「水たまり」には入るな
「水たまりには入るな。病気になるから」
カンボジアに来てから、何度も耳にしてきた言葉だ。
でも、あの日だけは、それを避ける術がなかった。
クメールニューイヤーの最中、ワットプノン周辺の水かけ祭りに巻き込まれた。
リバーサイドで夕食を終え、トゥクトゥクを拾える場所まで歩こうとしただけだった。
数分後には頭からバケツの水を浴び、見知らぬ人に頬へ白い粉を塗られ、何万人もの人波に飲み込まれていた。
水鉄砲ならまだかわいいものだ。
目の前にはホースやバケツ。容赦なく放たれる大量の水。
目を開けることもできない。息を吸う暇なく、次の水が飛んでくる。
逃げ場はどこにもない。
それ以上につらかったのは、人の多さだった。
身動きが取れないほどの密集だった。
当時9歳だった娘は泣き続けていた。
5人家族だったはずなのに、気づけば夫と娘一人とはぐれていた。
最後に見たとき、2人は手を繋いでいた。
「どうか、無事でいてくれ」
私は残された2人の子どもの手を、離すまいと両手で強く握り締め、とにかく生きて帰ること。それだけを考えて歩いた。
人波を抜けるまで、2時間。
ようやく落ち着いて足元を見ると、そこは真っ黒な水たまりだった。
プノンペンでは、ネズミもゴミも珍しくない。
だから、水たまりには入るなと言われていた。
でも、この日はビーサンで何度も踏み抜いた。
何が混ざっていたのかなんて、考えたくもない。
幸い、翌日になっても家族の誰も体調を崩さなかった。
風邪ひとつひかなかった。
全身ずぶ濡れだったというのに、熱帯の夜風すら涼しくは感じなかった。
そう思うと、あの容赦ない暑さだからこそ成り立つ祭りなのだと、妙に納得してしまう。
日本なら、あそこまで全身ずぶ濡れになる前に、誰かが熱を出していただろう。
あの日の真っ黒な水たまりだけは、今でも二度と踏み抜きたくない。
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