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『戦メリ』プロデューサー、ジェレミー・トーマスさん死去〜坂本龍一さんの映画的"戦友”〜

日本では「戦場のメリークリスマス」(1982年・監督大島渚、音楽・主演坂本龍一)のプロデューサーとしても知られるジェレミー・トーマスさんが死去の報せ、77才。
(日本では新宿ゴールデン街など夜の新宿のあちこちに出没していたと聞く。)

この当時は、実写、実写、実写の時代。
戦メリは歴戦のプロデューサーにとっても、極度に困難な映画だったはずです。
ビートたけし、David Bowie、坂本龍一、更に日本兵、英人捕虜にスタッフら数百人を熱帯、南太平洋の孤島ラロトンガ島に集め、2ヶ月にわたる合宿ロケ。
当然日本へ直行便もなく、当時少なくとも2回は乗り継ぎが必要だった?
そんな島にトップスターからエキストラから撮影などスタッフまで。 料理スタッフと食料を確保、食事や撮影現場のインフラ(電気・機材)は完全に自前調達・持ち込みという極限の環境だったでしょう。おそらく数百人分のトイレを掘るとか、そこまでしないと成立しなかったのではないか。

それが、「プロデューサーというお仕事」として、その大きな船を難破させず、ゴールに進まなければならない。

ジェレミー・トーマスは「戦メリ」ののち、「ラストエンペラー」(1988・監督ベルナルド・ベルトルッチ、音楽坂本龍一)でアカデミー作品賞をプロデューサーとして受賞。(坂本さんは日本人初の音楽賞を受賞)

更に坂本龍一、ベルトルッチ、ジェレミー・トーマスのトリオは、次に「シェルタリングスカイ」(1990)という、共に命を削ってこの世のものにした凄い作品を残している。

これはリマスター上映で去年?歌舞伎町の109シネマの世界最高品質の音響で鑑賞したが、坂本さんと監督が作った自然音と音楽の分厚い音響が、ずっと耳の中に押し寄せて来て、耳が酔いしれるような、初めての体験でした。

『僕はあと何回、満月を見るだろう」という、坂本さんの遺著のタイトルが、この映画の最後に詩人ポール・ボウルズによって語られる、忘れがたい映画です。

折しも公開中〜10/12 大阪うめきたVS

さて、実写、実写、実写に血の汗を流した世代の訃報が聞こえるそんな中でーーー、
「全て実写」のクリストファー・ノーラン監督「オデュッセイア」が世界を今席巻していること。
それは、
「松明は引き継がれた」
事になるのでしょうか。

とは言え、まず今はジェレミー・トーマスさん、そして共に表現を戦った坂本龍一さん、もちろん大島渚監督に敬意を表したいと思います。

※なお、戦メリ、ラロトンガ島での極限のロケ、Gemini調べですが、
ご興味ある方のため、以下に貼っておきます。
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(Gemini調べ)
【結論から言えば、既存のホテルや宿泊施設は利用できましたが、食事や撮影現場のインフラ(電気・機材)は完全に自前調達・持ち込みという極限の環境でした。
当時の現地事情と撮影体制の実態は以下の通りです。
宿泊環境(ホテル事情)
まったく宿泊施設がなかったわけではなく、当時島内に存在した数少ないリゾートホテル(「ラロトンガン・ホテル」など)やコテージを制作隊がほぼ貸し切る形で滞在拠点にしました。
ただし観光開発が初期段階だったため収容能力や設備は極めて限られており、デヴィッド・ボウイら主要キャストも含めて簡素なバンガロー等に分宿する合宿状態でした。
食事(料理人・食糧供給)
日本人・外国人スタッフおよびキャスト数百人の胃袋を支えるため、専属の調理スタッフ(ケータリング部隊)が現地へ帯同しました。
日本食の食材や調味料は日本から大量に空輸・船便で持ち込み、現地の限られた食材(タロイモや魚介類など)と組み合わせて連日炊き出し同然で提供されました。
電気・撮影インフラ
ホテルのある海沿いの集落には最低限の島内送電網がありましたが、撮影現場となった山中のジャングル(収容所オープンセット)には電線が通っておらず、大型の自家発電機をニュージーランド等から船で持ち込んで稼働させました。
照明機材、カメラ機材、移動用車両、資材のほぼすべてを島外から海路・空路で輸送して設営したため、ロジスティクスだけでも莫大な費用と労力が投じられました。】



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