作家・土居豊の音楽批評コンプリート版「社会人編パート1」〜1989年、運命的なこの年、私は大学卒業後、教職浪人しながらクラオタ三昧だった〜
作家・土居豊の音楽批評コンプリート版「社会人編パート1」〜1989年、運命的なこの年、私は大学卒業後、教職浪人しながらクラオタ三昧だった〜
(1)1989年、平成元年のクラオタ生活
1989年という年は、20世紀末にあって運命的な年となった。言わずと知れた、東西冷戦終結の年だ。しかもこれは日本人だけのことだが、長かった昭和が終り、平成という見慣れない元号が始まった。そうして、中国のネットで検索しても出てこないらしいが、天安門事件があった。
その年の春、筆者は無事に大学を卒業し、そのまま教採浪人(教員採用試験の浪人)となった。仕事としては、大阪市立東淀工業高校の国語の非常勤講師と、塾アルバイトの時からやっていた家庭教師を継続し、実家住みなので十分生活はできていた。もちろん、実家に食費も入れていた。
そうして、クラシック音楽愛好の方は、学生時代の延長で、春には若杉弘とドレスデン・シュターツカペレの演奏会、夏にはインバルとベルリン放送交響楽団、秋にはデュトワ&モントリオール響と再びインバルとフランクフルト放送響、冬には小澤征爾とボストン響、といった具合で、全く浪人らしからぬエンジョイぶりだった。
しかも、筆者は合唱も続けていて、秋に市民合唱団の演奏会としてモーツアルトの「レクイエム」を歌い、さらに12月は大阪シンフォニカーのベートーヴェンの第九演奏会にも出演した。この大阪シンフォニカーというのは、大阪府下4つ目のプロ・オーケストラとして数年前に誕生した、半アマチュアのような若いオケで、筆者は学生時代、ヴェルディ「レクイエム」の市民合唱で共演したことがあった。その時は、常任指揮者の、まだ若々しかった小泉ひろしさんの指揮だったが、この第九はパッとしない指揮者が振り、演奏もちっとも締まらない感じだった。それでも、市民合唱団のご縁で、数年間、この第九演奏会で歌い続けることになった。
こういう、やりたいことをやりまくっている社会人1年生としては不思議なことに、この当時は超難関だった大阪府の教員採用試験にも合格してしまったのだ。この年に、もしかしたら人生の運をかなり消費してしまったのかもしれない、と後で悔やむこともあった。
そういうやりたい放題の22歳(筆者は早生まれなので、大学卒後もまだ22歳のままだった)が、バブル崩壊期の最後の輝きのようなバブリーな来日オケの演奏会や、合唱活動を満喫している話など、聞きたくないといわれるかもしれない。
だが、まさにそこにこそ、語るべき話があるのだ。20世紀日本の最後の輝きが、まさしく1989年から数年間、光芒を放っていた。近代化を成功させた(はずの)東アジアの国が、経済力で世界を席巻し、お金のパワーで世界最高レベルの音楽文化を好き放題買いまくった。その国民の一人として、筆者は金持ちではなかったが不自由ないぐらいにお金を稼ぎ、好き放題消費し、今から考えるとあり得ないほどのハイレベルの指揮者とオケの組み合わせを、そこまで高額でもない(と当時は思った)チケットで次々体験し、今ならとても実現不可能な贅沢な音楽生活を送っていたのだ。
音楽活動、という点では合唱もこの当時、ずいぶん贅沢なやり方でやれていた。練習自体は公民館(市民ホール付属の施設)で毎週やっていたのだが、プロのオーケストラと共演するような贅沢なステージも、個人の経費はそこまで負担感が重くなかった記憶がある。
オーケストラの方は、おそらく団員の生活がかなり苦しいレベルの財政状態だったのだろうけど、それでも、バブル期からバブル崩壊後しばらくは、今のようにプロのオーケストラの存続が危ぶまれるという感じはなかった。そもそも、大阪府下にすでに3つ、プロ・オケがある状態で、さらに4つ目を作ったのが、一主婦の音楽にかける熱い情熱からだったというのも、今の世情からは到底考えられない、いかにもバブル日本らしい奇跡だったのだろう。
※参考


大阪シンフォニカーはそうやって誕生し、苦しい懐事情は変わらないながらも、現在は大阪交響楽団と改名し、堺を本拠地に生き残っている。その大阪シンフォニカーの第九演奏会に参加する際、筆者は助っ人扱いで無料で参加していた記憶がある。ザ・シンフォニーホールでの演奏会に、タダで出させてもらっていたのは、かなり贅沢なことだっただろう。いかにもバブリーな話だ。当時の筆者は、それを当たり前に思って、音楽生活をエンジョイしていたのだから、今にして思うと呆れたものである。
(2)若杉弘&ドレスデン・シュターツカペレのマーラー交響曲第4番

1989年4月9日
大阪 ザ・シンフォニーホール
若杉弘&ドレスデン・シュターツカペレ
ソプラノ:エディット・マティス
マーラー:交響曲第4番

この時の若杉弘とエディット・マティスのマーラー4番は、至福の体験だった。マーラーの交響曲の中で一番短く、構成もシンプルな第4番は、マーラー好きであるほど好みが分かれる曲だろう。終楽章でソプラノのソロが登場し、天国の暮らしを描いた歌を可愛らしく歌うのだが、終り方が、歌が終わるとともにオーケストラも静かに終わる。その終わり方はマーラーの交響曲の中ではめずらしく静かな終結なのだが、同じ静かな終結部でも、死を意識したような「大地の歌」と第九番と比べてちょっと尻切れとんぼな感じがする。だから、マーラーの交響曲を堪能した!という満腹感には欠ける。
けれど、聴き込むほどに4番は魅力的な交響曲に思えてくるから、不思議だ。特に、3楽章アダージョはマーラーの静かな楽章の中でも屈指の幸福感がある。個人的には、3楽章の静かな音楽と、終結部直前の壮大なフォルティッシモで、もうこの曲は十分だといいたくなる。それというのも、この曲の最も中心的なテーマを描いたという4楽章ほど、演奏のバランスが難しい曲もめずらしいぐらいだからだ。
なんといっても、ソプラノの歌手の良し悪しが、全曲の印象を最後に大きく左右してしまうのが、交響曲としては難しい点だ。それが怖くて、筆者自身も、マーラーの4番は実演で聴いたことは数えるほどしかない。そのうちの1回である、この日のマーラー4番は、その問題の4楽章があまりに美しくて、文字通り天国の気分に浸ることができた。マティスの美声は、シンフォニーホールで実に自然に、のびのびと響いていた。そういった歌手の声にオケを寄り添わせる手腕は、若杉の得意とするところだ。彼が世界有数の伝統ある歌劇場の指揮者を務めているのは、伊達ではなかった。


ドレスデンの歌劇場管弦楽団は、旧・東ドイツを代表するオーケストラだったのだが、この時は、東ドイツの最後の時期だった。しかしこの4月にはまだ、まさか半年後に東西冷戦が終わるなどとは、オケのメンバーたちも、指揮者の若杉も、想像していなかっただろう。ドレスデンのオケをこのタイミングで聴けたことは、実に貴重な体験となった。



その後も、忙しい教採浪人生活の中でもまめに演奏会に行っている。しかも2度目の、今度こそ合格したいという教員採用試験を翌月に控えた6月、京都大学のオーケストラと、同志社大学の吹奏楽団の演奏会にわざわざ行っているのは、母校の春日丘高校の吹奏楽部の後輩が関係している。
6月16日の京大オケ演奏会を、吹田市の市民会館メイシアター大ホールに聴きに行ったのは、その後輩が一緒に聴きに行こうと誘ってくれたからだ。また、その後輩が出演する演奏会なので同志社大学吹奏楽団を聴きに行った。こちらはその数日後、会場はザ・シンフォニーホールだった。
おそらくこの時期、高校の後輩と演奏会に行ったりしていたのは、当時参加していた市民合唱団の演奏会の伴奏で、筆者がこの後輩とホルンを吹くことになっていたからだろう。どちらも多忙な生活だったので、練習時間を合わせるのに苦労した記憶がある。その伴奏の打ち合わせも兼ねて、演奏会に一緒に行ったりしていたような記憶がある。
いずれにしても、翌月に教員採用試験を控えた浪人のやる行動としては、かなり(いや、ひどく)いいかげんな行動だと、今にして反省している。だが、この当時の筆者は、生活や仕事のことよりも、音楽活動を優先していたことが、そういったいいかげんな行動ぶりからうかがえる。そうやっていても、生活や仕事の先行きに不安を感じなかったようなのだが、それは自分の性格的なものか、それともお気楽でバブリーなこの時代特有の精神状態だったのだろうか。おそらくその両方だろう。なんとも、お気楽な時代であり、自分の生活ぶりだった。
(3)インバルの2つのマーラーと、デュトワ再演

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《クラシック音楽(吹奏楽や合唱を含む)とポピュラー、舞台音楽、演劇などについて、時系列順にまとめ直します。 バブル崩壊後の日本の舞台芸術シ…
土居豊:作家・文芸ソムリエ。近刊 『司馬遼太郎『翔ぶが如く』読解 西郷隆盛という虚像』(関西学院大学出版会) https://www.amazon.co.jp/dp/4862832679/
