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映画『夜明けのすべて』における職場についての書き残し

 三宅唱監督作品『夜明けのすべて』(2024)については、すでに記事を書いているが、書き残していたことをあらためて記しておきたい。そこでは、三宅のフィルモグラフィーを背景に思ったことを書いたので、省いたことがあった。

 公開以来、幾度となく劇場で見たが、少し間がたったゴールデンウイーク中に、帰省中の知人と一緒に京都・出町座で見るという機会があった。その知人はこの種の映画をもともと見るようなタイプではないので、解説を求められ、その際に話した内容を中心に書き残しておきたい。

回転運動

 私があらためて書くまでもなく語り尽くされているが、本作は「回転」の映画である。冒頭、大雨のロータリーに路線バスが回り込みながら近づいてくるショットが、まさに本作が「回転」(円)の映画であることを宣言している。

 山添(松村北斗)の乗る自転車、プラネタリウムの天体、遺族自助グループの車座、あるいは卓球等々、回転運動のモチーフが随所に出てくる。PMSの月経周期も含めて良いかもしれない。

 こうしたモチーフは直接的には、直線的な成長の構図では語れない人生の有り様を描くために選択されたものであるが、フィルムを回転させて撮影・上映する映画の本性に則った最も自然な動きなのかもしれない。(ロータリーにバスが入ってくるときの遠心力のとてつもなさは、リュミエール兄弟『ラ・シオタ駅への列車の到着』の迫力をも連想させる)

「領海侵犯」できるオフィス

 藤沢(上白石萌音)の初職のオフィスはデスク間に間仕切りがある。阿部公彦は『事務に踊る人々』で、事務と格子の深い結び付きを論じたが、まさに藤沢のオフィスはそうした格子状の事務の空気が充満した空間である。

 つまりこういうことである。事務というのは、格子のように分業され、責任範囲が確定している。そして各自が、達すべきクオリティーを保証した上で次の担当者にバトンを渡すことが前提として求められるものだ。

 その意味で極端に言えば、事務の担当者が対話すべき相手として最も重要なのは、上司でも顧客でもなく、自らに割り当てられた責任そのものである。まるで真正面に対峙する二者が、絶えず、逸脱なく、ピンポンラリーを続けなければならないようなイメージだ。

 一方、山添の前職のオフィスは、個々人に割り当てられたデスクが映らない。会議室しか映らないという以上に、ひとところに留まって仕事をこなしているという空気がまるで感じられない空間になっている。おそらくフリーアドレス制なのだろう。格子状の事務からは解放されている。しかし自由とは孤独なものである。

 さて、栗田科学はどうだろう。個々人に割り当てられたデスクはある。しかし間仕切りはない。デスクとは別に作業場もあり、そこでもなんとなくいつも同じ人が同じ席に座っていそうな雰囲気はあるが、制度上の指定席というわけでもなさそうだ。

 藤沢の初職のオフィスで、藤沢を撮るとき、カメラは彼女の右側から、デスクの並びに対して平行に向けられていた。ただでさえ、間仕切りという格子の圧迫感があるところに、直線的に突き刺すようなショットだ。

 一方、栗田科学でのショットは斜め方向からが多い。そしてこれが実に見通しが良い。他人の仕事を覗き見できるし、実際、社長の栗田和夫(光石研)は藤沢や山添を気に掛けるかのような視線を度々向けている。

 私は企業の管理部門で働いているが、自分の職場も栗田科学の感じに近い。いつでも「領海侵犯」できるが、しかし「領海」自体がないわけではない。「侵犯」というと悪い行為のように聞こえるかもしれないが、問題のあるギスギスした職場には「領海侵犯」を許さない空気があるものだ。栗田科学は互いの領域に口出し・サポートすることのできる空気があり、それを互いに歓迎しているように見える。

平西のピボットな姿勢

 PMSの影響で職場で声を荒げた藤沢が、翌日和菓子を買って職場に持っていったシーン。休憩スペース(設定上は社長室だったらしい)でカップ焼きそばを食べる平西(足立智充)の居住まいがとても印象的だ。

 姿勢良く、カップ焼きそばを食べているというコントラストがチャーミングなのは言うまでもない。しかし、普通、職場における「姿勢の良さ」とは規律の象徴になりそうなところ、本作ではそうは見えないのも面白い。

 実は、この平西のショットこそ、まさに「回転」と「領海侵犯」を体現するショットなのだ。

 最近、方針転換を意味するビジネス用語として「ピボット」を耳にする機会が多いが、もともとは回転軸を意味する言葉である。平西の居住まいはピボット的だ。ここではバスケットボール用語のピボットの意味に近い。

 片足を回転軸のようにひとところに留まらせながら、もう一方のフリーな足を相手の出方に応じて自在に動かし、ボールを必要なところへ渡す。そういう姿勢を、職場の一員としての理想像として本作は主張している。

 必要があるから動く、というシンプルな動機によって他者同士がいたわりあうことができたら、こんなにいいことはないのだ。平西のたたずまいには、その、必要が生じればいつでも動くことのできる状態がある。だから私は平西から「頼もしさ」を感じる。

 藤沢も山添も、他者をサポートしようというときの構えは、重心が高くて不安定だし、慣性に引きづられてやや過剰気味だったりもする(もちろんそれが悪いと言いたいわけではない。むしろ本作はその不器用さをも愛おしく描いている。ただし「頼もしさ」とは違う魅力であることは間違いないだろう)。しかしその危なっかしさは、経験によって克服されうるものにも思われる。

 藤沢や山添が「職場から支えられる側」から「職場を作る側」に変わろうという瞬間がいかに美しいか。これからの職場づくりの実践の場が人それぞれ別々になるとしても、それ自体は悲しむようなことではないことは、山添が前職には戻らないと宣言した際の、元上司・辻本(渋川清彦)の涙が雄弁に語っているのだ。

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