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波説ー世界の捉え方ー

自分の中に、17歳から温め続けている考えがある。
自分ではこれを、 「波説」 と呼んでいる。

名前だけ聞けば、「宇宙は物理的な波でできている」という話に聞こえるかもしれない。けれど、少し違う。

波説を今の自分なりに一文で表現するなら、こうなる。

世界とは、異なる周期・時間スケール・空間スケールを持つ無数の変化が重なった巨大な複合波であり、私たちが "世界" と呼んでいるものは、その中から観測可能なパターンを切り出したものである。

ここでいう「波」は、必ずしも水面の波や電磁波のような、物理学上の波動だけを意味しない。

もっと広く、時間や空間の中で変化するパターンを波として捉えている。

世界には、心拍のように明確な周期を持つものもあれば、人の一生のように一度きりに見える変化もある。突然起こる事故のように、周期性を見いだしにくい出来事もある。
だから「すべての出来事は同じ形を繰り返している」と言いたいわけではない。

むしろ、
複雑な世界を、異なる周期やスケールを持つ無数の変化が重なったものとして見る。
これが波説の出発点である。


1. 「物」ではなく「変化」から世界を見る

僕らは普段、世界を「物」の集合として認識している。

机がある。
家がある。
木がある。
人がいる。

そのため、「物がまず存在していて、それらが動いたり変化したりする」という順序で考えがちだ。
しかし、見方を逆転させることもできる。

まず世界には変化がある
その変化の中に、一定時間似た状態を保ち続けるパターンがある。
僕らはそれを「物」と呼んでいるのではないか。

たとえば、心臓は拍動している。
人間は呼吸する。
眠って、目覚める。
昼と夜が繰り返される。
月は地球を回り、地球は自転しながら太陽を回る。
季節が巡る。
生物は生まれ、成長し、老いて死ぬ。
さらに長い時間で見れば、種が生まれ、絶滅し、文明が生まれ、変化し、衰退する。
もっと長く見れば、山脈が形成され、削られ、大陸そのものが移動していく。

世界には、ミリ秒単位の変化から億年単位の変化まで、途方もない数の時間スケールが同時に存在している。

そして、それらは完全に独立しているわけでもない。
心拍は身体という大きなシステムの中にある。
身体は一日の生活リズムの中にあり、その生活は社会のリズムや季節の変化の影響を受ける。
社会は地球環境の中にあり、地球は太陽系の運動の中にある。
波の中に波があり、その波がさらに大きな波の中に存在する。

波説では、まずこのように世界を見る。


2. 音から画像へ、画像から現実へ


波説のイメージ

波説のイメージを最も説明しやすいのが、フーリエ変換だと思う。

最初は「音」を考えると分かりやすい。
たとえば、ピアノで一つの音を鳴らす。
僕らには一つの音として聞こえるが、その波形は単純な正弦波ではない。
基本となる周波数に、さまざまな周波数成分が重なっている。その組み合わせによって、同じ「ラ」の音でも、ピアノとバイオリンでは音色が違って聞こえる。

複雑な音であっても、フーリエ変換を行えば、
どのような周波数の波が、どれくらい含まれているか
という形に分解して考えることができる。

逆に、分解した波を正しい振幅と位相で重ね合わせれば、元の複雑な波形を再構成できる。

つまり、
複雑な一つの波を、多数の単純な波の重ね合わせとして見ることができる。

ここまでは「音」なので直感的にも理解しやすい。
では、この考えを画像へ広げる。

白黒画像を考えてみる。
画像は、横方向 (x)、縦方向 (y) の各座標に明るさを持つ、

$$
f(x,y)
$$

という関数だと考えることができる。
白を大きな値、黒を小さな値として考えてもいい。

一見すると、人物写真と風景写真ではまったく形が違う。
しかし画像も、2次元フーリエ変換を使えば、さまざまな空間周波数の成分へ分解することができる。

2次元画像のフーリエ変換

細かく白黒が入れ替わる模様は高い空間周波数を持ち、ゆっくり明暗が変化する部分は低い空間周波数を持つ。
さらに、その波がどの方向を向いているかという情報も含まれる。
そして、異なる方向、異なる細かさ、異なる位相を持った波を十分な数だけ重ねていけば、複雑な画像を再構成することができる。

木の写真も、人の顔も、文字も、抽象画も同じだ。
もちろん、「画像そのものが物理的な波でできている」という意味ではない。

重要なのは、
どれほど複雑に見える形であっても、周期的な成分の重ね合わせという別の座標系から記述できる
ということだ。

カラー画像なら、さらに情報量が増える。
たとえばRGBなら、

$$
R(x,y),\ G(x,y),\ B(x,y)
$$

という三つの値をそれぞれ持たせればいい。

自分が昔この考えを思いついたときには、まず白黒画像を、波の正負や強さによって明暗へ置き換えるイメージで考えていた。
そこに色を表す別の波を重ねれば、カラー画像も表せるのではないか、と。
厳密な画像処理としての説明は少し違うけれど、波説の原型となった直感はここにある。

では、静止画ではなく動画ならどうか。
画像が

$$
f(x,y)
$$

なら、動画は時間軸 (t) を追加して、

$$
f(x,y,t)
$$

と考えられる。

一枚目の画像。
その次の画像。
さらにその次の画像。
僕らは、それらが連続して変化しているものを「動画」と呼んでいる。

たとえば、映像の中で人が歩いている。
ある時刻では右足が前にある。
少し後には左足が前へ出る。
さらに時間が進めば、身体全体の位置も変わっていく。

一枚一枚だけを見れば違う画像だ。
しかし時間軸まで含めて一つの対象として考えるなら、
「人が歩く」という現象全体が、空間と時間に展開された巨大なパターン
だと見ることができる。

そして、このパターンにも時間方向の周波数が存在する。
歩行にはある程度の周期がある。
腕振りにも周期がある。
背景で木が揺れていれば、それには別の周期がある。
照明が変化していれば、それもまた別の時間変化として重なっている。
一つの映像には、空間的な変化と時間的な変化が同時に存在している。

では、ここからさらに次元を一つ増やしたらどうなるだろう。
動画には、

$$
x,y,t
$$

がある。

現実世界には奥行き (z) があるので、

$$
x,y,z,t
$$

になる。

3次元空間の状態が、時間とともに変化し続けている。
もちろん、本当の現実は「明るさ」一種類の値では記述できない。

ある位置には物質があり、
温度があり、
密度があり、
速度があり、
圧力があり、
電場や磁場があり、
さまざまな化学的状態がある。

だから本当に表現するなら、単一の関数ではなく、

$$
\mathbf{F}(x,y,z,t)
$$

のように、一つの座標に膨大な状態量を持つものになるだろう。
そして、その状態全体が時間とともに変化し続けている。

ここまで来ると、僕らが普段「現実」と呼んでいるものを、
時空間上に展開された途方もなく巨大な変動パターン
として見ることができる。

音。
画像。
動画。
立体。
そして現実。

次元と情報量が増えるほど複雑にはなるが、
「異なる変化の重ね合わせとして全体を捉える」
という発想自体は連続している。
これが、自分が波説を考えるときの最も基本的なイメージである。

ただし、ここには重要な注意点がある。
画像をフーリエ変換できることは、
「世界の本質が波である」ことの証明にはならない。

同じ画像をピクセルの集合として表現してもいいし、別の数学的な基底で表現することもできる。

だから波説は、
フーリエ変換から論理的に導かれた物理理論ではない。
フーリエ解析はあくまで、

複雑なものを、異なるスケールを持つ単純な変化の重ね合わせとして見ることができる

という直感を支える例である。

僕はこの「見方」を、現実全体にも適用してみたいと思っている。


3. 私たちが見ているのは、世界そのものではない

もし世界全体を巨大な複合波として考えるなら、次に問題になるのが、
僕らはその波をどこまで見ているのか
ということだ。

人間の目は、存在するすべての電磁波を見ることができるわけではない。
耳も、すべての周波数の振動を音として感じるわけではない。

空間的にも限界がある。
肉眼では細胞を見ることはできない。
原子を見ることもできない。

逆に、地球全体を一度に直接見ることもできない。
宇宙全体を見ることなど、なおさらできない。

時間についても同じだ。
一秒ごとに起こる変化は分かりやすい。
一日、数か月、数年という変化も記憶や記録を使えば認識できる。
しかし、大陸が移動する速度を日常生活の中で「動いている」と感じることはできない。

人間から見れば変化していない山も、数百万年という時間スケールで見れば絶えず形を変えている。
逆に、あまりにも高速に起こる現象も、僕らには一つの平均化された状態としてしか見えない。

つまり、人間は世界全体をそのまま観測しているわけではない。
特定の時間・空間・周波数の範囲だけを切り取って観測している。

世界そのものを (W) として、人間という観測系を (O) とするなら、
僕らが経験している世界は、

$$
O(W)
$$

と表現した方が近いのかもしれない。

僕らが普段「現実」と呼んでいるものは、
世界そのものではなく、人間が観測可能な形へ変換された世界
である。

ここで「物」という概念も少し怪しくなる。

僕らには机という一つの物体が見える。
しかしミクロに見れば、机は多数の分子や原子によって構成されている。
逆に大きなスケールで見れば、
机は部屋の一部であり、
建物の一部であり、
都市の一部であり、
地球上の物質循環の一部でもある。

では、どのスケールが「本当の机」なのだろう。
おそらく、どれか一つだけが正しいわけではない。
観測するスケールによって、世界の中から異なるパターンが浮かび上がる。

巨大な複合波の中から、人間が扱いやすいまとまりを見つけ、
「これは人」
「これは木」
「これは石」
「これは川」
と境界を引いている。

だとすれば、
物体とは、世界という巨大な波の中から、ある観測スケールにおいて一つのまとまりとして認識されたパターン
と考えることもできる。


4. 存在も、変化の中の一つのパターンとして見える

この考えは、先日書いた「境界の哲学 ―存在と生命と死―」という記事とも少しつながっている。

その記事では、物体の境界はどこにあるのか、というところから考えた。

たとえば、一個の石がある。
僕らは当然のように、
「ここまでが石で、ここからが空気」
と考える。

しかし細かく見ていけば、境界はそれほど単純ではない。
逆に視野を広げれば、その石は岩盤の一部かもしれないし、山の一部かもしれない。

つまり、
何を一つの存在として切り出すかは、観測するスケールによって変わる。
これは波説とも相性がいい。

世界全体を巨大な変化の重なりとして見るなら、
僕らが「物」と呼んでいるものは、
その中から比較的安定したまとまりを見つけて切り出したもの、
と考えることができる。

川は分かりやすい例だ。
昨日流れていた水と、今日流れている水は違う。
それでも僕らは同じ川だと思う。

炎も同じだ。
燃料や酸素を取り込み、燃焼生成物を外へ出しながら、一定時間「炎」という形を保っている。

人間も、食べ物や水や酸素を取り込み、老廃物を排出しながら生きている。
身体を構成する物質が入れ替わっても、昨日の自分と今日の自分を同じ自分だと感じる。

こうしたものを見ると、
存在とは、特定の物質そのものというより、時間の中である程度維持される構造やパターンなのではないか
と思えてくる。

波説の言葉を使えば、
物体や生命も、世界という大きな波の中に現れた、比較的安定した局所的な波形
として見ることができる。

生命について考えると、この見方はさらに広がる。
一人の人間には、生まれてから死ぬまでという時間的な変化がある。
個体だけを見れば、その変化には始まりと終わりがある。

しかし時間軸を広げれば、親から子へと生命はつながっていく。
遺伝情報が受け継がれ、知識や文化が伝わり、身体を構成していた物質も環境へ戻って別の循環へ入っていく。

一人の人生を一つの波として見るなら、
それは完全に孤立した波ではなく、もっと長い「生命」という流れの中に現れた一部分だと考えることもできる。

先日の記事では、この「個体の境界」や「生命の連続性」についてもう少し詳しく考えた。

波説の中心はそこではない。
ただ、
世界を固定された物の集合ではなく、時間の中で現れ、維持され、変化していくパターンとして見る
という点では、同じ見方の延長にあると思っている。


5. 波説は、世界を見るための座標系である

では、波説は科学理論なのか。

今のところ、自分はそうは考えていない。

「画像をフーリエ変換できる」
という数学的事実から、
「したがって宇宙の本質は波である」
と結論づけることはできない。

また、
「すべての出来事が一定周期で繰り返されている」
と主張するつもりもない。

量子力学でいう波動とも、ここでいう波は同義ではない。
それでも、自分がこの考えを「波説」と呼び続けているのには理由がある。

波には、
周期がある。
重なりがある。
干渉がある。
伝播がある。
小さな波が大きな波の一部になる。
複数の単純な波が重なれば、非常に複雑な形になる。

一部分だけを切り出せば始まりと終わりがあるように見えても、
視野を広げれば、それがより大きな波の途中であることもある。

そして、どの時間・空間スケールで観測するかによって、その姿はまったく違って見える。

この性質が、自分が世界に対して昔から抱いている感覚に最も近い。

だから、自分にとって波説は、
「世界の究極的な正体はこれだ」と断定する理論ではない。

むしろ、
世界を見るための座標系
である。

固定された「物」ではなく、変化を見る。
一つの出来事だけではなく、その前後に続く流れを見る。
目の前のスケールだけではなく、その中にある小さな波と、それを包んでいる大きな波を見る。

自分と他者、自分と世界の間に絶対的な境界があると最初から決めつけず、
どのスケールで、どのパターンを一つの存在として切り出しているのか
を考える。

そうすると、世界の見え方が少し変わる。

今ここにいる自分も、突然世界に現れたわけではない。
親がいて、その親がいて、そのさらに前へと生命が続いている。

自分の身体を構成している物質も、少し前までは自分ではない世界の一部だった。
そして今の自分が世界へ与えた変化も、直接的であれ間接的であれ、次の何かへ伝わっていく。

僕らが一つひとつの「物」として見ているものも、
もっと大きな視点では、一つの変化の途中なのかもしれない。

世界とは、固定された物体の集合ではなく、
異なる周期、異なる空間スケール、異なる時間スケールを持つ無数の変化が重なり合った、巨大な複合波なのではないか。

そして僕らが「現実」と呼んでいるものは、
その巨大な波のうち、
人間という観測者が、自らの時間・空間・感覚・認知のスケールによって切り出した一部分
なのではないか。

これが、15年ほど自分の中で考え続けてきた「波説」である。

完成された理論ではない。
むしろ、考えれば考えるほど新しい問いが生まれてくる。

時間とは、この波にとって何なのか。
因果関係とは、波の伝播として考えられるのか。
意識とは、複雑な波の中に生まれるどのようなパターンなのか。
僕らが「同じ存在」と呼ぶためには、どの程度まで波形が維持されていればいいのか。

そして、
世界という波の一部でしかない人間が、その波の全体像を理解することはできるのか。

波説は、その答えではない。
今の自分にとっては、
そうした問いを考えるための、世界の捉え方そのものなのである。

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