見出し画像

国譲りの火⑦

第7話:兄上、帰ろう

雨は、やさしく降っていた。

けれどその雨は、街を濡らすための雨ではない。
土の下の記憶を、起こすための雨だった。

埋め立てられたはずの土地が、
夜の湿り気を吸い込み、
じわじわと“沼だった頃”の匂いを
取り戻していく。

ひかるは、鈴を握りしめていた。
掌の中の金属は、温かい。

まるで――心臓があるみたいに。

背後には師匠、八雲龍舟。
彼は傘を差さない。
雨粒が肩に落ちても気にしない。
この人の中には、
雨より深いものが流れている。

「来るぞ」

師匠の声は低い。

「……うん」

ひかるは答えた。
怖い。
でも逃げたくない。

逃げたらまた、
"なかったこと”にされる。

あの魂も。
この痛みも。
そして――
自分の中に芽生えた“祈り”も。

工事現場は、再開されていた。

本来なら封鎖されるはずの場所に、
照明が灯り、
重機が並び、発電機の唸りが響く。

ガガガガ……
ガァァァ……

金属が土を削り、泥を引き裂く音。

フェンスの外に
「関係者以外立ち入り禁止」の札。
だが、ひかるには分かる。

これは事故処理じゃない。
意図的な封印破りだ。

「……やっぱり」

ひかるが呟くと、師匠が頷いた。

「あいつらは確かめに来た。
巫女が目覚めたかどうかを」

「……巫女って?」

師匠は淡々と答えた。

「お前は、高照姫の器だ」

ひかるは鈴を握り直した。

雨が強くなる。
なのに空は暗くならない。

照明の白い光が、雨粒を銀色にする。
その光景が、妙に冷たい。

そして――

重機の爪が、また同じ地点に当たった。

ガン……!

現場の男が叫ぶ。
「まただ! ここ硬ぇぞ!」

運転席の男が舌打ちする。
「くそ、またあの鉄くずか?」

その瞬間。

ひかるの耳の奥で、雷が鳴った。

(……やめろ)

耳ではない。
胸の中で響く声。

「……来る」
ひかるが呟いた。

師匠が低く言う。
「問いを立てろ」

ひかるは目を閉じた。
(この工事は、止めるべき?)

問いが立った瞬間、鈴が震えた。

しゃら……
しゃら……

勝手に鳴る。
祈りが勝手に動く。

そのとき、
現場の照明が一斉に瞬いた。

ぱち、ぱち、ぱち……!

そして次の瞬間、すべてが消えた。

闇。

発電機の唸りだけが残り、
雨音だけが世界を埋める。

作業員たちの悲鳴。
「停電!?またかよ!」
「ライト!スマホ!」

点々と灯るスマホの光。
それが泥に反射して、不気味に揺れた。

ひかるの目だけが、別の光を見ていた。

泥が、光る。
地面が、動く。

埋め立てられた土が、
呼吸するように膨らみ、
“水”が戻ってくる。

ぬち……
ぬち……
ぬち……

足元が沈む。
沼が起きる。

そして泥の中から、
黒いものが立ち上がる。

ゆっくり。
確実に。

顔のない影。
名のない影。
泥と鉄でできた影。

アジスキタカヒコネ。

怒りの塊として顕現した魂。
その場の空気が、凍った。

作業員の一人が叫ぶ。
「……な、なんだよアレ……!」

誰かが転び、泥に膝をつき、
悲鳴が連鎖する。

影は、動いた。

一歩。

泥が波打つ。

二歩。

照明の残光が黒い身体を照らし、
それはまるで“夜そのもの”が、
歩いてくるようだった。

怒りが濃い。

空気が、刺さる。

その怒りは、
誰かを殺すための怒りに見える。

でもひかるは知っている。
違う。

これは…忘れられた痛みだ。
消された存在の叫びだ。

ひかるの喉が震える。

怖い。
足がすくむ。

それでも…
胸の奥が前へ出ろと言う。

高照姫の記憶が、鈴の中で鳴る。

しゃら……

師匠の声が背中に落ちる。
「名を呼べ」

ひかるは、息を吸った。

(兄上、帰ろう)

口にするのが怖い。
でも、これが“問い”の答えだ。

ひかるは、影に向かって一歩踏み出した。
「……兄上」

その瞬間、影が止まった。

怒りの密度が、一瞬だけ揺らぐ。

ひかるの胸が痛い。

「……兄上、帰ろう…」

言えた。

言えた瞬間、
ひかるの中で、古い夜が開いた。

たたらの炎。
白い衣。
油の匂い。
攫われる未来。

そして、自分の声。

「名を捨てて」
「姿を消して」
「追わないで」

ひかるの涙が落ちる。
「……ごめんね……」

何に謝っているのか、分からない。
でも謝らなきゃいけない気がした。

影が、ぎしりと鳴った。
怒りが、軋む。

そして…
初めて、言葉にならない声が出た。

(……なぜ……忘れた)

ひかるは首を振った。
「忘れたんじゃない……
……忘れさせられたの」

ひかるは続けた。

「私も、今まで知らなかった。
でも……今、思い出した」

影が揺れる。
泥が、少しだけ静まる。

ひかるは鈴を鳴らした。

しゃら……!

音が、闇を裂く。
その音は、祈りだった。
問いでもあった。

(あなたは、何を守りたかったの?)

影の怒りが、わずかに薄くなる。

そしてひかるの胸の奥で、雷の声が変わる。

(……火を……守りたかった)

ひかるは涙のまま頷く。
「うん……」

「鉄は、命のためにある」
影が、ゆっくり膝をついた。

怒りがほどけるとき、
それは暴発じゃない。

崩れるように、静かにほどける。

影の周囲の泥が、すうっと沈んでいく。
沼の水面が落ち着いていく。

そして――影の輪郭が変わり始めた。

黒い泥が剥がれ、
中から、淡い光が見える。

月のような光。
雷のような線。

それは“怒りの怪異”ではなかった。

守る者の姿。
守護神の姿。
背中に、羽のような気配。
雷羽。

顔が、ほんの少しだけ形を持つ。

目がある。

その目は、
怒りではなく、悲しみを知っている目だった。

ひかるの胸が締め付けられる。

「……兄上……」

守護神の姿になった影が、
初めて穏やかな声を落とす。

(……高照……)

ひかるは涙を拭いながら笑った。

「うん。私、帰ってきた」

その瞬間だった。
背後で、足音がした。

じゃり……
じゃり……

雨の中を歩く音。
人間の足音。

師匠が振り向き、低く唸る。

「……来たか」

フェンスの隙間から、数人の男が入ってくる。

作業員ではない。
スーツ姿。
無線。
手袋。

目が冷たい。

ひかるは一瞬で理解した。

中央の末裔。
巫女の確保――拉致。

男が笑った。
「高月ひかるさん、ですね」

ひかるの背筋が凍る。
「……なんで名前を」

男は丁寧に言う。
「安全のために、お話を伺いたい」

嘘だ。

師匠が一歩前に出る。
「帰れ」

男は笑みを崩さない。
「あなたも対象です」

その瞬間、ひかるの鈴が震えた。

しゃら……!

勝手に鳴る。
警告の音。

男の一人が、ひかるの腕を掴もうとする。

――その刹那。
月の光が走った。

守護神の姿になったアジスキが、
ひかるの前に立った。

空気が、裂ける。

男たちの足が止まる。

見えているはずがないのに、
本能が止まる。

男が、喉を鳴らした。
「……なんだ、今の」

ひかるは鈴を握りしめ、言った。
「帰ってください」

声は震えている。
でも逃げない。

師匠が囁く。
「巫女は、祈りそのものだ」

男の一人が、無線に向かって呟いた。
「……確認。対象、覚醒」

その言葉が、背筋を冷やした。

師匠がひかるの肩を引く。
「行くぞ」

ひかるは振り向いた。

守護神のアジスキが、ひかるを見て頷く。

(……託す)

その声はもう怒りじゃない。
守りの声だ。

ひかるの胸が熱くなる。
「……うん。」

彼女は一歩下がり、師匠と共に闇へ走った。
雨が、背中を叩く。
フェンスを越え、道路へ出る。

後ろで男たちの声がする。
「追え!」
「逃がすな!」

だが――追えない。

工事現場の泥が、彼らの足を重くする。
沼が、敵を選んで捕まえる。

ひかるは走りながら、鈴を握りしめた。

しゃら……
しゃら……

その音は、祈りだった。

そして、宣言だった。

「私は奪われない」



夜が明ける頃。
雨は止み、空が薄青くなる。
ひかるは師匠の部屋で、
震える手でお茶を飲んだ。

師匠が言った。
「これで確定した」

「……何が」

「お前は巫女だ。そして奴らは動く」

ひかるは鈴を見つめた。
金属はもう冷たくない。
体温がある。
命がある。

ひかるは小さく呟いた。

「……兄上、帰ろうって言えてよかった」

師匠は、ほんの少しだけ笑った。
「言えたから、守護神に戻った」

ひかるの胸に、安堵が広がる。
けれど同時に――恐怖も広がる。

中央の末裔。
巫女の確保。
封印破り。

この戦いは、終わっていない。

師匠が静かに言った。
「次は…向こうが本気で来る」

ひかるは頷いた。
怖い。

でも、もう逃げない。
彼女は鈴を握りしめ、問いを立てた。

(私は、何を守る?)

鈴が、小さく鳴った。

しゃら……

(つづく)



いいなと思ったら応援しよう!