抜擢の代償 ―23歳、私は管理職になった第5話「副店長が『教えてほしい』と言った朝」
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パソコンの前で、二人
翌日から、発注の作業を、佐藤さんと並んで行うようになった。
小さな事務所に椅子を二つ並べる。佐藤さんが画面を見ながら説明し、私はメモを取りながら、実際に数字を入力していく。
「ここの数字、なんでこの発注量にしたか分かりますか」
「いえ、正直、分からないです」
「じゃあ、一緒に見ていきましょう」
「分からない」と言えるようになった自分がいた。それは、あの倉庫での屈辱を経て、ようやく手に入れたものだった。
その様子は、当然、他のスタッフの目にも触れた。店長が、副店長に一から教わっている。以前の自分なら、その視線を何よりも恐れていたはずだ。だが今は、不思議と気にならなかった。
作業の回数が増えるにつれて、佐藤さんとの会話も、業務以外のことに広がっていった。張り詰めていた空気が、少しずつ、ほどけていった。
崩れなくなった棚
変化は、小さなところから見え始めた。
ある日の閉店作業中、新人のアルバイトが、陳列棚の商品をうっかり崩してしまった。畳んであったTシャツの山が、いくつも崩れて足元に散らばった。
「すみません……」
新人が慌てて謝る前に、通りかかった別のパートスタッフが、何も言わずにしゃがみ込んで畳み直し始めた。
「大丈夫大丈夫、こういうのよくあるから」
以前なら、崩れた棚はそのまま放置され、翌朝まで誰も気づかないことも珍しくなかった。今は、誰かが崩せば、誰かがすぐに直す。それが、当たり前の光景になっていた。
その光景を事務所の窓越しに見ながら、私はしばらく手を止めていた。何かが確実に変わったのだと、初めて実感として腑に落ちた瞬間だった。
エリアマネージャーの一言
しばらくして、上司の巡回があった。
いつものように腕を組んで売り場を回った後、事務所で順位表を渡す上司の表情が、以前とは違っていた。腕組みを解いたまま、珍しく口元が緩んでいた。
「お前の店、もう真ん中より上だぞ」
紙を受け取った私に、上司はもう一言付け加えた。
「佐藤と、ちゃんと話すようになったんだってな。店回ってて分かるよ、空気が違う」
思わず顔を上げた。上司は、発注のことも、在庫のことも、何も触れなかった。ただ、佐藤さんと自分の間の空気が変わったことだけを、見抜いていた。
「顔つきも、だいぶマシになったな。前は今にも倒れそうな顔してたけど」
そう言って、軽く肩を叩いていった。あの日、「お前の顔、あの頃の俺にそっくりだよ」と言った同じ人が、今度は違う顔で私を見ていた。それだけで、十分だった。
数字が上向いたのは、発注の精度が上がったからだけではなかった。それより先に、佐藤さんと向き合うようになったことの方が、店の空気を変えていた。上司はそれを、誰よりも早く見抜いていた。
逆転
ある日の閉店後、伝票の整理をしていた佐藤さんが、ふと手を止めた。
「店長、ちょっといいですか」
その声のトーンに、一瞬、体がこわばった。あの倉庫の記憶が、まだ完全には消えていなかった。
だが、佐藤さんの表情は、あの時とは違っていた。少し、ばつが悪そうな顔をしていた。
「シフト作成なんですけど……正直、苦手なんです。毎回、パズルみたいになっちゃって。今度、教えてもらえますか」
一瞬、何を言われたのか、うまく理解できなかった。
教えてください、と頭を下げ続けてきたのは、自分の方だった。その自分に、今度は佐藤さんが同じ言葉を向けている。
胸の奥が、じんわりと熱くなった。
「もちろん!」
思ったより大きな声が出た。自分でも驚くくらい、はっきりとした声だった。
シフト作成は、店長になる前から、私にとって数少ない得意なことの一つだった。誰がいつ休みたいか、繁忙時間はいつか、スタッフ同士の相性はどうか。そういう情報をパズルのように組み合わせていく作業が、性に合っていた。
「ここ、まず希望休を全部埋めてから、繁忙時間の穴を見ていくんです」
「なるほど……そうやるんですね」
佐藤さんが、真剣な顔でメモを取っていた。あの、店で一番のベテランが、自分の言葉を聞き逃すまいとしている。その光景を、少し離れたところから見ている自分がいるような、不思議な感覚があった。
発注は、佐藤さんが教えてくれる。シフトは、私が教える。そのやり取りが積み重なるにつれて、佐藤さんが以前のように、視線を逸らさなくなっていることに気づいた。
休日の電話
その電話がかかってきたのは、久しぶりの休日、まだ布団の中でうとうとしていた朝のことだった。
画面に「佐藤さん」の文字が浮かんでいるのを見て、一瞬、体がびくりと反応した。休日に電話がかかってくるということは、何かトラブルだろうか。あの倉庫の記憶が、一瞬だけ頭をよぎった。
「はい、直井です」
「店長! 聞いてください、聞いてください!」
電話の向こうの声は、これまで聞いたことがないくらい弾んでいた。息が少し上がっている。
「私たちの店舗、ベスト店舗賞取りました!」
一瞬、言葉の意味が頭に入ってこなかった。布団から半分体を起こした状態のまま、私は「え」と間の抜けた声を出した。
ベスト店舗賞。全国の店舗の中から、数店舗だけが選ばれる、名誉ある賞だった。あの、段ボールが通路を塞ぎ、エリアマネージャーに毎週のように叱責され、倉庫裏で佐藤さんに三十分近く追及された、あの店が。
「本当ですか」
声が、うまく出なかった。喉の奥が、急に熱くなった。
「本当です! 今、本部から連絡が来て。みんなで喜んでます!」
電話の向こうから、他のスタッフの声も聞こえてきた。誰かが叫んでいる。誰かが笑っている。
布団の上に座ったまま、私はしばらく、言葉が出てこなかった。
「みんなのおかげです。本当に、ありがとうございます」
やっと絞り出した声は、思ったより震えていた。
電話を切った後、私はしばらく、天井を見上げていた。
あの夜、玄関に立ち尽くしたまま眠れなかった夜のことを、思い出していた。分からないと言えなかった夜のことを。倉庫で頭を下げ続けた三十分のことを。体が重くて、ドアノブを握るのがやっとだった、あの朝のことを。
あの全部が、ここに繋がっていた。
