「なろう系の長文タイトル」は文化の劣化なのか
Web小説のタイトルが長いことをあげつらって、「日本語の劣化」「読者の知性の低下」と嘆く言説は定期的に流れてくる。先に言っておくと、私は劣化だとは思っていない。思っていないのだが、長文タイトルにすっかり適応した自分の読み方を眺めていると、手放しで笑い飛ばせない何かもある。今日はその両方の話をする。
白状すると、私も苦手だった
まず白状しておく。私は長文タイトルが苦手だった。
あらすじが丸ごと載った100字級のタイトルがランキングにずらりと並ぶ光景に、長いこと馴染めなかった口である。
それが今はどうか。自分で書く側に回り、しれっと長いタイトルを付けている。転向である。手のひら返しと言われたら、返す言葉が特にない。
なぜ転向したのかという話が、そのまま本題になるので少し待ってほしい。その前に、片付けておきたい言説がある。
長文タイトルの棚を初めて見た人が言うことは、だいたい決まっている。
「品がない」「あらすじをタイトルに書くな」「昔のタイトルは美しかった」「日本語の衰退だ」「読者がバカになった」。
出た。
読者の知性を勝手に埋葬するんじゃない!!!!
……と、叫びたくなるのをこらえて、順番に考えてみる。気持ちはわかるのだ。私も元・そっち側である。『雪国』の隣に100字タイトルを並べたら、そりゃ見栄えはしない。
だが、「見栄えがしない」と「文化が劣化した」の間には、かなりの距離があるのである。
ここからがようやく本題だ
タイトルが長くなったのは、読者の知性とは関係がない。本が並ぶ「棚」が変わったからである。
書店の本には、表紙がある。帯がある。裏表紙のあらすじがあり、平積みなら書店員のPOPまで付く。読者はそれらを全部見てから、買うかどうかを決められる。
Web小説には、それが全部ない。
あるのは、一覧画面に表示されるタイトル1行だけ。読者はその1行を見て、指を止めるかどうかを一瞬で決める。つまりWeb小説のタイトルは、表紙と帯とあらすじとPOPの仕事を、たった1行で全部やらされているのである。
機能が変われば、形式は変わる。それだけの話だ。
しかも判断にかけてもらえる時間は、書店の比ではなく短い。スマホでランキングをスクロールする指は、1タイトルあたり1秒も止まらない。その一瞬で「どんな話か」「誰が主人公か」「何が気持ちいいのか」を伝えられなければ、そもそも1話目を開いてもらえない。
あの長さは怠慢ではなく、表紙のない売り場への適応である。あらすじをタイトルに書くなと言うが、あらすじを書く場所がタイトルしかないのだから、そこに書くしかないではないか。
私が転向した理由も、要するにこれだ。書く側に回って、棚の仕組みを身体で理解した。それだけの話である。
長いタイトルは、昔からある
そもそも、長いタイトルは現代の発明ではない。
1964年の映画に『博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか』という邦題がある。60年前である。しかもキューブリックの代表作であり、この長さ自体がふざけた演出として堂々と機能している。
「長いタイトル=知性の低下」という等式が成り立たないことは、極端な話、この一本だけでも示せてしまう。
「劣化」と言うなら、先に根拠がいる
似たことを前にも書いたが、大事なので繰り返す。
「品がない」は、好みの表明である。これは完全に自由だ。私も人の好みに文句をつける気はないし、なにせ自分が苦手だった側なので、つけられる立場でもない。
だが「文化の劣化」「読者の知性の低下」は、事実の主張である。事実を主張するなら、根拠がいる。
劣化と言うからには、「何が」「いつと比べて」「どの指標で」落ちたのかを示す必要がある。タイトルの平均文字数が伸びたことなら、たぶん示せるだろう。だがそれは「変化」であって「劣化」ではない。変化を劣化と呼ぶためには、価値が下がったことを別に示さなければならない。
「読者の知性が下がったからタイトルが長くなった」と言うなら、なおさらだ。知性の低下を示すデータと、それがタイトルの長さに繋がる因果の説明がいる。「棚が変わったから」という、もっと単純で検証しやすい説明が目の前に転がっているのだから。
――擁護は、ここまでである。
とはいえ、自分の指を見ると少し怖い
ここからは、少し薄気味悪い話をする。
長文タイトルの棚に出入りしているうちに、私の読み方は変わった。今の私は、わかりやすくないタイトルだと、読む気がある程度失せるのである。
タイトルから内容が見えない作品の前を、指が素通りしていく。棚の仕組みからすれば当然の挙動で、上で書いた理屈をそのまま自分に当てはめれば「適応です」で終わる話だ。
終わる話なのだが、自分のこととなると、どうも他人事のように言い切れない。
わからないものを、わからないという理由で開かなくなる。便利さに最適化された結果ではあるのだが、最適化と引き換えに何かを差し出しているような感覚が、うっすらとある。危機感と言うと大袈裟かもしれない。ただ、疑問と呼ぶには少し重い。
断っておくが、これは「だから長文タイトルは悪」という話ではない。文化の劣化を証明するデータにもならない。ただのn=1の観察である。劣化ではないと理屈で言い切った舌の根も乾かぬうちに、自分の変化には不安を覚えている。この二つは、矛盾なく同居する。
もしかすると、「劣化だ」と嘆いている人たちの中にも、本当はこの不安のことを言いたい人が混ざっているのかもしれない。だったら「劣化」などという雑な言葉で読者ごと埋葬せずに、最初からそう言えばいいのに、とは思うが。
棚が変われば、また変わる
長文タイトルは、読者がバカになった証拠ではない。表紙のない棚で本を手に取ってもらうための適応である。
だから、棚がまた変われば、タイトルもまた変わる。実際、Web発の作品が書籍化されるとき、短い題に改題される例はいくらでもある。表紙と帯が仕事をしてくれる売り場では、タイトルは1行広告の任務から解放されるのである。
文化は劣化していない。売り場が変わっただけだ。嘆く前に、棚を見た方がいい。
そして棚を見たら、ついでに自分の指も見てみるといい。私の指は、わかりやすいタイトルの前でしか止まらなくなりつつある。劣化かどうかは知らない。ただ、見て見ぬふりをしていい変化だとも、あまり思えない。
まあ、そのわかりやすいタイトルを毎回うんうん唸りながら捻り出しているのが当の私なのだから、世話のない話である。
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