陸の生い立ち
ここでは、YouTubeで話せないぼくの過去の話を、深く詳細に話したいと思います。
ぼくがどんな人間で、過去に何があったのかを全て書きましたので、よかったら読んでみてください。
家庭環境
神奈川の綾瀬市という、田舎町で生まれました。
割と大きな家で、姉が4人いる5人姉弟の末っ子でした。
両親はこんな感じでした。
・母
過干渉で、水泳、書道、進研ゼミや塾、野球などを無理やらされた。
そして、普段の会話はほぼゼロで、「ご飯!」「お風呂入りなさい!」のような業務連絡の会話しかしなかった。
どうしても家の跡取り息子がほしかったらしく、5人目に念願の男の子として、ぼくが生まれたらしい。
・父
基本無口で、プライドが高い。
いつも1人でいるイメージで、友人を見たことがない。何かあればすぐキレる。
外づらはいいが、家族には横柄。
ぼくが青学に受かったとき、異常なほど喜んでいた。
きっとぼくが大学に受かったことが嬉しかったんじゃなくて、「有名大の息子の親」という喜びだと思う。
父親とも会話はゼロ。
家族で温泉に行って、男湯で2人きりになっても無言。
ほんとに、両親と深く話した記憶がない。
家庭としては割と裕福なほうで、欲しいものは買ってくれて、留学に行きたいと言ったときも、その費用を出してくれた。
家も大きく、クラスメイトからは「いいなぁ」と言われていて、ぼく自身も「恵まれているのかもしれない」と思っていた。
その幻想が覚めたのが、30歳になってからだったが、それはまた後半で書きます。
小学〜高校期
小学生からゲームが好きで、自宅や友達の家ではゲームばかりやっていました。
「こんなんじゃもやし男になっちゃうわよ!」という訳のわからないフレーズが母親の口グセで、
とある時、無理やり小学校の野球クラブに入れられました。
「今から入部の電話するから!」と母親が電話してる中、「やめてやめて!」と泣きながら嫌がったのを覚えています。
「もっと男らしくなりなさい!」とよく言われていて、母の”男らしさ”が野球だった、もっと言えば、近所の長谷川くんという男の子がいたんですが、その子が「スポーツ万能」「頭脳明晰」っていう感じの男の子だった。
きっとこの長谷川くんが、母親の「男としての理想像」だったのかなと思います。
入部の電話をした相手も、その長谷川くんのお母さんでした。
特にやりたいこともないので、そのまま何となく高校まで野球部を選ぶことになります。
めっちゃ下手なんですけどね。ヒットも3本くらいしか打ったことないです。
そして、高校時代の英語の先生の授業が死ぬほど下手だなと思っていて、「絶対ぼくの方がうまくできるわ」と思い、英語の先生になろうと思い立ちます。
青山学院時代
青学の教育学部に受かって、華やかなキャンパスライフが始まるかと思ったら、友達ができず。
唯一の友達の土屋くんというやつと遊ぶ以外は、ほとんどゲーセンにいました。
ていうか、授業をサボってゲーセンにいました。それか家でゲームしてるか、バイトしてました。
大学の授業ってほんとつまらないんですよね。教授も教えることに熱を注がないから、ずっと単調。
なんでみんな真面目に受けれるんだ?と思ってました。
で、心理学のゼミに入るんですが、卒論の課題に被験者(友達)が必要で、ぼく友達がいなかったからそれが原因で留年しました(怒り)。
サークルとかも入ってなかったですからね。
5年目は全くやる気が出ず、大学をやめてお笑い芸人になりたいとか親に言ってたんですが、まあ大反対されます。
6年目にとある教授に拾ってもらって、ゼミに入れてもらいました。
「笑いの分析」みたいな、ふざけた卒論を作ってプレゼンして、ゼミ生からクスクス笑われてました。
そりゃ2年留年してる男が、教育学部のゼミでお笑いの卒論出してるんだもん。今考えてもやばいやつすぎる。
就活で50社全落ち
3年生のとき、周りが就活しだしたので、ぼくもしないといけないかなと思って、流されて就活をした。
もちろん自分について何も分かってなかったので、自己PRでは、
「ぼくには圧倒的な優しさがあります!!」
って言い続けてた。
もっとやばいのが、
「ぼくの圧倒的な優しさで、御社に貢献し、国益を増やします!」
とかマジで言ってた。
で、あるコンサル会社の面接官に、
「なんで優しさが、国益になるの?」
「論理がつながってないよね?」
とかガン詰めされて、号泣したこともある。
とにかく頭が悪く、言語化力がなかった。
基本エントリーシートで落ちた。そりゃそうだ。
でも上のコンサル会社だけ、
「キミ、ほんと訳わからないけど、なんか気になるなぁw」
と、なぜかぼくを面白がって3次面接までいった。
まあ結局、合計50社くらい受けて全落ちした。
イベント制作会社でバイト
このときに、イベント制作会社で派遣バイトしてまして、ここで、この世のありとあらゆる仕事をやりました。
・ティッシュ配り、チラシ配り
・イオンモールとかでやってる、お笑いライブとかショーの運営
・不動産の商談している親の子どもと遊ぶ
・倉庫でバナナをひたすら房から切る
・ヤ○ト運輸の倉庫作業
・テレビ局の夏のイベントの運営
・企業の表彰式とか、宴会の運営、ウェイター仕事
・一時期流行った、ポップコーン屋の行列の整理
などなど。
そんなんをやりながら6年目になんとか卒業しました。
もう芸人になると決めてて、そのための学費(40万)を稼ぐために、とりあえずどこかでバイトしようと思い、ディズニーで働きはじめました。
理由は、今までコンビニとか、ティッシュ配りとかやってたけど、みんな通勤途中とか、仕事中で暗いんですよね。
もっとみんなが楽しがってるところで働きたいと思ったから、ディズニーを選びました。
(当時は全然ディズニー好きじゃないし、何も知らなかった…)
吉本芸人になる
ディズニーキャスト時代のことは、詳しくは書けないですが、ほんとに楽しい。
神奈川の実家から2時間半かけて、行ってました。
なのに毎日、行きたいと思うくらいで。
1年で辞めるつもりだったんですが、楽しすぎて4年やりました。
まあディズニーの話はさておき、
1年働いて貯めた40万を払って、吉本のお笑い養成所のNSCっていうところに入学しました。
同期は、
・令和ロマン
・ヨネダ2000
とかです。
ぼくの目標は「M-1優勝」でした。あの舞台に立ちたいと思ってました。

吉本時代は、5人の相方とコンビを組むけど、即解散。
理由は、ネタがつまらないから。
そう、自分にはネタを作る才能がなかった。
でも「誰かに乗っかる形じゃなくて、自分の手で成功したい!」っていう思いがあって、相方たちには「ぼくがネタを書く」って言い張った。
でも出るライブ出るライブで、スベりまくる。いつも最下位。
「いつか当たるネタがつくれるはず!」って思って、やり続けるけどダメ。
そんな中、一緒にやり続けてくれたのが最後の相方。
芸人を5年間やって、初めてM-1グランプリの1回戦に出場(なぜならすぐ相方がいなくなるから)。
結果は1つも笑いが起きずに、1回戦敗退。

当時通ってた、雀荘の店員さんがわざわざ観に来てくれたけど、恥ずかしすぎて挨拶もせず帰ってしまいました。
「全然ウケなかったすね。せっかく来てくれたのにごめんなさい。」とかも言えない自分でした。
プライドが高く、子どもだったんですよね。
そして相方には「あと半年くれ!」と言ったけど、さすがにこれで解散になりました。
ワタナベの養成所へ
ここで諦めるべきでした。自分にはお笑いの才能がないと。
でもぼくは、「ピン芸人で成功するしかない!」と思ってしまうんです。
夢を諦められなかった。
「ピン芸人に強い事務所といえば、ワタナベだ」という考えで、ワタナベの養成所に入ります。
費用はなんと80万。当然払えないので、学費ローンを組むことに。
才能がないピン芸人ってほんと、痛いネタをやっちゃうんですよね。
今振り返っても、ほんとひどいネタばっかやってました。黒歴史です。
でも気持ちは「いつか当たるネタを思いつくはずだ!」「テレビに出れるはずだ!」なんです。
講師に苦い顔をされても、とにかく必死にネタをつくり続けました。
ライブに出てはスベって、恥ずかしい思いをする。
「こういうんじゃなかったか」と思って、新しいネタをライブでやってまたスベる。
この繰り返し。
この1年はほんとに全力、必死でした。
だって80万ローンしてるんだもん。もう一世一代のギャンブルをしてるようなもの。これで売れないとやばい。
必死にやった1年の集大成。
卒業前の最後のライブで、なんとぼくは最下位から2番目でした。
100組くらいいたんじゃないかなぁ。だから99位くらい。
逆に1位だったのは、いつみてもクラスメイトとわいわいスマホゲームやってるコンビでした。
「え?なんでいつもスマホゲームやってるヤツが1位で、1年死ぬ気でやったぼくが下から2番目なの・・・?」
ここでやっと気づいた。自分にはお笑いの才能がないと。
地獄のうつ期
うつ1回目(軽度)
卒業ライブが残ってたけど心が折れた。
70万のローン返済を残して、養成所をやめました。
このときコロナがピークになってて、当時バイトしてたスポーツバーが働けなくなってしまった。
これもあいまって、軽いうつ病(1回目)になりました。
まだ実家だったので、ずっと家にいるだけだったからね。
ワタナベ時代からそうだけど、このときらへんから本を大量に読み始めた。
特に自己啓発とか、自己実現、心理学、精神医学の分野。
人生変えたかったし、やっぱり10代、20代がダメダメだったから、なんとかしたいって思いがありました。
うつには悪いときと、良いときと波があって、調子がいいときに本を読んで、自分で治そうとした。
認知行動療法とか、ただ紙に書くとか。
そういう対症療法的なことをやって、なんとなーく大丈夫になった。
回復、そして燃え尽きる
さあじゃあ何をしようかなってなった時に、やっぱりサラリーマンじゃなくて、起業したいって思ってしまった。
「夢を諦められない」という感じ。
このときは、躁うつの「躁状態」みたいな”かかってる”感じでした。
今思い出しても頭おかしい。
消費者金融で限度額MAXまで借りて、コロナ給付金も借りれるだけ借りて、そのお金で本をとにかく買いまくった。
あとは自分に投資という意味で、高いスーツ買ったり、一流ホテルに泊まってみたり。
とにかく自分を変えたかった。
自分が変われそうなことは、何でもやってみた。
そんな感じで、その経験をブログに書いてみたり、バイト先の後輩や友達に伝えてたけど、全然ダメ。
これがだいぶショックで、何もできない自分と、残った200万くらいの借金という現実に、重度のうつになってしまった(2回目)。
まあ、1回目のやつが治ってなかったって感じかな。
燃え尽き症候群というやつかも。
うつ2回目(重度)
「自分が生きてても、何も意味がない」
「世の中たくさん人がいるんだから、自分だけいなくなっても別にいいや」
という思考になってしまい、深夜4時くらいにGoogleで”自殺”とか調べて1番上に出てきた厚生省の電話ダイヤルが営業時間外で、
「なんの意味もないじゃん」とか思ったり、
タオルで自分の首を絞めて、
「あ、これはほんとに死んでしまう」って思ってみたり。
こころの底で、
「ダレカ、タスケテ…」
って思っていた。
「実家にいるなら親がいるんじゃ?」って思いますよね。
なんとこんな状態でも、親とは会話ゼロでした。
精神科を受診するも、意味なし
とにかく誰か助けてほしいと思って、精神科を受診したら、なんか検査シートみたいなの渡されて、その結果を見せられながら、
「うん、重度の抑うつ状態ですね。あと発達障害の可能性もありますね。
とりあえず睡眠薬を出しておきます。カウンセリングご希望でしたら30分7000円ですね。」
淡々と言われる。
試しにカウンセリングを受けてみるけど、相手が喋るだけで30分が終わる。
「じゃあ、時間になったのでまた来てください。」
これで気づいた。
うつは自分で治すしかないと。
病院は流れ作業で、薬を出すだけ。
誰もぼくの話を親身に聞いてくれる人はいないし、誰も助けてはくれないんだと。
怒りにも似た感情だった。
自力でうつを克服する
自力で立ち直るしかないと気づいたので、とにかく精神疾患の分野の本を読み、知識を貪るようにとり入れた。
うつ、発達障害から始まり、ネガティブ思考、人格障害、愛着障害、境界知能、双極性障害、HSP、ギフテッドなど。
こういうキーワードの入ったものを、問答無用でアマゾンで注文し、読み漁った。
全てが、自分について書かれているように思えたからだ。
暗い部屋で毎日深夜に起き、24時間営業の誰もいないマックで本を読んで、明るくなり出したら帰る。
という生活。
わかる人にはわかると思うけど、人と日光を極端に避ける生活って感じ。
で、うつを治すために、自分の中で一体何が起きているのか?と探ると、
「うつ」だけじゃなくて、それに関連することも知らないといけないとなって、膨大な本の量になった。
それで気づいたことは、YouTubeの動画でも話したが、
・親
・自分が精神的に未熟であること
が主な原因だった。
まあ向いてない仕事をし続けていた、という要因もあるけど。
しかしこのプロセスは、本当に地獄だった。
我ながら、よく乗り切れたと思う。
多分、普通の人が同じ状況に置かれたら、乗り越えられない気がする。
それくらいどん底だった。
そして同時に、良い親に生まれなかった人間は、これほどまでの苦労をしないといけないのかと疑問も感じた。
こんな苦行ができる人間は、いないのではないかと思うくらい。
この経験がぼくの、
「育った環境に関係なく、誰もが才能を生かして活躍できる世界にする」
という理念につながっている。
夢を諦め、雀荘で会社員を目指す
この地獄の中でもがき苦しむような期間は、10ヶ月くらい続いた。
その中で自己理解も進み、
「次は向いてることを、やろう」
と思って、
雀荘でアルバイトすることにした。
「ゆくゆくは正社員になりたいです」と面接で伝えた。
このとき、
「もう夢を見るのはやめよう」と心底思った。
自分には無理だったのだと。
生まれた星が悪かった。生まれつきそんな能力はないのだと。
本当に身にしみて思った。
「もう変な夢を描くことは二度としない。真面目に会社員として働こう。
どうせ失敗するのだから。」
と言い聞かせていた。
そんな中、養成所で一緒に過ごしていた同期が、
テレビに出ていたり、YouTuberとして成功していく。
それを目にするたびに怒り、嫉妬、劣等感、羨望、いろんな感情が頭の中で巻き起こるけど、
上の言葉を言い聞かせ、自分を落ち着かせていた。
「だって自分には無理だもん。」
こう結論して、1日12時間、週6の雀荘勤務を月15〜20万でやっていた。
雀荘の給料はほんとに低いんです。
200万の自己破産、親と絶縁
雀荘の仕事は楽しくて、やっぱ向いてたなと感じた。
上司からとてもいい評価をもらえて、
こんなの今までなかったなぁと嬉しかった。
で、残った200万の借金だが、弁護士に相談して自己破産することにした。
弁護士費用は60万くらいだった気がする。
毎月4〜5万くらいを積み立てて、それを弁護士費用にする感じ。
それで、その手続きも進んできて、実家のポストに裁判所からとんでもなく分厚い書類が届いた。
自己破産の書類だった。
それを父親が見て、ブチギレ。
父「なんだ自己破産って!お前人生終わりだよ!」
僕「いやいや、終わりじゃないよ。これからやり直すんだよ。」
父「終わりだよお前は!ブラックだよ!」
このテンションのまま、父親が弁護士事務所に電話。
父「お宅は何してくれてんだ!ふざけるな!」
自分の子どもが自己破産したという事実が、父親の自尊心を乱したのだと思う。
・長女が某大手電機メーカーに入社したとき
・ぼくが青山学院に合格したとき
父親はあり得ないレベルで喜んでいた。
まあだから、「よくも俺の顔に泥塗ってくれたな」って感じなんだと思う。
もう話が通じないレベルでキレていて、
「お前はブラックなの!人生終わり!」
とずっと叫んでいた。
弁護士事務所の人には、後日謝罪しました。
父親と大ゲンカに発展
この流れで父親は「もうお前は俺の子じゃねえ!」と言い、
竹ぼうきで突かれながら、「早く出ていけ!」と怒鳴られた。
これでお金が全くないのに、実家を出ざるを得なくなった。
ほぼ家出少年だ。
母親に資金面でどうにかできないか伝えても、
「お父さんにバレたら、私が困るのよ。今すぐ家出なくてもいいじゃない。まだやり直せる。」と言われ、もうこいつらはダメだと思い、
「お前らとは縁切るからな!お前らが死んでも葬式なんて絶対行かねえからな!」
と両親に吐き捨てて、家を出た。
30歳で初めての1人暮らし
本当にお金がなかったけど、部屋を見つけないといけなくなった。
会社の寮もあるけど、ぼくの勤務地にはないらしかった。
上司に相談すると、不動産に詳しい知人がいて、紹介してくれた。
敷礼なしで、フリーレント1ヶ月みたいな物件を探してくれて、
初期費用15万くらいで住めそうと言ってくれた。
でもそのお金すらもなかった。
すると事情を知っている上司が、なんとお金を貸してくれた。
「まあ来月返してくれたらええから。」
まさに命の恩人だった。
これで30歳まで実家暮らしだったぼくの、初めての1人暮らしが始まった。
ホストとの出会い
雀荘の仕事が慣れてきたときには、自然とお客様からも好かれ、会社からも評価されるという、今までの人生では考えられない状況に驚いた。
アルバイトから、契約社員的なポジションになり、いよいよ正社員になるというところまできた。
でも頭によぎるのは、「本当にこれでいいのか?」という思い。
この人生で本当にいいのだろうか?
この会社で出世して嬉しいだろうか?
そんな問いが浮かぶたびに、
「もう夢を見るのはやめたんだ。どうせ何やっても無理なんだから。」
この思考でふたをする。自分を納得させた。
歌舞伎町のバーで、ホストに出会う
そんなことを考えてたら、ふと違う人と話したくなった。
このモヤモヤを、会社以外の人に聞いてもらいたかった。
昔友人に連れて行ってもらった、歌舞伎町のバーにでも行こうかと思い立った。店員さんがみんな話しやすい印象があったからだ。
運よく前回仲良くなった、店長さんがいた。
店長さんは男性客を接客していて、ぼくはその人の隣に案内された。
「初めまして、イケダです〜」
と男性客に挨拶された。
20代中盤って感じの、黒髪ショートカットの好青年という感じだった。
そのイケダさんと、店長さんとの会話のふしぶしに、
「いや〜来月バースデーだからなあ〜」
「ホストの仕事はさ〜」
という言葉がでてきていた。
なのでぼくが、
「もしかしてホストされてるんですか?」
と聞いたら、
「そうだよ〜」
と軽く言われた。
今振り返っても、明らかにホストっぽくなかった。
黒髪ショートで、たしかにイケメンだけど、超絶イケメンという感じでもなかった。でもトークはめちゃくちゃ上手い。
お互いかなり意気投合して、
「お祝いにシャンパン飲もうよ」と言って、奢ってくれた。
で、そのイケダさんが帰るといい、会計するときにカバンから封筒を取り出し、100万円の束からお金を出していた。
そう、売れてるホストだったのだ。
(それに面喰らい、連絡先を聞くのを忘れてしまった)
「ホストってああいう見た目の人がやってて、しかも売れてるの?」
と思った。
今まで考えたこともないし、自分には無縁な世界だと思っていたから。
家に帰って、自分の自己理解のメモを見返した。
「あれ?もしかして、ホスト向いてるかも?」
この日から、ぼくの頭の中に「ホスト」という言葉が常に浮かぶようになった。
ホストの世界に飛び込む
YouTubeでホストの動画を観ると、キラキラした光景が広がっていた。
こんな世界に飛び込んでみたい、と思った。
でも、「もうこういうことはやめよう」と心に誓ったから、
自分の気持ちにフタをした。
すると溢れ出てくる、「こんな人生でいいのか?」という思考。
まあ面接だけでも受けてみようと、3店舗面接に行った。
1店舗は不採用で、2店舗は採用だった。
そのうち雰囲気の良さと、日給が高かった店舗にした。
それがぼくが3年間働いたお店になるんだけど、
ホストの方には「1ヶ月半くらい待ってほしい」と言って、保留した。
雀荘の方は、正社員に上がるかどうかの状況で、
答えをすぐ出さないといけなかった。
いろんな意見があった。
雀荘のお客様の大半は、
「いや〜難しいんじゃないの?」
という反応だった。
そりゃそうだ。
あとで写真を貼るが、到底ホストで成功できる外見ではない。
「まあとりあえずやってみて、ダメだったら戻ってきてや。まだ君アルバイトなんやから、かまへんで。」
と雀荘の店長に言ってもらえて、とりあえずホストの世界に飛び込むことにした。
雀荘のお客様からは、
「もしダメだったらウチで働きな」と言って、名刺を渡してくれた人もいた。
本当に感謝しかない。
今までいろんな職場で働いてきたが、初めて送別会を開いてくれた。
そして2023年7月1日。ぼくのホスト人生が始まった。
ヒゲおじさんが、No.1ホストに
噂のホスト入店時の写真がこれだ。

この人間をよく採ったな、と自分でも思う。
ただの、青ヒゲをたくわえた身長158cmのおじさんだからだ。
最初面接で来た時に、お店の人に、
「業者の方ですか?」と言われたし、
先輩からは、「こいつは、すぐ辞めるだろうな」と思われてたらしい。
外見を変える
周りから、外見の改善に対するアドバイスをたくさんもらった。
(そりゃそうだ)
それをいろいろやってみた。


上司に身だしなみや、髪型、メイクを教えてもらい、4ヶ月目で外見はなんとかできた。
ヘルプNGをもらいまくる
でも順風満帆じゃなかった。
売上のないホストは、ヘルプと言って別のキャストのお客様の席につく。
そこで着く席、着く席で空気の読めない言動をして、5人くらいのお客様からNGをもらった。
少しの沈黙とかが「気まずい」と思ったり、頑張ろうとしちゃっていたのが原因だった。
自分が「気まずい」「頑張らなきゃ」と思ったら、相手もそれを感じて気まずくなったり、居心地悪くしちゃうんだなぁ。と思った。
それから自然体でヘルプに着くようになったら、だいぶ良くなった。
やっぱ自分は無意識に無理してしまう。
初めての指名、そして新人戦3位
この間ずっと売上0円ホストだった。
売上がついたのは、始めてから6ヶ月目。
そして12ヶ月目くらいに、新人ホストの売上バトルイベントがあった。
ぼくはそこで3位に入賞できた。
ラストオーダー5秒前まで決まらず、3秒前に内勤がダッシュで伝票を持って行くという感じで、ほんとにギリギリだった。
周りはかっこいいスーツのキャストの中、ぼくだけなんと全身GUコーデだ。

2025年度グループ内でNo.3を獲る
そうして右肩上がりに売上を伸ばし、18ヶ月目で初のNo.1を獲った。
そこから、店舗で9ヶ月連続No.1を獲ったり、グループ全体(合計7店舗くらい)でNo.1を獲った月もあった。
そして最も売上が伸びた2025年度は、年間グループ売上No.3となった。

芸人時代は、ステージの後ろの隅っこで肩を落としていたぼくが、
こうしてステージの真ん中で話せるようになれたことが、本当に嬉しかった。

売れない芸人・うつ克服から、No.1ホストになった経験を伝える
ぼくは自分勝手な親に自分の人生を奪われ、それに気づき自分自身の力でどん底から這い上がった。
同時にこんな思いが湧き上がる。
「良い親に生まれなかった人間は、ここまでしないと成功しないのか」と。
学校は、何も教えてくれないし、
大学は、本当にくだらないものだったと思った。
自己肯定感が低く、生きづらさや慢性的なうつを抱え、自分の才能を発揮できないまま、人生を終えてしまう人がいるのではないか。
そういう人こそ、大きな才能があり、活躍すべきなのではないだろうか。
こういう思いを持つようになった。
「親や育った環境に関係なく、誰もが夢を持て、その夢を叶えられる世界を創る」
これが今のところの、ぼくの人生の目的だ。
人生は不平等だと思う。
甲子園に出てる高校生や、10代のアスリートをテレビで見てると、インタビューで話してる言葉が大人なことにびっくりする。
親の人間性がよいか、良い教育者に出会ったのだろうかと思う。
ぼくが10代の頃に、こんな言葉言えるはずがない。
ぼくは学校でもいい先生と出会わなかった。
やはり生まれた時点で、差はある。
こういう子たちは、何もせずとも活躍できるだろう。
ぼくが大切だと思ってるのは、そうではない人たち。
ぼくと同じようなことで苦しんでいる人に、ぼくが何かできないだろうかと思い、YouTubeで動画を上げはじめました。
以上がぼくについてのことです。
読んでいただいてありがとうございます。
