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国譲りの火③

第三話:誓約の紙、父の血


三日。
それは祈りにとって短すぎる。
けれど、戦を望む者には十分な時間だった。

山の水が音を立てて走り、
木々の葉が冷たい光を跳ね返す。
タタラ場の炎は、夜ごと生き続けている。
踏鞴の音は絶えず、鉄は生まれ続ける。

農具が増えた。
田は広がり、米の香りが村に満ち始めた。
国が、生き返っていくはずだった。

火の前に立つたび、
あの夜の男の声が蘇る。

「国を譲っていただきたい」

丁寧な言葉。
冷えた笑い。
そして、油の匂い。
武具の匂い。

命の火を、戦いの火へ変える匂い。

アジスキは拳を握った。
戦えば、鉄は血に染まる。
それだけは避けたかった。

そんな彼の背後で、
高照姫が鈴を鳴らす。

しゃら……

その音は祈りではない。
見えないものを“縛る”音。

結界。

巫女は、すでに何かが始まっていることを知っていた。

――三日目の夜。
中央の使いが再び現れた。
闇の中に、黒い影が増えていた。
前回は三人だった。
今夜は十を超える。

男たちは静かに並び、
無言でタタラ場を見渡す。

鉄の匂い。
火の熱。
そして、欲望。

欲望が、彼らの目を光らせていた。

最初に来た男が前に出る。
相変わらず丁寧に頭を下げ、
相変わらず冷たい目で笑った。

「ご決断は、お済みでしょうか」

大国主は、炎の前に立っていた。

その背は大きく見えた。
けれど、どこか細くも見えた。

国を守るというのは、
いつも一人で受け止めることなのだ。

大国主は静かに言った。
「国譲りは、受け入れられぬ」

男の笑みが、微かに歪んだ。

「……残念です」

その言葉の後ろに、
“闇”が隠れているのが分かる。

高照姫が、鈴を鳴らした。

しゃら……!

空気が震え、
使いの男たちが一瞬だけ眉をひそめる。

だが、男は怯まない。

「しかし」

男は言った。

「あなたはすでに、誓約書を預かっておられる」

大国主の目が、わずかに細くなる。

「……預かっただけだ」

男は微笑む。

「預かった、ということは――
天つ神の誓いを受け入れた、ということ」

アジスキの背筋が凍った。

(……そういうことか)

言葉の罠。
人の誓いが、
いつの間にか“罪”に変わる仕組み。

男は続ける。

「あなたは天の誓いを受けた。
ゆえに、天はあなたを“味方”と見なす」

高照姫の目が鋭く光った。

「……詭弁です」

男は肩をすくめた。

「言葉とはそういうものです。
勝者が意味を決める」

アジスキの中で、雷が鳴った。

――ズン。

骨の中を通り抜ける雷。

(勝者が意味を決める?)

それはつまり。
正しさは、力で決まると言っているのか。

大国主は深く息を吸った。

「……ならば、どうする」

男は待っていましたとばかりに、
一歩踏み出した。

「国を、譲っていただきます」

その瞬間。
背後の兵が、同時に動いた。
どん、と地が揺れる。

鉄の鎧が擦れる音。
刀の鞘が鳴る音。

アジスキは反射的に前へ出た。

「やめろ!」

だが大国主が、腕を伸ばして止めた。

「……アジスキ」

その声が、
あまりにも静かで、あまりにも優しかった。

「戦うな」

「父上……!」

「お前が戦えば、
この国は、ただの戦場になる」

アジスキは、唇を噛んだ。

守りたい。
守るために、戦うのが当然だと思う。

だが父は、違うと言う。

戦えば、鉄は血に染まる。
そして鉄の国は、二度と農具の国へ戻れない。

守るために戦うことが、
国を壊す。

そんな矛盾を、父は知っている。

男がゆっくり手を上げた。

「連れて行け」

その瞬間だった。

高照姫が、鈴を激しく鳴らした。

しゃら、しゃら、しゃら……!

空気が裂ける。
炎が一瞬だけ、青く揺れた。

タタラ場の者たちが息を止める。

結界が張られた――そう感じた。

兵が一歩踏み出した瞬間、
足元が微かに沈んだ。

まるで地が、拒んでいる。

男の眉が動く。

「……巫女」

高照姫は、炎の前に立ち、
静かに言った。

「ここは命の火です」

男は笑った。

「命? ならば、天の命のために使わせてもらう」

その言葉が落ちた刹那。

大国主の背中が、わずかに揺れた。
――何かが、突き刺さったのだ。

アジスキの目が見開かれる。

赤。

炎の赤とは違う赤が、
父の衣の背に滲む。

刃だ。

兵の一人が、
静かに刃を突き立てていた。

「父上……」

声が出ない。

大国主は、ゆっくり振り返った。
その顔は――怒っていなかった。
悲しんでいなかった。
ただ、深い海のように静かだった。

「……そうか」

それだけ言って、
膝が折れた。

地面に落ちた瞬間、
踏鞴の音が止まった。
タタラ場が、息を止めた。

炎だけが、ぱちぱちと鳴る。

男は平然と大国主を見下ろした。

「天つ神は、あなたの決断を待てない」

アジスキの中で、何かが割れた。

戦えば、国が壊れる。
それでも――
父の命が……

守るべきものが、目の前で壊された。

アジスキの喉の奥から、
獣のような声が出そうになる。

だが、高照姫の鈴が鳴った。

しゃら……!

音が、アジスキの魂を押さえつけた。

彼女は叫ぶ。
「アジスキ!」

その声は祈りではない。
命令だった。

「見て!あなたが戦えば、ここは地獄になる!」

アジスキは、息を荒くした。
視界が赤くなる。
炎も血も、全部が赤い。

兵はもう、タタラ場を押さえ始めている。
鉄を作る者たちが縛られ、引きずられる。

男が笑う。

「これでよい。技術は天に渡る」

その笑みを、アジスキは焼き潰したいほど憎んだ。

だが。

戦えば――

この場の民が失われる
鉄火が、戦火になる。

戦えば負け。
戦わなくても奪われる。
どちらにしても、奪われる。

ならば――

もう一つの道。

託せ。
託せ。

その声の意味が、
ようやく形を持ち始めた。

(守るのは、この場じゃない)
(守るのは、鉄の火そのものだ)
(鉄が、農具として生き続ける未来だ)

アジスキは、唇を噛んで
血の味を噛みしめた。

そして、父のもとへ膝をついた。

大国主の手が、微かに動いた。
指先が、アジスキの袖を掴む。
かすれた声が、漏れた。

「……守れ」

それだけだった。

アジスキの喉の奥が震え、
涙が出そうになる。

だが――泣けない。
泣く暇がない。

高照姫が、大国主の血に触れ、
そっと瞼を閉じさせた。

そして、アジスキの耳元で囁く。

「行くのよ」

「……どこへ」

高照姫は目を閉じたまま、
鈴を握りしめた。

「湿地がある」

「……湿地?」

「出雲ではない。違う地」

高照姫の唇が震える。

「夢で見たの」

巫女の夢は、未来だ。

「山を越えた先。地が水を含み、鉄の芽が眠る場所」

「そこへ……?」

高照姫は頷く。

「もう一度、国を作る」

アジスキは立ち上がった。

背後では、
炎が、奪われていく。
命の火が、奪われる。

それでも――
守るべきは、未来だ。

託せ。
託せ。
託せ。

雷の声が、最後に言った。

(消えろ)

アジスキは、顔を上げた。

闇が深い。
姿を隠す。

だが、国を繋ぐ。

高照姫が、鈴を鳴らした。
しゃら……

その音は、別れの音だった。

父への別れ。
鉄の火への別れ。
そして――

自分の名への別れ。

アジスキは、最後に一度だけ炎を見た。
そして、誓った。

(鉄は、命のためにある)
(俺は、鉄を守る)
(だから、俺は――消える)

その夜。

出雲の国は、静かに壊された。

だが。

壊されたものの中から、
消えた者がいた。

アジスキタカヒコネ。
そして、高照姫。

彼らは闇へ流れ、
新しい湿地を求めて歩き始める。

その先に――

まだ誰も知らぬ、
もう一つの国の始まりが。

(つづく)


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