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作家・土居豊の音楽批評コンプリート版・社会人編パート1.6「1994〜95年 アバド&ベルリンフィルに負けじと、若杉弘&大阪フィルもすごい選曲!」

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作家・土居豊の音楽批評コンプリート版・社会人編パート1.6
「1994〜95年 アバド&ベルリンフィルに負けじと、若杉弘&大阪フィルもすごい選曲!」


※前回
作家・土居豊の音楽批評コンプリート版・社会人編パート1.5
「1992〜社会人クラオタのオペラ体験と朝比奈隆追っかけ」
https://note.com/doiyutaka/n/n7c08a859a0c1


(1)初めてのベルリンフィル体験

 
 引き続き、社会人編パート1の補足を書いておく。
 前回、1995年の阪神淡路大震災の1ヶ月後に開催された朝比奈隆&大阪フィルその他による「フィデリオ」について書いたが、震災以前、94年には筆者にとって貴重なクラオタ経験である初めてのベルリンフィル鑑賞もあった。
 戦後日本の文化享受が絶頂に達した90年代の数年間は、もう二度とないかもしれない贅沢な文化享受体験だった。日本人のクラシック音楽家としては唯一無二、空前絶後といえる小澤征爾の海外での活躍もあった。
 製品が売れすぎたために起きた「日本叩き」などという話題もあり、現在ではちょっと信じられないほどの巨大な日本経済を背景に、国内では冷戦終結後のつかの間の平和なエアポケットの中で、我々日本人の音楽リスナーたちは、円高のもたらす膨大な海外文化の爆買いを享受した。そんな、日本史上二度とないかもしれない文化の爆買い期を経て、21世紀にかけて、日本という一つの先進国はあっという間に無残に衰亡していく。

※過去記事

第1回「アバド指揮ベルリン・フィル来日公演1994年 マーラー交響曲第9番〜数分間もの静寂」
https://note.com/doiyutaka/n/nc176109acf0f

 



 実演を聴いた94年のベルリン・フィルとのマーラー9番では、後年の録音での印象とは違って非常にロマンティックで、思い入れの濃い演奏をしていた。そうして、4楽章終結部で、奇跡のような時間が訪れた。マーラーの第9番の4楽章は、消え入るように終わる。たいていは、数秒その静寂を味わってすぐ、聴衆は拍手を始める。ところが、この夜は違った。アバドは、よほどマーラーの音楽に没入していたのか、最後の音が消えても、しばらく指揮棒を下ろそうとせず、身動きしないまま立ち尽くしていたのだ。その背中を見つめて、文字通り満席の聴衆は、じっと息を止めて静まり返っていた。
 ザ・シンフォニーホールの空間に、全くの無音状態が少なくとも数分続いた。アバドがそのうちにゆっくり身動きすると、ようやく聴衆も金縛りを解かれたように、拍手を始めた。
 それまでほぼ12年間、クラオタだったのだが、そんな経験は初めてだった。その後も数十年間、数えきれないステージを観てきたが、後にも先にもあんなことは2度とない。満場の人々が音楽の消えた時間に没入し切って、固唾を飲んで静まり返った体験は、あの時1回きりだ。
 あの時のアバドは、本当のところ、どうだったのか? 今となってはわからない。あまりに音楽に集中しすぎて、現実に戻ってくるのに時間がかかったのだろうか。それとも、マーラーの音楽への思い入れを、その静寂の形で表現しようと、決めていたのだろうか。
 それに、ベルリン・フィルの団員たちは、あれをどう思っていたのだろう? 本当に、あまりに集中した静寂に、全員が没入して動けなかったのだろうか。
 聴衆の側にいた筆者は、客席が誰一人身動きさえせず、じっと金縛りのようになっていたことを証言できる。クラシックの演奏会で、あんな出来事はもはや2度とないかもしれない。それほどの、奇跡の数分だったのだ。



 このアバドの奇跡のマーラーに対して、インバルのマーラーを対抗させると、この時期の日本におけるマーラー演奏がいかに豪華だったか、よくわかる。

※過去記事

第2回 エリアフ・インバル指揮 フランクフルト放送交響楽団来日公演1995年
マーラー交響曲第5番〜ロマン派演奏の極北を体験すること
https://note.com/doiyutaka/n/n7e55aa9e9dd6


 
 実際に生演奏で何度も聴いたインバルのマーラーは、CDで聴くより圧倒的に熱く、情熱的な演奏ぶりだった。おそらくは、セッション録音でも、インバルはマーラーを熱く情熱的に演奏していたのだろう。それが当時のワンポイントマイク録音の効果で、クリアに見通しのいい音像にまとまってしまって、ホールで体感する印象とずいぶんかけ離れた感じに聞こえていたと思われる。
 もう一つ、80年代に聴いていたインバルの演奏と、21世紀の現在、改めてきくインバルの音はそう大して違わないはずなのだが、聴いている筆者の耳の方が変化してしまったのではなかろうか。
 80年代、当たり前のようにロマン派的な歌主導の演奏を録音でも実演でも聞きなれていた耳が、その後の30年で、新古典派的な、あるいはピリオド的な、より鋭角的で見通しのいい、リズム中心の演奏の音に徐々に慣れてしまった。80年代に顕著だったロマン派的な和声中心、メロディーライン重視の演奏を古いように感じる耳へ、気づかないうちに変わっていった。
 当時は、クリアでちょっとドライな演奏に思えていたインバルのマーラーが、21世紀的な極めて透明度の高い、リズムの鋭角的な音作りに慣れた現在の耳で聞くと、非常にロマンティックな音に聴こえてしまう。これは、音楽演奏の響きの変化という観点から考えて、ありがちな現象だといえるかもしれない。特に、録音再生機器の進化、変貌によって、音楽の音像は完全に別物といっていいぐらい、変わってしまう。
 80年代に筆者が慣れていたLPレコードのアナログ録音の音、FM放送の雑音混じりの音、初期のCDの乾いた響き、カセットに録音した不安定な音像などは、現在のデジタル再生の音とは根本的に異なるはずだ。
 だが、実演なら、80年代当時も、21世紀のいまも、大差ないはず、と考えたくなるかもしれない。だが、聴く側の錯覚の要素も大きいのだ。実演であっても、80年代に行われていたオケの演奏法と、現在の、ピリオド奏法の洗礼を受けた後の演奏では、やはり弦楽器を中心に響きが全く異なるのだ。



(2)若杉弘と大阪フィルの名演を追いかける〜大阪フィルの90年代は黄金期〜

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