの一撃が、グレイの胸板――サーバーのコアにあたる部分を貫いた。

黒いノイズが爆発的に広がる。

黄金の世界に、どす黒い亀裂が走る。

『バカな……管理者の権限を……上書きしただと……!?』

グレイの巨体が崩壊を始める。

修復が追いつかない。

カイが流し込んだのは、破壊プログラムではない。

「ここには居られない」という、強烈な排斥命令。

月面サーバー全体が震動する。

繭たちが輝きを取り戻し、次々と地上へ向かって逆流を開始した。

魂の解放。

光の雨が、空へ登るのではなく、地上へと降り注ぐ。

『おのれ……おのれぇぇぇッ!』

グレイの断末魔が、ノイズの彼方へ消えていく。

世界が白くフェードアウトしていく。

カイの意識もまた、限界を迎えていた。

地上へ戻らなければ。

カイは光の渦へ向こうとする。

だが、身体が動かない。

何かが、彼を引き止めている。

振り返る。

そこに、エ・ナが立っていた。

彼女はカイの手を握っているのではない。

カイの身体から伸びるケーブルを、静かに切り離していた。

「……おい、何をしている」

嫌な予感が背筋を走る。

エ・ナは微笑んでいた。

いつか見た、無邪気で、少しだけ寂しそうな笑顔。

(カイ。みんなを戻すには、誰かがここでドアを開けてなきゃいけないの)

「ふざけるな! 一緒に帰るんだろ!」

カイが手を伸ばす。

だが、その手はエ・ナの身体をすり抜けた。

彼女はもう、カイの脳内にはいない。

サーバーの中枢と同化し、崩壊する世界を支える柱となっていた。

(楽しかったよ、カイ。色んな景色を見せてくれて、ありがと)

「エ・ナ!」

(バイバイ。私の、最高の相棒(デバッガー))

エ・ナが指先で、カイの胸をトンと突く。

瞬間、カイの意識は猛烈な勢いで弾き飛ばされた。

遠ざかる黄金の海。

その中心で、一人の少女が手を振っているのが見えた気がした。

次の瞬間、カイの意識は暗黒の宇宙へと放り出された。

第12話:Digital Shaman(デジタル・シャーマン)

月が、本来の蒼白さを取り戻していた。

かつて人類の魂を吸い上げ、黄金色に輝いていた「彼岸」サーバーは、今はただの静かな衛星として夜空に浮かんでいる。

スラム街の瓦礫撤去作業が進む音。

復興クレーンの駆動音が、朝霧の中に響いていた。

「……同期(シンクロ)終了」

カイは首筋からケーブルを引き抜く。

目の前で痙攣していた男が、安らかな寝息を立て始めた。

アケロン・コープが引き起こした「全人類同期計画」。

その際、強制的にアップロードされかけた魂の一部が、肉体に戻った後も断片的なバグとして残留している。

それを丁寧に除去し、安定化させるのが、今のカイの主な仕事だった。

「エラーなし。……いい夢を見ろよ」

かつてのように「メモリの無駄だ」とは吐き捨てない。

カイは男に毛布をかけ、報酬の入った端末をポケットにねじ込んだ。

アケロンは解体され、グレイも消滅した。

だが、世界にはまだ無数の傷跡が残っている。

デバッガーの仕事がなくなることはない。

***

市街地を見下ろす丘。

そこには、今回の事件でロストした人々や、過去にデータ化され行方不明になった者たちを悼む「メモリアル・アーカイブ」が建設されていた。

無数のクリスタル・プレートが、朝陽を反射して輝いている。

カイは、一枚の古いデータチップを取り出した。

妹、ミナのバイタル・データ。

そして、エ・ナの素体となったオリジナルの記録。

「……今まで、悪かったな」

カイはチップをスロットに差し込むのではなく、アーカイブの献花台へと置いた。

物理的な奉納。

それは、彼女を「データ」として再生するのではなく、「死者」として眠らせるという意思表示だ。

「もう、追いかけない。お前はここにいていい」

風が吹く。

チップが微かに震え、そして静止した。

カイの脳内を長年支配していた焦燥感が、風と共に溶けていく。

妹の幻影を撃ち抜いたあの日から、カイの中で時間は動き出していた。

「じゃあな、ミナ」

カイは背を向ける。

振り返らない。

その背中は、以前よりも少しだけ軽く見えた。

***

新しい仕事場。

気象観測塔を改装したその部屋は、以前の地下室よりも少しだけ日当たりが良かった。

カイはコンソールに向かい、次の依頼データを整理していた。

ふと、手が止まる。

静かだ。

あまりにも、静かすぎる。

(……チッ)

舌打ちをして、コーヒーを流し込む。

エ・ナがいなくなってから、三ヶ月。

脳内のサンドボックスは完全にクリーンだ。

システムログは全て正常(オールグリーン)。

不具合も、ノイズも、勝手なハッキングもない。

「……快適すぎて、吐き気がする」

カイは自嘲し、視線をHUD(ヘッドアップディスプレイ)に戻した。

その時だった。

『System Update... Complete.』

頼んでもいないアップデート通知。

直後、視界の端に違和感が走る。

水平儀(ジャイロ)の表示。

それが、右に〇・一度だけ傾いていた。

「……は?」

カイは目を凝らす。

故障ではない。

この傾き。かつてエ・ナが「こっちの方が可愛げがある」と言って、勝手に書き換えた設定数値と全く同じだ。

カイが何度直しても、またすぐに書き換えられていた、あの悪戯のようなバグ。

「おい」

カイは虚空に向かって問いかける。

返事はない。

アイコンも出ない。

だが、その傾いた水平儀だけが、頑として直ろうとしなかった。

カイの口元が、ゆっくりと歪む。

それは呆れであり、諦めであり、そして救いのような笑みだった。

「……しぶといウィルスだ」

カイは首筋のポートを撫でる。

消えていない。

彼女は、彼岸のサーバーから世界を支えつつ、その欠片をカイの中に残したのだ。

あるいは、カイの脳そのものを、自分の「家」としてマーキングしたのかもしれない。

「了解(ラジャ)。デバッグが必要だな」

カイはコートを羽織り、端末を掴む。

傾いた視界のまま、ドアを開ける。

***

スラムの雑踏。

朝焼けが、錆びついた街を黄金色に染めていく。

それは、あの月面サーバーで見た偽りの楽園よりも、ずっと汚くて、ずっと美しい光だった。

カイは歩き出す。

一人ではない。

視界の隅にある小さな「傾き」と共に。

ふと、脳内の奥底で、鈴を転がすような笑い声が聞こえた気がした。

カイは一度だけ足を止め、空を見上げる。

「……行くぞ、相棒」

風に乗って、新しい依頼の通知音が鳴り響いた。

(完)


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