AIに自分の過去記事を読ませたら、キモキモ☆アレンジになった
AIに自分の過去記事を読ませれば、自分に近い文章が出てくる。そう思っていた。
AIに自分の過去記事を読ませれば、自分に近い文章が出てくる。そう思っていた。
少なくとも、いかにもAIが書きましたという文章からは離れるはずである。過去に自分が書いた記事が何本もあって、好きな言い回しも、段落の長さも、話の運び方も全部そこに入っている。だったら、それを読ませればよい。理屈としてはかなり素直だ。
実際にやってみると、文章はたしかに変わった。私が使いそうな言葉が増え、妙に礼儀正しく話を畳む癖も減った。ところが、読み進めるほど、別の嫌さが出てきた。
似ている。似ているのだが、私ではない。
過去の私から目立つ部品を集め、見えやすいところへ配置した「本人風」の文章になっていた。
きっかけは、GitHubで見つけた文章Skillだった
始まりは、GitHub Gistで見つけた「cognitive-rhythm-writing」という文章生成用のSkillである。
文章の「緩急」を、短文と長文の配合だけで説明していないところが面白かった。人が文章を読むときの頭の動きを、観察、迷い、断定、見直しという具合に切り替える。説明が続いている途中にも、まだ答えの出ていない疑問を残しておく。さらに、その一文が対象について新しいことを伝えているのか、単に「ここまで説明しました」「次はこれを書きます」と文書の進行を実況しているだけなのかを分ける。
「文章に緩急をつけろ」と言われるより、かなり作業へ落としやすい。短文を増やせばよいという話でもない。内容が動いた結果として文の調子が変わるのであって、先にリズムだけを飾らないという考え方だった。
そこでSkillを取り入れ、そのSkillそのものを題材に記事を自動生成させてみた。これが第一稿である。
第一稿は、それまでの自動生成文とは明らかに違った。説明が同じ高さのまま続かず、途中で判断が揺れ、何を試しているのかも追いやすい。新しい道具を入れた効果はあった。
ただ、整いすぎていた。
私が話しているというより、よくできた文章生成の実演を読んでいる感じが残った。
自分の文章と混ぜればよい、と思った
では、Obsidianにある私の過去記事を読ませればどうか。
公開前に自分で確認した記事を二本選び、言葉遣いではなく、文章の運び方を見てほしいと頼んだ。理屈を長めに積んだあと、急に口調が崩れる。途中で書き手自身にも都合の悪い話が混じる。最後を教訓できれいに閉じず、少し居心地の悪いまま置く。そこへ先ほどの認知リズムを組み合わせれば、自動生成の骨格と私の文章が、いい感じにマリアージュするのではないか。
第二稿は、第一稿よりだいぶ読みやすくなった。私が見ても、前より近いと思った。
近づいたからこそ、変なところもよく見えた。
AIは、過去記事の中から目立つ短い言い切りや、急なツッコミや、語尾の癖を拾っていた。そして、それを新しい記事の「私らしさ」が必要そうな場所へ置いた。元の記事では、そのとき本当にそう思ったから出てきた言葉だったはずなのに、別の記事へ移すと急に持ちネタの再演になる。さらに、過去文にない勢いまで足されていた。
文章の特徴は増えた。しかし、書いている本人の判断は増えていない。
ここでようやく、過去記事を読ませる方法のまずさに気づいた。
私は文法で文章を組んでいない
自分の文章は、文法もへったくれもない。
もちろん、意味が通じるかどうかは見る。けれど、係り受けを考えて文を組み立てた覚えはほとんどない。書いた文を頭の中で復唱して、耳ざわりのいいリズムになっているかは確認する。引っかかったら助詞を動かす。長すぎても、そのまま一息で流れたほうがよければ切らない。逆に、文法上はつながっていても耳の中で気持ち悪ければ壊す。
だから過去記事を構文の見本として渡しても、AIが拾えるものと、私が実際に見ているものが違う。
AIから見れば、急な短文や砕けた口調は再利用できる特徴である。私にとっては、その場所で頭の向きが変わった結果にすぎない。同じ形を別の場所へ移しても、同じ音にはならない。前に何を書き、何を飲み込み、どこで自分の理屈に嫌気が差したかによって、そこへ置ける一文は変わる。
表面だけを集めると、濃くすればするほど本人から離れていく。
こうして第二稿は、だいぶよくなったのに、同時にキモキモ☆アレンジでもあった。あまり似ていない第一稿より、少し似ている第二稿のほうが、その気持ち悪さは強い。声だけ似せた物真似が、こちらの知らない話を自信満々に始めるのに近い。
過去文は、材料ではなく拒否判定に使う
三稿目では、過去記事の使い方を変えた。
口癖を借りない。印象に残る言い切りも移植しない。過去記事を分解して「私らしい要素」の一覧を作り、それを新しい文章へ足すこともしない。まず今回起きた事実と、そのとき考えたことだけで草稿を作る。過去記事は、出来上がった文を見て「私はこんなふうに話を運ばない」「ここは説明が親切すぎる」「この決め台詞は書いた本人より、本人らしさを演じたいAIの都合で置かれている」と弾くために使う。
過去文は色見本ではなく、違う音が鳴ったときに気づくためのものになった。
この使い方なら、AIが私になるわけではない。新しい記事で何に引っかかるかは、過去記事の中にはまだ書かれていないからである。ただ、AIが勝手に用意した「私っぽさ」と衝突する回数は減らせる。これは似たようで、かなり違う仕事だと思う。
文章Skillのほうも同じだった。認知リズムを入れること自体は役に立つ。しかし、規則に書かれた短文、迷い、転回、余韻を目に見える形で並べ始めると、文章はまた実演になる。使った装置が読者に見えるなら、効かせすぎている。
それでも、最後は耳で読むしかない
今回の三稿は、すべてAIが書いている。同じ題材で、何を参照させるかだけを少しずつ変えた。
第一稿はSkillの効き方が前に出た。第二稿は私の過去文の特徴が前に出た。第三稿では、どちらも前へ出ないように削っている。自動生成としては、たぶん三稿目がいちばんましである。
それでも、これをそのまま私の文章と呼べるかはわからない。
頭の中で復唱したとき、どこか一か所でも「うまく書けています」という音がすると、そこから先が急にAIの文章に見えてくる。その一か所を見つける感覚は、過去の記事を大量に読ませれば自動で取り出せるものなのだろうか。いまのところ、私自身が読んで気持ち悪がるほうが早い。
AIに自分の文章を教える作業は、私らしい文を書かせることではなく、私が嫌がる偽物を少しずつ覚えさせることなのかもしれない。
それでどこまで近づくのかは、まだわからない。少なくとも、物真似が上達する方向へは戻したくない。
参考
※本文は上記Gistの考え方を手元の文章生成環境へ取り入れ、三度の自動生成と、Obsidian内の本人確認済み記事を使った調整過程をもとに作成した草稿です。
