『お節介な自販機』
会社帰り、駅前の自販機に立ち寄るのが習慣になっていた。
決まった銘柄があるわけじゃない。
ただ、どれにしようか迷いながらボタンを押すあの一瞬が、
唯一「自分の意思で選んでいる」と感じられる時間だった。
職場では、与えられたタスクをこなすだけの日々。
期限も、内容も、やり方すら、ほとんどが上司とクライアントの都合で決まる。
昼飯だって、同僚に合わせてなんとなくの店に流れるだけ。
帰宅後は、数年前から時間が止まっているような無機質な部屋で、
スマホに出てくるオススメのショート動画を適当に回しながら、惰性で夜を潰す。
何かを「自分で決めた」と思える瞬間が、
気づけばほとんどなくなっていた。
だからこそ、あの自販機の前で、炭酸にしようか、甘いものにしようか、温かい飲み物にしてみようか――
ほんの数秒、自分の中の望みを探し、そして、選んだボタンを押すという動作が、唯一、自分に許された自由のように感じられた。
たとえささやかでも、それは確かに、
誰の顔色もうかがわなくていい、自分だけの決定だった。
でも、最近ではそれすらも億劫になってきている。
自分が何が飲みたいさえ、分からない日が増えてきた気がする。
いっそ、何もかも他人が決めてくれたら。
もしかすると、人生はもっとラクなのではないか。
ある晩、いつものように自販機で飲み物を買った。
その日はブラックコーヒーのボタンを押した。
しかし出てきたのは微糖のカフェオレ。
押し間違えたか?と目を凝らすと、
取り出し口に小さな紙片が貼られていた。
「こっちのほうが、疲れてる時にいいよ。」
誰かのいたずらか?
でもそのカフェオレは、予想以上にやさしく喉を潤し、ほっとする味がした。
帰宅してからもそのことがなぜか頭から離れなかった。
翌日も、違う飲み物が出てきた。
選んだのは炭酸水だったのに、出てきたのはレモンティー。
そしてまた、小さな紙。
「今日は炭酸、きつくないかな。」
ふざけてる。
でも、確かにそうだった。
午後の会議で言葉を吐き続け、ぐったりしていた自分には、炭酸の刺激は重かった気がする。
その翌日も、その翌々日も、ボタンを押すと「選んだものと違う何か」が出てきた。
緑茶を押せばスポーツドリンク、缶コーヒーを押せばミルクティー。
なのにどれも、「今はこれでよかった」と思えてしまうのが癪だった。
一週間もすれば、ぼくはもう選ぶフリだけをしていた。
自販機に委ねるのも悪くなかった。
自分が何を飲みたいのか、分からない。
本当に自分が決めていいのか、分からない。
そんなとき、自販機は代わりに決めてくれる。
機械に頼るなんて滑稽だけど、どこかでほっとしている自分がいた。
いつも通りの一日のはずだった。だがその日は、昼過ぎに突然、上司に呼び出された。
「なんでこの対応になってるんだ? 客先は混乱してたぞ」
デスクの上には、自分がまったく関与していない書類が広げられていた。
内容も進め方も、チームリーダーが勝手に決めて実行した案件だ。
自分は確認もされていない。
ただ、担当部署に名前があったというだけで責められた。
事情を説明すれば、言い訳がましくなる気がして、
ただ「申し訳ありません」とだけ返答した。
上司からは、さらに怒気を含んだ言葉が続いた。
「責任感、持ってくれよ」
それで心の中で何かが、ぶつりと切れた。
「俺が了解してたなら、まだ怒られても受け止められる。でも、俺は何も知らなかった。ただ、勝手に決められて、勝手に怒られた。」
その憤りにも似たやるせなさは、1日中、ずっと尾を引いていた。
帰り道、例の自販機の前でいつものように立ち止まる。
けれどその日は、なぜかボタンを押す手が止まった。
「……今日は、俺に選ばせてくれないか。」
誰に聞かせるでもない声。
自販機は、いつものように沈黙していた。
ジャスミン茶を選んでボタンを押した。
出てきたのは──ミルクティー。
やっぱり、と苦笑しかけたその瞬間、もう一本、ガコンという音がして、ジャスミン茶が落ちてきた。
「君が本当に自分で決めたことなら、結果はどうあれ、その選択に価値がある。」
紙には、そう書かれていた。
目の奥が少し熱くなった。
何かを委ねることに甘えすぎていたのかもしれない。
自分で決めるというのは、ただボタンを押すことじゃなくて、
自分のことを肯定してやることだったんだ。
それから、自販機は時おり「ぼくの選んだもの」と「自販機の提案」を織り交ぜて出してくるようになった。
今までは「任せるだけ」だったけど、
最近は、ボタンを押す前に少しだけ自分の心に問いかけるようになった。
本当は何がほしい?1日を どう過ごした?
どんな味が、今日を締めくくってくれる?
そんな小さな対話を、自販機を通じて取り戻していた。
ある日、雨が降っていた。通り雨ではなく、じっとり冷たく降り続くようなやつ。
駅前の自販機の前で、一人の女性が立ち止まっていた。
傘を持っていないらしく、髪からしずくを落としながら、じっと商品を見つめている。
「……なんだか決められなくて」
彼女はぼくに気づき、申し訳なさそうに笑った。
疲れている顔だった。
でも、それを気取られないように笑う目は、どこか前の自分に似ていた。
ぼくは迷わずホットレモンのボタンを押した。
「違うのが出たらどうしよう」と少し不安になりながらも、取り出し口をのぞく。
──カラン。出てきたのは、ちゃんとホットレモンだった。
ぼくはそれを彼女に差し出した。
「今日のおすすめ、わかるようになってきた気がして」
女性は、少し驚いたようにホットレモンを受け取り、それから「ありがとう」と言った。
その声は小さかったけれど、ちゃんと届いた気がした。
ペットボトルを包むように両手で持つ彼女の姿を見ながら、ぼくは思った。
少し前の自分も、きっとあんな顔をしていたんだろう。
迷って、疲れて、なにを選べばいいかすら分からない──そんな夜。
自販機にしてもらった小さなお節介を、
今度は自分が誰かに返す番だったのかもしれない。
ふたりのあいだに言葉はなかったけれど、
雨音の向こうで、何かがそっと動き出した気がした。
おしまい
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