見出し画像

夏休みの奇天烈怪談録

忘れられた作品たちを、
そっとネットの片隅に置いています。

今回は、時代に忘れ去られた、
少し大きな物語を見つけました。

長い話になりますが、
よろしければ、少しずつお付き合いください。

あらすじ

祖父の葬儀で、東北の山あいの村を訪れた小学五年生の縁(ゆかり)。仕事と酒に溺れる父とは、この半年、口をきいていない。だがその父が突然、二十五年前に廃校になった母校を買い取り、会社を辞めると言い出した。

呆れながらも校舎の掃除を手伝ううち、夕方四時四十四分、鏡の前で親子が笑い転げた、その瞬間——誰も気づかぬまま、何かの戸が、開いた。

夜ごと、ひとりでに鳴るオルガン。恥ずかしがり屋の花子さん。月夜の校庭を走る二宮金次郎。恐くて可笑しい怪異たちとの祝祭の夜が始まり、閉ざされていた親子の距離は、少しずつ縮まっていく。

けれど縁は、まだ知らない。この騒ぎの中心に、二十五年間ずっと"誰か"を待ち続けた、小さな影がいることを——。

第一章 蝉時雨と黒い服

 東京駅を出た新幹線が最初のトンネルをくぐったとき、縁はまだ、スマホの画面を見ていた。

 友達とのグループトークは、夏休みの予定の話で盛り上がっていた。プールに行く、映画を観る、誰それの家でゲームをする。縁は「いいなー」とだけ打って、送信した。既読はすぐについたが、返事が来る前に、電波のアンテナが一本になり、二本に戻り、また一本になった。

 北へ行くほど、窓の外の景色から、建物が減っていった。ビルが低くなり、マンションが一戸建てになり、一戸建てのあいだに畑が挟まり、やがて畑のあいだに家が挟まるようになった。田んぼの緑が、目に痛いくらい濃くなった。

「あと、どれくらい?」

 縁は、隣の席の母に、聞いた。母は、膝の上のスマホで、乗り換えの画面を見ていた。喪服の準備も、切符の手配も、香典の袋も、ぜんぶ母がやった。こういうとき、この家で動くのは、いつも母だ。

「新幹線降りて、在来線で一時間。そこからバスで五十分だって」
「……遠っ」
「田舎なのよ。お父さんの田舎は」

 その父は、通路を挟んだ反対側の席で、缶コーヒーを握ったまま、眠っていた。三人並びの席は取れなかった、と母は言ったけれど、たとえ取れていても、この並びになった気がする、と縁は思った。窓側に縁。隣に母。通路の向こうに、父がひとり。この半年の、うちの間取りと、同じだった。

 眠る父の、喪服の黒いネクタイが、緩められて、首から情けなくぶら下がっていた。顎には、剃り残しの髭が、ぽつぽつと散っていた。じいちゃんが死んだ、という電話が来たのは、三日前の夜中だった。それから父は、ろくに寝ていないらしかった。

 じいちゃんが死んだ。

 その言葉を、縁は頭の中で、何度か転がしてみた。転がしてみても、悲しみらしいものは、うまく出てこなかった。悲しくないわけではない、と思う。ただ、じいちゃんという人を、縁はほとんど知らなかったのだ。

 会ったのは、たぶん、人生で三回。最後に会ったのは保育園のころだから、顔も、写真で補正された記憶しかない。知っているのは、電話の声だけだった。毎年、正月に、父の実家に電話をかける。母が話し、父が話し、最後に「縁、じいちゃんに挨拶しな」と受話器を渡される。受話器の向こうのじいちゃんは、訛りがきつくて、言っていることの半分は分からなかった。分からないなりに「うん」「うん」と相槌を打っていると、じいちゃんは最後に、必ず言った。

『ゆかりちゃん、達者にな』

 たっしゃ。その言葉を、縁は、じいちゃんの電話でしか聞いたことがなかった。意味を母に聞いたら、「元気でね、ってことよ」と教えてくれた。元気でね、なら、そう言えばいいのに。でも、じいちゃんの「達者にな」は、「元気でね」よりも、なんだか、ずっしりしていた。声の底のほうに、重たい、あったかい石が沈んでいるみたいな言い方だった。

 その「達者にな」が、もう聞けない。

 そう考えたとき、初めて、胸の奥がすこし、ぎゅっとなった。ああ、これが悲しいということの、はじっこなのかもしれない、と縁は思った。

 在来線は二両編成で、乗客は数えるほどだった。ボックス席の窓を、山が流れていった。トンネルを抜けるたびに、山が深くなった。バスに乗り換えると、乗客は縁たち家族三人だけになった。運転手が「男鹿沢まで?」と聞き、父が「はい」と答えると、運転手はミラー越しにちらりと三人を見て、「……章一さんとこの?」と言った。

「はい。息子です」
「そうかあ……章一さん、なあ」

 運転手はそれきり何も言わなかったが、その「なあ」の中に、いろんなものが入っているのが、縁にも分かった。じいちゃんは、章一という名前だった。それも、縁は今回初めて、ちゃんと意識した。

 バスは、曲がりくねった山道を、五十分かけて登った。ガードレールの向こうは深い谷で、谷底に細い川が光っていた。カーブを曲がるたび、縁の体は右へ左へ振られた。途中、「クマ出没注意」の看板が二回あった。信号は、一つもなかった。

 男鹿沢のバス停は、木の柱に錆びたプレートが打ちつけてあるだけの、屋根もないバス停だった。

 降りると、西日が、正面から目を射た。

 太陽は、もう、向かいの山の稜線に、半分、かかろうとしていた。東京を昼前に出て、乗り継いで乗り継いで、着いたのは、夕方だった。長い一日だった。まだ、通夜も始まっていないのに。空は、高いところはまだ青いのに、山の際が、じりじりと、橙に灼けはじめていた。影が、長い。三人の影が、バス停から、道の先まで、電信柱みたいに、細長く伸びていた。

 涼しく、なりはじめていた。日が傾いて、風に、夜のはじまりの匂いが、混じっていた。

 なのに――蝉が、鳴いていた。

 東京の蝉と、鳴き方が違う、と縁は思った。東京の蝉は、騒音の隙間で鳴いている。ここの蝉は、世界のぜんぶを使って鳴いていた。じいじいじいじい、みんみんみんみん、と、幾層にも重なって、空気そのものが震えているようだった。日はもう傾いて、風は涼しいのに、蝉だけが、まだ、昼の暑さを、鳴きやめずにいた。涼しさと、蝉の暑さとが、ちぐはぐに、同じ空気の中に、あった。そのちぐはぐが、なんだか、落ち着かなかった。

 夕方と、夜の、境目の時刻だった。

「ここから歩いて十分だ」

 父がボストンバッグを担ぎ直して、先頭を歩き出した。母が、縁の背に、そっと手を添えた。西日が、三人の影を、あぜ道のずっと先まで、長く長く、伸ばしていた。舗装のひび割れた一本道の両側に、田んぼが広がっていた。稲が青々と伸びて、風が渡ると、緑の波が、ざあっと走った。

 道の途中で、腰の曲がったおばあさんとすれ違った。おばあさんは二人を見て、立ち止まり、まじまじと父の顔を見た。

「……あれ、まあ。達っちゃんでねえの」
「ご無沙汰してます」
「まあまあまあ、達っちゃん。大きくなって……いや、もう、いい歳か。章一さん、残念だったなあ」
「はい」
「んで、この子は」
「娘です。縁といいます」
「まあまあまあ」

 おばあさんは、母にも「奥さんも、遠いとこ、まあまあ」と手を合わせるみたいにお辞儀をして、母も、ていねいに、お辞儀を返した。

 おばあさんは、縁の顔を、皺だらけの目を細めて、じっと見た。

「いい子だなあ。……子供の声、久しぶりに聞くわ、この沢で」

 その言い方が、縁の耳に、少し引っかかった。子供の声、久しぶり。

 じいちゃんの家は、集落のいちばん奥にあった。黒っぽい瓦屋根の、大きくて古い家だった。庭には、じいちゃんが世話をしていたらしい野菜の畝があって、トマトが、誰にも採られないまま、真っ赤に熟れて、いくつか地面に落ちていた。

 家には、もう親戚が集まっていた。通夜は今夜、告別式は明日。縁の知らない大人たちが、玄関で、仏間で、台所で、立ち働いていた。伯父だという人、大叔母だという人、隣組の人。みんな、父を見ると「達っちゃん」「達也くん」と呼び、縁を見ると「まあ、大きくなって」と言った。会ったこともないのに、大きくなって、と言われるのは、変な感じだった。

 仏間に、じいちゃんは寝かされていた。

 白い布を、顔にかけられて。

 線香の匂いが、部屋に満ちていた。父が布をめくって、縁にも、じいちゃんの顔を見せてくれた。写真で見るより、ずっと小さくて、ずっと痩せていて、蝋でできた人形みたいな顔だった。眠っているようには、見えなかった。眠っている人は、もっと、そこに「いる」。じいちゃんは、そこにいるのに、もう、いなかった。

 達者にな、と、この人が、言ったのだ。あの、ずっしりした声で。

 縁は、手を合わせた。何を祈ればいいのか分からなかったので、心の中で「ちゃんと会いに来なくて、ごめんなさい」と言った。それから「達者の意味、ちゃんと覚えてます」と付け足した。

 通夜の晩は、長かった。

 大人たちは、酒を飲みながら、じいちゃんの思い出話をした。章一さんは頑固だった、章一さんは働き者だった、章一さんの作る米はうまかった。笑い声と、洟をすする音が、交互に聞こえた。縁は、部屋の隅で、出された煮しめやおにぎりを食べながら、その話を聞くともなしに聞いていた。

 話は、いつの間にか、村の話になっていった。

「――しかし、章一さんが逝って、この沢もいよいよだなあ」
「上の田んぼ、誰がやる。誰もやらねべ」
「うちの息子も、盆にしか帰ってこねえ。仙台さ、家建てたし」
「学校が閉まったときにな、もう、決まったのよ。子供のいねえ村は、終わりだ」
「もう、二十五年か。早いもんだなあ」
「最後の卒業式、四人だったべ。四人。おれらのころは、一学年で四十人いたのに」

 学校。

 縁は、顔を上げた。

「校舎、どうなってんの、今」
「そのまんまよ。役場も、壊す金がねえんだと。机も何も、入れっぱなしで、雨ざらしだ」
「もったいねえなあ」
「もったいなくても、しょうがねえべ。誰も、使わねえもの」

 誰も使わない学校。机も何も、入れっぱなしのまま。

 縁は、なぜだかそのとき、暗い校舎の中で、誰も座らない机がずらりと並んでいる光景を、想像した。想像して、うなじのあたりが、すうっと涼しくなった。怖い、のとは少し違う。もっと静かで、もっと寂しい、何かだった。

 ふと気づくと、父が、大人たちの輪の少し外で、一人、コップを持ったまま、じっとしていた。

 コップの中身は、ビールだった。注がれたまま、ほとんど減っていなかった。父は、飲んでいなかった。あの父が。家では、毎晩、判で押したように飲む父が。じいちゃんの遺影を、ただ、じっと見ていた。何かを考えている横顔だった。縁の知らない種類の、横顔だった。

 ――父のことを、少し話さなければならない。

 男鹿達也、四十三歳。東京の会社で、部長をしている。何の会社で、何の部長なのか、縁は正確には知らない。知っているのは、縁が知っている父が、二種類いる、ということだ。

 一人めは、写真の中の父だ。

 アルバムをめくると、いる。動物園で、縁を肩車している父。水族館の水槽の前で、縁と一緒に間抜けな顔をしている父。海で、浮き輪の縁を引っ張って、日焼けで真っ赤になって笑っている父。あのころの父は、休みのたびに、縁をどこかへ連れて行った。図鑑を一緒に眺めて、「縁、これ、なんて動物だ?」とクイズを出した。テレビで昔のお化け映画がやると、録画しておいてくれて、休みの日に、隣で一緒に観た。怖い場面では、父のほうが先に「うわっ」と大げさにのけぞって、縁を笑わせた。あのころ、父は、縁にとって、世界でいちばん面白い大人だった。

 二人めは、今の父だ。

 夜、遅くに帰ってくる。ただいま、と言う声が、もう疲れている。着替えて、食卓に着くと、まず、冷蔵庫から缶を出す。ぷしゅ、と開ける。一本めは、まだいい。二本め、三本めになると、父はテレビに向かって、独り言を言い始める。会社の誰それが分かっていない、上が現場を知らない、昔はこうじゃなかった。同じ話を、何度もする。縁が宿題の話をしても、「ん? ああ、そうか、偉いな」と、目はテレビを見たまま答える。日曜の朝は、起きてこない。昼近くに起きてきて、頭が痛いと言って、また横になる。

 いつ、一人めの父が、二人めの父になったのか。縁は、はっきりとは思い出せない。境目は、なかったのだと思う。父が課長になったころ。部長になったころ。帰りが少しずつ遅くなって、缶の数が少しずつ増えて、気がついたら、写真の中の父は、写真の中にしか、いなくなっていた。

 決定的だったのは、この春の、映画だ。

 縁が一年待った映画だった。大好きなシリーズの、完結編。公開初日の朝いちばんの回を、半年前から、父と約束していた。指切りもした。父は「絶対だ。絶対起きる。何なら前の日から映画館に並んでもいい」と言った。その大口が、縁は嬉しかった。前の晩、父は機嫌がよくて、「明日は早いからな」と言いながら、いつもより多く飲んだ。それを見て、縁の胸には、小さな不安が差した。差したけれど、指切りしたから、と思って、寝た。

 日曜の朝、縁は八時に起きた。九時になっても、父は起きてこなかった。縁は、父の寝室のドアを、二回、ノックした。返事は、いびきだった。十時。縁は、ドアを開けて、「お父さん、映画」と言った。父は布団の中で寝返りを打って、「ん……ああ……あと五分」と言った。

 その五分は、来なかった。

 十一時、縁は一人で家を出た。母は仕事だった。一人で電車に乗って、一人でチケットを買って、一人で観た。映画は、面白かった。一年待っただけのことは、あった。ラストシーンでは、周りの席から、すすり泣きが聞こえた。縁は、泣かなかった。面白いのに、ぜんぜん、楽しくなかった。帰りの電車の窓に映る自分の顔が、知らない子みたいだった。

 家に帰ると、父は起きていて、青い顔で「悪かった」と言った。今度埋め合わせする、何でも買ってやる、と言った。縁は「別にいい」と言った。本当に、別によかったのだ。埋め合わせも、何かを買ってもらうことも、もう、どうでもよかった。欲しかったものは、そういうものではなかったから。

 その日から、縁は父と、必要なこと以外、口をきいていない。それから、もうひとつ。「お父さん」と、呼ぶのを、やめた。用があれば「ねえ」で足りた。ごはん。おふろ。いってきます。ねえ。それだけで、家の中は、案外、回った。回ってしまうことが、いちばん、寂しかった。

 ――通夜の晩に、話を戻す。

 夜も更けて、親戚たちが帰るか泊まるかし始めたころ、縁は、母に手招きされた。台所の裏の、勝手口の外だった。夜気が、ひんやりとしていた。東京の夜より、ずっと涼しい。空を見上げて、縁は、あ、と声を出しそうになった。

 星が、すごかった。

 降ってきそう、という言い方を、本で読んだことがある。大げさだと思っていた。大げさではなかった。黒い空に、白い砂を撒いたように、星があった。よく見ると、その砂の帯が、空をななめに横切っていた。天の川、というものを、縁は生まれて初めて、本物で見た。

「縁」

 母の声で、我に返った。母は、勝手口の灯りの下で、もう、明日の告別式のあとの段取りの顔をしていた。

「お母さん、明日の式が終わったら、夜の新幹線で東京に帰るから」
「……え」
「月曜から、どうしても抜けられない仕事なの。ごめんね。……で、あんたは、お父さんと残りなさい。初七日の法要が、済むまで」

 縁は、母の顔を見た。

「なんで。私も帰る」
「夏休みでしょ」
「夏休みだけど。宿題もあるし、友達と約束も」
「宿題、持ってきたでしょ。約束は、ずらせるでしょ」

 母は、縁がバッグに問題集を入れているのを、ちゃんと見ていたらしい。縁は、口をつぐんだ。母は、しばらく黙って、星空を見上げた。それから、星を見たまま、言った。

「……ね、縁。お父さんとふたりで、ごはん食べて、寝て、起きて、してごらん」

「……なにそれ」

「そのままの意味」

 母は、縁を見た。夜の中で、母の目が、静かに光っていた。

「あんた、お父さんと、口きいてないでしょ。春から」
「……別に。普通だし」
「普通じゃないわよ。お母さん、ぜんぶ見てるんだから。……あのね、縁。お母さんは、お父さんの味方をする気はないの。あれは、お父さんが悪い。百パーセント。映画のことも、毎晩のお酒も、ぜんぶ」

 母は、きっぱりと言った。それから、少しだけ、声をやわらげた。

「でもね。あの人が、あんたのことをどう思ってるかは、また、別の話なの。それは、あんたが、自分の目で確かめることで、お母さんが横から言うことじゃない。……五日間。ふたりで、ごはん食べて、寝て、起きて、してごらん。それで何も変わらなかったら、そのときは、もう、お母さんも考える」

 考える、の中身を、縁は聞けなかった。聞くのが、怖かった。

 翌日の告別式は、よく晴れた。

 斎場の窓の外で、蝉が、馬鹿みたいに鳴いていた。こんなに悲しい日でも蝉は鳴くんだな、と縁は思った。悲しくても、腹は減るし、汗もかく。人がひとりいなくなっても、夏は、いつもどおり暑い。それが、なんだか少し、ずるいと思った。

 棺には、じいちゃんの好きだったものが入れられた。老眼鏡。手ぬぐい。孫たちの写真。縁の写真もそこにはあった、見知らぬ写真だった。最後に、伯父がワンカップの酒を一本、そっと入れた。

「親父はこれがねえと、極楽まで歩かねえ」

 大人たちが少し笑って、それから、堰を切ったように泣いた。父も、泣いていた。声は出さずに、目の縁から、ぼろぼろと。父が泣くのを、縁は生まれて初めて見た。

 焼き場の煙突から、白い煙が、夏の青空へ、まっすぐに立ちのぼっていくのを、縁は、駐車場の日陰から、ずっと見ていた。あの煙のどこかに、達者にな、の声も、混ざっているのだろうか。

 夕方、母は、バス停まで、縁と父に見送られた。

「じゃあ、あとはよろしく。初七日の段取り、伯父さんに聞くのよ」
「ああ」
「縁。……言ったこと、覚えてる?」
「……ごはん食べて、寝て、起きて」
「そう」

 バスが来た。母は乗り込んで、いちばん後ろの席に座った。窓越しに、小さく手を振った。縁も振り返した。バスが走り出す寸前、窓の中の母が、何かを、祈るような顔をしたのを、縁は見た。見て、その意味を、深くは考えなかった。考えなかったことを、縁は、ずっとあとになって、思い返すことになる。

 バスは、砂埃を上げて、曲がりくねった山道の向こうへ消えた。

 あとには、縁と、父と、世界のぜんぶを使って鳴く蝉の声だけが、残された。

 父が、ぽりぽりと頭をかいた。

「……えー、と。飯、どうする」
「……なんでもいい」
「……そうめん、茹でるか」
「……いいけど」

 会話は、それで終わった。二人は、少し距離を空けて、田んぼのあいだの一本道を、じいちゃんの家へ向かって歩き出した。夕日が、二人の影を、あぜ道に長く伸ばしていた。

 じいちゃんの家の台所は、広くて、天井が高くて、薄暗かった。父は、勝手知ったる様子で戸棚を開け、そうめんの束と、大きな鍋を出した。ガスコンロは、点火のつまみを回すと、ぼん、と少し脅かすような音を立てて火がついた。

「めんつゆ、あったかな……お、あった。じいちゃん、そうめん好きだったからな」

 父は、独り言なのか縁に話しかけているのか分からない調子で、そう言った。縁は、卓袱台の前に座って、所在なく、部屋を眺めた。

 古い家は、物が多かった。茶箪笥の上に、木彫りの熊。壁に、賞状が入ったままの色褪せた額。柱には、鉛筆で引かれた線と、消えかけた文字。目を凝らすと「たつや 6さい」と読めた。その上に「7さい」「8さい」と、線は続いていた。いちばん上の線は、縁の目の高さより、ずっと上にあった。

 この柱で、父は、大きくなったのだ。

 当たり前のことなのに、その当たり前が、縁には、うまく飲み込めなかった。父にも、六歳のときがあった。この家で、この台所で、じいちゃんの茹でたそうめんを、食べていたときがあった。

「ほれ、できたぞ」

 大皿に山盛りのそうめんと、めんつゆと、父が庭からもいできたトマトが、卓袱台に並んだ。トマトは、包丁も使わず、手で割っただけだった。

「いただきます」
「……いただきます」

 二人の声は、揃わなかった。

 そうめんは、少し茹ですぎで、やわらかかった。トマトは、驚くほど甘かった。じいちゃんが死ぬ直前まで水をやっていたトマトだ、と思うと、縁は、なんだか不思議な気持ちで、それを噛んだ。

 食事のあいだ、会話は、ほとんどなかった。テレビをつけようとしたら、じいちゃんの家のテレビはリモコンの電池が切れていて、父が本体のボタンを押したら、砂嵐しか映らなかった。「アンテナ、だめになってんな」と父が言い、テレビは消された。

 静かだった。

 箸が皿に当たる音。そうめんをすする音。蝉の声が、いつの間にか、ひぐらしの声に替わっていた。かなかなかなかな、と。あの声は、どうしてだか、聞いていると胸の奥が細くなる。

「……なあ、縁」

 父が、ふいに言った。縁は、箸を止めなかった。

「なに」
「明日から、初七日まで、やることが色々ある。父さん、昼間は出たり入ったりするけど……おまえ、一人で、大丈夫か。この家で」
「……大丈夫だけど」
「そうか」

 それきり、また、沈黙になった。母の言葉が、縁の頭をかすめた。ごはん食べて、寝て、起きて、してごらん。――している。現に今、ごはんを食べている。でも、これは、母の言う「ごはん」とは、たぶん、違う。同じ食卓で、別々にそうめんをすすっているだけだ。東京の家と、何も変わらない。

 夜になった。

 風呂は、追い焚きのやり方が分からず、父が三十分格闘して、ぬるい湯になった。縁が先に入り、次に父が入った。縁は、仏間の隣の部屋に、布団を敷いてもらった。父は、仏間で寝るという。じいちゃんの祭壇の、蝋燭の火を、絶やさないためだそうだ。

 布団に入って、電気を消して、縁は、天井を見た。

 ――暗い。

 東京の夜は、電気を消しても、カーテンの隙間から街の灯りが入って、天井がうっすら見える。ここの闇は、本物の闇だった。目を開けているのか、閉じているのか、分からなくなる。自分の手を、顔の前にかざしてみた。見えなかった。

 音だけが、あった。

 柱時計が、かち、こち、かち、こち、と時を刻む音。どこか遠くの、沢の水音。ときどき、家のどこかが、みし、と鳴る音。古い家は、夜になると鳴くのだと、誰かに聞いたことがある。木が、昼の熱を吐き出して、縮むから。

 みし。

 ……みし。

 今のは、廊下、じゃなかったか。

 縁は、布団の中で、息を詰めた。誰かが、廊下を歩いたような。いや、家鳴りだ。木が縮んだだけだ。分かっている。分かっているけれど、一度そう思ってしまうと、闇の中の全部の音が、意味を持ち始める。

 じいちゃんの家。つい先週まで、じいちゃんが、ここで、達者に暮らしていた家。仏間には、火葬を終えたばかりの、白木の祭壇。骨になったじいちゃんが、まだ温かいまま、この家に、帰ってきている。もし、じいちゃんが、まだこの家のどこかに――。

 怖い。

 でも、その怖さの芯のところに、べつの何かが、まじっていることに、縁は気づいていた。心臓は、ばくばくいっている。なのに、耳は、澄んでいる。もっと聞こうとしている。闇の向こうを、確かめたがっている。

 ――怖い話が、好きだから。

 妖怪の図鑑なら、東京の家に、十二冊ある。夜、布団の中で、懐中電灯をつけて、飽きずにめくってきた。学校では、言わない。でも、本当の縁は、こういう夜を、ずっと、どこかで待っていたのかもしれなかった。本物の闇。本物の、古い家。何かが、いても、おかしくない場所。

 みし、と、また、家が鳴った。

 縁は、布団を、鼻の上まで引き上げた。怖い。わくわくする。怖い。その二つが、ぐるぐると、追いかけっこをした。

 どれくらい、そうしていただろう。

 ふすまの向こう、仏間から、小さな音が聞こえた。父が、寝返りを打つ音。それから、ぼそぼそと、低い声。

「……親父。……悪かったな、ろくに帰らねえで」

 独り言だった。父は、じいちゃんの祭壇に、話しかけていた。

「……なあ、親父。俺、間違ってねえよな。……いや、間違ってるかもな。母さんには怒られるべな。縁にも、嫌われるかもしれねえ。でもよ……」

 声は、そこで、しばらく途切れた。蝋燭の火が揺れる気配だけが、ふすまの隙間から伝わってきた。

「……見てろな。親父」

 何を見てろ、なのか。縁には、分からなかった。

 でも、その声は、縁の知っている、酔って愚痴をこぼす父の声とは、違っていた。もっと硬くて、もっと熱い、何かを腹の底に据えた声だった。

 縁は、いつの間にか、眠っていた。

 夢は、見なかった。見なかったはずなのに、朝、目が覚めたとき、耳の奥に、オルガンの音の残りみたいなものが、かすかに、あった。ポロン、という、たった一音。気のせいだと思って、縁は、布団から起き上がった。

 障子の向こうが、夏の朝の白さで、明るかった。

 父と、ふたりきりの日々の、一日めが、始まろうとしていた。


第二章 男鹿沢

 朝は、鶏の声で始まった。

 どこかの家で飼っているらしい鶏が、まだ空の白いうちから、こけこっこう、と鳴いた。一羽が鳴くと、別のどこかで、もう一羽が応えた。縁は布団の中で、その声を聞きながら、ここには目覚まし時計がいらないんだな、と思った。

 台所へ行くと、父はもう起きていて、卓袱台に、炊いた飯と、味噌汁と、焼いた塩鮭が並んでいた。

「……作ったの?」
「ん。じいちゃんの冷凍庫に、鮭が山ほどあった。味噌汁は、具が茄子しかなかった」

 味噌汁は、味噌が濃すぎた。鮭は、片面が少し焦げていた。でも、父が朝から台所に立つところを、縁は東京で、一度も見たことがなかった。日曜の朝の父は、いつも布団の中だったから。

「父さん、今日は役場と、寺と、あと伯父さんとこ、回ってくる。昼までには戻れねえと思う。冷蔵庫のもん、適当に食っててくれ」
「……うん」
「戸締まりだけ、頼む。といっても、この辺、誰も鍵なんかかけねえけどな」

 父は、じいちゃんの軽トラの鍵をつかんで、出ていった。軽トラのエンジンが、けたたましい音を立てて遠ざかっていくと、家は、また、しんとなった。

 縁は、一人になった。

 一人には、慣れている。東京の家でも、学校から帰れば、母が帰るまでの数時間は、いつも一人だった。ランドセルの内ポケットの合鍵で戸を開けて、「ただいま」と誰もいない部屋に言って、手を洗って、宿題をして、テレビを観て。一人の過ごし方なら、縁は、たぶん、クラスの誰よりもうまい。

 でも、じいちゃんの家の一人は、東京の一人と、少し違った。

 まず、静かさの質が違う。東京の部屋は、一人でも、窓の外から車の音や、隣の生活音が、薄く聞こえてくる。世界のどこかに人がいる、という気配の中の一人だった。ここの静けさは、底が抜けていた。蝉の声と、風の音の他に、人間の音が、何もない。柱時計の、かち、こち、だけが、やけに大きい。

 それから、この家には、じいちゃんが、まだ濃く残っていた。

 湯呑みに、じいちゃんの使っていた茶渋。玄関に、じいちゃんの長靴。壁のカレンダーには、じいちゃんの字で「診療所 10時」「草刈り」なんて書き込みがある。先週の欄までは、字がある。今週から先は、白い。その白さを見たとき、縁は、死ぬというのはこういうことか、と思った。カレンダーが、白くなることなのだ。

 午前中、縁は宿題の問題集を少しやって、飽きて、家の中を探検することにした。

 二階には、使われていない部屋が二つあった。一つは物置で、もう一つの部屋の襖を開けたとき、縁は、あ、と思った。

 子供部屋、だった。

 正確には、子供部屋だったもの、だ。学習机が一つ。本棚が一つ。壁に、色褪せた野球選手のポスター。机の上には、うっすら埃が積もっていたけれど、部屋は、きちんと片付いていた。じいちゃんが、ときどき掃除をしていたのかもしれない。息子が出ていったあとの部屋を、何十年も。

 ――父の、部屋だ。

 縁は、そっと足を踏み入れた。悪いことをしている気もしたが、好奇心のほうが勝った。本棚には、古い漫画と、図鑑と、背表紙の割れた文庫本が並んでいた。その中に、一冊、縁の目を引くものがあった。

 『まんが 日本の妖怪ばなし』。

 縁は、それを引き抜いた。ページの角が、丸くなるほど読み込まれていた。ぱらぱらとめくると、河童、天狗、雪女。ろくろ首のページには、鉛筆で、へたくそな、ろくろ首の落書きが描き足してあった。

 ――お父さんも、こういうの、読んでたんだ。

 考えてみれば、当たり前かもしれなかった。あのお化けの映画を録画してくれたのは、父だ。怖い場面で、わざと大げさにのけぞって見せたのも。父の中にも、こういうものが好きな子供が、いたのだ。いた、のだ。過去形で考えて、縁は、少し、胸の奥が痛くなった。

 机の引き出しを開けると、メンコと、ビー玉と、錆びた肥後守と、それから、一枚の、色褪せた写真が出てきた。

 学校の校庭で撮ったらしい、日に焼けた古い写真だった。十人くらいの男の子が、みんな坊主頭で、真っ黒に日焼けして、カメラに向かって歯を見せて笑っている。その真ん中で、一人だけ腕を組んで、大将みたいにふんぞり返っている少年がいた。膝小僧に、大きなかさぶた。目つきが、生意気だった。

 誰だか、すぐに分かった。眉のかたちが、そのままだったから。

 ――お父さんだ。

 写真の裏には、鉛筆で「六年 川であそんだ日」とだけ、書いてあった。

 昼過ぎに、隣のおばあさんが、また野菜を持ってきてくれた。きゅうりと、茄子と、もぎたてのトマト。縁が麦茶を出すと、おばあさんは縁側に腰かけて、ゆっくり飲みながら、ぽつりぽつりと、話をしてくれた。

「達っちゃんはなあ、この沢のガキ大将だったんだで」
「ガキ大将」
「んだ。夏になれば、子供ら引き連れて、川で泳いで、山でカブトムシ捕って。悪さもしたよお。うちの畑のスイカ、まるごと一個かっぱらって、みんなで河原で割って食って。んで、章一さんにげんこつで殴られて、みんなの分まで一人で謝りに来た。『おれが食おうって言いました』って。……ほんとは、言い出しっぺは別の子だったんだけどなあ。達っちゃんは、そういう子だった」

 おばあさんは、ふぉっふぉ、と笑った。縁は、机の引き出しの、あの腕組みの少年を思い浮かべた。

「学校もなあ、あのころは賑やかでなあ。この沢だけで四十人。隣の沢と合わせて、二百人はいたわ。運動会の日は、村じゅうが弁当持って、見に行ったもんだ。……それが、なあ」

 おばあさんは、麦茶を、ひとくち飲んだ。

「若いもんが、みんな町さ出て。生まれる子が、いなくなって。学校が閉まってなあ。……学校が閉まった日、わたしゃ、見に行ったのよ。最後の四人の卒業式。校長先生が、『男鹿沢小学校、百十二年の歴史に幕を』って言ったとき、そりゃあ、みんな泣いた。子供より、じじばばが泣いた。学校がなくなるってのはなあ、ゆかりちゃん。村の心臓が止まるってことなんだで」

 村の心臓。

 縁は、まだ見ぬ校舎のことを、思った。心臓が止まって、二十五年。机も何も入れっぱなしのまま、山の中腹で、雨ざらしになっている建物のことを。

 夜、父は、妙だった。

 通夜のときから薄々気づいていたが、初七日を待つこの数日、父は、一滴も、酒を飲まなかった。じいちゃんの家には、じいちゃんの焼酎も、通夜の残りのビールも、あるのに。毎晩、湯呑みの茶ばかり飲んで、卓袱台に、通帳やら、書類やら、判子やらを広げて、夜中まで、一人で唸っていた。

 電話も、よくかけていた。役場の誰か。農協の誰か。「はい……ええ、名義の件は……はい、それは承知の上で……」縁が風呂から上がると、慌てたように声を落とした。縁は、聞こえないふりをして、部屋に引き上げた。

 遺産の、手続きだろう。たぶん。でも、それにしては、電話を切ったあとの父の顔は、変だった。疲れているのに、目だけが、らんらんとしていた。何かを企んでいる小学生みたいな目、と言えばいちばん近い。四十三歳の男が、そんな目をしているのは、正直、不気味だった。

 三日目の夜、縁は、便所に立ったついでに、仏間の前を通った。襖が細く開いていて、父の背中が見えた。父は、祭壇の前に、あぐらをかいて座っていた。手には、あの、色褪せた写真。子供部屋の引き出しの、あの写真だった。いつの間に、持ち出したのだろう。

 父は、写真を見ながら、じいちゃんの遺影に、ぼそぼそと話しかけていた。

「……なあ、親父。おれ、あのころ、この村がずっとこのまんまだと思ってた。夏が来るたび、川があって、山があって、学校があって。ガキがわらわらいて。……あれ、ぜんぶ、なくなっちまうなんてなあ。考えもしなかった」

 蝋燭の火が、ゆらり、と揺れた。

「縁のやつな、親父。ああ見えて、いい子なんだ。しっかりしてて、賢くて。おれなんかより、よっぽどしっかりしてる。……でもな、あいつ、笑わねえんだ。おれの前で、この半年、いっぺんも笑ってねえ。おれのせいだ。分かってる。……あいつが小せえころは、おれが変な顔するだけで、ひっくり返って笑ったのになあ」

 縁は、廊下の暗がりで、足を止めたまま、動けなくなった。

「親父。おれ、決めたことがある。明日、あいつに話す。……笑われるかもな。母さんには、たぶん、殺されるべ。でもよ、おれはもう、決めた。……見てろな」

 縁は、音を立てないように、そっと部屋に戻った。布団に入っても、心臓が、ばくばくしていた。決めたこと。明日、話す。何を。

 ――そして、村に来て、四日目の朝が来た。

 朝飯のあと、父は、いつになく、そわそわしていた。茶碗を洗いながら鼻歌をうたい、うたいながら音程を外し、皿を一枚、流しに落として「おっと」と言った。それから、縁のほうを振り向いて、言った。

「縁。ちょっと、付き合え。見せてえもんがある」
「……なに」
「いいから。乗れ」

 じいちゃんの軽トラは、相変わらずクーラーが効かなくて、二人は窓を全開にして山道を走った。風が、ごうごうと車内を吹き抜けた。父は、また、あの調子っぱずれの鼻歌をうたっていた。この数日、何度も聞いた、聞いたことのないメロディ。

「ねえ、それ、なんの歌」
「ん? ……なんだったかな。忘れた」

 父は、笑ってはぐらかした。軽トラは、集落を抜け、田んぼを抜け、杉林のあいだの坂道を登った。カーブを二つ曲がったところで、視界が開けた。

 学校が、あった。

 山の中腹、杉林を背負って、二階建ての木造校舎。壁は灰色に日焼けし、何枚かの窓は割れて板が打ちつけてある。校庭は膝丈の夏草に呑まれ、真ん中に、錆びたサッカーゴールが一基、白骨みたいに立っていた。破れたバックネット。苔むした朝礼台。そして、玄関の前に、薪を背負って本を読む、二宮金次郎の銅像。

 ――ここが。

 通夜の晩に大人たちが話していた、村の止まった心臓。父がガキ大将だった、学校。

 廃墟のはずだった。なのに、校舎は、妙に、堂々としていた。傷んで、色褪せて、草に呑まれかけて、それでもまだ、「学校」の顔をやめていなかった。まるで、目を閉じて、じっと何かを待っている、大きな生き物みたいに。

「男鹿沢小学校」父は、校門の前に軽トラを停めて、エンジンを切った。「父さんの、母校だ」

 蝉の声が、どっと車内に流れ込んできた。父は、フロントガラス越しに、校舎を見上げていた。門柱に何か彫ってあったが、苔と風化で、文字はもう読めなかった。父はその門柱を、長いあいだ、じっと見ていた。

「二十五年前に、廃校になった。最後の年は、全校で四人だったと。……父さんが通ってたころで、三十人ちょっと。じいちゃんらの時代は、二百人いたんだそうだ」

「……ふうん」

 それが、どうしたの。見せたいものって、これ? 縁がそう言おうとした、そのときだった。

「買った」

 父が、言った。

 蝉の声のせいで、聞き間違えたのかと思った。

「……は?」

「この学校、父さんが買った」

 父は、校舎を見上げたまま、繰り返した。

「……葬式の、次の日だった」

 父は、問われてもいないことから、話し始めた。

「じいちゃんの家に、いられなくてよ。線香の匂いの中に、座ってらんなくて。気がついたら、歩いてた。気がついたら、足が、ここに向かってた。三十分、山道を登って、この校門の前に立って――この校舎、見上げてたんだ。ぼーっと、一時間くらい」

 父は、フロントガラスの向こうの、灰色の校舎を、見たままだった。

「そしたらな。腹の底から、声がしたんだ。『おい。おまえ、ここで、何かやれ』って。……じいちゃんの声だったかもしれねえ。ガキのころの、おれの声だったかも、しれねえ。とにかく、その声が、離れなくなった。それで、役場に聞きに行った。この学校、どうなるんですか、って。そしたら、役場のほうが、困っててな。壊すにも金がかかる、置いとくにも危ない。直して使ってくれる人がいるなら、ほとんど、もらってくれって値段だった。……金がかかるのは、ここからだ。床、屋根、水回り。人を泊めるなら、設備もいる。そっちに、じいちゃんの遺してくれたもんを、使わせてもらう。田んぼと山は売らねえ。貯金も、半分は、母さんとおまえのために、手をつけねえ。……そこまで決めて、ゆうべ、役場と、話をつけた。それとな、縁。父さん、会社、辞める。ゆうべ、部長――上司に、電話で、言った。辞表は、東京に戻ったら、出す」

 世界から、音が消えた気がした。蝉は鳴いていたはずなのに。

「ここをな、子供の遊び場にするんだ」父の声だけが、続いていた。「秘密基地作ったり、キャンプしたり、川で泳いだり、本物の冒険ができる場所。夏休みに、都会の子が泊まりに来られる施設。教室は宿泊部屋にして、校庭にテント張って、給食室で飯作って――」

「――はあ!?」

 縁の声が、蝉を突き破った。

「なにそれ! 聞いてない! なんにも聞いてないんだけど!? お母さんは!? お母さんは知ってるの、それ!」
「……これから、話す」
「これから!? 会社辞めるのも、これから相談!? もう上司に言っちゃったんでしょ!?」
「……い、言っちまったもんは、その、戻せねえというか」
「信っじられない!」

 縁は、軽トラのドアを開けて、外に飛び出した。暑さが、どっと体にかぶさってきたが、それどころではなかった。振り返って、運転席の父に向かって、叫んだ。

「じゃあ何、私たち、ここに住むの!? 私の学校は!? 友達は!? 東京の家はどうすんの!」
「それは、これから、家族で相談して」
「相談って、ぜんぶ決めたあとに!? 順番、逆じゃん! いっつもそう!」

 父も、車を降りてきた。日焼けした顔を、くしゃっとさせて、頭をかいた。困ったときの、父の癖。その仕草を見た瞬間、縁の中で、何かの栓が、抜けた。

「……おまえに、ずっと、一人で留守番させてたべ」父が、ぽつりと言った。「父さん、仕事仕事で、家にいねえで。いても、その、酒ばっかりで。……おまえが小さいころは、あんなに、どこでも一緒に行ったのにな。だから、父さん、考えたんだ。子供のそばに、いられる仕事を、作っちまえばいいって。ここなら、おまえと――」

「やめてよ」

 自分でも驚くほど、冷たい声が、出た。

「私のためとか、言わないで」

 父の顔が、こわばった。

「勝手に決めたくせに。いつも、いつも、そう。ぜんぶ自分で決めて、決めたあとで、おまえのためだって言う。映画のときだって、そう。絶対起きるって、勝手に約束して、勝手に寝てた。今度は学校ごと買って、会社辞めて、それも私のため? ……私の気持ち、一回でも、聞いたことある?」

 言ってしまってから、言い過ぎた、と思った。父の目が、殴られた犬みたいになったから。でも、止まらなかった。半年ぶんの、いや、もっと長いあいだ、胸の底に沈めてきたものが、堰を切って、あふれてしまった。

 父は、何か言いかけて、口を開いて、閉じた。反論を探して、見つけられなかった顔だった。

 草いきれの立ちのぼる校庭の入り口で、親子は、しばらく、別々の方向を見ていた。蝉が、じいじいと鳴いていた。金次郎の銅像が、二人の気まずさなど知らぬ顔で、本を読んでいた。風が渡って、夏草が、いっせいに同じほうへ倒れた。

 ――そのとき、だった。

 縁は、ふと、視線を感じた。

 校舎の、二階。割れていない窓ガラスの、一枚。その暗がりの奥から、誰かが、こちらを、じっと見ているような気がした。

 縁は、目を凝らした。

 窓には、誰もいなかった。埃をかぶったガラスが、夏の入道雲を映しているだけだった。

 気のせいだ。こんな山の中の、二十五年も閉まった校舎に、誰かがいるわけがない。

 でも。

 縁の胸の、いちばん奥のほうで、何か小さなものが、ことり、と動いた。それは、怒りに沸いていた胸の中で、場違いなくらい、静かな音だった。怖さ、のようでもあり、あの、布団の中で図鑑をめくるときの、わくわく、のようでもあった。

 窓の奥の暗がりを、縁は、もう一度だけ、見た。

 ――誰か、いる?

 もちろん、返事は、なかった。ただ、入道雲だけが、ガラスの中で、ゆっくりと形を変えていた。

 帰りの軽トラは、行きよりずっと、長く感じられた。

 二人とも、口をきかなかった。父は、鼻歌もうたわなかった。窓から吹き込む風の音と、エンジンの音だけが、車内を満たしていた。縁は、窓の外の杉林を見ていた。見ているふりをして、頭の中では、さっきの自分の声が、ぐるぐると回っていた。

 ――私の気持ち、一回でも、聞いたことある?

 言ったことは、本当だ。一言も、間違っていない。父は、いつも勝手だ。今回のことだって、めちゃくちゃだ。学校を買う? 会社を辞める? 小学生の縁にだって、それがどれだけ無茶なことかは分かる。母が知ったら、卒倒する。怒って当然だ。怒る権利が、自分にはある。

 あるはず、なのに。

 胸の中に、小さな棘が、刺さっていた。

 ゆうべの、仏間の父の声。『あいつ、笑わねえんだ。おれの前で、この半年、いっぺんも』。あの声を、縁は聞いてしまっていた。引き出しの、あの色褪せた写真も見てしまった。腕を組んでふんぞり返る、生意気な目をした少年。スイカ泥棒の責任を、一人でかぶりに行った、ガキ大将。妖怪の漫画を、ページの角が丸くなるまで読んだ子供。

 あの子供が、大きくなって、東京に出て、働いて、疲れて、酒に逃げて、娘に嫌われて――そして今日、故郷の廃校の前で、娘に「私のためとか言わないで」と怒鳴られて、殴られた犬みたいな目をした。

 知らなければ、よかった。父の子供時代なんて。仏間の独り言なんて。知らなければ、まっすぐに、気持ちよく、怒っていられたのに。

 軽トラが、じいちゃんの家に着いた。父は、エンジンを切って、しばらくハンドルを握ったまま、前を見ていた。それから、前を見たまま、言った。

「……悪かった。順番、逆だった。おまえの言うとおりだ」

 縁は、答えなかった。

「けどな、縁。一個だけ、言わせてくれ。父さん、学校を買ったこと自体は、後悔してねえ。やり方は間違った。でも、やりたいことは、間違ってねえと思ってる。……ま、それも、父さんの勝手な言い分だけどな」

 父は、そう言って、先に車を降りた。夕飯の支度をする、と言って、台所に立った。その背中に、縁は、何も言えなかった。

 夕飯は、焼きうどんだった。二人は、また、ほとんど無言で食べた。ただ、昨日までの沈黙と、今日の沈黙は、少し、質が違っていた。昨日までのは、空っぽの沈黙だった。今日のは、お互いの言葉が、まだ胸の中でぐらぐら煮えている沈黙だった。

 その晩、縁は、布団の中で、なかなか眠れなかった。

 枕元には、父の部屋から持ってきた、あの『まんが 日本の妖怪ばなし』があった。懐中電灯をつけて、ページをめくった。河童。天狗。雪女。座敷わらしのページで、手が止まった。

 ――ざしきわらし。東北地方の、古い家に棲むという、子供の姿の妖怪。おかっぱ頭の女の子の姿で現れることが多い。いたずら好きで、家の子供と遊びたがる。座敷わらしのいる家は栄え、去った家は傾くという。その姿は、子供にしか見えないともいわれる。

 ページの隅に、また、鉛筆の落書きがあった。おかっぱの女の子の絵。子供のころの父が描いたにしては、妙に、丁寧に描かれていた。絵の横に、小さな字で、何か書いてある。縁は、懐中電灯を近づけた。

 『がっこうにいる』

 ――え?

 縁は、その四文字を、何度も読み返した。がっこうに、いる。学校に、いる。誰が? 座敷わらしが? 子供のころの父は、どういうつもりで、これを書いたんだろう。ただの、子供の空想? それとも――。

 昼間の、あの窓を、思い出した。二階の、暗がりの奥の、視線。

 背中が、ぞくり、とした。同時に、胸の奥のあの小さなものが、また、ことり、と動いた。怖い。でも、確かめたい。もし、本物が、いるのなら。

 縁は、図鑑を閉じて、目をつぶった。眠りに落ちる寸前、決めた。

 明日、学校に、ついていこう。

 父を許したわけじゃない。手伝うわけでもない。ただ――あの窓の奥を、この目で、確かめるだけだ。それだけだ、と自分に言い聞かせながら、縁は、眠りに落ちた。

 その夜、遠い山の中腹の、誰もいないはずの校舎で。

 二階の窓が、ひとつ、内側から、そっと開いて、また、閉じた。

 ――ことを、知る者は、まだ、誰もいなかった。


第三章 時間の止まった学校

 翌朝から、すぐ学校へ――と、いきたいところだったが、そうはいかなかった。翌日と翌々日は、初七日の法要と、その片付けで、つぶれたのだ。伯父の家に黒い服の大人たちが集まり、お経があり、精進落としの膳があり、じいちゃんの思い出話が、もう一度、ひとまわりした。大人たちが帰っていくと、村は、また、蝉の声だけになった。

 その、次の朝。縁が「今日、ついてってあげる」と言ったとき、父は、味噌汁を持ったまま、しばらく固まった。

「……学校に、か?」
「うん」
「て、手伝って、くれるのか」
「手伝わない。じいちゃんの家に一人でいるの、退屈なだけ。それと、勘違いしないでほしいんだけど、許したわけでもないから」
「お、おう。……おう」

 父は、嬉しさを隠すのが、絶望的に下手だった。口では「おう」としか言わないくせに、味噌汁をおかわりして、鮭を焦がさずに焼き上げ、軽トラに乗り込むときには、もう鼻歌が出ていた。例の、調子っぱずれのメロディが。縁は、助手席で窓の外を見ながら、聞こえないふりをした。

 校門の前に軽トラを停めると、父は、荷台から、ほうきと、ちりとりと、バケツと、大量の雑巾と、なぜか工具箱まで降ろした。

「……本気で、やる気なんだ」
「本気だからな」

 昇降口の引き戸は、大きな、木枠にガラスの入った、重たい戸だった。父が鍵を回すと、錠は、じゃり、と鈍い音を立てて開いた。ところが、戸そのものが、動かなかった。二十五年分の砂と歪みで、レールに噛んでいるらしい。

「ふん……ぬ……!」

 父が体当たりした。一回。二回。三回めで、戸は、ごごごご、と、地響きみたいな音を立てて、開いた。

 そして、中から、空気が、流れ出してきた。

 縁は、その空気を吸い込んで、思わず、その場に立ち止まった。

 埃の匂い。古い木の匂い。床のワックスの、甘いような匂い。それに、ほんの少しの、カビと、チョークの粉の匂い。奥のほうから、かすかに、プールの塩素の記憶みたいな匂いも、した気がした。

 ――知らない匂いの、はずだった。

 縁は、この学校に、来たことがない。この校舎の空気を、吸ったことがない。なのに、どうしてだろう。その匂いは、猛烈に、懐かしかった。胸の奥の、開けたことのない引き出しを、いきなり開けられたような。そこに、覚えのないはずの宝物が、しまってあったような。懐かしさで、鼻の奥が、つんとした。

「……この匂い、なんだろ」
「ん? 学校の匂いだべ」

 父は、こともなげに言った。学校の匂い。そうか、と縁は思った。縁の通う東京の小学校は、鉄筋コンクリートで、廊下はリノリウムで、こんな匂いはしない。でも、体のどこか、遺伝子の底のほうが、この匂いを「学校」だと知っているのかもしれなかった。日本中の子供が、何十年も吸ってきた、匂いだから。

 中は――そのまま、だった。

 下駄箱には、名札の消えかけたマス目が、ずらりと並んでいた。そのほとんどは空っぽだったが、一つだけ、上履きが、片方だけ、ちょこんと残っていた。小さな、白い上履き。かかとに、油性ペンで書かれた名前は、滲んで、もう読めない。

 片方、だけ。

 もう片方は、どこへ行ったのだろう。持ち主の子は、片方だけ履いて帰ったのか。それとも、もう片方だけ持って、引っ越していったのか。縁は、その上履きの前に、しばらく、しゃがみ込んだ。埃をかぶった、白い、片方だけの上履き。二十五年間、ここで、対の相手を待っていたみたいに見えた。

「縁、こっちだ」

 父の声で、我に返った。

 廊下は、長かった。板張りの床が、一歩ごとに、みし、みし、と鳴いた。壁の掲示板には、色褪せた貼り紙が残っていた。『めあて ろうかは あるく』。『もくひょう あいさつ げんきよく』。画鋲の錆が、紙に茶色い涙のあとみたいな染みを作っていた。子供の描いた絵。ひまわりの絵。家族の絵。「ぼくのおとうさん」という題の、クレヨンの絵の中で、大きな手のお父さんが、笑っていた。

 最初の教室の戸を、父が開けた。

「……うわあ」

 縁は、声を、漏らした。

 木の机と椅子が、二十ほど、きちんと並んでいた。まるで、今日の授業が、これから始まるみたいに。窓から差し込む夏の光の中で、無数の埃が、ゆっくりと、金色に舞っていた。黒板には、白いチョークの字が、消え残っていた。

 『にっちょく た』

 た、で、止まっていた。日直の、誰かの名前。た、まで書いて、その子は、チョークを置いたのだ。下校のチャイムが鳴ったのかもしれない。友達に呼ばれたのかもしれない。明日、続きを書けばいい、と思ったのかもしれない。その明日は、来なかった。

 教卓の上に、日めくりカレンダーが、あった。

 縁は、近寄って、それを見た。そして、息を、呑んだ。

 平成の、ある年の、七月の、ある日。

 その一枚で、止まっていた。誰も、めくらなかった。二十五年間――いや、その日めくりの日付からすると、もっと前から。この教室の時間は、その一日から、一ミリも、動いていなかった。

「時間、止まってるみたい」

 縁が、つぶやくと、廊下で荷物を運んでいた父が、「だべ」と笑った。

「父さんが通ってたころと、ほとんど変わんねえもんな、この教室。……お、そうだ。縁、ちょっと来い。面白いもん見せてやる」

 父は、教室のいちばん後ろの、黒板ではないほうの壁――背面黒板の、左隅を指さした。そこに、彫刻刀か釘で刻んだらしい、小さな落書きがあった。相合傘。傘の下の名前は、『タツヤ』と『?』。相手の名前は、掘りかけて、やめてあった。

「なにこれ」
「……あ。いや、これは、その」

 父が、慌てた。指さしておいて、自分で墓穴を掘ったことに、今、気づいたらしい。

「これ、お父さんが彫ったの? 誰と誰の相合傘?」
「じ、時効だ、時効。ほら、次行くぞ、次」
「ふうん。『?』って誰」
「聞くな」

 縁は、ちょっとだけ、笑いそうになって、慌てて、口を引き結んだ。まだ、許していないのだ。笑ってなんか、やらない。でも、口の端が、勝手に上がりそうになるのを、抑えるのには、少し苦労した。

 二人は、校舎を、順に見て回った。

 給食室には、銀色のアルミ食器が、塔のように積み上がっていた。深皿、浅皿、先割れスプーン。手に取ると、ずっしり重くて、ひんやりしていた。大きな寸胴鍋が三つ、巨大なしゃもじとお玉が、壁に、大小順に掛かっていた。「この鍋でな、カレーの日は、山盛り三杯食った」と父が言った。

 理科室には、ガラス戸の薬品棚と、人体模型と、骨格標本が、あった。人体模型は、半身の皮膚がなくて、内臓が色分けで見えているタイプの、あれだった。縁は、ガラス戸越しに、その模型と、目が合った。合った、気がした。模型の目は、ただのガラス玉のはずなのに、妙に、目力があった。

「……ねえ、これ、夜、動きそうじゃない?」
「よせ。まじで、よせ」

 父は、理科室からは、そそくさと出た。

 音楽室には、足踏みオルガンが一台と、グランドピアノの代わりみたいな古いアップライトピアノが一台、あった。どちらにも、黄ばんだカバーが、かかっていた。そして、壁には、ぐるりと一周、作曲家たちの肖像画。バッハ。モーツァルト。シューベルト。ショパン。そして――ベートーヴェン。

 どの肖像画も、古びて、色褪せていた。でも、ベートーヴェンの一枚だけ、なぜか、他のより、目に力があった。しかめっ面の、あの顔。縁が、部屋のどこに移動しても、その目は、こちらを見ている気がした。右へ動く。目が合う。左へ動く。目が合う。

「モナリザ効果、ってやつだ」父が、知った風に言った。「正面向いて描かれた絵は、どっから見ても目が合うんだと」
「へえ。……でもこれ、モナリザ効果にしては、ちょっと、睨みすぎじゃない?」

 ベートーヴェンは、答えなかった。当たり前だ。絵なのだから。

 図書室の本は、みんな日に焼けて、背表紙が飴色になっていた。縁は、書架のあいだを歩いて、『日本の妖怪』という古い児童書を見つけ、少しだけ、めくった。家にあるのと同じシリーズの、ずっと古い版だった。ページの紙が、ざらざらして、良い匂いがした。

 昼は、持ってきたおにぎりを、職員室で食べた。職員室は、事務机が島のように並び、壁には『集金予定表』だの『週番割当』だのの貼り紙が、まだ残っていた。誰かの湯呑みが、茶渋のついたまま、流しに伏せてあった。

「なあ、縁」おにぎりを頬張りながら、父が言った。「知ってっか。この学校、七不思議があんだぞ」

 縁の耳が、ぴくり、と動いた。海苔を噛む口が、止まった。

「……七不思議?」

「おう。父さんらのころ、代々、語り継がれてた。一つ。音楽室のオルガンが、夜中、ひとりでに鳴る。二つ。理科室の人体模型が、夜、廊下を歩く。三つ。二宮金次郎の銅像が、真夜中、校庭を走る。四つ。トイレの――」

「花子さん。三階か、いちばん古いトイレの、三番目の個室。……五つは、階段。夜になると一段増える。六つは、四時四十四分に鏡を見ると、引き込まれる。……七つめは?」

 縁が、すらすらと引き取ると、父は、おにぎりを持ったまま、目を丸くした。

「……おまえ、なんで、知ってんだ」
「基本だし。学校の七不思議は、全国どこでも、だいたい同じ構成なの。トイレ、音楽室、理科室、銅像、階段、鏡。で、七つめだけは、学校ごとに違う。……ねえ、この学校の七つめは、何?」

 父は、うーん、と唸って、おにぎりの残りを口に放り込んだ。

「それがな。七つめは、『知ったら呪われる』から、誰も口にしねえ、って決まりだった。上級生に聞いても、教えてくれねえ。『七つ全部知ったやつは、卒業できねえ』なんて言うやつもいた。……結局、父さんも、知らねえまま卒業した」

 知ったら、呪われる、七つめ。

 縁の背中を、心地よい寒気が、走った。定番中の定番の締めだ。図鑑にも載っている。でも、活字で読むのと、実際にその学校の卒業生の口から聞くのとでは、重さが、まるで違った。この、埃と沈黙の校舎のどこかに、誰も知らない七つめが、まだ、眠っているのかもしれないのだ。

「……ちなみに、お父さんは、見たことあるの。七不思議のどれか」

 父は、麦茶を、ひとくち飲んだ。それから、妙な間を、置いた。

「……さあな。ガキのころのことは、忘れた」

 その間が、縁は、少し気になった。忘れた、と言うときの父の目が、一瞬、遠くを見たからだ。あの図鑑の、『がっこうにいる』の四文字が、頭をよぎった。でも、それ以上は、聞けなかった。

 午後、二人は、掃除を始めた。

 と言っても、校舎は広い。今日のところは、職員室と、廊下の一部だけだ。父がほうきで掃き、縁が雑巾を絞った。埃は、掃いても掃いても、光の中に舞い上がった。二十五年分の埃は、そう簡単には、追い出されてくれなかった。

 夕方近く、二人は、階段の踊り場まで、掃除を進めた。

 踊り場には、大きな古い鏡が、あった。等身大の、木枠の姿見。埃の膜をかぶって、曇っていた。その隣の壁に、振り子の止まった、古い柱時計が、掛かっていた。

 針は――四時四十四分を、指したまま、止まっていた。

「……ねえ。この時計」

「ん? ああ、止まってんな。この校舎の時計、みんな止まってる。職員室のも、教室のも」

「そうじゃなくて。時刻。……四時、四十四分」

 縁は、昼に自分で語った七不思議を、思い出していた。四時四十四分に、鏡を見ると、引き込まれる。四が、三つ。その時刻を指したまま止まった時計が、よりにもよって、鏡の真横に。

 うなじが、ちり、とした。

「偶然だべ、そんなもん」父は、笑って、鏡の埃を、雑巾でひと拭きした。曇りが晴れて、鏡の中に、夕方の廊下と、くたびれた男が、映った。「ほれ、見ろ。ただの鏡だ。じじいが一人映るだけの」

「やめなよ、あんまり鏡の前で」

「なんも出やしねえって。……お? そうだ、縁。見とけ」

 父は、こともあろうに、鏡に向かって、両手を幽霊みたいにだらりと下げ、腰を落とし、白目を剥いてみせた。

「う〜ら〜め〜し〜や〜」

「……なにやってんの」

「怖いべ? 父さんの十八番だぞ。おまえが小さいころ、これやると、ひっくり返って笑って」

「笑わないから。小五だから」

 言いながら、縁の口の端は、すでに、危なかった。父は、調子に乗った。白目のまま、頬をふくらませ、鏡に向かって、みょーん、と顔を横に引き伸ばした。全力の、変顔だった。四十三歳の、まごうことなき全力だった。

「ぶ……っ」

 こらえていたものが、決壊した。

「あっはははは!! なにそれ!! ばっかじゃないの!!」

 縁は、雑巾を持ったまま、笑い転げた。

 今朝の、相合傘のときは、こらえた。こらえて、口を引き結んだ。まだ許していないんだから、笑ってなんかやらない、と。でも、もう、だめだった。引き結んでいた口の、その奥の、もっとずっと奥のほうで、半年間、堰き止めてきたものが――映画の日から、一度も、父の前で外に出してやらなかったものが――音を立てて、決壊した。

 父の前で、笑った。半年ぶりに。

 そのことに、縁自身は、気づいていなかった。笑うのに、忙しすぎた。父も、白目のまま、笑った。

 二十五年間、時の止まっていた校舎に、笑い声が、響いた。

 ――その、とき。

 誰も、見ていなかったが。

 縁のポケットの中で、スマホの時計が、切り替わった。一六時四四分。四時、四十四分。壁の柱時計の、止まった針と、生きた時刻とが、二十五年ぶりに、ぴたりと、重なった。

 こち。

 と、止まっていたはずの柱時計が、一度だけ、鳴った。

 振り子が、ほんのわずか、揺れた。鏡の面が、笑い転げる親子を映したまま、一瞬、水面みたいに、ゆらり、と揺れた。まるで、こちら側とあちら側を隔てていた戸が、細く、細く、開いたみたいに。

 誰も、気づかなかった。父の変顔が、可笑しすぎた。縁の笑い声が、大きすぎた。

 誰も、気づかなかったのだ。

 帰り支度をしていると、廊下の突き当たりの、掃除用具入れが、内側から、がた、と一度だけ、鳴った。

「……ネズミだべ」と、父が言った。「二十五年も空いた校舎だ。ネズミくらい、いる」

「……だね」

 縁も、そう思うことにした。ただ、その「がた」が、なんとなく――こちらの様子を、うかがっているような音に、聞こえたことは、言わなかった。

 ――その、一部始終を。

 二階の、階段の陰から。

 小さな影が、そっと、覗いていた。

 鏡の前で、白目を剥いてふざける父親を。雑巾を握ったまま、笑い転げる女の子を。二十五年ぶりに校舎に響いた、その笑い声の、ぜんぶを。

 覗いて、その口もとが、たまらない、というふうに、にんまりと、笑ったことを――二人は、まだ、知らなかった。


第四章 サキ

 その子に気づいたのは、翌日の、昼下がりだった。

 縁は、校庭の隅の水道で、雑巾を洗っていた。蛇口をひねると、しばらく茶色い水が出て、それから、驚くほど冷たい、澄んだ水に変わった。山の水だ、と父が言っていた。

 雑巾を絞って、顔を上げたとき、視界の端で、何かが動いた。

 校庭の反対側の隅に、大きな桜の木があった。春には、さぞかし見事に咲くのだろう、太い、古い木だった。その幹の陰に――誰か、いた。

 女の子、だった。

 おかっぱ頭で、色の褪せた赤いスカートを穿いて、白っぽい半袖のシャツを着て、そして、裸足だった。歳は、縁より二つか三つ、下に見えた。木の幹に半分、身を隠すようにして、じいっと、こちらを見ている。

 縁と、目が合った。

 女の子は、びくっ、と、幹の陰に引っ込んだ。けれど、三秒もしないうちに、また、そろり、と顔を半分、出した。目が合う。引っ込む。また、出てくる。まるで、警戒心の強い、野生の小動物みたいだった。

 ――誰だろう。

 この村に、子供はいない。それは、おばあさんからも、通夜の大人たちからも、聞いていた。でも、夏休みだ。お盆も近い。どこかの家に、親戚の子が帰省していても、おかしくはない。

 縁は、蛇口を締めて、そっと、声をかけてみた。

「……こんにちは」

 女の子は、幹の陰で、しばらく、もじもじしていた。それから、意を決したように、ひょこ、と全身を現して、こく、と小さくうなずいた。

「この辺の子?」

 こく、と、またうなずく。

「私は、縁。男鹿縁。……そっちは?」

 女の子は、裸足の足で、夏草を、ぺた、ぺた、と踏んで、近づいてきた。三歩ぶんくらいの距離で止まって、縁の顔を、下から、じいっと見上げた。真っ黒な、大きな目だった。よく日に焼けていて、頬っぺたが、赤かった。

「――サキ」

 と、女の子は名乗った。

「サキちゃん」
「うん。……ゆかり、ちゃん?」
「うん」
「ゆかりちゃん」

 サキは、その名前を、飴玉でも転がすみたいに、口の中で繰り返した。それから、にっ、と笑った。

 前歯が、一本、抜けていた。

 その、抜けた歯の隙間が、なんだか無性に、可愛かった。縁は、思わず、つられて笑いそうになった。

「サキちゃん、いくつ?」
「んーとね」サキは、指を折って、数えるふりをして、途中でやめた。「……ひみつ」
「秘密なんだ」
「うん。ひみつ」

 変な子、と縁は思った。でも、嫌な感じは、まったくしなかった。

「サキちゃんは、どこの家の子? 親戚の子?」

 サキは、その質問には答えずに、縁の後ろの、校舎を指さした。

「がっこう、なおすの?」
「……うん。まあ。うちのお父さんが、勝手に買っちゃって」
「かった!」サキの目が、まん丸になった。「がっこうを、かったの! おじさんが!」
「そう。馬鹿でしょ」
「…………」

 サキは、しばらく、ぽかんと校舎を見上げていた。それから、縁に向き直って、真剣そのものの顔で、聞いた。

「……また、がっこうに、なるの? ここ」

「え? ……うーん、学校っていうか、遊び場? 秘密基地とか、キャンプとか、そういうのができる場所にするんだって。夏休みに、子供が泊まりに来られるような」

「こどもが、くる」

 サキは、その言葉を、ゆっくり、繰り返した。

「こどもが、いっぱい、くる……?」

「まあ、うまくいけば、だけど。うちのお父さんのやることだから、どうなるか」

 サキは、返事をしなかった。代わりに、両手で、自分の頬っぺたを、むにゅ、と押さえた。押さえて、こぼれそうになる何かを、必死で、押し戻しているみたいだった。押さえきれなかったぶんが、口の端から、笑いになって、はみ出していた。

 変な子、と縁は、もう一度思った。

 サキは、その次の日も、また次の日も、来た。

 どこから来て、どこへ帰るのか、縁は、一度も見なかった。気がつくと、いた。気がつくと、いなくなっていた。掃除を手伝うでもなく、かといって邪魔をするでもなく、サキは、ただ、校舎の中を、ぱたぱたと、裸足で走り回った。

 誰もいない教室の、机のあいだを、鬼ごっこでもするみたいに、ぐるぐると。音楽室に忍び込んで、オルガンの鍵盤を、でたらめに、ぽろんぽろんと鳴らした。理科室のガラス戸の前では、人体模型と、なぜか長いこと、見つめ合ったりしていた。廊下の雑巾がけレースを一人でやって、一人で転んで、一人で笑った。

 サキは、よく笑う子だった。

 けれど、その笑い声は、どうしてだか、いつも、少しだけ、寂しい響きをしていた。うまく言えないが――長いこと一人で笑ってきた子の、笑い方だった。誰かと一緒に笑うのが、嬉しくてたまらないのに、その嬉しさの底に、うっすらと、それまでの一人ぼっちが、透けて見えるような。

 縁が、図書室から借りた妖怪の本を、渡り廊下の日陰で広げていると、サキは、必ず、隣に、ぺたん、と座った。そして、食い入るように、ページを覗き込んだ。

「これ、なあに」
「ぬらりひょん。妖怪の総大将、って言われてる。人の家に勝手に上がり込んで、お茶飲んでくの」
「ずうずうしいねえ」
「ずうずうしいの。……これは、河童。川にいるの。きゅうりが好き」
「しってる! かっぱ、しってる!」
「へえ、詳しいじゃん。じゃあこれは?」
「んーと……のっぺらぼう!」
「正解」

 サキは、えへん、と、抜けた前歯を見せた。それから、ページの上に、そっと指を置いて、上目遣いに、縁を見た。

「……ねえ。ゆかりちゃんは、おばけ、すき?」

 その聞き方が、妙に、真剣だった。まるで、答えによって、何か大事なことが、決まってしまうみたいな。

 縁は、少し、迷った。学校の友達には、言ったことがない。「変なの」の一言で済まされるのが、目に見えているから。しっかり者の男鹿さんは、そういうの好きじゃないでしょ、と言われるのが分かっているから。

 でも。

 この子には、言ってもいい気が、した。

「……好き。すごく」

 サキの顔が、ぱあっ、と、明るくなった。

 比喩ではなく、本当に、明るくなった気がした。曇っていた空から、急に太陽が顔を出したときみたいに、サキの周りの空気ごと、一段、光った。

「そっかあ! すきかあ!」

 サキは、その場で、ぴょん、と一回、跳ねた。

「じゃあ、じゃあ、いっぱい来るといいねえ!」

「……いっぱい? 何が?」

「んーー」サキは、両手を後ろで組んで、体を左右に、ゆらゆら揺らした。それから、いたずらっぽく、笑った。「――ないしょ!」

「なにそれ」

「ないしょは、ないしょ!」

 サキは、けらけら笑いながら、渡り廊下を、ぱたぱたと走っていってしまった。縁は、その後ろ姿を見送りながら、首をかしげた。変な子。ほんとうに、変な子。……でも。

 でも、あの子といると、なんだか、胸のあたりが、あったかい。

 サキが来るようになって、三日目の午後。サキが、「かくれんぼ、しよう」と言い出した。

「かくれんぼ? ここで?」
「うん! がっこうじゅう、ぜんぶつかって! ね、ね、しよう!」

 縁は、正直、少し迷った。かくれんぼなんて、何年ぶりだろう。小学五年生にもなって、と思う自分と、この広い、誰もいない校舎を丸ごと使ったかくれんぼは、正直、ものすごく楽しそうだ、と思う自分がいた。サキが、両手を胸の前で組んで、上目遣いに「ね?」と言うので、後者が勝った。

「……一回だけだよ」
「やった!」

 じゃんけんで、縁が鬼になった。昇降口の柱に顔を伏せて、十、数える。

「もーいーかーい」
「もーいーよー!」

 声は、二階のほうから聞こえた。縁は、階段を上がって、探し始めた。

 ――が。

 いなかった。

 教室を、一つずつ開けた。机の下。教卓の陰。掃除用具入れの中。カーテンの裏。音楽室のオルガンの陰。図書室の書架のあいだ。どこにも、いなかった。二階を全部見て、三階を見て、一階に降りて、給食室から体育館まで見た。いない。三十分、探した。汗だくになった。

「……サキちゃーん! もう出てきてー! 私の負けー!」

 降参の声を、廊下に響かせた、その瞬間。

「ここだよ」

 真後ろで、声がした。

「うわあっ!!」

 縁は、文字どおり、飛び上がった。振り返ると、サキが、けろりとした顔で、すぐ後ろに、立っていた。今の今まで、誰もいなかったはずの、廊下のど真ん中に。

「ど、どこにいたの!?」
「ひみつ」
「また秘密!? ずるい! 絶対ずるいでしょ、今の!」
「ふふふ。サキ、かくれんぼ、つよいんだよ。むかしから、いっかいも、みつかったことないの」

 サキは、えへん、と胸を張った。一回も見つかったことがない。その言い方が、少し引っかかったが、縁は、悔しさのほうが勝った。

「もう一回! 今度は私が隠れる!」
「いいよー」

 今度は、縁が隠れた。三階のトイレの、いちばん奥の個室、と見せかけて、隣の掃除ロッカーの中、という、我ながら会心の隠れ場所だった。息を殺して、待った。一分。二分。ロッカーの隙間から、廊下の光が、細く差し込んでいた。

 ぱたぱたぱた、と、足音が近づいてきた。

 足音は、トイレの前を素通りして――ロッカーの前で、ぴたりと止まった。

 こんこん、と、ノックされた。

「みーつけた」

 縁は、ロッカーの中で、がっくりと、うなだれた。

「……なんで分かるの!?」
「ふふふ。サキ、さがすのも、つよいの」
「なにそれ! 最強じゃん!」
「さいきょうなの!」

 二人は、廊下で、声をあげて笑った。汗だくで、埃だらけで、笑った。笑いながら、縁は、ふと、気づいた。

 私、いま、思いっきり、遊んでる。

 いつ以来だろう。時間を忘れて、汗だくになって、誰かと遊んだのは。東京では、放課後は塾か習い事の子が多くて、遊ぶといっても、誰かの家でゲーム画面を囲むだけだった。それが悪いわけじゃないけれど、こんなふうに、体ぜんぶで、声ぜんぶで遊んだのは――思い出せないくらい、昔だった。

 鍵っ子で、しっかり者で、一人の過ごし方なら誰よりうまい、はずの自分が。

 汗を拭いながら、隣でまだ笑っているサキを見た。サキは、笑いすぎて、目の端に涙をためていた。それを見たら、縁も、また笑えてきた。

 そのころから、校舎で、小さな、妙なことが、起き始めていた。

 夕方、洗って廊下の手すりに掛けておいた雑巾が、翌朝、きちんと四つに畳まれて、揃えて置いてあるのだ。

「ねえ。……雑巾、畳んだ?」
「畳んでねえ。おまえだべ」
「私でもない」

 それだけでは、なかった。掃き集めそこねた埃が、朝になると、廊下の隅に、こんもりと、小さな山にまとめられていた。几帳面な、砂場の山みたいに。散らばっていた画鋲が、いつの間にか、一列に、几帳面に、並べられていた。

 不気味、と言えば、不気味だった。誰もいない校舎で、夜のあいだに、誰かが、片付けをしている。でも――縁は、なぜだか、怖いと思えなかった。畳まれた雑巾は、丁寧だった。埃の山は、大事そうだった。悪意のかけらも、なかった。むしろ、なんというか。

 ――留守番の子が、褒められたくて、お手伝いをしたみたいだった。

「ネズミが畳むかね、雑巾」
「畳まないでしょ」
「……だよなあ」

 父は、それ以上、考えるのをやめたようだった。縁は、畳まれた雑巾を、そっと、元の場所に戻した。次の朝も、雑巾は、畳まれていた。縁は、なんとなく、手すりに掛け直すとき、「ありがと」と、小さく言ってみた。翌朝、雑巾は、いつもより、心なしか、きっちり、畳まれていた。

 ――夕方に、なった。

 その日の作業を終えて、父が、廊下の窓を、一枚ずつ閉めて回っていた。西日が、長い廊下の床板を、燃えるようなオレンジ色に染めていた。窓を一枚閉めるたび、ガラスの中の夕焼けが、ゆらり、と揺れた。

 父は、例の、調子っぱずれの鼻歌を、うたっていた。

「ねえ。その歌、いつもうたってるけど、ほんとは何の歌なの」

 縁が聞くと、父は、窓の桟に手をかけたまま、「ん?」と振り返った。それから、少し、遠くを見る目になった。

「……校歌だ」

「校歌?」

「男鹿沢小学校の、校歌。父さん、六年間、毎朝うたった。朝礼で、音楽の時間に、運動会で、卒業式で。……何百回、うたったか分からねえ。なのに、なあ」

 父は、窓の外の杉林に、目をやった。杉のこずえが、夕日を浴びて、金色に、燃えていた。

「……杉の、こずえに……あおぞら……。……あーの、そらー……たかく……。……だめだ。出てこねえ。歌詞が、二行目から、霧の中だ」

 父は、力なく笑って、頭をかいた。

「六年間、うたったのになあ。……人間、うたわねえと、忘れるもんだな」

 縁は、その横顔を見ていた。それから、ふと、思った。歌って、どこに消えるんだろう。父の中から消えた校歌は、今、どこにあるんだろう。もう、この世のどこにも、ないんだろうか。それとも、どこかに――たとえば、この校舎のどこかに、まだ、残っているんだろうか。

 誰にもうたわれなくなった歌の行き先を、縁は、少しだけ、考えた。考えて、なんだか、胸の奥が、細くなった。

 じいちゃんの声。カレンダーの、白い欄。うたわれない校歌。読めなくなった、門柱の文字。

 ――なくなっていくものばかりだ、ここは。

 夕日が、廊下を、深い赤に染めていた。

 縁と父は、戸締まりを終えて、昇降口へ向かって、長い廊下を歩いた。縁は、なんとなく、自分の影を踏みながら歩いた。夕日を背に受けて、影は、廊下の先へ、電信柱みたいに、細長く、伸びていた。縁の影。少し先に、父の影。

 ――そのとき、だった。

 縁は、足を、止めた。

 影が。

 三本、あった。

 縁の影。父の影。そして、二人の影のあいだに、もう一本――少し小さな、子供の影が。ぴったりと、寄り添うように、並んで、伸びていた。

 縁の背中を、氷の指で、すうっ、と撫でられたような感覚が、走った。

 振り返った。

 ――誰も、いなかった。

 西日の差し込む、長い廊下。舞う埃が、金色に光っている。それだけだった。サキは、とっくに帰った。父は、少し先を、こちらに背を向けて歩いている。

 誰も、いない。

 もう一度、床を見た。

 影は、二本だった。縁の影と、父の影。三本目は――なかった。最初から、なかったみたいに。

「……どうした、縁?」

 父が、振り返った。

「……ううん。なんでも」

 縁は、歩き出した。心臓が、とくとくと、速く打っていた。気のせい。夕方は、影が長く伸びるから、何かと重なって、そう見えただけ。うん。きっと、そう。

 でも。

 縁は、頭の中で、図鑑のページを、めくっていた。

 逢魔時(おうまがとき)。夕方、昼と夜の境目の時刻。「大禍時」とも書く。この世とあの世の境が薄くなり、魔のものと逢いやすくなる時刻とされる。

 境が、薄くなる時刻。

 この、時間の止まった校舎で。人ではない何かが、逢魔時に、二人の影に、そっと寄り添って、一緒に歩いていたとしても。

 ――不思議は、ないのかもしれなかった。

 怖い。

 うなじの産毛が、まだ、立っている。なのに、縁の口もとは、なぜだか、ほんの少し、緩んでいた。怖いのに。怖いからこそ、なのか。胸の奥のあの小さなものが、ことり、ことり、と、続けざまに動いていた。

 その晩、じいちゃんの家の夕食の席で、父が、切り出した。

「なあ、縁。明日から、学校に、泊まり込もうと思う」

 卓袱台には、父の作った肉じゃがが、湯気を立てていた。

「泊まり込み?」
「おう。初七日は、もう済んだべ。母さんには、夏休みのあいだは二人ともこっちにいる、って話は通した。……お盆までに、一階の床、ぜんぶ張り替えてえんだ。通いだと、朝晩の行き来だけで二時間、食われる。寝袋、町のホームセンターで買ってきた。飯は、カセットコンロでなんとかなる。……ま、おまえは、じいちゃんの家で留守番でも」

「行く」

 縁は、父の言葉が終わる前に、言っていた。父が、目を丸くした。

「……ずいぶん、即答だな」
「じいちゃんの家、夜、一人だと……」怖い、と言いかけて、縁は言い換えた。「……退屈だから。それだけ」
「そうか。退屈か」
「そう。退屈なの」

 父は、それ以上、何も聞かなかった。聞かなかったが、肉じゃがをよそう父の口もとが、緩んでいるのを、縁は見逃さなかった。

 夕食のあと、二人は、縁側で、線香花火をした。父が、ホームセンターの帰りに、買ってきたのだという。

「寝袋のついでに、目に入ってな」

 夜気は、東京よりずっと涼しくて、蚊取り線香の匂いが、ゆるゆると流れていた。父は、台所から、缶ビールを一本、持ってきた。ぷしゅ、という音に、縁は、反射的に、少しだけ、身構えた。

 ――また、始まるのか。一本が二本、二本が三本になって、そのうち、ろれつの怪しい説教が。

 でも、父は、一口、二口、飲んだだけで、缶を、縁側の板の上に、ことり、と置いた。

「……明日から、力仕事だからな。今夜は、これでやめとくわ」

 線香花火に、火をつけた。先端に、オレンジ色の火の玉が、じりじりと育って、やがて、ぱちぱちと、四方八方に、細い火花を散らし始めた。松葉。牡丹。柳。火花のかたちが、移ろっていく。二人は、黙って、それを見ていた。

 縁は、火花越しに、板の間の缶を、ちらりと見た。

 半分以上、残ったままの缶が、月明かりを受けて、鈍く光っていた。

 何も、言わなかった。言わなかったけれど、火の玉が、ぽとり、と落ちて消えるまでのあいだ、縁の胸の中では、何か小さくてあたたかいものが、線香花火の火の玉と、よく似たかたちで、灯っていた。

「あ、落ちた」
「もう一本、やるか」
「……うん」

 同じ夜。

 山の中腹の、誰もいない校舎は、いつもと同じ、深い闇と静けさの中に、沈んでいた。

 けれど、その静けさは、昨日までの静けさとは、もう、少しだけ、違っていた。眠りの静けさではなく――何かが、目覚める直前の、息をひそめた静けさに、変わっていた。


第五章 一つ目の音

 引っ越しは、あっけなく済んだ。

 寝袋二つ。着替え。カセットコンロとボンベ。鍋とやかん。米と、レトルトと、カップ麺の箱。クーラーボックスに、氷と、麦茶と、おばあさんが山ほどくれた野菜。懐中電灯が三本と、電池式のランタンが二つ。それだけを軽トラで運び込んで、二人の城は、職員室に決まった。

 職員室を選んだのは、校舎の中でいちばん、人の暮らしの跡が濃かったからだ。事務机が島のように並び、給湯室があり、壁には色褪せた『集金予定表』や『週番割当』の紙が残っている。誰かの湯呑みが、流しに伏せてある。ここなら、夜、少しは心細くない、と、口には出さなかったが、二人とも、たぶん同じことを考えていた。

 窓際の机を二つ寄せて、寝袋を並べた。父の枕元には工具箱、縁の枕元には妖怪の本と懐中電灯。それで、支度は終わりだった。

 夕飯どき、妙なことが、一つ、あった。

 カレーの匂いが職員室に満ちてきたころ、廊下のほうから――くん、くん、と、何かが、匂いを嗅ぐような、小さな気配がしたのだ。戸の隙間の、床すれすれの高さから。縁が振り向くと、気配は、ころ、と転がるような音を残して、消えた。

「……今の、聞いた?」
「ネズミだべ」
「ネズミって、カレーの匂い、嗅ぎに来る?」
「腹が減ってりゃ、来るべ」

 父は、こともなげに言って、じゃがいもを頬張った。今夜もじゃがいもの芯は取れていなかった。縁は、なんとなく、カレーを少しだけ皿に取り分けて、廊下側の戸の前に、置いてみた。

 食事が終わるころ、皿は、空になっていた。

 きれいに、洗ったみたいに、空になっていて、皿の横には、折れたクレヨンが一本、お礼みたいに、ちょこんと置いてあった。

 九時になった。

 歯を磨く水道の水は、痺れるほど冷たかった。寝袋に入った。父が、ランタンの灯りを、消した。

 ――闇が、来た。

 完全な、闇だった。じいちゃんの家の夜も暗かったが、ここの闇は、もっと深かった。じいちゃんの家には、それでも、隣家の気配や、集落の犬の声があった。ここには、何もない。いちばん近い人家まで、山道で二十分。窓の外にあるのは、黒い杉林と、黒い山と、その上の星だけだ。

 目を開けても、閉じても、同じ暗さだった。縁は、試しに、自分の手を顔の前にかざしてみた。見えなかった。自分の体の輪郭が、闇に溶けて、どこまでが自分で、どこからが夜なのか、分からなくなりそうだった。

 耳だけが、鋭くなっていった。

 風が、杉林を渡る音。ざああ……と、波みたいに寄せては、引いていく。遠くの沢の、水の音。そして、校舎そのものが立てる音。みし。……ぴし。……古い木造校舎は、夜になると、そこかしこで小さく鳴く。昼の熱で膨らんだ木が、夜気で縮むのだ。理屈は、分かっている。分かっていても、闇の中でその音を聞くと、まるで、大きな生き物が、寝返りを打っているみたいに聞こえた。

「……なあ、縁。起きてっか」

 隣の寝袋から、父の声がした。

「起きてる」
「……眠れそうか」
「んー……まだ」
「……そうか。……父さんもだ」

 しばらく、沈黙があった。それから、父が、ぽつりと言った。

「……ガキのころな。夏休みに一回だけ、この学校に、夜、忍び込んだことがある」

「え」

「肝試しだ。父さんが言い出しっぺでな。仲間五人で、夜中に、体育館の窓のこわれた鍵んとこから入って。……七不思議、確かめてやるって息巻いてよ」

「……で? どうだったの」

 父は、少し、間を置いた。

「……三分で逃げた」
「よっわ」
「うるせえ。おまえ、あの闇を、なめんなよ。今夜のこれと、おんなじ闇だぞ。懐中電灯一本でよ、廊下の途中まで行ったとこで、誰かが、たーっ、と走ったんだ。上の階を」
「……足音が?」
「足音がだ。子供の、裸足の足音。ぱたぱたぱたーって。……全員で悲鳴あげて、転がるように逃げた。次の日、仲間うちで、誰か先に入ってただろって大喧嘩よ。でも、誰も入ってねえ。鍵は、俺たちが開けるまで、閉まってたんだから」

 縁は、寝袋の中で、息を呑んだ。

 裸足の、足音。ぱたぱた。

 ――聞いたことがある。ここ数日、昼間の校舎で、毎日。

「……その話、ほんと?」
「ほんとだ。……ま、三十年も前の話だけどな。ガキの耳なんて、あてになんねえし」

 父は、笑い話にしようとしたようだったが、その声は、あまり笑っていなかった。縁は、あの図鑑の落書きを思い出していた。『がっこうにいる』。子供の父は、あの夜のあとに、あれを書いたのかもしれなかった。

「……寝るぞ。おやすみ」
「……おやすみ」

 どれくらい、経っただろう。

 うとうとと、眠りの水面に沈みかけていた縁の耳に。

 ――ポーン。

 と、音が、落ちてきた。

 縁の意識が、一瞬で、水面に引き上げられた。

 目を、開けた。闇。心臓の音。今のは、夢? 夢の中の音?

 ポーン。……ポロン。

 ――違う。

 鳴っている。本当に、鳴っている。上だ。二階。この真上あたり。音楽室。

 ポロン。ポロロン。……ポロン。

 オルガンだ。間違いない。あの、足踏みオルガンの、少しかすれた、やわらかい音。それが、闇の中で、ぽつり、ぽつりと、鳴っている。たどたどしく。ぎこちなく。同じ数小節を、何度も、何度も、繰り返して。ある音のところで、必ず、つっかえる。つっかえて、少し止まって、また、最初から。

 ――まるで、下手な子が、一生懸命、練習しているみたいに。

「お……おい……縁……」

 隣の寝袋から、父の、裏返った声がした。

「い、今の……聞いた、か」
「聞いた」
「……き、聞き間違いだべ。な? 風だ。風が、どっかの隙間から」
「風は、和音、弾かないよ」
「ね、ネズミだ! ネズミが鍵盤の上を走って」
「ネズミは、同じフレーズを繰り返し練習したりしない」

 ポロン、ポロン。つっかえ。ポロン、ポロン。つっかえ。

 縁は、寝袋のファスナーを、そっと下ろした。

 心臓は、ばくばくと、肋骨の内側を叩いていた。指先が、冷たくなっているのが分かった。怖い。全身が、怖いと言っている。

 なのに、体は、寝袋から、出ていた。

 行かない、という選択肢が、縁の中に、最初から存在しなかったのだ。だって、上で、鳴っているのだ。図鑑で百回読んだ、七不思議の一番目が。本物が。今、この瞬間に。それを確かめずに、寝袋にくるまって朝を待つなんて、そんなもったいないことが、できるわけがなかった。

 枕元の懐中電灯を、握った。かち、とスイッチを入れると、丸い光の輪が、闇に、ぽっかりと浮かんだ。

「ちょっ……おま……どこ行く!?」
「決まってるでしょ。音楽室」
「な、なんでだよ!! 寝てろ!! 朝になってから見に行けばいいべ!!」
「朝になったら、やんじゃうでしょ、演奏。本物は、今しか、見られないの」

 父が、寝袋の中で、激しく葛藤する気配がした。行かせたくない。しかし、止めても娘は行く。ならば自分も行くしかない。しかし怖い。しかし、この真っ暗な職員室に一人で残るのは、もっと怖い。

 結論は、三秒で出た。父は、縁が見たこともない速さで寝袋から這い出し、縁の手から懐中電灯を、ひったくるように取った。

「――ま、待て!! 父さんが先だ!! 父さんが先に行く!!」
「別にいいけど」
「よくねえ!! 子供を先に行かせられっか!!」

 そう言った父の、懐中電灯を持つ手は、光の輪が小刻みに揺れるほど、震えていた。震えながら、それでも父は、職員室の戸を、自分の手で、開けた。

 夜の廊下は、昼の廊下と、別の場所だった。

 懐中電灯の光の輪の中だけに、床板の木目が浮かび、輪の外は、墨を塗り込めたような闇だった。光を左右に振ると、闇が、そのぶんだけ、さっと退いて、光が過ぎると、また、音もなく、背後に満ちた。まるで、闇のほうが、こちらの動きを見て、呼吸を合わせているみたいだった。

 みし、と、どこかで校舎が鳴った。二人の肩が、同時に、びくりと跳ねた。

 ポロン。……ポロロン。

 オルガンの音は、続いていた。階段に近づくほど、それは、はっきりと聞こえた。

 階段を、上った。一段ごとに、木の段が、ぎ……、ぎ……、と鳴いた。自分たちの足音なのに、まるで、誰かがすぐ後ろをついて上ってきているように聞こえて、縁は、二度、振り返った。誰も、いなかった。いなかった、と思う。

 踊り場に、大きな鏡があった。

 懐中電灯の光が、鏡面に当たって、ぎらり、と跳ね返った。一瞬、鏡の中で、光と一緒に、白っぽい何かが動いた気がして、縁の心臓が、口から出かかった。――自分たちだった。鏡に映った、青い顔の親子だった。父は、鏡を絶対に見ないという断固たる意志の足取りで、踊り場を通過した。

 二階の廊下。

 音楽室の引き戸が、廊下の先に見えた。磨りガラスの向こうは、真っ暗だった。灯りは、ない。人の気配も、ない。

 なのに、音だけが、その暗いガラスの向こうから、聞こえてくる。

 ポロン。ポロン。……ポロロン。

 父が、ごくり、と喉を鳴らした。額に、汗が浮いていた。夜だというのに。父は、震える手を、引き戸にかけた。指が、二度、滑った。三度目で、指がかかった。

 父は、縁を見た。縁は、うなずいた。

 ――すう、と。

 戸が、開いた。

 月の光が、窓から斜めに差し込む、音楽室。並んだ譜面台の影が、床に、細長い格子を作っていた。壁の作曲家たちが、闇の中で、白い顔を並べていた。

 その、月明かりの中で。

 足踏みオルガンが、ひとりでに、鳴っていた。

 ペダルが、ぎ、こ、ぎ、こ、と、見えない足に踏まれて、上下していた。黄ばんだカバーは、きちんと畳んで、椅子の上に置いてあった。白い鍵盤が、見えない指に押されて、沈み、戻り、また沈んだ。ポロン。ポロロン。たどたどしい、あの旋律。

 ――本物だ。

 縁の全身に、鳥肌が、ざあっと立った。恐怖と、それから、恐怖とそっくり同じ顔をした、歓喜とで。

「ひゃうっ」

 父が、聞いたことのない音を発して、縁の背中に、隠れた。四十三歳、身長百七十五センチの男が、身長百四十センチの娘の背中に、本気で隠れようとした。

 そして縁は、目を、輝かせた。

「……うっそ。すご……! 弾いてる……ほんとに、ひとりでに、弾いてる……!」

 思わず、声が、出た。

 その瞬間。

 オルガンの音が、ぴたり、と止まった。

 ペダルも、止まった。鍵盤も、止まった。音楽室が、しん、と静まり返った。月明かりの中で、オルガンは、ただの古い家具みたいに、黙り込んだ。

 ……なんだろう。

 気のせいだろうか。そのオルガンの沈黙が、縁には、「怒っている」ようには、見えなかった。むしろ、しゅん、と、しぼんだように見えた。演奏を見られて、恥ずかしくて、固まってしまった、みたいに。

 縁は、そっと、一歩、部屋に入った。

「……あ、えっと。ごめんなさい。びっくりさせちゃった? ……あの、やめないで。すごく、よかったから。……続けて?」

 闇に向かって、小学五年生が、オルガンに、話しかけた。後ろで父が「な、なにやってんだおまえは」と裏返った声で囁いた。

 オルガンは、しばらく、黙っていた。

 それから。

 おずおずと、本当に、おずおずと、という感じで、ペダルが、ぎ、こ、と動いた。ポロ……ン。一音。様子を見るような一音。縁が、うんうん、とうなずくと、オルガンは、意を決したように、また、あの旋律を弾き始めた。ポロン、ポロロン。さっきと同じ、数小節。そして、同じところで、つっかえた。

 と。

 ぎょろり。

 と、音のない音が、した気がした。壁のほうから。

 縁は、懐中電灯を、そちらへ向けた。バッハ。モーツァルト。シューベルト。そして。

 ――ベートーヴェンの目が、動いていた。

 あの、しかめっ面の肖像画。その両目が、額縁の中で、ぎょろりと、オルガンのほうを向いていた。じっと、つっかえた箇所を、睨んでいる。眉間の皺が、昼間見たときより、明らかに、深い。それから、その眉が、ぐ、ぐ、と上下に動いた。「そこは、そうではない。指を、こうだ。こう!」――声は、なかった。なかったが、顔が、完全に、そう言っていた。

「で……」

 父が、縁の肩越しに、それを見た。

「で、で、出たあああ!! 絵!! 絵が動いた!! 縁!! に、逃げるぞ、逃げ――」
「しっ! 静かに! ……ねえ、よく見て。ベートーベン、怒ってるんじゃないよ。あれ、オルガンに、演奏指導してる」

「……は?」

 オルガンが、弾く。例の箇所で、つっかえる。ベートーヴェンの眉が、跳ね上がる。「違う!」。オルガンが、少し間を置いて、もう一度、弾く。また、つっかえる。ベートーヴェンが、額縁の中で、天を仰ぐ。「ええい、もどかしい! 何度言えば分かるのだ!」。オルガン、三度目の挑戦。今度は、つっかえる寸前で、そーっと、ゆっくり弾いて、なんとか、通過した。ベートーヴェンの眉が、ふ、と緩んだ。「……そうだ。それでよい」。

 その一部始終を、親子は、音楽室の入り口で、ぽかんと見ていた。

 怖かった。膝は、まだ、がくがくしていた。なのに、。

「……ぷ」

 先に吹き出したのは、縁だった。

「……ぷ、く、くく……だ、だめ、これ、面白すぎる……完全に、音楽の先生と、居残り練習の子じゃん……」

 言われて、父も、改めて、その光景を見た。誰もいないオルガンが、必死に練習している。壁の世界的大作曲家が、鬼の形相で、それを指導している。深夜の、廃校の、音楽室で。

「……ぶは」

 父も、決壊した。

 二人は、音楽室の入り口にへたり込んで、腹を抱えて笑った。怖さと可笑しさがごちゃまぜになって、目尻から、涙が出た。声を殺そうとして、殺しきれずに、ひいひい言った。オルガンが、演奏しながら、少し、照れたように音を小さくした。ベートーヴェンが、こちらを、じろり、と見た。「授業中に、騒ぐでない」という顔だった。それがまた、可笑しかった。

 こんなに笑ったのは、いつ以来だろう、と、笑いながら、縁は、頭の隅で思った。父と二人で、こんなふうに、涙が出るまで笑ったのは。

 ――そのとき、だった。

 カーン……コーン……。

 カーン……コーン……。

 鳴るはずのない音が、校舎中に、響き渡った。

 チャイムだった。授業の始まりと終わりを告げる、あの、四つの音。壊れて、電気も通っていないはずの、校内放送のスピーカーから。深夜の校舎の、隅々にまで。

 笑いが、二人の口もとで、凍りついた。

 オルガンの音が、止まった。ベートーヴェンの目が、正面に戻った。

 チャイムの残響が、長い廊下を、ゆっくりと渡っていく。それは、時報ではなかった。夜の十時に始まる授業など、ない。それは、合図、だった。何かの、始まりを告げる。

 残響が、消えた。

 その、直後。

 校舎全体が、ざわり、と、した。

 一階で、何かが、がたん、と動いた。三階で、ぱたぱたと、足音が走った。どこかの戸が、きい、と開いた。廊下の向こうで、くすくす、という笑い声のようなものが、した。右からも。左からも。上からも。今の今まで、深閑と眠っていた校舎の、あらゆる場所で、いっせいに、何かが、目を覚ました気配がした。

 闇が、濃くなった。いや、闇が、賑やかに、なった。

 と、階下から、どたどたどた、と何かが階段を駆け上がってくる音がして、廊下の角から、小さな影が、ころころと、転がり込んできた。

 それは、ガラクタの塊だった。

 高さ三十センチほど。灰色の埃の毛玉に、丸めた紙くずと、折れたクレヨンと、錆びた画鋲がくっついた体。てっぺんには、給食のアルミ皿が、冠みたいに、ちょこんと載っている。黒いビー玉みたいな目が、二つ。その塊が、短い両腕を力いっぱい広げて、二人の前で、仁王立ちした。

「――くわーっはっは!! ついに姿を見せてやったぞ、人間ども!! 我こそは、この学び舎に君臨せし、塵と忘れ物の大王、その名も塵塚怪王(ちりづかかいおう)!! かねてより貴様らの雑巾を畳み、カレーを検分してやっていたのは、何を隠そう、この我である!! さあ、ひれ伏せ! 恐れよ! うやま――」

「そんなことより!」縁が、叫んだ。「今の、チャイム!! あんたが鳴らしたの!?」

「話を最後まで聞かんか!! ……ん? ち、違うわ!! 我はそのような、時報係のごとき真似はせぬ!! というか、あのチャイムは、我が生まれてこのかた、一度も鳴らなんだのだ!! 電気も来ておらぬのに、鳴るはずが――だから、我も、慌てて出てきたのであって……こら、聞け!! 名乗りの余韻に浸らせよ!!」

 怪王と名乗った塊は、短い両腕を、ぶんぶん振り回した。縁は、その小さな体を、まじまじと見た。埃。紙くず。クレヨン。忘れ物の、体。畳まれた雑巾。集められた埃の山。空になったカレーの皿と、お礼のクレヨン。――頭の中で、図鑑のページが、ぱらぱらと、めくれた。

「……あんた、もしかして、塵塚怪王って……鳥山石燕の、『百器徒然袋』の? 唐櫃をこじ開けてる絵の? 捨てられた道具たちの、王様だっていう?」

 ぶんぶん振り回されていた両腕が、ぴたり、と止まった。

 ビー玉の目が、まん丸に、なった。

「……し……知って、おるのか。我の、ことを」

「知ってるよ。うちに、妖怪の本、十二冊あるから」

 怪王は、しばらく、ぽかんと、縁を見上げていた。それから、みるみるうちに、その目が、うるうると、潤んでいった。

「……はじめて、だ……生まれて、はじめてだ……我の名を、知る子に、会うたのは……」

 声が、震えていた。ずり落ちたアルミ皿の冠の下で、小さな王様は、ちいさな腕で、ぐし、と目もとをこすった。縁の胸の奥が、きゅう、となった。雑巾を畳んでいた、夜の誰か。褒められたくて、お手伝いをしていた、留守番の子。――この子だったのだ。

「あの、えっと……雑巾、畳んでくれてたの、あんた? ありがと。助かって」

「う……うむ!! 王の、慈悲である!!」怪王は、涙を引っ込め、慌ててふんぞり返った。「か、感謝せよ! ……で、では、貴様、我の家来に――」

「ならない」

「即答!?」

 ――ぱたぱた、と、闇のどこかで、足音が走った。くすくす、と、笑い声のようなものが、した。右からも、左からも。怪王は、はっ、と、廊下の闇を見回した。慌てて、声をひそめた。

「……そ、それどころではなかった。人間ども、よく聞け。チャイムが鳴った、ということは、つまり――こやつら、が」

「こやつら?」

「――皆、目を覚ましおった、ということだ」

「皆って……誰」

「決まっておろう」怪王は、なぜだか、少しだけ、悔しそうな、それでいて、どこか浮き足立った声で、言った。「――この学校の、七不思議どもよ」

 縁と父は、笑いの涙が残ったままの顔を、見合わせた。

 校舎が、目を覚ましたのだ。

 長い、長い夜は、まだ、始まったばかりだった。


第六章 お化け大会・前編

 チャイムの余韻が消えた廊下に、最初に現れたのは、足だった。

 正確に言うと、足「だけ」だった。

 二階の廊下の、闇の向こうから、ぺた、ぺた、ぺた、と足音が近づいてきて、縁が懐中電灯を向けると、光の輪の中に、それは、いた。

 革靴を履いた、一対の足。ズボンの裾も、膝のあたりまでは、ある。その上が、ない。膝から上が、すっぱりと、何もない。なのに、足は、実に良い姿勢。良い姿勢、というのも変だが、歩き方に、妙な品があった。足は、すたすたと、廊下を歩いてくる。

「…………」
「…………」

 親子は、声も出なかった。怪王だけが、二人の足元で「おお、『歩き足』ではないか。久しいのう」などと、知り合いに会ったような声を出した。

 足は、二人の三歩手前まで来て、ぴたり、と止まった。

 こちらの存在に、気づいたらしい。足は、しばらく、もじもじと爪先を内側に向けた。それから、右足の爪先を、ちょん、と床につけて、ぺこり、と曲げた。

 ――会釈、だった。

 どう見ても、会釈だった。「夜分に、お騒がせしております」というような、遠慮がちな、礼儀正しい会釈だった。

 そして足は、二人の脇を、遠慮がちに、壁際に寄ってすり抜けると、また、ぺたぺたと、廊下の奥へ歩いていった。

「…………い、今の」父が、かすれた声で言った。
「……見た」
「あ、足だったよな」
「足だった」
「あ、挨拶、されたよな」
「された」

 と、そのとき。

「――ひゃっ!!」

 悲鳴が、した。二人の悲鳴では、なかった。声は、頭の上、廊下の反対側の角から、降ってきた。

 懐中電灯を向けると、光の輪の中に、生首が、浮いていた。

 男の人の、生首だった。歳のころは三十くらいだろうか、七三分けの、生真面目そうな顔。それが、首から下を持たず、宙に、ふよふよと浮かんでいた。定番なら、ここで血の気の引くところである。血の気が引くべき場面である。

 だが、その生首は、こちらより先に、涙目になっていた。

「す、すす、すみません!! 驚かせるつもりは!! いえ、驚かせるのが本分ではあるのですが、今のは事故でして!! あの、あの、それより、あの!!」

 生首は、宙で、ぺこぺこと上下した。多分、お辞儀のつもりなのだろう。

「あ、足を!! 足を見ませんでしたか!! 革靴の!! 私の足なんです!! さっき、チャイムで目が覚めたら、足がもう先に行ってしまっていて!! あの子、目がないものですから、私がついていないと、どこへ行くか!!」

「……あ、足なら」父が、震える指で、廊下の奥を指した。「あ、あっちに」

「あっちですか!! ありがとうございます!! ご親切に!!」

 生首は、深々と一往復ぶん上下して、それから、廊下の奥へ向かって、飛んだ。

「足ーーっ!! 待ちなさーーい!! 一人で……いや一本で行っては危ないでしょう!! 段差!! そこ段差ですよ!! ああもう!!」

 保護者の声だった。完全に、聞かん坊の子を追いかける、保護者の声だった。生首は、闇の奥へ、飛び去っていった。廊下の奥から、ぺたぺた、という足音と、「待ちなさいってば!」という声が、遠ざかりながら、しばらく聞こえていた。

 ……しん、とした廊下で、親子は、顔を見合わせた。

「……あの二人、いつも、ああなの?」

 縁が、足元の怪王に聞くと、怪王は、やれやれ、というふうに、ちいさな肩をすくめた。

「うむ。『歩き足』と『飛び首』よ。もとは一人の怪異だったのだがな、いつのころからか、ああして、離れ離れになっての。首のほうは、足を案じて、いつも追いかけ回しておる。足のほうは、首の小言が嫌で、いつも先に行ってしまう。……ま、なんだかんだ、離れられぬ仲よ」

「へえ……。首と足で、親子みたいだね」

 縁が何気なく言うと、隣で父が、なぜか、こほん、と咳をした。

 ――さて。

 二人と一体は、そのまま職員室に戻る、という選択肢も、あった。あったのだが、そうはならなかった。理由は単純で、戻る途中に、トイレの前を通ったからである。

 三階の、いちばん古い、トイレ。

 その前を通りかかったとき、奥から、音が、した。

 こん。……こん。

 誰かが、個室の戸を、内側から、軽く叩く音。

 縁の足が、ぴたりと止まった。父の顔が、一瞬で青くなった。

「ま、まさか」
「……三番目の個室、だよね。音がしてるの」

 縁は、懐中電灯の光を、そっと、トイレの入り口に向けた。古いタイル張りの床。並んだ個室の戸。手前から、一番目、二番目、三番目。音は、確かに、三番目の戸の奥から、していた。こん。……こん。……こん。

「花子さん、だ」

 縁の心臓が、跳ねた。恐怖で、半分。もう半分は、待ちに待った、という高鳴りだった。トイレの花子さん。学校の怪談の、女王。全国の学校の三番目の個室に語り継がれた、あの、花子さんが。この戸の向こうに。

 縁は、知っていた。花子さんには、作法がある。図鑑に書いてあった。何度も、何度も、読んだ。ノックを、三回。そして、名前を呼んで、問いかける。作法どおりに呼ばれたときだけ、花子さんは、応える――。

 縁は、一歩、トイレに足を踏み入れた。

「ばっ……!? おい!? 縁!? 何やってんだ、やめれ! 戻れ! な!? そういうのは、良くない! プライバシーの侵害だ!」
「お化けにプライバシーはないでしょ」
「あるかもしんねえべ!!」

 父の説得とも取れない必死の説得を背中に聞きながら、縁は、三番目の個室の前に、立った。

 戸の向こうの気配が、ふ、と、静かになった。こちらを、うかがっている。

 縁は、深呼吸を、ひとつ、した。それから、右手を上げて、戸を、叩いた。

 こん。

 こん。

 こん。

 三回。図鑑のとおり、きっかり、三回。

 そして、声が震えないように、お腹に力を入れて、問いかけた。

「――花子さん、いらっしゃいますか」

 静寂。

 一秒。二秒。三秒。廊下で父が、息を止めているのが分かった。怪王まで、ごくり、と喉を鳴らした。

 ――はぁい。

 小さな、小さな声が、戸の向こうから、した。

 鈴を、布でくるんで振ったような、くぐもった、幼い声だった。父が「ひっ」と息を呑んで、後ずさり、廊下の壁に背中をぶつけた。

 そして、三番目の戸が。

 きぃ……………。

 と、内側から、ゆっくり、ゆっくり、開いていった。細く開いた隙間から、まず、白いおでこと、おかっぱの黒い前髪が、覗いた。それから、赤い、吊りスカートの肩紐が。

 女の子が、戸の陰に半分、身を隠すようにして、立っていた。おかっぱ頭。白いブラウスに、赤い吊りスカート。俯きがちで、前髪の奥の目は、よく見えない。

 ――本物の、花子さんだった。

 縁の全身の産毛が、立った。怖い。本物は、怖い。図鑑の挿絵の百倍、怖い。二十五年間、この暗い個室の中に、この子は、いたのだ。その事実の重さが、ひやりと、肌に触れた。

 花子さんは、俯いたまま、もじ、もじ、と、上履きの爪先を、内側に向けた。

 それから、蚊の鳴くような声で、言った。

「……あ、あの」

「……は、はい」

「…………こ、こわい、ですか?」

「……え?」

 縁は、聞き返した。花子さんは、前髪の奥から、ちら、と上目遣いに縁を見て、消え入りそうな声で、続けた。

「その……ひ、ひさしぶり、なので……。こわがらせかた、これで、あってますか……? 戸の、あけるはやさとか……こ、声の、かんじとか……。わ、わたし、ちゃんと、できてますか……?」

 トイレに、沈黙が、降りた。

 廊下の父が、壁に張りついた姿勢のまま、「……は?」という顔をした。

 縁は、目の前の、もじもじしている学校の怪談の女王を、まじまじと見た。よく見ると、花子さんは、スカートの裾を、両手で、ぎゅうっと握りしめていた。緊張しているのだ。ものすごく。二十五年ぶりの「お仕事」に。

 縁は、少し考えて、正直に答えることにした。相手が誰であれ、頑張った人には、ちゃんとした感想を返すべきだと思ったからだ。

「……えっと。戸の開け方は、すごく怖かった。あの、きぃ……って、ゆっくり開くの、最高だった。心臓、止まるかと思った」
「ほ、ほんと……?」
「ほんと。あと、『はぁい』の声も、良かった。遠いような近いような感じで、ぞくってした。……ただ」
「た、ただ……?」
「最後の『こわいですか?』で、ぜんぶ台無しかも」
「や、やっぱりぃ……!!」

 花子さんは、その場に、がっくりと、しゃがみ込んだ。頭を抱えた。

「わ、わかってたの……途中まで、うまくいってたのに、きんちょうしてくると、きゅうに不安になって、聞いちゃうの……昔から、そうなの……」

 しゃがみ込んで、本気で落ち込んでいる花子さんは、怪談の女王でも何でもなく、ただの、あがり症の女の子だった。縁の中の恐怖が、みるみる、別のものに変わっていった。

「……ね、ねえ。そんなに落ち込まないで。ほんとに、九割は完璧だったから」
「……で、でも」
「あのね、コツがあると思う。怖がらせたあとは、何も言わずに、すーっと戸を閉めるの。余韻。余韻が大事なの。ホラーは、説明したら負けだから」
「よ、よいん……」

 花子さんは、顔を上げた。前髪の奥の目が、初めて、ちゃんと見えた。真っ黒で、まん丸で、真剣な目だった。その目が、縁を、じっ、と見た。

「……あ、あなた。さっき、ちゃんと、ノック三回、してくれた」

「え? うん。作法でしょ。三回ノックして、名前を呼ぶ」

「……知っててくれたのね」

 花子さんの声が、ふるえた。

「うれしい……。ずっと、ずうっと、だれも来なかったの。来ても、みんな、作法を知らなくて。戸を、らんぼうに開けたり、のぞいたり……。ちゃんと、三回たたいて、『いらっしゃいますか』って、聞いてくれた子……何年ぶりか、わからない……」

 花子さんは、スカートの裾を握ったまま、ふかぶかと、頭を下げた。

「……よ、呼んでくれて、ありがとう」

 お化けに、お礼を言われた。

 呼び出した側が、呼び出された側に、感謝された。あべこべである。あべこべなのだが、縁は、その、深々と下げられたおかっぱ頭を見ていたら、なんだか、胸の真ん中が、ぎゅう、となった。

 二十五年間。この子は、この暗い個室で、待っていたのだ。こん、こん、こん、と、三回のノックを。作法どおりに名前を呼んでくれる、誰かを。それが、お化けの「仕事」で、「存在する理由」だから。呼ばれない花子さんは、いったい、何なんだろう。

「……私、縁。男鹿縁。……その、また、呼びに来てもいい?」

 花子さんの顔が、ぱ、と上がった。

「い、いいの……!?」
「うん。ノック三回で」
「さ、三回で!」

 花子さんは、初めて、笑った。俯きがちの、はにかんだ笑いだったけれど、確かに、笑った。

 ――と。

「おおおおい!! 縁!! ぶ、無事か!! 今、助け……に、行くか、どうか、考えてたところだ!!」

 廊下から、及び腰の父が、ようやく、顔だけ覗かせた。花子さんは、「ひゃっ」と小さく声を上げて、三番目の個室に、しゅん、と引っ込み、戸を閉める寸前、隙間から、縁に向かって、ちいさく、手を振った。縁も、振り返した。

 戸が、閉まった。

「……おい。今、手ぇ振ってなかったか、花子さん」
「振ってた。友達になったから」
「と……!?」

 父は、口を、ぱくぱくさせた。娘が、トイレの花子さんと、友達になった。その事実を、四十三歳の脳が処理するには、しばらく時間が必要のようだった。

 足元で、怪王が、ふん、と鼻を鳴らした。

「……花子のやつ、ずいぶんと嬉しそうであったな。ふん。ふん! 別に、羨ましくなど、ないぞ。我には玉座があるゆえな!」

 誰も、何も言っていないのに、怪王は、一人でそう宣言して、ころころと先に歩き出した。

 ――その、直後だった。

 トイレの、いちばん奥。花子さんの三番目より、さらに奥の、突き当たりの個室のあたりから、声が、した。

 ――あーかいかーみ。あーおいかーみ。

 歌うような、節のついた、男とも女ともつかない声だった。

 ――どっちが、ほーしーいー?

 父の顔から、せっかく戻りかけていた血の気が、また、引いた。

「で、出た!! 縁!! これはやばいやつだ!! 父さん、これは知ってる!! 赤い紙って答えると血まみれにされて、青い紙って答えると血を抜かれるやつだ!! どっちを選んでも死ぬやつ!!」

「知ってる。定番だから」

 縁は、落ち着いていた。落ち着いて、頭の中の図鑑を、めくっていた。赤い紙、青い紙。トイレの怪異の古典。たしかに、赤も青も、選んではいけない。ただし、この怪異には、続きがある。地方によっては、第三の答えで助かる、という伝承が。

 ――どっちが、ほーしーいー?

 声が、繰り返した。心なしか、返事を待ちわびて、うずうずしているような声だった。

 縁は、すう、と息を吸って、奥の闇に向かって、はっきりと、答えた。

「――じゃあ、白い紙。鼻かみたいから」

 ……しん。

 声が、止まった。

 完全な、沈黙だった。奥の個室の気配が、固まっているのが、分かった。父も固まっていた。怪王も固まっていた。

 たっぷり、五秒。

「…………し、白ぉ!?」

 素っ頓狂な声が、返ってきた。

「し、白い紙……!? そ、そんな……あ、赤か、青の、二択で……何十年も、その二択で、やってきたのに……白……!? し、しかも用途が、鼻!? こわがってすらいない……!?」

 声は、明らかに、動揺していた。個室の奥で、がさごそ、と、何かを探すような音がした。それから、ばたばた、と慌てる音。「白、白……ど、どこかに……あった、いや、これはちり紙……」というひとりごとが、丸聞こえだった。

 やがて、いちばん奥の個室の、戸の上の隙間から。

 にゅう、と、白い箱が、差し出された。

 ティッシュペーパーの箱、だった。ご丁寧に、一枚、引き出しやすいように、先が三角に折ってあった。

「…………つ、使え」

 ぶっきらぼうな、でも、どこか律儀な声が、言った。

 縁は、ありがたく、一枚もらって、ちん、と鼻をかんだ。

「ありがと。……ねえ、あなた、ほんとは優しいでしょ」

「や、優しくなどないわ!! 我は恐怖の、二択の……ええい、次は、次こそは、ちゃんと二択で選ばせるからな!! 覚えておれ!!」

 声は、それきり、ぷつりと途絶えた。ただ、その捨て台詞が、悔しさ半分、嬉しさ半分、という声色だったことを、縁は、聞き逃さなかった。二十五年ぶりに、二択を出せた。答えは白だったけれど、それでも、誰かが、答えてくれた。

「……おまえ」廊下に退避していた父が、恐る恐る戻ってきた。「今の、なんで白なんて答えたんだ。図鑑に書いてあったのか」

「うん。地方によっては、色を外すと助かるって伝承があるの。……まあ、半分は賭けだったけど」

「か、賭けだったのかよ!!」

「大丈夫。あの声、最初から、殺気なかったし。……なんていうか、出題できるのが嬉しくて、うずうずしてる感じだった。花子さんと、一緒」

 父は、まじまじと、娘の顔を見た。それから、ため息とも感嘆ともつかない息を、ふう、と吐いた。

「……おまえの、その図鑑の知識な。父さん、正直、今まで、なんの役に立つんだと思ってた。……前言撤回だ。ここでは、おまえが一番強え」

「でしょ」

 縁は、ふふん、と、少しだけ、胸を張った。学校では言えない「好き」が、こんな夜に、こんな場所で、初めて、堂々と役に立っている。そのことが、たまらなく、誇らしかった。

 その小さな背中を、縁と父は、顔を見合わせて、見送った。

 時刻は、まだ、夜の十一時前だった。

 校舎のあちこちで、がたごと、ぱたぱた、くすくす、と、賑やかな気配は、むしろ、増え続けていた。まるで、始業前の教室みたいに。二十五年ぶりの「登校日」に、浮き足立つ、生徒たちみたいに。

 お化け大会の夜は、まだ、序の口だった。


第七章 お化け大会・中編

 職員室へ引き返す道すがら、二人と一体は、二階の理科室の前を、通ることになった。

 通らざるを得なかったのだ。校舎の構造上、そこしか道がなかった。父は、廊下の十メートル手前から、すでに及び腰だった。

「……なあ、縁。走り抜けねえか。ここだけ。な? 一気に、たーっと」
「なんで」
「なんでって、おまえ……人体模型だぞ。七不思議の二番目だぞ。『夜、廊下を歩く』ってやつだぞ。オルガンが弾いて、花子さんがいて、紙の声がしたんだ。もう、模型だって、絶対――」

 がっしゃああん!!

 という音が、理科室の中から、した。

 ガラス戸の割れる音ではない。戸が、内側から、勢いよく開け放たれた音だった。開いた戸から、廊下に、白いものが、躍り出た。

「――まってましたァァァァ!!」

 人体模型、だった。

 半身の皮膚がなく、色分けされた内臓がむき出しの、あの、理科室の主。それが、両腕を天に突き上げ、歓喜の雄叫びを上げながら、廊下のど真ん中に、飛び出してきたのだった。着地の姿勢は、妙に決まっていた。決まっていたのは、着地までだった。

 勢いが、余った。

 ぼろっ。ぼろぼろっ。

 右腕が、肩から抜けて、床に落ちた。続いて、開いた胸から、肝臓が、こぼれた。胃が、こぼれた。腸が、ずるずるとこぼれて、床で、ばいーん、と跳ねた。

「あっ」

 人体模型が、間の抜けた声を、出した。

「あっ、ちょっ、待っ……あーっ! 腸! 腸が転がる! 待て腸!」

 模型は、残った左腕で、転がっていく自分の腸を、慌てて追いかけた。追いかけた拍子に、今度は左脚の膝から下が、すぽん、と抜けた。模型は、けんけんで腸を追った。廊下に、内臓が散乱した。

 ――その光景を目の当たりにした父は。

「ひ……ひぃぃぃやあああああ!!」

 人生でいちばん高い声を出して、その場に、尻もちをついた。腰が、完全に、抜けていた。立とうとして、立てず、四つん這いのまま、後ずさった。

 一方の縁は、口を両手で押さえて、固まっていた。怖かったからではない。……いや、三割は怖かった。残りの七割は、笑ってはいけない、という必死の自制だった。

 そこへ。

 カタ、カタ、カタ、カタ。

 理科室の中から、乾いた音を立てて、もう一体、出てきた。骨格標本だった。全身の骨だけの、あれである。骨格標本は、散らばった内臓と、けんけんで腸を追う同僚とを、順に見回し、それから、呆れ果てた、というふうに、頭蓋骨を、ゆっくりと左右に振った。

「……だから、言ったであろう。『二十五年ぶりなのだから、まず関節の具合を確かめてから出ろ』と。おぬしは昔から、そうだ。本番になると、舞い上がる」

「う、うるさいぞ骨! おれはな、待ちに待った登場シーンをだな、最高の形で――あっ、腎臓! そこ、おれの腎臓踏むな!」

「踏んでおらぬ。またいだ」

 骨格標本は、カタカタと歩いて、床の右腕を拾い上げ、慣れた手つきで、模型の肩に、ぐりっ、とはめ込んだ。それから肝臓を拾い、胃を拾い、逃げ回る腸を骨の足で器用に踏んで止め、一つずつ、模型の腹に収めていった。その手際が、あまりに手慣れていた。何十年も、こうしてきたのだ、と分かる手際だった。

「はい、膝。……よし。全部あるか、数えてみよ」

「……肝臓、胃、腸、腎臓が二つ……ある。ぜんぶある。……す、すまん、骨」

「まったく。……で?」

 骨格標本は、そこで初めて、廊下の親子のほうへ、頭蓋骨を向けた。眼窩の奥は、ただの暗い穴のはずなのに、その「視線」は、はっきりと感じられた。

「……肝心の人間どのは、どうであった。怖がって、くれたか」

 二体の視線が、親子に、注がれた。

 父は、腰を抜かして四つん這いのまま、白目を剥きかけていた。これ以上ないほど、怖がっていた。人体模型の顔が、ぱあ、と輝いた。

「こ、怖がってる! 見ろ骨、あの腰の抜けっぷり! 完璧だ! おれの登場、完璧だったろ!」

「登場までは、な。その後の三十秒で、全部ふいにしたがな」

「い、いいんだよ結果オーライで! 二十五年ぶりだぞ! 二十五年ぶりに、人を怖がらせたんだぞ、おれは! ああっ、この感じ! この感じだよ! 腕が鳴る! ……あ、また抜けた」

 ぼろ、と右腕が、また落ちた。骨格標本が、無言で拾って、はめ直した。

 縁は――もう、限界だった。

「……っふ、ふふ、あはははは!!」

 声を上げて、笑ってしまった。笑いながら、腰の抜けた父を引き起こし

「た、立てん」
「ほら、頑張って」

笑いながら、二体に向かって、拍手をした。

「最高でした! 特に、腸を追いかけるところ!」

「そこは演出ではないのだが」と骨格標本が言い、「そこがウケたか!! よし、次から演出に組み込もう!!」と人体模型が言った。

 ――階段でも、ひと騒ぎ、あった。

 職員室は一階である。二階から降りるには、あの、踊り場に鏡のある階段を、使わねばならない。先頭の怪王が、ころころと段を降りかけて、ぴたり、と止まった。

「……ふむ。人間ども。この階段、昼間、何段であった?」

「え? ……数えてないけど。十二、三段くらい?」

「今、十六段ある」

 縁は、懐中電灯で、階段を照らした。数えた。一、二、三……たしかに、十六段、あった。しかも、見ている前で、すす、と、段と段のあいだから、新しい段が、生えてきた。十七段。さらにもう一段。十八段。

「ふ、増えてる!! 縁、増えてるぞ、見てる前で!!」

「七不思議の五番目……! 『夜になると階段が増える』……! すごい、本物、初めて見た……!」

 縁が目を輝かせて食いつくと、階段は、心なしか、得意げになった。得意げになって、調子に、乗った。十九段。二十段。二十一段。ぐんぐん段が増えて、二階と一階のあいだが、どんどん、間延びしていった。二十五段。二十八段。三十段。もはや階段というより、坂だった。

「……お、おい。これ、降りるの、大変になってねえか」

 父が言った、その瞬間。階段が、はた、と我に返る気配がした。増やしすぎたことに、自分で気づいたのだ。「あ、やべ」という気配が、階段全体から、立ちのぼった。

 そして、慌てた。

 しゅん、しゅん、しゅん、と、段が、猛スピードで引っ込み始めた。三十段が二十段に、二十段が十四段に。慌てすぎて、勢い余って、十段まで減った。一段の高さが、妙に高くなった。階段が「……やりすぎた」という気配を出して、こっそり、二段、生やし直した。十二段。ぴたり、と止まった。何食わぬ顔で、静止した。

 一部始終を見ていた縁は、思った。

 ――この学校のお化け、みんな、ちょっとずつ、ポンコツだ。

 オルガンは練習中で、花子さんはあがり症で、紙の声は白い紙に動揺し、人体模型は自爆し、階段は調子に乗って自分で慌てる。怖い。怖いのは、間違いなく怖い。心臓は、今夜、もう何回も口から出かかっている。なのに、その怖さの後ろから、必ず、可笑しさと、それから愛おしさみたいなものが、追いかけてくるのだ。

 みんな、二十五年ぶりなのだ。二十五年ぶりの、お客さんなのだ。張り切って、空回りして、それでも、嬉しくてたまらないのが、隠しきれていない。

 一階に降りると、職員室の手前に、講堂へと続く廊下があった。その壁には、額に入った肖像写真が、ずらりと一列に、掛かっていた。歴代の、校長先生たちの肖像写真だった。初代から、最後の校長まで。丸眼鏡の人、髭の人、着物の人、背広の人。百十二年ぶんの、厳めしい顔、顔、顔。

 その前を通りかかったとき、縁は、うなじのあたりが、ちり、とした。

 ――見られている。

 立ち止まって、写真を見た。写真は、写真だった。動いていない。歩き出す。ちり、とする。振り返る。写真。歩く。ちり。振り返る。写真。

「……ねえ。この写真」
「い、言うな。父さんも、さっきから感じてる。……目が、ついてくる」

 二人は、実験してみることにした。並んで、廊下の端から端まで、写真の列を見ながら、ゆっくり歩いた。

 ――ついてきた。

 初代校長の目が、二代目の目が、三代目の目が、順ぐりに、す、す、す、と、二人の動きを追って、動いた。十数対の目が、リレーのバトンみたいに、視線を受け渡しながら、廊下を行く親子を、追尾した。

「ひっ」と父が言い、縁が「うわ、すご」と言った、そのとき。

 最後から二番目の、いちばん厳めしい髭の校長の写真が、口を、開いた。

『――廊下は、走らない』

 低い、よく通る、染みついた癖のような声だった。

「は、走ってません!」父が、反射的に、直立不動になった。四十三歳が、写真に向かって、姿勢を正した。

『……うむ。よろしい』

 髭の校長は、満足そうに、それきり、写真に戻った。他の校長たちの目も、心なしか、うんうん、と頷いたように見えた。彼らは、脅かしたいのではないのだった。ただ、百年来の仕事――廊下の風紀を、今夜も、律儀に見守っているだけなのだった。

「……この学校、風紀は守られてるね。誰もいなくなっても」
「……ああ。……なんか、ちょっと、泣けてきた」

 ――ぱたぱたぱた。

 と、そのとき、軽い足音が、階段の上から、駆け降りてきた。

「ゆかりちゃーん!!」

 サキ、だった。

 おかっぱの髪を弾ませ、裸足のまま、十二段に戻った階段を、二段飛ばしで降りてくる。降りきって、縁の前で、ぴょこん、と止まった。頬っぺたが、興奮で、りんごみたいに赤かった。

「……サ、サキちゃん!? なんで!? 今、真夜中だよ!?」

「んふふー」

「んふふー、じゃなくて。おうち、どうしたの。抜け出してきたの? 危ないよ、こんな時間に、山道」

「だいじょうぶ! サキ、よみちは、へいきなの!」

「平気って、そういう問題じゃ……」

 言いかけて、縁は、口をつぐんだ。サキの目が、きらっきらに、輝いていたからだ。廊下の奥の、内臓を数え直している人体模型を見て。段数を整え終えて澄ましている階段を見て。サキは、もう、じっとしていられない、というふうに、その場で足踏みをしていた。

「ねえねえ、ゆかりちゃん! はじまったでしょ! はじまったよね!」

「……うん。始まった。すごいよ、サキちゃん。オルガンがひとりでに鳴って、花子さんに会って、人体模型が腸ぶちまけて」

「ちょうを!! いいなあ!! サキも見たかった!!」

「見たかったんだ……」

「ねえ、つぎ、どこいく? どこ見る? まだまだ、いーっぱい、いるんだから!」

 サキは、縁の手を、両手で、ぎゅっと握った。その手は、夜気の中で、ひんやりと冷たかった。冷たかったが、握る力は、強くて、必死で、嬉しさそのものだった。

 握られた拍子に、サキの胸元で、何か小さなものが、月明かりを、きらり、と弾いた。ボタンか、飾りか。縁は、一瞬だけ、それを見た。見たけれど、次の瞬間には、サキに手を引かれていて、それきり、忘れた。

「いっしょに、まわろ? ね? ぜーんぶ、見よ?」

 縁は、その手を、握り返した。

「……うん。ぜんぶ、見よう」

 父が、後ろで「ちょ、ちょっと待て、休憩を、五分でいいから休憩を」と言ったが、二人の少女は、もう、走り出していた。

 ――その様子を。

 少し離れた廊下の隅から、塵塚怪王が、見ていた。

 人体模型に「おい模型! 内臓を廊下に散らかすとは何事か! 王の領地を汚すでない!」と説教しに行き、「お、ゴミ玉の。久しぶりだな! 悪い悪い」と、名前ですらない呼ばれ方で軽く流され、階段に「貴様も勝手に段を増やすな! 建築の許可は王が出す!」と抗議に行き、完全に無視され、すごすごと戻ってきたところだった。

 誰も、王の言うことを、聞かない。二十五年ぶりに皆が目覚めた、この祝祭の夜ですら――いや、祝祭の夜だからこそ、王の孤独は、際立った。皆が浮かれるほど、誰にも命じられない自分が、浮き彫りになった。

 怪王は、廊下の隅で、ちいさく、体育座りをした。アルミ皿の冠が、ことん、と傾いた。

「……ふん。騒げ騒げ。有象無象どもめ。……我は、王ゆえ。軽々しく、輪になど、加わらぬだけよ。……加わらぬだけ、なのだ」

 誰に言うでもない言い訳が、賑やかな廊下の隅に、ぽつりと落ちた。

 ――そのとき。

 怪王は、視線を感じて、顔を上げた。

 廊下の向こう。走っていくサキが、一瞬だけ、振り返って――怪王を、見ていた。

 目が、合った。

 サキは、何も言わなかった。ただ、その黒い目が、廊下の隅の小さな王様を、まっすぐに、見た。笑うでもなく、憐れむでもなく、ただ、確かめるように。まるで、ずっと前から、そこにいることを知っていた、というふうに。

 一瞬ののち、サキは、くる、と前を向いて、縁と一緒に、闇の向こうへ、駆けていった。

 怪王は、しばらく、ぽかんとしていた。

「……な、なんだ、あの小娘。……我を、見たか? 今」

 答える者は、いなかった。ただ、怪王の胸のあたりが、なぜだか、そわそわと、落ち着かなかった。あの目を、どこかで、知っている気がした。ずっとずっと昔――この体が、まだ、ただの塵ですらなかったころから、この校舎の隅々を見てきた、誰かの目に、似ている気がした。

 夜は、更けていく。

 お化け大会は、これから、いよいよ本番を迎える。


第八章 お化け大会・後編

 午前一時すぎ、三人と一体は、いったん職員室に戻って、休憩を取った。

 クーラーボックスの麦茶を、回し飲みした。よく冷えた麦茶が、喉に染みた。父は、事務椅子に沈み込んで、魂の抜けた顔をしていた。

 怪王は、いつの間にか、職員室の隅の、ひっくり返った段ボール箱の上に、でん、と収まっていた。

「なにそれ」
「玉座である」
「段ボールじゃん」
「玉座である!」

 王国の首都は、今夜、職員室に定まったらしかった。

「……もう、今夜だけで、十年ぶんくらい驚いた」
「まだ一時だよ」
「まだ一時なのかよ……」

 サキは、麦茶を両手で持って、こくこくと飲んだ。飲みながら、足が、床から数センチのところで、ぷらぷらと揺れていた。椅子が高いのだ。その様子は、どこからどう見ても、ただの、夜更かしにはしゃぐ子供だった。

 と――。

 だむ。……だむ。……だむ。

 と、音が、聞こえてきた。

 低い、弾むような音。規則正しく、床を打つ音。方向は、渡り廊下の先。体育館。

「……ボールの音?」

 縁が、耳を澄ませた。だむ、だむ、だむ。間違いない。バスケットボールを、つく音だ。誰もいない、真夜中の体育館から。

「見に行く?」
「行かねえ」
「行こ!」
「聞けよ!!」

 結局、行った。父もついて来た。一人で残るよりましだったのだろう。

 体育館の重い扉を、細く開けて、中を覗いた。高い窓から、月光が、青白い帯になって、板張りの床に落ちていた。その光の帯の中を、ボールが、一個、ひとりでに、弾んでいた。だむ、だむ、と、誰の手もないのに、規則正しく。ドリブルの高さで。ボールは、コートを斜めに横切り、ゴール下で、ふわり、と浮き上がり、リングに、吸い込まれた。

 ぱさ、と、朽ちかけたネットが、鳴った。

 誰もいない体育館に、シュートの音だけが、響いた。ボールは、ころころと転がって、また、定位置に戻り、だむ、だむ、と、次の一本の練習を、始めた。

「……シュート練習、してる」
「……夜な夜な、一人で、か」

 誰の音なのかは、分からなかった。姿は、最後まで、見えなかった。ただ、その、黙々と繰り返されるシュートの音は、怖いというより、どこまでも、ひたむきだった。サキが、扉の隙間から、小さく「がんばれー」と言った。次の一本は、きれいに、決まった。

 ――そして、校庭で、あれを見た。

 体育館から戻る渡り廊下の窓から、父が、ふと、外を見て、固まった。

「………………お」
「ん?」
「……おい。……縁。……あれ」

 父の指が、震えながら、校庭を指していた。

 月が、よく出ていた。膝丈の夏草の校庭が、月光で、銀色の海みたいになっていた。その、銀色の海の中を。

 二宮金次郎の銅像が、走っていた。

 薪を背負い、本を開いて読んだまま。石の台座を降りて、校庭の外周を、一定のペースで、黙々と、走っていた。ざっ、ざっ、ざっ、と、草を踏む重い足音が、夜気を渡って、かすかに届いた。夜風に、開いた本のページが、ぱらり、ぱらりと、めくれた。金次郎は、ページがめくれても、走る速度を、いっさい変えなかった。読みながら、走る。走りながら、読む。休まない。よそ見をしない。ただ、ひたすらに。

「……で、出た……七不思議の三番……! 『金次郎が校庭を走る』……!」

 縁の声も、さすがに、かすれた。これは、これまでのどの怪異とも、少し違った。可笑しくは、なかった。ポンコツでも、なかった。石像が走る、という光景そのものの持つ、原始的な畏れが、あった。重くて、静かで、荘厳ですら、あった。

 金次郎は、走り続けた。一周。二周。三周。

 二人と一人と一体は、渡り廊下の窓に張りついたまま、いつしか、声もなく、それを見ていた。

 三周目の途中で、金次郎は、こちらの視線に、気づいたらしかった。速度を、すこし、緩めた。そして、走りながら、窓のほうへ、本を持ったまま、律儀に、こく、と会釈をした。

「ひっ……こっち気づい……!!」

 父の膝が、かくん、と折れた。渡り廊下に、尻もちをついた。本日二度目の、腰抜かしだった。

 金次郎は、会釈を終えると、また速度を戻し、走り続けた。

「……ねえ、怪王。金次郎さんは、なんで、走ってるの」

 縁が聞くと、怪王は、窓枠の上で腕を組んで「ふむ」と唸った。

「誰も知らぬ。あやつは、昔から、ああだ。夜ごと、走り、読む。話しかけても、会釈しか返さぬ。……我の推測ではな。あやつは、昼のあいだ、動けぬであろう。像ゆえ。読みたい本の続きも、読めぬ。行きたい場所へも、行けぬ。だから、夜のあいだに、昼にできぬことを、ぜんぶ、やっておるのではないかな。……勤勉なやつよ。感心なことである。我の家来にしたいくらいだ」

「勧誘したことあるの?」

「……三度な。三度とも、会釈で流された」

 父は、尻もちをついたまま、窓の外の金次郎を、見ていた。

 休まず。よそ見をせず。手元の本と、足元の一歩だけを見て、同じところを、ぐるぐると、走り続ける。誰に見られるでもなく。誰に褒められるでもなく。

 ――何かに、似ている。

 父は、思った。思って、すぐに、打ち消そうとした。打ち消そうとして、できなかった。

 似ているのだ。毎朝、同じ電車に乗って、同じビルへ行き、同じ机で、書類とパソコンだけを見て、夜、同じ電車で帰ってくる。休まず。よそ見をせず。手元の仕事と、足元の締め切りだけを見て。何のためか、誰のためかを、いつからか、考えなくなって。ぐるぐると。ぐるぐると。

 ――おれは、何のために、走ってたんだっけな。

 金次郎は、少なくとも、本を読んでいる。読みたいものが、あるのだ。おれの手元には、何が、あったっけ。

 父は、答えの出ないまま、月光の校庭を走る石像を、長いあいだ、見ていた。その横顔を、縁は、隣で、見ないふりをして、見ていた。

 ――階段の、踊り場でも、ひとつ、あった。

 職員室へ戻る途中、あの、大鏡の前を通ったときだ。縁は、鏡について、サキと怪王に、講釈していた。

「――で、四時四十四分に、この鏡を見ると、鏡の世界に引き込まれるの。四が三つ。四は死に通じるから。これも定番で……」

 言いながら、ふと、隣を見ると、父が、いなかった。

 振り返ると、父は、鏡の前で、足を止めていた。

 鏡を、見ていた。今は、四時四十四分ではない。午前二時すぎだ。なのに父は、そこに、縫い止められたみたいに、立っていた。

「……ねえ?」

 父は、答えなかった。縁は、父の視線の先を、追った。鏡には、懐中電灯の逆光の中に、父が映っていた。くたびれたTシャツの、腹の出た、四十三歳の男が。

 ――ただ、それだけの、はずだった。

 でも、父の目には、違うものが、見えているようだった。父は、鏡の中の何かに向かって、口の中で、小さく、何かを言った。聞き取れたのは、最後の一言だけだった。

「……悪かったな」

 と、父は、鏡に、言った。

 それから、はっ、と我に返って、縁が見ているのに気づき、ばつが悪そうに、頭をかいた。

「……い、行くぞ。ほら」

「今、誰に謝ったの」

「……誰にも」

 父は、歩き出した。縁は、もう一度だけ、鏡を見た。鏡には、縁と、サキと、怪王が映っているだけだった。……いや。一瞬。ほんの一瞬だけ、鏡の奥の暗がりに、坊主頭の、半ズボンの少年が、立っていた気がした。少年は、去っていく父の背中を、見ていた。その顔は、もう、物言いたげでは、なかった。少しだけ、ほんの少しだけ、笑っていた、気がした。

 瞬きをすると、少年は、いなかった。

 ――夜明け前の一時間が、祝祭の、頂点だった。

 どういうわけか、校舎じゅうの怪異たちが、示し合わせたように、廊下に出てきたのだ。オルガンがのそのそと、四本の猫足で歩いて音楽室から出張ってきて、廊下で演奏を始めた。ベートーヴェンが額縁ごと壁を滑って伴走し、指揮を執った。人体模型と骨格標本が、その音楽に合わせて、かくかくと、奇妙なダンスを踊った。歩き足がステップを踏み、飛び首が宙で拍子を取った。花子さんが、三番目の個室から出てきて、手拍子をした。階段が、リズムに合わせて、段を増やしたり減らしたりした。校長たちの写真が、うんうんと、鷹揚に頷いた。

 二十五年ぶんの静寂を、取り返すような、夜だった。

 その真ん中を、縁は、走っていた。

 サキと、花子さんと、三人で、手をつないで。オルガンの音の中を、笑い転げる怪異たちのあいだを、ぱたぱたと、廊下の端から端まで。息が切れて、脇腹が痛くて、埃で鼻がむずむずして、汗だくで。

「ゆかりちゃん! たのしいねえ! たのしいねえ!!」

 サキが、つないだ手を、ぶんぶん振りながら、叫んだ。

「うん……! 楽しい……!」

 答えてから、縁は、自分で、びっくりした。

 ――あれ?

 私、今、真夜中の廃校で、お化けに囲まれてるんだよね? 花子さんと手をつないで、生首の下をくぐって、走ってるんだよね? 怖いはずだよね? 怖い、よね?

「……ねえサキちゃん、私、なんで、笑ってるんだろ!? 怖いのに! さっきから、ずっと怖いのに!」

「たのしいからだよ!!」

 サキは、こともなげに、言った。

「こわいのは、たのしいの! いちばん、たのしいの! こわくて、たのしくて、わすれられなくなるの! おっきくなっても、おばあちゃんになっても、ぜーったい、わすれない夜になるの! ……あのね、ゆかりちゃん」

 サキは、走りながら、縁を見た。前歯の抜けた、満開の笑顔で。目の端に、嬉し涙を、きらきらさせて。

「サキね! ずーっと!! ずうっと!! こういうのが、したかったんだあ!!」

 その声は、オルガンの音を突き抜けて、廊下の端から端まで、響き渡った。

 ――ちりん。

 と、そのとき、祝祭の喧噪のいちばん底で、ごく小さな金属の音が、床のどこかで鳴った。跳ねて、転がって、どこかの隙間に、落ちていく音。誰も、気づかなかった。オルガンの音が、大きすぎた。笑い声が、幸せすぎた。誰も、気づかなかったのだ。

 二十五年ぶん、いや、もしかしたら、もっとずっと長い時間ぶんの、「したかった」が、その一声に、ぜんぶ、詰まっていた。詰まっていたことに、このときの縁は、まだ、気づかない。ただ、その笑顔が、あんまり幸せそうだったから、縁も、つられて、力いっぱい、笑った。

 ――東の空が、白み始めた。

 それは、誰が合図したわけでもないのに、いっせいに、始まった。オルガンが、演奏の最後の和音を、名残惜しそうに、ゆっくり、長く、伸ばした。人体模型と骨格標本が、かくん、とお辞儀をして、理科室へ、連れ立って帰っていった。模型は、戸口で、また右腕を落とした。歩き足と飛び首が、寄り添い、まるで一体の人になったようなシルエットを残し、廊下の奥へ消えた。花子さんは、縁に「またね」と、小さく手を振って、三番目の個室の戸を、今度は、余韻たっぷりに、静かに閉めた。校長たちの目が、定位置に戻った。階段が、十二段に、なった。

 校庭では、金次郎が、走り終えて、台座に上がるところだった。台座の上で、金次郎は、開いていた本に、見えない栞を挟むような、丁寧な仕草をして、それから、朝日が山の端にかかるのと同時に、動かない石に、戻った。

 サキも、いつの間にか、いなくなっていた。

 夜が、明けた。

 窓から差し込む朝日の中で、校舎は、何事もなかったような顔で、静まり返っていた。埃が、金色に、舞っていた。昨夜のすべてが、夢だったと言われれば、信じてしまいそうな、静けさだった。

 ただ、廊下の真ん中に、一つ。

 人体模型の腎臓が、ぽつんと、忘れられて、転がっていた。

「……夢じゃ、ねえなあ」

 それを拾い上げた父が、しみじみと、言った。

 二人は、職員室の寝袋に潜り込むなり、泥のように、眠った。


第九章 日々

 目が覚めたのは、昼過ぎだった。

 窓から差し込む光が、もう高くて、白かった。職員室の空気は、日なたの埃の匂いがした。縁が寝袋から這い出すと、父はもう起きていて、カセットコンロで、湯を沸かしていた。

 昼飯は、カップ麺だった。二人は、事務机を挟んで、向かい合って、無言で、麺をすすった。ゆうべの記憶が、湯気の向こうで、まだ、ゆらゆらしていた。オルガン。花子さん。腸を追う人体模型。走る金次郎。手をつないで走った廊下。

「……夢じゃ、ねえよな」父が、麺をすすりながら、天井を見た。
「箸、逆」
「お」

 父は、箸を持ち直した。それから、照れ隠しみたいに、ずずず、と大きな音で麺をすすった。

「……しっかし、父さん、情けなかったな、ゆうべは。腰、抜かしたべ。……二回も」
「三回だよ」
「に、二回だ! 体育館のは、しゃがんだだけだ!」
「膝から崩れてたじゃん」
「あれは、その、戦略的な、姿勢を低くする防御であってだな」
「はいはい」

 縁は、スープを、ひとくち飲んだ。飲みながら、思っていた。

 ――でも。

 でも、三回とも、腰を抜かす直前まで、父は必ず、縁の前にいた。音楽室の戸も、体育館の扉も、トイレの前も、震える手で、でも、必ず、自分が先に開けた。花子さんのときだって、腰が引けながら、廊下から、ずっとこっちを見ていた。逃げなかった。一度も、縁を置いて、逃げなかった。

 ――それは、言わなかった。

 言ったら、負けな気がしたからだ。何に負けるのかは、自分でも、よく分からなかったけれど。ただ、言わない代わりに、縁は、クーラーボックスから麦茶を出して、父のコップに、黙って、注いだ。父が、少し、驚いた顔をした。

「……お、おう。悪いな」
「別に」

 カップ麺は、いつもより、ずっと、おいしかった。

 ――それからの数日は、昼と夜とで、まるで別の世界を生きるような日々になった。

 昼は、床張りだった。

 父は、日曜大工が、下手だった。想像の三倍、下手だった。釘は曲がる。板は寸法を間違える。金槌は、三日に一度の頻度で、自分の親指を打った。「いでっ!!」という悲鳴と、「なんでだ! 今、完全に釘を狙ったのに!」という理不尽な抗議が、午後の校舎に、こだました。

 それでも、父は、楽しそうだった。

 汗だくで、おがくずまみれで、親指を腫らして、それでも、鼻歌をうたいながら、一枚、また一枚と、床板を張っていった。会社にいたころの、あの、電池の切れかけたみたいな顔は、どこにもなかった。縁は、板を押さえたり、寸法を測ったり、曲がった釘を抜いたりした。手伝わない、という当初の宣言は、もはや、誰の記憶にもなかった。

 怪王は、「王も、監督してやらんこともない」と言って、毎日、現場に現れた。監督、と本人は言い張ったが、実際にやっていたのは、釘運びだった。小さな体で、釘を一本ずつ、口にくわえて、ころころと運んでくる。「ほれ、次の釘である」「ありがと」「王に礼を言うときは、ははーっ、であろう」「ありがと」「まあよい」。三日目には、釘の太さを、言われる前に選べるようになっていた。優秀な監督だった。

 ちなみに、夕飯がカレーの日は、王は、誰よりも早く食卓に現れた。

「王たる者が、人間の食事を、物欲しそうに待つなどということは、断じて、ない」
「そっか。じゃあ怪王のぶん、ないけど」
「あるであろう!? 鍋を見よ!! たっぷり余って――こ、こほん。ひ、一口だけ、毒見をしてやらんこともない。あくまで、貴様らの食の安全のためである」

 毒見係の皿は、毎回、いちばん先に、いちばんきれいに、空になった。

 それから、縁には、いつの間にか、朝の日課が、ひとつ、できていた。

 目が覚めると、三年二組の教室へ行って、教卓の上の、あの日めくりカレンダーを、一枚、めくるのだ。

 平成のある夏の日で、二十五年間、止まっていた日めくり。最初の朝、なんとなく、めくってみた。ぺら、と。乾いた紙の音が、朝の教室に、響いた。それだけのことだった。それだけのことなのに、なんだか、この校舎の心臓を、ひと押し、動かしてやったような気がした。以来、毎朝、一枚。泊まり込みが二日目なら、二枚目。三日目なら、三枚目。日付は、四半世紀ずれたままだったけれど、時間は、確かに、進み始めていた。この学校の時間を、いま、進めているのは、自分なのだ――そう思うと、縁は、朝から、少しだけ、誇らしかった。

 夜は、お化けたちの時間だった。

 毎晩、十時のチャイムが鳴ると、校舎は目を覚ました。縁は、それを、心待ちにするようになった。夕飯を食べ、歯を磨き、ランタンを消して、闇の中で、耳を澄ませる。ポロン、と最初のオルガンが鳴る。その一音が、縁には、開演のブザーみたいに、聞こえた。

 縁は、花子さんと、すっかり、仲良くなった。

 花子さんは、驚かすのが、本当に、下手だった。素材は、一級品なのだ。戸の開け方、声の遠近、おかっぱの角度。どれも、教科書に載せたいくらい怖い。なのに、詰めが甘い。最後の最後で、不安になって、余計な一言を、言ってしまう。

「――こんばんは……ふふ……ここで、なにを、しているの……?」
「(いい! すごくいい!)」
「……ふふふ……かえれる、と、おもう……?」
「(最高!)」
「……お、おもいますか? かえれると、おもいますか? ど、どうでしょう?」
「敬語になっちゃった!! 花子さん、最後! また最後!!」
「ああーっ!!」

 深夜のトイレで、二人の特訓は、続いた。縁がコーチで、花子さんが選手だった。縁は、家で読んだホラーの技法を、総動員した。

「いい? ホラーはね、説明したら、負けなの。怖がらせたら、何も言わずに、すーっと、消える。相手の想像力に、あとは任せるの。想像力が、いちばん怖いんだから」
「そ、そうぞうりょくに、まかせる……」
「そう。花子さんは、素材が完璧なんだから、あとは、黙る勇気だけ」
「だまる、ゆうき……!」

 花子さんは、真剣な顔で、繰り返した。それから、個室に入って、戸を閉めて、開けて、俯いて、三歩近づいて――何も言わずに、すーっと、後ろに下がりながら、戸を、静かに閉めた。

 余韻が、トイレに、残った。

「…………今の、めちゃくちゃ怖かった」

 縁が、本気の鳥肌をさすりながら言うと、閉まった戸の向こうから、「や、やったあ……!」という、押し殺した歓声が、聞こえた。余韻が台無しだったが、縁は、指摘しないでおいた。

 赤い紙青い紙とは、謎かけ勝負を、するようになった。

「――とけたら、かみをやろう。とけねば、しょうちせぬぞ。……『上は大水、下は大火事』、なーんだ」
「お風呂。江戸のなぞなぞでしょ、それ。古典すぎ」
「ぐぬ……で、では、『きれいな花に、水をやったら、枯れました』、なぜだ」
「造花だったから」
「ぐぬぬぬ……」

 通算、三勝一敗になった。負けた一問は「学校にあって、廃校にないもの、なーんだ」という問い。悔しくて、三日、考えた。答えは「チャイムの意味」だった。鳴っても、誰も、動かないから。……その答えを聞いたとき、縁は、悔しさより先に、胸が、少し、しんとなった。紙さんは、「い、意地悪な問題だったな。すまぬ」と、戸の上から、ティッシュを一枚、差し出した。

 父は、というと。

 人体模型とだけは、最後まで、打ち解けられなかった。模型が「よお、大将! 今夜も驚くかい!」と気安く肩を寄せてくるたび、父は「ひえっ」と飛びのいた。模型は、そのリアクションを、最大の賛辞と受け取っているらしく、二人の関係は、永遠に噛み合わないまま、なぜか、良好だった。

 その代わり、父は、ベートーヴェンと、妙に、うまが合った。

 夜、縁が花子さんの特訓をしているあいだ、父は、音楽室の床を張りながら、壁の楽聖と、無言の時間を、過ごすようになった。父が、床板を一枚、きれいに張り終える。ベートーヴェンが、それを見下ろして、眉を、うむ、と上げる。父が、釘を打ち損ねて親指を打つ。ベートーヴェンが、天を仰ぐ。父が、三十分かけて難所を張り終え、汗を拭って、肖像画を見上げる。ベートーヴェンが、深く、頷く。

「……何が通じ合ってるの、あれ」
「ものづくりの魂、だそうよ」と、花子さんが言った。「ベートーベンさま、『妥協せぬ職人は、国境も時代も、生死も超えて、友である』って」
「喋れるんだ、あの人」
「機嫌がいいと、ね」

 ――そんな、ある日の、夕方だった。

 その日の作業を早めに切り上げて、父と縁は、刈ったばかりの草の山の上に、並んで、寝転がっていた。刈りたての草は、青くて、あたたかくて、少しちくちくして、いい匂いがした。空が、頭の上で、ゆっくりと、茜色に染まりつつあった。

 ひぐらしが、鳴き始めていた。かなかなかなかな。あの、聞くと胸の奥が細くなる声で。

「……なあ、縁」

 父が、空を見たまま、言った。

「東京の学校、どうだ。楽しいか」
「……ふつう」
「友達は、いるのか」
「いるよ。……そんなに多くないけど」
「そうか」

 しばらく、ひぐらしの声だけが、あった。それから、父は、ゆっくりと、話し始めた。

「……父さんな。ここに来てから、ずっと考えてたことがある。おまえが小さかったころ――動物園とか、水族館とか、海とか、毎週みたいに、行ったべ。あのころな、父さん、本気で、おまえといるのが、この世でいちばん楽しかった。仕事なんか、早く終わらせて帰るもんだと思ってた。ほんとだぞ」

 縁は、空を見ていた。茜色が、少しずつ、濃くなっていた。

「なのに、なんでかなあ。課長になって、部長になって、部下ができて、責任だなんだって言ってるうちに、帰るのが遅くなって。遅く帰ると、疲れてて。疲れてると、飲まねえと、眠れなくて。飲むと、次の日、起きれなくて。……気がついたら、おまえが、何年生なのかを、書類に書くとき、一瞬、考えるようになってた。自分の娘の学年だぞ。それを、考えねえと出てこねえんだ。……あのときは、さすがに、自分が怖くなった」

 父の声は、静かだった。言い訳の調子は、なかった。ただ、事実を、一つずつ、机に並べるみたいな言い方だった。

「映画の日のことは……いまさら、何を言っても、言い訳にしかならねえ。おまえが一人で観に行って、一人で帰ってきたあの日、父さん、玄関でおまえの顔を見て、分かったんだ。ああ、おれは、いちばん大事な客を、いちばん粗末にしてたんだなって。……ごめんな、縁。ずっと、寂しい思いを、させてたな」

 謝られた。

 まっすぐに、言い訳なしで、謝られた。半年間、待っていたはずの言葉だった。なのに、いざ言われてみると、縁は、どう受け取っていいのか、分からなかった。「いいよ」と言うのは、嘘になる。よくは、なかったのだから。「許さない」と言うのも、もう、違う気がした。この十日間の、そうめんと、カレーと、注がれなかった酒と、三回の腰抜かしと、先に開けられた戸のことを、縁は、もう、知ってしまっているのだから。

 だから縁は、別のことを、聞いた。ずっと、聞けなかったことを。

「……ねえ。お母さんとは……離れちゃうの?」

 父が、寝転がったまま、こちらを向く気配がした。

「……なんだ。そんなこと、心配してたのか」
「だって。お母さん、怒ってるでしょ。学校のこと。会社のこと」
「怒ってる。そりゃもう、猛烈に怒ってる。電話のたびに、絞られてる。……でもな、縁。離れねえよ。ゆうべの電話でな、母さん、さんざん怒ったあとに、最後に、ぽつっと言ったんだ。『……で、縁は、笑ってる?』って」

 縁の、胸が、とん、と鳴った。

「父さんが『ああ、毎日笑ってる』って言ったら、母さん、長ーい息を吐いてな。『……なら、いいわ。あんたらしいわ、ほんとに』って。笑ってた。呆れ笑いだけどな。……あれは、たぶん、合格ってことだと、父さんは思ってる」

 ――お父さんとふたりで、ごはん食べて、寝て、起きて、してごらん。

 バス停の、母の、祈るような顔。あれは、これだったのだ。母は、賭けていたのだ。この、どうしようもない父と、意地っ張りの娘を、ふたりきりにすることに。何もかも、知っていて。

「……お母さんって、すごいね」
「ああ。父さんには、もったいねえ人だ。……おまえも、母さん似で、よかったな」
「ほんとだよ」
「そこは否定しろよ」

 二人は、少し、笑った。空の茜色は、いちばん深いところまで来て、山の端が、燃えるようだった。ひぐらしが、鳴いていた。

「……あのね」

 縁は、空を見たまま、言った。言うつもりは、なかったのに、口が、勝手に、動いた。

「私……ほんとは、そんなに、しっかりして、ない」

 父が、黙って、聞いている気配がした。

「一人でなんでもできるのはね、できるように、なっただけ。鍵っ子だから。誰もいない家に帰って、一人でおやつ食べて、一人で宿題して。最初は寂しかったけど、寂しいって思うと、もっと寂しくなるから、思わないことに、したの。そしたら、いつの間にか、しっかり者ってことに、なってた。……ほんとはね、たまに、思うんだよ。学校で熱出したとき、迎えに来てくれる子のお母さん見て、いいなあって。……ほんとは、私」

 頼りたかった。ずっと、誰かに。

 その一言は、声にならなかった。ならなかったけれど、隣で、父が、洟を、ずっ、とすする音がした。

「……え、泣いてんの?」
「……泣いてねえ。草が、目に入った」
「草、入る場所に、目、ないでしょ」
「入ったんだよ」

 父は、ごしごしと、腕で目をこすった。それから、空に向かって、宣言するみたいに、言った。

「……来年の夏はな、縁。ここに、子供が、いっぱい来る。父さんが、そうする。テントも張る。川でも泳ぐ。カレーも作る。花火もやる。……で、おまえが熱を出したら、父さんが、五分で迎えに行く。学校が隣だからな。日本一近い、迎えだ」

「なにそれ」

 縁は、笑った。笑ったら、目の端から、ぽろっと、何かがこぼれたので、慌てて、草のせいにした。草が、目に入ったのだ。二人とも。そういうことに、した。

 夕闇が、降りてきた。

 一番星が、出た。

 ――その、親子の様子を。

 校舎の二階の窓から、そっと、見ている顔が、あった。

 サキ、だった。サキは、窓枠に頬杖をついて、草の上の二人を、ずっと、見ていた。その口もとは、にこにこと、これ以上ないほど、幸せそうに、ゆるんでいた。まるで、丹精こめた庭に、花が咲いたのを見つけた、庭師みたいな顔だった。

「……えへへ」

 と、サキは、誰にともなく、笑った。

「……なかよしに、なってきた」

 そう言って、サキは、窓辺で、小さく、足をぱたぱたさせた。嬉しくて、じっとしていられない、というふうに。

 その晩、じいちゃんの家に風呂を借りに戻ったとき、父の携帯が鳴った。母からの、いつもの定時連絡だった。父がしばらく話して、書類がどうの、役場がどうのと報告して、それから、ふいに、縁のほうへ携帯を差し出した。

「……母さんが、おまえと替われって」

 縁は、受け取った。耳に当てると、母の声がした。

『縁? ……元気?』
「元気だよ」
『ごはん、ちゃんと食べてる? お父さん、ちゃんと作ってる?』
「作ってるよ。じゃがいも、いっつも芯が残ってるけど」
『あー……あの人、昔っから、それ』

 電話の向こうで、母が、ふ、と笑った。それから、少しだけ、沈黙があった。仕事の音も、テレビの音もしない、静かな沈黙だった。母は、東京の家に、一人でいるのだ。この春から、いつも縁がそうしていたみたいに。

『……縁。あのさ』

 母の声が、いつもより、少し、低かった。

『お母さんね、ほんとはあの日、バスの中で、ちょっと後悔してたの。やっぱり連れて帰ろうかって。二回、降りようとした。……あんたに、寂しい思いばっかりさせてきたのに、また置いてくのかって』

「……お母さん」

『でもね、聞こえてくるのよ、毎晩。電話の向こうから。あんたの笑い声が。お父さんと何か言い合ってる声が。……この半年、うちで一回も聞けなかった声が、さ』

 母は、そこで、洟を、小さく、すすった。すすってから、慌てたように、いつもの声に戻った。

『――はい、この話おしまい。宿題やりなさいよ。あと日焼け止め塗りなさい、虫刺されにも気を付けるのよ、あなたすぐ腫れちゃって大変なんだから。じゃあね』

 電話は、切れた。縁は、しばらく、携帯を耳に当てたまま、立っていた。ツーツーという音の向こうに、東京の、静かな部屋が見えるような気がした。三人分の茶碗のうち、二つが伏せられたままの、食卓が。

「……母さん、なんて?」
「宿題やれって。……あと、じゃがいもの芯、昔からだって」
「……返す言葉もねえな」

 そういえば――と、あとになって、縁は、思い出すことになる。

 サキは、一度も、何かを食べたことが、なかった。カレーにも、カップ麺にも、スイカにも、手をつけなかった。「サキ、たべなくて、いいの」と、にこにこ、笑うだけだった。麦茶だけは、たまに、両手で持って、飲むふりみたいに、口をつけた。飲むふり、みたいに。

 気づくべきことは、いつも、あとになってから、かたちになる。

 このときの縁は、ただ、夕闇の草の匂いの中で、隣の父の洟をすする音を、聞いていた。それだけで、じゅうぶんだった。


第十章 あの子は誰

 異変というものは、たいてい、いちばん平和な瞬間に、顔を出す。

 その夜、泊まり込みの、五日目の夜だった。お化け大会は、すっかり、夜の日課になっていた。十時のチャイム。オルガンの開演の一音。校舎のあちこちで、今夜も、賑わいが立ちのぼっていた。理科室からは、模型と標本の漫才みたいな言い合いが。階段からは、段の増減する、しゅんしゅんという音が。

 縁は、二階の廊下の窓辺で、花子さんと並んで、涼んでいた。

 窓の外には、真っ黒な山のシルエットと、その上に、こぼれるほどの星空。夜風が、ときどき、汗の引いた首すじを、撫でていった。花子さんは、窓枠に頬杖をついて、機嫌よく、足をぶらぶらさせていた。

 少し離れた教室から、歌が、聞こえていた。

 サキの声だった。オルガンがやわらかい和音を鳴らし、それに合わせて、サキが、歌っていた。歌詞のない歌だった。ら、ら、ら、ら、と。旋律には、聞き覚えがあった。オルガンが、毎晩、練習していた、あの曲だ。つっかえていた箇所は、もう、すっかり、滑らかになっていた。

 優しくて、懐かしくて、どこか遠い、旋律だった。

「……いい歌」と、縁が言った。
「ええ。……サキちゃん、ほんとうに、うれしそう」

 花子さんが、目を細めた。

「ね。あの子、ほんと、毎晩楽しそう。……ていうか、花子さん、思わない? サキちゃんって、すごいよね。お化け、ぜんぜん怖がらないの。私なんて、いまだに、模型さんが急に出てくると、心臓止まりそうになるのに。あの子、初日から、きゃーって言いながら、目がきらっきらしてた。妖怪のことも、私より詳しいくらいだし」

 すると、花子さんは、きょとん、とした顔で、縁を見た。

 心底、不思議そうな顔だった。何を当たり前のことを、という顔だった。

「そりゃあ、そうよ」

 と、花子さんは、言った。

「だって、みんなを起こしたの、あの子だもの」

 夜風が、止まった気がした。

「……起こした?」

「ええ。わたしたちを。……あら?」花子さんは、小首をかしげた。「ゆかりちゃん、知らなかったの? てっきり、知ってるものと」

「ちょ、ちょっと待って。起こしたって、どういうこと。みんな、チャイムで目が覚めたんじゃ」

「チャイムはね、合図。目覚ましみたいなもの。でも、目覚ましだけじゃ、わたしたち、起きられなかったのよ。二十五年も、眠ってたんだもの」

 花子さんは、窓の外の星を見ながら、ぽつり、ぽつりと、話した。

「……あのね、ゆかりちゃん。わたしたちお化けは、語ってもらえないと、生きていけないの。『三番目の個室には、花子さんがいるんだって』――そうやって、ひそひそ、こわごわ、噂してくれる子がいるから、わたしは、三番目の個室に、いられるの。噂が、わたしたちの、ごはんで、空気で、心臓なの」

「……語られないと、どうなるの」

「薄くなるわ」

 花子さんは、こともなげに、言った。こともなげな言い方が、かえって、怖かった。

「だんだん、薄く、薄くなって……眠くなるの。とろとろって。で、眠っちゃう。眠ったまま、誰にも思い出されないと……そのうち、眠っていたことごと、消えるの。最初から、いなかったみたいに」

「――――」

「学校が閉まって、子供がいなくなって。わたしたち、みんな、順番に、眠っていったわ。オルガンさんが最初。それから模型さん。金次郎さまは、ずいぶん長く頑張ってらしたけど、しまいには。わたしも……最後のほうは、自分の名前が、ときどき、分からなくなってた。はなこ。はな、こ。あれ、なんだっけ、って。……ああ、消えるんだな、って思いながら、眠ったの」

 花子さんの声は、静かだった。恨みも、恐れも、なかった。ただ、そうだった、という声だった。それが、いちばん、胸に刺さった。

「それをね」

 花子さんは、教室のほうへ、目をやった。歌声のするほうへ。

「――『起きて』って。『お客さんが来たよ、起きて、みんな、起きて』って。一部屋ずつ、回って、揺すって、起こしてくれたの。あの子が。オルガンさんの鍵盤を、そっと押して。わたしの戸を、こんこん、って叩いて。金次郎さまの台座に、よじ登って。……わたし、目が覚めたとき、最初、夢だと思ったわ。二十五年ぶりに、誰かに、名前を呼ばれたんだもの。『はなこちゃん、おきて』って。……あの子、泣きそうな顔で、笑ってた。『やっと、遊べる子が来たよ』って」

 ら、ら、ら、ら、と、教室から、歌が、聞こえていた。

 縁の頭の中で。

 この十日あまりの、いろんな断片が、音を立てて、動き始めた。

 ――夏休みだから、親戚の子だろう。そう思った。そう思って、それきり、考えなかった。でも、誰の家の子か、サキは、一度も、言わなかった。

 ――かくれんぼ。三十分探して、見つからなかった。「いっかいも、みつかったことないの」。会心の隠れ場所を、一発で、当てられた。「さがすのも、つよいの」。

 ――夜中の校舎に、平気で現れた。「よみちは、へいきなの」。どうやって来たのか、どうやって帰るのか、一度も、見たことがない。

 ――何も、食べなかった。「サキ、たべなくて、いいの」。

 ――逢魔時の廊下の、三本目の影。二人の影のあいだに、寄り添うように伸びて、振り返ったら、消えていた。

 ――三十年前。父たちの肝試し。誰もいないはずの上の階を走った、裸足の、ぱたぱたという足音。

 ――そして、父の、あの古い漫画の、あのページの、鉛筆の落書き。おかっぱの女の子の絵。『がっこうにいる』。

 ――それから。あの、夕方。踊り場の鏡の前で、父がふざけて、二人で笑い転げた、あの日。四時四十四分で止まった、柱時計。あのすぐあとからだ。雑巾が畳まれ、オルガンが鳴り、校舎が、目を覚まし始めたのは。……あの時刻、あの鏡の前で、何かの戸が、開いたのだとしたら。開いた戸から、誰かが、みんなを起こして回ったのだと、したら。

 断片が、一つの形に、組み上がっていく。頭の中の図鑑が、勝手に、あるページを、開いた。何度も読んだ、あのページ。

 東北地方の、古い家に棲むという、子供の姿の妖怪。おかっぱ頭の女の子の姿で現れることが多い。いたずら好きで、家の子供と遊びたがる。いる家は栄え、去った家は傾く。その姿は、子供にしか見えない、ともいわれる――。

 縁の唇が、その名前を、そっと、かたちにした。

「……座敷、わらし」

 ――歌が、止まった。

 ぴたり、と。

 オルガンの和音だけが、ぽーん……と、行き場をなくして、教室に、余韻を残した。

 縁は、廊下の先の、教室の入り口を、見た。

 サキが、こちらを、見ていた。

 オルガンのそばに立ったまま。歌の続きの形に、口を、半分開けたまま。まん丸の目で。「しまった」と、顔じゅうに、書いてあった。

 縁と、サキは、廊下と教室の距離を挟んで、しばらく、見つめ合った。花子さんが、あら、あらら、と、口に手を当てて、二人を交互に見た。「……もしかして、わたし、内緒のこと、言っちゃった?」

 時間が、止まったような数秒のあと。

 サキは、観念した。

 肩から、ふう、と力を抜いて。それから、えへへ、と、笑った。いつもの、前歯の抜けた笑顔で。ただ、いつもより、ほんの少しだけ、その笑顔は、心細そうだった。

「……ばれちゃった」

 縁は、動けなかった。

 怖くは、なかった。不思議なくらい、怖くなかった。目の前にいるのは、この十日間、一緒にかくれんぼをして、図鑑をのぞき込んで、手をつないで廊下を走った、あの子のままだった。何も、変わって見えなかった。裸足で、おかっぱで、日に焼けていて、頬っぺたが赤い。

 でも、あの子は、人間では、なかった。

 友達だと思っていた子は、神様だった。

 その事実を、どこに、どう、置けばいいのか。縁の胸は、忙しく、うろたえた。騙されていた、という尖った気持ちが、ちくりと顔を出しかけて、でも、それは、すぐに、別の気持ちに、押し流された。花子さんの話が、耳に残っていたからだ。一部屋ずつ、回って。泣きそうな顔で、笑って。『やっと、遊べる子が来たよ』。

 ――この子は、いったい、どれだけの時間、ここに、ひとりで、いたんだろう。

「……サキちゃん」

 縁は、一歩、教室に近づいた。サキが、びくっ、と、身を硬くした。叱られる直前の子供の、身のすくませ方だった。

 縁は、もう一歩、近づいて。

 言った。

「――ぜんぶ、話して。最初から」

 サキは、上目遣いに、縁を見た。怒ってる? と、その目が、聞いていた。縁は、首を、横に振った。怒ってない。ただ、知りたいの。あなたのことを、ちゃんと。

 サキは、こく、と、うなずいた。

「……うん。はなす。ぜんぶ、はなすね」

 それから、サキは、教室の中を、ぐるりと見回して、少しだけ、いつもの調子を取り戻した声で、天井に向かって、言った。

「――みんなも、おいで。かくれてないで。……どうせ、きいてるんでしょ」

 その言葉が、終わるか終わらないかのうちに。

 廊下の向こうから、がた、ごと、ぺた、ぺた、かたかた、と、いくつもの音が、近づいてきた。人体模型と、骨格標本が、そっと戸口から覗いた。歩き足と、飛び首が、定位置で、するりと入ってきた。花子さんが、縁の隣に、ちょこんと立った。廊下の暗がりから、紙さんの気配が。窓の外には、いつの間にか、金次郎の大きな影が、月を背にして、立っていた。ベートーヴェンの額縁が、壁を、すす、と滑ってきた。

 いちばん最後に、塵塚怪王が、ころころと転がってきて、教卓の上に、よじ登った。「な、なんだなんだ、緊急集会か。招集は王の仕事であるぞ」と言いながら、ちゃっかり、いちばん見やすい席に、収まった。

 深夜の教室に、怪異たちが、勢ぞろいした。

 まるで、授業参観みたいだった。

 教壇の前に、ちいさな座敷わらしが、一人。両手を、後ろで組んで。みんなの視線を、一身に受けて。

 どこかから、どたどたと父も駆けつけてきて、教室の後ろで、この光景を見て、口を、ぱくぱくさせた。「な、なんだこれ。全員集合してる。……で、なんでサキちゃんが、教壇に」

「――あのね。サキちゃんはね」

 縁が、言った。

「座敷わらし、なの」

 父の口が、ぱくぱくの、いちばん大きく開いたところで、止まった。

 窓の外で、夜風が、杉林を、ざあ、と鳴らした。

 サキは、みんなの顔を、ゆっくり、見回した。それから、すう、と息を吸って、話し始めた。

「……あのね。サキはね――」

 長い、長い話が、始まろうとしていた。


第十一章 帰れない

「……あのね。サキはね」

 深夜の教室。教壇の前で、ちいさな座敷わらしは、両手を後ろに組んだまま、ゆっくりと、話し始めた。

「この学校が、できる、ずーっとまえから、この村に、いたの」

 ずっと前、というのが、どれくらい前なのか。サキは、指を折って数えるふりをして、途中で、やめた。数えられないほど、前なのだった。

「サキはね、子供のいるところが、すき。子供の笑いごえのするところが、サキの、いる場所なの。むかしはね、村の、おっきい家にいた。囲炉裏のある家。子供が、いーっぱいいたの。でも、そのうち、村に、学校ができて――」

 サキの目が、教室を、ぐるりと見回した。並んだ机を。黒板を。窓の外の、月明かりの校庭を。

「――びっくりしちゃった。だって、朝になると、村じゅうの子供が、みーんな、ひとつの場所に、あつまるんだよ。こんなにいいところ、ほかにある? サキ、ひっこしたの。学校に。それから、ずーっと、ここにいた」

 百年、と、誰かが小さく言った。校長たちの写真の、どれかだったかもしれない。この学校は、百十二年。サキは、その最初から、ここにいたのだ。

「たのしかったよう」

 サキの声が、はずんだ。思い出の中に、飛び込んでいくみたいに。

「あさ、みんなが、がやがや来るでしょ。サキも、げた箱のとこで、まってるの。じゅぎょうも、いっしょにうけた。さんすうは、きらい。おんがくは、すき。きゅうしょくのカレーのにおい。そうじの時間の、ぞうきんリレー。うんどうかいはね、まえの日から、ねむれないの。むらじゅうの人が、おべんとうもって、見にくるんだよ。がくげいかいで、まくのかげから、みんなの劇、みてた。……だれも、サキのこと、へんだとおもわなかった。子供が、いーっぱいいたから。サキも、そのなかの、ひとりでいられたの」

 誰も、口を挟まなかった。怪異たちも、親子も、ただ、聞いていた。

「たっちゃんたちのころは、まだ、にぎやかだった」

 ――と、サキが、言った。

 縁は、え、と思った。父も、え、という顔をした。

「……たっちゃん?」

 サキは、教室の後ろの、父を見た。にっ、と、前歯の抜けた笑顔で。

「たっちゃんでしょ。おがの、たっちゃん。……おぼえてるよ。かわで、いちばん高いいわから、とびこんだ子。スイカのこと、ひとりであやまりにいった子。それから、よるの学校に、しのびこんだ子」

 父の顔から、表情が、抜け落ちた。

「……あ、あんとき」父の声が、かすれた。「……あんとき、上の階、走ったの……おまえ、か」

「えへへ。だって、うれしかったんだもん。よるに、子供が来るなんて、はじめてだったから。まぜてほしくて、いそいで下りていったら、みんな、にげちゃった」

 まぜてほしくて。

 その一言に、教室の空気が、しん、と痛んだ。三十年前の夏の夜。肝試しの子供たちを、震え上がらせた怪異の足音は、仲間に入れてほしくて、階段を駆け下りてきた、この子の足音だったのだ。

「たっちゃん、つぎの日も、そのつぎの日も、ひるまに、学校のまわり、うろうろしてた。サキのこと、さがしてるみたいだった。いっかいだけ、めが、あったの。校庭のさくらの木のところで。たっちゃん、めをまんまるにして……でも、こわがらなかった。てを、ふってくれた」

 父は、口を、手で覆った。その目が、みるみる、赤くなった。

「……おぼえてる」と、父は、絞り出すように言った。「……ずっと、夢だと思ってた。誰に話しても、笑われたから。妖怪の漫画に、書いといたんだ。忘れねえように。『がっこうにいる』って。……いたんだな。ほんとに。……おまえ、あんときから、変わってねえのか。その、おかっぱのまんまか」

「うん。サキは、ずーっと、このまんま」

 サキは、こともなげに、言った。ずっと、このまんま。子供たちだけが、大きくなって、卒業して、村を出て、大人になって、帰ってこなくなる。サキだけが、同じ姿で、同じ場所で、次の子供たちを待つ。たっちゃんが達也になり、達也の娘が来るまでの三十年を、この子は、この姿のまま。

「……それでね」

 サキの声から、少しずつ、はずみが、消えていった。

「子供が、へっていったの。まいとし、まいとし、すこしずつ。教室が、ひとつずつ、つかわれなくなって。うんどうかいの、かけっこの組が、へって。……さいごの年は、四人だった。よにんだよ。この、ひろい学校に」

 サキは、窓の外を見た。校門のほうを。

「そつぎょうしきの日。サキ、校門のところで、見おくったの。四人が、さかを、おりていくの。いちばんちいさい子が、いっかいだけ、ふりかえった。……サキのこと、見えてたのかなあ。わかんない。でも、ふりかえって、それから、いっちゃった。……それっきり、だあれも、来なくなった」

 それから、二十五年。

「さいしょはね、へいきだった。みんな、いたから。よる、おしゃべりして。でも、みんな、だんだん、ねむくなっていって。おこしても、おきなくなって。……さいごは、サキ、ひとりで、ろうかを、はしってた。ぱたぱたって。じぶんの足音だけ、きいてた。にちようびの、だれもいない学校って、あるでしょ。あれが、まいにち、まいにち、ずーっと、つづくの」

 サキは、そこで、初めて、うつむいた。

「……サキもね、ほんとは、わかってた。子供のいない場所に、サキは、いられないの。だから、サキも、だんだん、うすくなってた。ああ、サキも、そろそろ、ねむるのかなあ、きえちゃうのかなあって……おもってた、ところに」

 顔が、上がった。

 まっすぐ、縁を見た。

「――ゆかりちゃんが、来たの」

 その目に、涙が、盛り上がっていた。

「くさかりの音がして、まどから見たら、子供がいたの。二十五年ぶりの、子供。しかも、ひるやすみに、おばけの本、よんでた。サキ、うれしくて、うれしくて、どうしていいか、わかんなくて。それで、みんなを、おこしたの。ぜんいん。ひとへやずつ。『おきて、おきて、お客さんだよ』って。……せいいっぱい、おどろかせてあげようって、きめたの。だって、こわいのは、たのしいから。こわかった夜は、いっしょうの、たからものになるから。サキが、むかし、この学校の子たちに、してもらったみたいに。ゆかりちゃんにも、わすれられない夏を、あげたかったの」

 サキは、ぺこり、と、深く、頭を下げた。

「かってに、おどろかせて、ごめんなさい」

 誰も、責めなかった。責められるはずが、なかった。縁は、首を、ぶんぶんと横に振った。言葉が、うまく出てこなかった。この十日間の、あの、怖くて可笑しくて幸せな夜たちが、ぜんぶ、この子の「あげたかった」だったのだ。

「……でもね、もう、だいじょうぶ」

 サキは、頭を上げて、いつもの笑顔に、戻ろうとした。

「サキ、ずっとこっちがわに、出っぱなしだったから、ちょっと、つかれちゃった。みんなも、そろそろ、ひとやすみしたいって。だから、サキ、いったん、『むこう』にもどって、やすんでくるね。……だいじょうぶ、また、来られるから。おじさん、ゆかりちゃん、あのね、ありがとう。この夏のこと、サキ、ぜったい、ぜったい――」

 言いながら、サキは、目を閉じた。

 両手を、胸の前で、そっと、組んだ。何かの、作法らしかった。教室の怪異たちが、見守った。

 ――何も、起きなかった。

 サキが、片目を、開けた。

「……あれ」

 もう一度、目を閉じる。手を、組み直す。ぎゅっ。……何も、起きない。三度目。今度は、顔まで、ぎゅっとしぼって。……何も。

「……あれ? あれ? なんで」

 サキの声が、うわずった。自分の胸元を、ぱた、ぱた、と、叩いた。それから、探った。スカートの、ポケットのあたりを。袖を。もう一度、胸元を。ぱたぱた。ぱたぱたぱた。

「……ない」

 その顔から、みるみる、血の気が引いていった。

「ない。ないない、ない! なんで!? ここに、いつも、ここに――」

「サキちゃん!? どうしたの!」

 縁が、駆け寄った。駆け寄って、間近でサキを見て、ぞっ、とした。

 サキが、薄かった。

 いつから? さっきまで? ううん、もっと前から? 月明かりに、サキの輪郭が、頼りなく、にじんでいた。膝から下は、もう、向こうの床が、うっすらと、透けて見えた。教室の怪異たちが、ざわ、と、揺れた。花子さんが、「そんな」と、小さく叫んだ。

「サキちゃん、何がないの!? ねえ!」

 サキは、泣きそうな顔で、縁を見上げた。そして、震える声で、言った。

「――あかし」

「……あかし?」

「サキが、この学校の子だっていう……しるし。それがないと、『むこう』に、もどれないの。もどれないのに、『こっち』にも、いられなくなるの。うすくなって……きえちゃう」

 サキは、透けはじめた指を、三本、立てた。

「みっつ、あったの。ずっとずっと、だいじにしてた、たからもの。……学校の、なまえ。学校の、うた。学校の、しるし」

 ――校名。校歌。校章。

「なまえは、あたまのなかに。うたは、のどのおくに。しるしは、むねに、つけてた。なのに……ない。おもいだそうとしても、あたまに、もやがかかるの。学校のなまえ、なんだっけ。うたおうとしても、こえが、でてこないの。しるしは……どこかで、おとしちゃった。はしゃいで、はしゃいで、まいばん、はしゃぎまわってる、あいだに……どこかで、ばらばらに……」

「名前なら知ってるよ!!」

 縁は、叫んでいた。なんだ、そんなことか、と思ったのだ。

「男鹿沢小学校!! でしょ!? ほら、思い出して! お・が・さ・わ、小学校!!」

 サキの体が、一瞬、ほんのかすかに、明るんだ。明るんで――すぐ、消えた。ろうそくの火が、風に、なぶられるみたいに。

 サキは、力なく、首を、横に振った。

「……ちがうの。それも、この学校の、なまえ。だけど……サキの、あかしの、なまえじゃ、ないの。あのね。名前ってね、いちばん、さいしょのが、いちばん、つよいの。うまれたときに、もらった、なまえ。サキが、この学校の子になったとき、この学校が、なのってた、なまえ。……もっと、ずっと、まえの、なまえなの。それが……それだけが、おもいだせない。だれかが、よんでくれないと……」

「最初の、名前……?」

 縁は、父を見た。父は、青い顔で、首を横に振った。

「し、知らねえ。父さんのころから、男鹿沢小学校だった。じいちゃんのころも、たぶん……いや、待て。じいちゃんが、なんか、言ってた気が……だめだ、思い出せねえ」

 誰も、知らなかった。生きている人間は、誰も。百年より前に、この学校が名乗っていた、生まれたときの名前を。

 サキの目から、涙が、こぼれた。

「サキ、じぶんが、『どこの子』か、わかんなくなっちゃう。わかんなくなったら、サキ、サキじゃなくなっちゃう……!」

 その場に、ぺたん、と座り込んで、サキは、しゃくり上げた。縁が、とっさに、その肩を抱こうとして、手が、一瞬、頼りない感触の中に、沈みかけた。慌てて、力を弱めた。抱きしめることすら、もう、そっとしなければ、できないのだ。

 教室が、凍りついていた。

 怪異たちの動揺が、さざ波みたいに、広がった。「証を、失くした」「三つとも?」「探さねば」「どこで」「この広い校舎の」。模型と標本が、顔を見合わせた。花子さんが、スカートの裾を、握りしめた。教卓の上の怪王だけが、なぜだか、じっ、と、黙って、泣いているサキを、見下ろしていた。

 ――と。

 窓の外で。

 何かが、動いた。

 縁は、見た。校庭の、いちばん遠い隅。月明かりの届かない、杉林との境の暗がりで。黒い、何かが。ずるり、と。

 それだけでは、なかった。夜の空気が、変わっていた。さっきまでの、賑やかで、あたたかい夜気に、いつの間にか、別のものが、混ざり始めていた。冷たい、鉄気のような。饐えたような。そして、じっとりと、こちらを、うかがうような。

 サキが、はっ、と、泣き顔を上げた。窓の外の、その気配のほうを、見た。透けかけた顔が、こわばった。

「……いけない」

 サキが、つぶやいた。

「サキが、うすくなったから。……この学校の、『かこい』が、ゆるんでる」

「かこい?」

「サキが、いるだけで、はれてたの。わるいものが、はいってこないように。子供が、あんしんして、あそべるように。……それが、いま、ゆるんで――」

 サキの言葉の、途中で。

 遠くの、廊下の奥の、そのまた奥の闇から。

 ――テケ。

 と。

 乾いた音が、ひとつ。

 した。


第十二章 牙

 テケ。

 ……テケ。テケ。

 乾いた、硬いものが、床を打つ音だった。骨と、板の音。それが、廊下の奥の、そのまた奥から、規則正しく、少しずつ、少しずつ、近づいてきていた。

 教室の空気が、変わった。

 最初に、それが分かったのは、怪異たちの様子からだった。

 人体模型が、口を開けたまま、固まった。あの、陽気で、騒がしい模型が、声も出さずに。骨格標本が、カタ、カタ、カタ、と、自分の意思ではない震えで、全身の骨を鳴らし始めた。歩き足が、飛び首の陰に隠れ、飛び首が、歩き足の陰に隠れようとして、二人でその場をぐるぐる回った。壁のベートーヴェンが、あの、豪胆な楽聖の額縁が、がた、がた、と、壁ごと震えていた。

 花子さんが、サキを、後ろから、ぎゅっと抱きしめた。抱きしめて、自分も、震えていた。

「……みんな、どうしたの」

 縁の問いに、誰も、答えなかった。答えられなかった。ただ、ベートーヴェンの震える視線だけが、廊下のほうを、指していた。

 テケ。テケ。テケ。

 音は、もう、同じ階の、廊下の角まで、来ていた。

「……サキちゃん」縁は、腕の中の座敷わらしに、聞いた。「あれも……サキちゃんが、起こした子、なの?」

 サキは、首を、激しく、横に振った。透けかけた顔が、紙みたいに白かった。

「ちがう。ちがうの。あれは、サキ、よんでない。ぜったい、よんでない。……あのね、学校にはね、たのしいうわさと、たのしくないうわさが、あるの。サキが起こしたのは、たのしいほう。みんな、あそぶために、いる子たち。でも――」

 サキの声が、震えた。

「はしゃぎすぎたの。サキたち、まいばん、まいばん、おおさわぎして。その音で……あけちゃいけない、ふたの、おくのほうまで、ひびいちゃった。……あれは、ちがうの。あれは、あそばない。あれは、ほんとうに、人を、とる」

 テケ。

 音が、止まった。

 廊下の角。教室の戸口から見える、月明かりの廊下の、突き当たり。

 そこに、それは、いた。

 ――女、だった。

 いや、女の、上半分、だった。

 長い髪が、顔をすっぽりと覆って、垂れていた。白い、病衣のようなものを着た上体が、床に、直接、置かれていた。腰から下が、なかった。すっぱりと、なかった。切断面は、髪と闇に紛れて見えなかったが、「ない」ことだけは、月明かりの中で、あまりにも、はっきりしていた。

 両の肘が、鎌の切っ先のように、床に、突き立てられていた。

 それは、動かなかった。ただ、そこに、置かれたように、いた。動かないことが、これほど怖いものだと、縁は、知らなかった。花子さんの怖さとも、模型の怖さとも、まるで、違った。あれらの怖さは、こちらを驚かせるための、いわば、差し出された怖さだった。これは、違う。これは、こちらのことなど、驚かせる気もない。ただ、狩る気配だけが、あった。

「……テケテケ」

 縁の唇が、勝手に、その名を、かたちにしていた。図鑑の記述が、氷水になって、背骨を流れ落ちた。両肘で這い、時速百数十キロで追う。追いつかれれば、下半身を、刈られる。同じ姿に、される。

 髪の奥で。

 ぎょろ、と。

 二つの目が、動いた。

 血走った白目。その中の、黒い点のような瞳が、教室の、こちらを、見た。正確には、縁を、見た。子供を、見た。

 ――ぎ、ち。

 と、テケテケの肘が、床板を、掴んだ。

「――――走れェッ!!」

 叫んだのは、父だった。

 叫ぶのと、テケテケが、来るのとが、ほとんど同時だった。

 速い。

 速い速い速い。冗談みたいに、速かった。テケテケテケテケテケテケッ!! と、乾いた連打音が、廊下を埋め尽くし、髪を振り乱した上半身が、両腕だけで、廊下を、滑るように、突っ込んできた。その速さは、生き物の速さではなかった。投げられた石の速さだった。

 父の体が、勝手に動いた。右腕で縁を抱え、左腕で、透けかけたサキを抱え、教室の後ろの戸から、廊下へ、転がり出た。

 ――一瞬、膝が、崩れた。

 恐怖で、腰が、抜けかけたのだ。廊下に、がくん、と膝をついた。三回目、と数える余裕は、誰にもなかった。

「立ってッ!!」

 縁の悲鳴が、父の背骨に、火を入れた。

 父は、立った。膝の震えごと、ねじ伏せて、立った。立って、走った。四十三年の人生で、いちばん速く、走った。娘と、座敷わらしを、両脇に抱えたまま。

「階段!! 階段に走って!!」縁が、父の腕の中で、叫んだ。「テケテケは、階段が苦手なの!! 上れないの!! 図鑑に書いてた!!」
「ほんとだべなァ!?」
「たぶん!!」
「たぶんかよォォォ!!」

 背後で、テケテケテケテケッ!! と、音が、迫った。振り向いてはいけない。振り向いたら、足が、止まる。縁は、父の肩越しに、見てしまった。テケテケが、廊下の床を、髪を翻して、滑ってくる。速い。追いつかれる。あと五歩。三歩――

 階段が、目の前に、来た。

 父は、考えずに、飛び込んだ。一段目、三段目、五段目。二段飛ばしで、駆け上がった。そして、階段が、動いた。

 しゅん!! と、二人の背後で、一段目が、消えたのだ。二段目も。三段目も。父が駆け上がるそばから、階段は、下の段を、自分で引っ込めていった。追ってきたテケテケの肘が、あるはずの一段目を掴もうとして、空を、切った。

 ずだんっ!! と、テケテケが、階段下の床に、突っ込んだ。

「今のうち!! 上へ!!」

 階段は、二人を二階へ送り届けると、残りの段も、しゅんしゅんと引っ込めて、つるりとした急な坂に、変形した。テケテケが、坂に肘を突き立てようとして、滑った。がり、がり、と、爪が坂を掻く、嫌な音がした。上がって、こられない。

 ――上がっては、こられないが。

 去りも、しなかった。

 坂の下で、テケテケは、髪の奥の目で、じっ、と、二階の獲物を、見上げていた。がり。……がり。諦めの悪い爪の音が、続いていた。待つ気なのだ。降りてくるのを。夜が明けるまで、いくらでも。

「……に、二階の窓から、様子を」

 父が、渡り廊下の窓に、張りついた。そして、うめいた。

「……おい。……嘘だべ」

 縁も、窓に、駆け寄った。

 校庭に、白いものが、いた。

 月光の、銀色の草の海を、白い着物の女が、滑るように、旋回していた。長い黒髪。ありえない速さ。その顔の、口もとのあたりが、耳の下まで、黒く、裂けて見えた。女は、校舎の周りを、回っていた。ぐるり。ぐるり。出口を、ふさぐように。

 それだけでは、なかった。校門の外の、闇。杉林の、境目の、闇。そこかしこに、いくつもの、名前の分からない気配が、湧いて、渦を巻いていた。ぬめりとした、飢えた視線が、校舎に、幾重にも、絡みついていくのが、肌で分かった。

 ――囲まれている。

「サキちゃんの、囲いが、破れかけてるのよ」

 花子さんが、泣きそうな声で、言った。

「この学校はね、ずっと、守られてたの。サキちゃんが、いてくれるだけで。福の神さまが、真ん中にいる場所には、悪いものは、入れないの。子供が、安心して、遊べるように。……その囲いが、いま、サキちゃんと一緒に、薄くなってる。だから、外のものが……昔、この山にいた、よくないものたちが、みんな、気づいて、集まってきてる」

 サキは、父の腕から降ろされて、廊下に、ぺたんと、座り込んでいた。もう、腰から下が、ほとんど、月明かりに透けていた。

「……ごめんなさい」サキが、消え入りそうな声で、言った。「サキの、せいだ。サキが、はしゃぎすぎたから。あかしを、なくしたから。みんなを、あぶないめに……ごめんなさい、ごめんなさ――」

「謝るのは、後!!」

 縁の声が、廊下に、響いた。

 自分でも、驚くほど、大きな声だった。怖くなかったわけではない。怖かった。膝は、さっきから、笑いっぱなしだった。階下からは、がり、がり、と爪の音がして、窓の外には、裂けた口が回っている。泣いて、うずくまってしまいたい気持ちは、喉元まで、来ていた。

 でも、頭の芯だけが、変に、冷えていた。

 十二冊の図鑑と、この十日の夜と、目の前で消えかけている友達とが、縁の中で、一本に、繋がろうとしていた。

「整理する。いい? サキちゃんが元に戻れば、囲いも戻る。囲いが戻れば、外の悪いものは、入ってこられない。サキちゃんが戻るには、三つの証がいる。学校の名前。学校のうた。学校のしるし。――そうだよね?」

 サキが、涙目のまま、こく、と、うなずいた。

「でも、サキちゃんは、思い出せない。頭に靄がかかってるから。……だったら」

 縁は、言った。

「『思い出す』のは、こっちがやる」

 教室の怪異たちが、縁を見た。父が、縁を見た。

「サキちゃんに、思い出させる必要は、ないんだよ。名前も、うたも、この世から消えたわけじゃない。この校舎の、どこかに、まだ、残ってる。書いたもの。刷ったもの。……それを、見つけて、サキちゃんに、届ければいい。名前は、読み上げればいい。うたは――」

 縁は、父を、見上げた。

 まっすぐに。

「――ねえ。校歌、うたって」

 父の目が、見開かれた。

「……お、おれが? い、いや、待て、縁。父さん、歌詞、出てこねえって。二行目から、霧の中だって」

「手がかりを、探すの。楽譜。卒業アルバム。どこかに、歌詞が残ってる。それを見れば、思い出せる。六年間、何百回もうたったんでしょ。体が、覚えてるはずなんだよ。それに――」

 縁は、階下の爪の音と、窓の外の白い影とを、順に、睨んだ。

「――この学校の卒業生、いま、ここに、一人しか、いないんだよ。校歌を、取り戻せるのは、その人だけなの。……ねえ。お願い」

 父は、娘の顔を、見た。

 まっすぐに、自分を見上げる目。逃げ道を、ふさぐ目。頼る、というより、託す目だった。おまえならできる、と、決めてかかっている目だった。

 ――何年ぶりだろうな、と、父は、場違いにも、思った。この目で、見られるのは。

 映画をすっぽかしたあの朝から、娘は、父に、何も、期待しなくなった。期待されない、というのは、楽で、そして、死ぬほど、寒いことだった。その寒さに、慣れたつもりでいた。慣れてなど、いなかった。

 父の、震えていた膝から、震えが、引いていった。代わりに、腹の底に、硬くて熱いものが、据わった。

「……分かった」

 父は、言った。

「探すぞ。楽譜と、アルバムと、名前の書いてあるもんだ。手分けは、しねえ。危ねえからな。固まって、動く。それから――」

 父は、廊下の隅を、見た。

 そこに、塵塚怪王が、いた。騒ぎのあいだじゅう、妙に、静かだった。他の怪異たちと一緒に震えるでもなく、教卓の上から降りて、廊下の隅で、じっと、何かを考えるように、座っていた小さな王を、父は、まっすぐに、見た。

「――怪王。おまえに、頼みがある」

 怪王の、ビー玉の目が、上がった。

「おまえ、忘れ物の王、なんだべ。この校舎の、どこに、何がしまわれてるか。古い書きつけの、ありそうな場所。……誰よりも、知ってるはずだ。案内してくれ。頼む」

 頼む、と、父は、頭を下げた。大人が、三十センチのガラクタの塊に、本気で、頭を下げた。

 怪王は、しばらく、ぽかんと、していた。

 それから、慌てて、ずり落ちかけた冠を直し、精一杯、ふんぞり返った。

「な……なぜ我が、貴様の頼みなど……ま、まあ? 王は、民を導くもの、であるからして? 困った人間を見捨てるのも、王の沽券に、関わるからして? ……ふん! よかろう! 特別である! 特別に、導いてやる! ついてこい!」

 早口だった。嬉しさを隠すには、あまりにも、早口だった。

 怪王は、ころり、と、廊下の先へ、転がった。先頭に、立った。生まれて初めて、誰かに「頼む」と言われた小さな王は、その小さな体で、精一杯、胸を張って、夜の廊下を、先導し始めた。

 階下で、がり、と、爪の音がした。

 窓の外で、白いものが、旋回していた。

 逃げながら、探す夜が、始まった。


第十三章 三つの証

「――音楽室である!!」

 先頭を転がりながら、怪王が、叫んだ。

「うたの書きつけなら、まず音楽室!! オルガンの椅子の中!! あそこは物入れになっておる!! 二十五年前、音楽の教師が、楽譜の束を、しまい込んだまま去りおった!! 我は見ておったぞ!!」

「よし!! 音楽室!!」

 一行は、走った。父と、縁と、透けかけたサキと、先導の怪王。他の怪異たちも、それぞれの持ち場で、援護についた。歩き足と飛び首が、先回りして角の安全を確かめ、「こっち、大丈夫です!」と首が叫んだ。

 音楽室に、転がり込んだ。父が、オルガンの椅子の座面を、がば、と開けた。

 あった。

 黄ばんだ、楽譜の束。埃をかぶって、湿気で波打って、それでも、確かに、そこにあった。父が、震える手で、めくった。「春の小川」。「ふるさと」。「もみじ」。――そして。

「……あった!! 『校歌』!! これだ!!」

 手書きの、ガリ版刷りの、一枚。五線譜の上に、音符が、几帳面に並んでいた。父の目が、その下の、歌詞の欄に、走った。

 走って、止まった。

「…………読めねえ」

 歌詞の欄は、長年の湿気で、青いインクが、滲んで、流れて、溶け合っていた。ところどころ、「杉」「空」「川」らしき字の残骸は、拾えた。でも、文章としては、もう、読めなかった。二十五年ぶんの湿気が、言葉を、溶かしてしまっていた。

「そんな……」

 縁が、楽譜を覗き込んだ、そのとき。

 ――テケテケテケテケッ。

 乾いた連打音が、聞こえた。近い。渡り廊下だ。階段を封じられたテケテケが、校舎の反対側から、渡り廊下を回り込んで、二階に、上がってきたのだ。

「知恵が回るのかよ、あいつ!!」
「アルバムである!!」怪王が叫んだ。「卒業アルバム!! あれの最後の頁には、校歌が刷ってある!! 図書室の、奥の書架!! 歴代ぜんぶ、揃っておる!!」
「図書室!! 走れ!!」

 廊下に、飛び出した。図書室は、廊下の反対側の、突き当たりだ。走った。窓の外を、白いものが、並走した。

 ――口裂け女だった。

 校庭を回っていた白い着物が、二階の窓の高さまで、ふわりと、上がってきていた。窓ガラス一枚を隔てて、それは、走る縁と、並んで、滑った。長い黒髪の隙間から、マスクをした顔が、こちらを、見た。そして、ガラス越しに、くぐもった声が、した。

「――ワタシ、キレイ?」

 答えては、いけない。「きれい」と言えば、「これでも?」とマスクを外される。「きれいじゃない」と言えば、その場で刻まれる。二択は、どちらも、死。――でも、黙るのも、だめだ。黙れば、追ってくる。

 図鑑のページが、めくれた。第三の答え。この怪異には、ひるむ言葉が、ある。

 縁は、走りながら、窓に向かって、腹の底から、叫んだ。

「――ポマード!! ポマード!! ポマード!!」

 窓の外の白い影が、びくり、と、痙攣した。滑走の軌道が、ぐらりと、乱れた。「ポマード」。口裂け女が、なぜだか、ひるむとされる、呪文。三回、重ねる。白い影は、耳を押さえるような仕草をして、窓から、すうっと、離れていった。

「……き、効いた」父が、走りながら、目を剥いた。「ほんとに効くのかよ、あれ」
「効いた!! 図鑑、正しかった!!」

 図書室に、飛び込んだ。戸を閉め、本棚を、一つ、みんなで押して、戸の前に、倒した。ばん、ばん、と、すぐに、戸が外から叩かれ始めた。テケテケが、追いついたのだ。本棚が、がた、がた、と揺れた。

「アルバム!! 奥だ!!」

 書架の奥の、いちばん下の段に、それは、並んでいた。臙脂色の、布張りの、卒業アルバム。背表紙に、金の箔押しで、年度が入っている。何十冊も。この学校の、百年ぶんの、子供たち。

「父さんの年は……平成のはじめのころ……これか!? いや、これは一つ上だ……これだ!!」

 父が、一冊を、引き抜いた。埃が、舞った。床に置いて、開いた。色褪せた、集合写真のページが、続いた。一年生。二年生。……六年生。

「……あ」

 縁が、声を、漏らした。

 校庭で撮った、集合写真。二列に並んだ、坊主頭とおかっぱの子供たち。その、前列のいちばん端で、一人だけ、腕を組んで、ふんぞり返っている少年がいた。膝小僧に、大きなかさぶた。生意気な、目。

 ――じいちゃんの家の、引き出しの、あの写真と、同じ顔だった。

「……若えな、おれ」

 父が、ぽつりと言って、ページを、めくった。寄せ書きのページ。行事写真のページ。そして、最後の、ページ。

 そこに、印刷されていた。

 『校歌』。

 三番までの歌詞が、古い活字で、きっちりと、組まれていた。インクは、褪せていたが、読めた。全部、読めた。

 戸を叩く音が、激しくなった。本棚が、みし、と鳴った。時間が、なかった。

 父は、アルバムを、両手で、持ち上げた。歌詞を、目でなぞった。一行目。『杉の梢に 青空高く』。……そうだ。ここまでは、覚えていた。二行目。霧の中だった、二行目。『光をあつめて 川は走る』。

 ――ひかりをあつめて、かわははしる。

 その一行が、目から入った瞬間。

 父の中で、三十年ぶんの霧が、晴れた。

 喉の奥から、勝手に、音程が、立ち上がってきた。楽譜なんか、見なくても。そうだ。この音だ。この、上がって、下がって、伸ばす、この――

 父は、うたい始めた。

「――杉の、こずえに、あおぞら、たかく――」

 最初の一小節は、かすれていた。喉が、覚えているものを、慌てて引っ張り出そうとして、つっかえた。でも、二小節目から、声が、据わった。

「――ひかりを、あつめて、かわは、はしる――」

 体が、覚えていた。

 三十年、うたっていなかった。忘れたと、思っていた。でも、六歳から十二歳までの六年間、毎朝、毎朝、体育館で、校庭で、この喉が、この体が、何百回も、通した歌だった。音程は、頭ではなく、喉に、胸に、腹に、刻まれていた。歌詞さえ、目から入れば、あとは、体が、勝手に、うたった。

「――まなびや、ここに、ゆめ、はぐくみて――」

 と、そのとき。

 図書室の戸の外から、音が、重なった。

 オルガンの音、だった。

 のそのそと、四本の猫足で、廊下を歩いて、駆けつけてきたのだ。テケテケのいる廊下を、である。オルガンは、図書室の戸の外に陣取ると、父の歌に、和音を、合わせ始めた。あの、毎晩、毎晩、つっかえながら練習していた曲。

 ――校歌、だったのだ。

 オルガンが、二十五年間、たった一人で、忘れまいと、練習し続けていた曲は。誰にもうたわれなくなった校歌を、せめて自分だけは、と、鍵盤に、刻み続けていたのだ。今は、もう、どこも、つっかえなかった。完璧な、伴奏だった。壁を滑って、ベートーヴェンの額縁も、駆けつけた。楽聖は、満足げに眉を上げ、額縁の中で、両腕を、振り上げた。指揮だった。

「――あおげば、そびえる、おがのやま――」

 父の声が、太くなった。伴奏を得て、歌は、歌になった。図書室を満たし、戸の隙間からあふれ、廊下を渡り、階段を降り、校舎の隅々へ、流れていった。うまくは、なかった。ところどころ、音は外れた。でも、その声は、まっすぐだった。三十年前の朝礼の、六歳の達也の声と、四十三歳の達也の声が、重なって、響いた。

 ――そして。

 サキの、足首から先が、ふ、と、輪郭を、取り戻した。

「……あ」

 サキが、自分の足を、見下ろした。透けて、床が見えていたつま先が、ちゃんと、そこに、あった。それから、サキは、胸を、押さえた。喉の奥から、何かが、こみ上げてくるのが、分かる、というふうに。

「……この、うた」

 サキの口が、震えながら、開いた。

「おぼえてる……サキ、おぼえてる……! まいあさ、みんなと……たいいくかんで、ならんで……!」

 そして、二番から。

 サキが、うたった。

 父の声に、ちいさな声が、重なった。歌詞は、サキの中に、戻ってきていた。うたわれることで、歌が、歌を、連れて帰ってきたのだ。おかっぱの座敷わらしと、四十三歳の卒業生が、テケテケに戸を叩かれながら、深夜の図書室で、声を合わせて、校歌を、うたった。オルガンが、伴奏した。ベートーヴェンが、指揮をした。花子さんが、涙ぐみながら、手拍子をした。

 ――一つ。

 証の、一つが、戻った。

「次!! 名前!!」歌い終わるのを待たず、縁が、叫んだ。「学校の、正式な名前!! 文字で残ってるやつ!! 賞状!! 卒業証書!! 表彰状!! なんでもいい!!」

「職員室である!!」怪王が、応じた。「校長室との境の壁に、額がずらり掛かっておった!! 農協の書道コンクール、健康優良学校、なんとか記念植樹、どれかに、正式名が墨書きしてあるはず!!」

「職員室は一階だぞ!? 下、あいつが――」

 父が言い終わる前に、戸を叩く音が、止まった。

 テケテケテケテケッ、と、連打音が、遠ざかった。回り込む気だ。一階へ。先回りする気なのだ。こちらの行き先を、聞いていたのだ。

「急げ!! 競争だ!!」

 本棚をどけ、廊下へ出て、階段を駆け降り、職員室へ、走った。滑り込んで、戸を、閉めた。閉めた、その一秒後。

 どがんっ!!

 と、戸が、外から、殴られた。

 間に合われた。テケテケが、戸の向こうに、いた。どがん。どがん。木の引き戸が、一撃ごとに、みしみしと、悲鳴を上げた。長くは、もたない。

「額!! 探して!!」

 みんなが、壁に飛びついた。埃をかぶった額が、五つ、六つ。父が一つずつ、外しては、月明かりに、かざした。「『健康優良校』……男鹿沢小学校としか書いてねえ!! 『植樹記念』……達筆すぎて読めねえ!!」。どがんっ!! 戸が、たわんだ。蝶番が、一つ、弾け飛んだ。

 ――と。

 窓の外で、ざっ、と、重い足音がした。

 巨きな影が、月を、背負って、立った。

 二宮金次郎、だった。

 校庭を走っていた石像が、いつの間にか、職員室の外まで、来ていた。金次郎は、割れた窓から、のそり、と、校舎の中へ、入ってきた。そして、薪を背負い、本を開いたまま、たわむ戸の内側に、どしん、と、背中を、つけた。

 どがんっ!! と、次の一撃が、来た。

 戸は、びくとも、しなかった。

 金次郎の背中が、戸を、完全に、受け止めていた。石像は、衝撃に、眉ひとつ動かさず、本から、目も上げず、ただ、そこに、立っていた。どがん。どがん。どがんっ!! テケテケの連打が、続いた。金次郎は、動かなかった。ページを、一枚、めくった。読みながら、守っていた。

「……金次郎」

 父が、その背中を、見た。

 休まず。よそ見をせず。誰に頼まれたのでもなく。任された場所を、黙って、守り抜く。石の背中は、語らなかった。語らないまま、うたうように、告げていた。走り続けることは、無駄ではない。積んだものは、いつか、誰かの、盾になる。

 父の目の奥が、熱くなった。おれの三十年も、と、思った。無駄じゃ、なかったんだろうか。ぐるぐる走り続けた、あの年月も、いつか、誰かの、こいつの、盾に。

「ぼーっとしない!! 額!! 早く!!」
「お、おう!!」

 感傷は、三秒で、切り上げられた。父は、最後の額に、飛びついた。いちばん高いところの、いちばん古い額。埃を、袖で、ぬぐった。ガラスに、ひびが入っていた。中の紙は、飴色だった。でも、墨の字は、太く、濃く、生きていた。

明治の、公文書だった。旧い字が、上から下へ、堂々と、並んでいた。父が額を下ろし、縁が、両手で、受け取った。ずしりと、重かった。百三十七年の重さだった。縁は、月明かりに、それを、かざした。読めない字が、いくつもあった。でも、いちばん太い、その一行――

「お、が……男鹿、澤(さわ)……じん……じょう……?」

「尋常(じんじょう)だ!!」父が、叫んだ。「尋常小学校!! 明治の学校は、みんな、そう名乗ってた!! じいちゃんが言ってたのは、これだ!! 『おれの親父は、尋常小学校さ通った』って!! ……それだ、縁!! それが、この学校の、最初の名前だ!!」

 ――男鹿澤尋常小學校。

 この学校が、生まれたときに、もらった名前。名乗る者も、呼ぶ者も、とうに絶えて、この一枚の灼けた紙の中だけで、眠っていた名前。

 縁は、額を、胸の高さに、掲げた。息を、大きく、吸った。戸の外の連打に、負けないように。頭の靄の、いちばん奥まで――百三十七年の、いちばん底まで、届くように。

 旧い字の、ひとつひとつを、間違えないように。声を、限りに、読み上げた。

「――男鹿澤(おがさわ)!! 尋常(じんじょう)!! 小學校(しょうがっこう)ォォ!!」

その瞬間。校舎が、鳴った。

 みし、とか、ぴし、とか、そんな音では、なかった。ずうん、と、腹に響く、深い、大きな一鳴りだった。柱という柱、梁という梁、床板の一枚一枚までが、いっせいに、震えたのだ。まるで、長いあいだ忘れられていた自分の名前を、呼ばれた犬が、全身で、跳ね起きるみたいに。

 校庭の、校門で。誰も見ていなかったが。門柱にへばりついていた苔が、はらり、はらり、と、剥がれ落ちて、その下から、彫られた文字が、月光に、白々と、浮かび上がった。

 『男鹿沢小学校』。

 二十五年ぶりに、学校が、名乗りを、取り戻した。

 そして、サキの体に、色が、戻った。

 透けていた腰から下に、輪郭が。褪せていた赤いスカートに、鮮やかな、赤が。頬に、りんごの赤みが。サキは、自分の両手を、開いて、閉じて、それから、顔を、くしゃくしゃにした。

「なまえ……!! サキの、学校の、なまえ……!! さいしょの、なまえ……!! おがさわ、じんじょう、しょうがっこう!! サキ、うまれたときから、ずうっと、その子だったんだよ……!!」

 ――二つ。

 二つ目の証が、戻った。

 戸の外の連打が、忌々しげに、一度、止まった。校舎の変化を、感じ取ったのだ。囲いが、少し、締まったのを。

「あと一つ!!」縁が、叫んだ。「校章!! サキちゃんが胸につけてた、しるし!! 桜と杉の!! それさえ、見つければ――」

 ――そこで。

 誰もが、同じことに、気づいて、止まった。

 名前は、額の中に、あった。うたは、アルバムの中に、あった。文字は、探せば、見つかる。読めば、届く。

 でも、校章は――「物」だった。

 小さな、金属の、徽章。数センチの。それが、この、二階建て、教室十いくつ、百年ぶんの物であふれた校舎の、どこかの、二十五年ぶんの埃の、下に。

 窓の外で、口裂け女の白が、また、旋回を、速めた。戸の外で、爪の音が、再開した。夜明けまで、あと、二時間もなかった。

「……探すって……どこから……」

 誰かの、その呟きに、答えられる者は、いなかった。


第十四章 小さな王

 それでも、探さないという選択肢は、なかった。

 職員室から、捜索は、始まった。戸棚という戸棚を開けた。引き出しという引き出しを、ひっくり返した。机の下を覗き、ロッカーを開け、書類の山を崩した。埃が、もうもうと舞った。金次郎が戸を守ってくれているあいだ、怪異たちも、総出で、探した。花子さんが、小さな手で、棚の奥をまさぐった。歩き足が、机の下という下を、蹴って回った。飛び首が、天井近くの棚の上を、順に見ていった。人体模型が、勢い余って自分の腕ごと棚に突っ込み、骨格標本が、細い指の骨を、床板の隙間に、差し込んで探った。

 ――ない。

 職員室に、なかった。校長室にも、なかった。廊下の遺失物箱。中身は、鉛筆三本と、赤白帽が一つ、そこにも、なかった。

 教室を、一つずつ、当たった。一年生の教室。二年生の教室。机の中。教壇の中。掃除用具入れ。オルガンの、足踏みの、蛇腹の隙間まで。

 ない。ない。ない。

 時間だけが、削られていった。窓の外の空の黒が、ほんのわずか、藍色に、緩み始めていた。夜明けが、近い。戸の外では、テケテケの爪の音が、飽きもせず、続いていた。がり。がり。囲いのほころびから入り込んだものは、夜のあるかぎり、去らない。そして、夜が明けたとて、証が三つ揃わなければ、サキは。

「……ないよう……」

 三年二組の教室で、花子さんが、とうとう、その場に、へたり込んだ。

「ない……どこにも、ない……こんなの、こんなの、砂浜で、針を探すみたいなものよ……! こんな広い学校、誇りまみれで、こんな中からバッチ位の大きさの校章なんて……! 一晩で見つかるわけ、ない……!」

 誰も、慰めの言葉を、持たなかった。事実だったからだ。

 サキの輪郭が、また、揺らぎ始めていた。

 名前と、うたは、戻った。二つの証は、サキの中で、確かに、灯っていた。でも、証は、三つで、一つ、なのだった。三本の脚の、椅子なのだった。二本では、立てない。取り戻した名前とうたが、三つ目のないまま、サキの中で、少しずつ、また、こぼれ始めているのが、見て分かった。せっかく戻った色が、指先から、また、薄れていく。

「……ゆかりちゃん」

 サキが、笑った。笑おうと、した。

「……もう、いいよ。じゅうぶん。なまえと、うた、かえしてもらえたもん。サキ、うれしかった。……もう、いいの。みんな、あぶないから、あさになったら、はやく、ここを――」

「よくない!!」

 縁は、叫んだ。

「よくないよ!! 二つじゃ、だめなんでしょ!? 消えちゃうんでしょ!? なにが、もういいの!!」

 叫んで、それから、縁は、自分の無力さに、突き当たった。

 ――探せないのだ。

 名前は、読めばよかった。うたは、父の体の中にあった。文字と記憶は、人間の側に、取り戻す力があった。でも、物は。埃の下の、小さな物は。人間の目と、人間の手には、限界があった。十二冊の図鑑にも、物のありかは、書いていない。あんなに頼りになった知識が、最後の最後で、何の役にも、立たない。

 目の奥が、熱くなった。歯を、食いしばった。泣いたら、負けだ。でも、涙は、理屈を聞いてくれなかった。ぽろ、と、一粒、埃だらけの床に、落ちた。

 教室が、静まり返った。

 戸の外の、がり、がり、という音と、遠くの口裂け女の気配だけが、夜の底に、あった。万策が、尽きていた。

 ――その、とき、だった。

「……何を、騒いでおるか」

 小さな、小さな声が、した。

 みんなが、振り返った。

 教室の後ろの、掃除用具入れの前に、塵塚怪王が、立っていた。

 ひどい姿だった。アルミ皿の冠は、ひしゃげて、あさっての方向を向いていた。埃の体は、そこかしこが、すり減って、痩せて見えた。誰よりも、探し回っていたのだ。案内役として、先頭を転がり続け、戸棚という戸棚に、その小さな体ごと、頭から突っ込み続けて。今も、体のあちこちから、探索で拾った蜘蛛の巣を、ぶら下げていた。

 怪王は、へたり込んだ一同を、ゆっくり、見回した。それから、言った。

「探し物、と言ったな。……もう一度、聞く。何を、探しておる」

「……校章、なの」縁が、涙を、袖でぬぐって、答えた。「桜と杉の、ちいさな徽章。この校舎のどこかにあるはずなんだけど……埃と、忘れ物に埋もれて、どこにあるのか、もう、探しようが……」

「――埃と、忘れ物」

 怪王は、その言葉を、ゆっくりと、繰り返した。

 噛みしめるように。確かめるように。

 埃と。忘れ物。

 ……そのときだった。

 教室の真ん中で、へたり込んでいたサキが、顔を、上げた。

 まっすぐに、教室の後ろの、その、小さな、みすぼらしい王を、見た。

 そして、立ち上がった。透けかけた足で。ふらつきながら。とん、……とん、……と、教室を、横切って、怪王の前まで、歩いていった。みんなが、見ていた。何が始まるのか、誰にも、分からなかった。

 サキは、怪王の前で、止まった。

 それから、その場に、すっ、と、正座を、した。

 埃だらけの、床の上に。膝を揃えて。背すじを、伸ばして。

 両手を、床に、ついた。

 そして、深々と、頭を、下げた。

「――ちりづか、かいおう、さま」

 誰も、聞いたことのない、声だった。

 いつもの、遊び友達の、はずんだ声では、なかった。もっと古くて、もっと静かで、もっと重い、百年、この学校を見守ってきた、神様の、声だった。

 怪王の、ビー玉の目が、まん丸に、なった。

「な……なな、なんだ小娘、いきなり、何を――」

「あたし、ずっと、見てました」

 サキは、頭を垂れたまま、続けた。

「あなたが、うまれるまえから、見てました。学校が、しまって、みんなが、ねむって、わすれものと、ほこりだけが、のこって……その、ほこりが、すこしずつ、あつまって、かたちになって、あるひ、めをあけたの。ちいさな、ちいさな、あなたが。……あたし、うれしかった。ひとりぼっちの学校に、あたらしい子が、うまれたんだもの」

 怪王が、固まった。

「それから、なんねんも、なんねんも、ずうっと、見てました。あなたが、まいばん、だれにもひろわれない、かたっぽの上ばきに、はなしかけてたの。『さびしいなあ。おまえも、さびしいなあ』って。すてられたぞうきんを、そっと、たたんで、ならべてたの。ばらばらの画びょうを、ひとつずつ、ひろいあつめて、『わすれられても、なくなったわけではないぞ』って、言ってたの。……ほこりのやまを、『これは我が民の城である』って、まもってたの」

 怪王の、小さな体が、震え始めた。

「みんなは、知らない。あなたのこと、笑ってた。ちっちゃい、よわい、王さまごっこだって。ごうれいをかけても、だれもこないって。……でも、あたしは、知ってる。この校舎の、わすれものは、ほこりの一つぶ、かみくずの一まい、おれたクレヨンの一本まで、ぜんぶ、ぜんぶ、あなたの、たみです。あなたは、なのってるだけの王さまじゃない。あなたは、ほんものの、ほんものの――」

 サキは、顔を、上げた。

 涙で濡れた、まっすぐな目で、小さな王を、見た。

「――塵の、王さま、です」

 教室の誰も、動けなかった。父も、縁も、花子さんも、模型も、標本も、息をするのを、忘れていた。

「塵塚怪王さま」

 サキは、両手を、床についたまま、言った。

「あなたなら、この学校の、すべてを、探せる。わすれられた物のなかから、わすれられた物を、見つけだせる。それは、この世で、あなたにしか、できないこと。……だから、おねがいします」

 そして、サキは、言った。

「――王として、めいれいしてみて。あなたの、たみに。あなたの、王国に」

 しん、と、した。

 戸の外の、爪の音さえ、その一瞬、遠のいた気がした。

 怪王は、震えていた。

 小さな、埃の体が、ぶるぶると。ひしゃげた冠が、かたかたと。

 それは、恐怖では、なかった。

 生まれてから、ずっと、ずっと、待っていた言葉だった。誰にも家来になってもらえなかった。号令をかけても、誰も来なかった。笑われて、摘ままれて、こき使われて、それでも、意地で、名乗り続けてきた。「王」と。なぜ名乗り続けたのか、自分でも、分からなかった。名乗るのを、やめたら、自分が、何なのか、分からなくなりそうだったから。ただの、ゴミの塊に、なってしまいそうだったから。

 その、名乗り続けた「王」の名を。

 いま。

 生まれて初めて。

 誰かが、神様が、本気で、呼んだ。

 畳に手をついて。頭を下げて。「王として」と。

 怪王は、ぐし、と、目もとを、ちいさな腕で、ぬぐった。一回だけ。それから、ひしゃげたアルミ皿の冠を、両手で、持ち上げて、ゆっくり、まっすぐに、直した。ずり落ちないように。きゅっ、と。

 背すじが、伸びた。三十センチの背すじが、天井まで届くかと思うほど、伸びた。

 怪王は、深く、深く、息を、吸った。

 そして、その、開校以来百十二年の、この校舎の、柱の芯まで、床板の裏まで、屋根裏の梁の一本一本にまで、届けとばかりに――

 ――吼えた。

「――我が、民よォォォォッッ!!」

 校舎が、びりびりと、震えた。

「聞けェェッ!! 我は、塵塚怪王!! 塵、積もりて成る、忘れられし者たちの、王であるッッ!!」

 その声は、もう、震えていなかった。

「二十五年の長きにわたり、よくぞ、眠りに耐えた!! よくぞ、消えずに、在り続けた!! 誰にも顧みられず!! 誰にも拾われず!! 名も呼ばれず!! それでも、この学び舎の隅で、埃をかぶって、在り続けた、我が、忠実なる、民よ!!」

 短い両腕が、天井を、突いた。

「いまこそ、その眠りを、解くときぞ!! 我が友のため!! 我らが学び舎のため!! そして、待ちに待った、この号令のために!! 総員、ッッ!!」

 怪王の声が、夜の校舎を、貫いた。

「――目覚めよォォォォォッッ!!!」

 ――一秒の、静寂。

 そして。

 校舎の、いちばん深いところで。

 がしゃあああああんっっ!!!

 と、何かが、応えた。


第十五章 百鬼夜行

 がしゃあああああんっっ!!!

 校舎のいちばん深いところ、給食室から、銀色の音が、夜を、割った。

 積み上がっていた、アルミ食器の塔が、崩れた音だった。だが、それは、崩壊の音では、なかった。目覚めの音だった。崩れた深皿が、浅皿が、先割れスプーンが、お玉が、しゃもじが、床に散らばる寸前で、宙に、留まった。留まって、渦を、巻き始めた。何十、何百という銀の食器が、月明かりを弾きながら、給食室の闇の中で、旋回し、引き合い、組み上がっていった。

 深皿が、連なって、鎧の札(さね)になった。寸胴鍋が、胴を成した。巨大なしゃもじとお玉が、交差して、背中の得物になった。そして、いちばん大きな鍋の蓋が、兜になった。

 高さ二メートルの、銀色の武者が、給食室の闇から、立ち上がった。

 武者は、教室まで、廊下を、がしゃん、がしゃん、と踏み鳴らして進み、戸口をくぐり、小さな王の前で、片膝をついた。

 雷のような声が、名乗った。

「――食器付喪(しょっきつくも)、一番隊!! 瀬戸大将(せとだいしょう)、ただいま、推参!! 王よ!! 二十五年ぶり、いや、生まれて初めての、まことの号令!! しかと、承ったァァッ!!」

 怪王が、ぽかん、と、口を開けた。

「せ……瀬戸、大将……? き、貴様、我の民で、あったのか……?」

「何を今さら!!」武者は、兜の下で、呵々と笑った。「王が毎晩、厨(くりや)の食器に『冷えるな、風邪をひくな』と声をかけて回っておられたこと、我ら一同、鍋の底で、ぜんぶ、聞いておりましたぞ!! ただ、号令が、なかった!! 民は、王の号令なくば、起てぬ!! 長の年月、待ち申した!! 遅いですぞ、王!!」

「お、遅いとは何だ、無礼な――」

 言い返す怪王の言葉は、続く音に、掻き消された。

 校舎じゅうが、起き上がり始めたのだ。

 昇降口で、傘立ての古い置き傘たちが、一本、また一本と、柄を鳴らして跳ね起き、一本足で、とん、とん、とん、と隊列を組んだ。体育館から、跳び箱が、一段、二段、三段と、自ら段を分解して、どどどど、と、それぞれ走ってきた。図書室の本たちが、いっせいに、ぱたたたた、と表紙を羽ばたかせ、何百羽の鳥の群れのように、廊下の天井を、埋めて飛んだ。掃除ロッカーから、モップと箒の一団が、柄を鳴らして整列した。壁の額縁たちが、壁面を、すす、す、と滑って集結した。教卓の日めくりカレンダーが、二十五年ぶんのページを、ぱらぱらぱらと自らめくりながら、跳ねてきた。

 そして、下駄箱から。

 あの、片っぽの、白い上履きが。

 ぴょこ。ぴょこ。ぴょこ。と、小さく跳ねて、やってきた。一足だけでは、なかった。校舎じゅうの、置き去りの上履きが、赤白帽が、体操着袋が、鍵盤ハーモニカが、絵の具セットが、忘れられた水筒が、百年ぶんの、忘れ物たちが、続々と、続々と、廊下に、あふれ出してきた。

 廊下が、埋まった。

 昨夜まで、いや、ついさっきまで、「家来は一人もおらぬ」と笑われていた、小さな王の前に。

 数えきれない軍勢が、月明かりの廊下に、整列していた。

 銀の武者を先頭に。傘の槍隊。跳び箱の重装歩兵。本の飛行部隊。モップの工兵。額縁の伝令。そして、最前列に、ぴょこん、と、あの片っぽの上履き。

 誰も、声が出なかった。

 縁は全身に鳥肌が立っていた。父は口を開けたまま、閉じることを忘れていた。花子さんも、模型も、標本も、ベートーヴェンさえ、額縁の中で目を見開いていた。

 ――ずっと、いたのだ。

 この王国は最初から、この校舎まるごとだったのだ。埃の一粒、忘れ物の一つ一つが、ぜんぶこの小さな王の民だった。誰も気づかなかった。民たち自身も半分眠っていた。そして王自身が、誰よりも王自身が、それを信じていなかった。信じさせてくれる者が、いなかったから。

 いちばん、呆然としていたのは、怪王だった。

 怪王は、整列した軍勢を、端から端まで、ゆっくり、ゆっくり、見渡した。ビー玉の目が、震えていた。それから、小さく、小さく、つぶやいた。

「……おった、のか。……我の民は……こんなに……こんなに、おったのか……」

「王よ!!」瀬戸大将の声が、飛んだ。「感慨は、のちほど!! 御下命を!! 民は、王の言葉を、待っており申す!!」

 怪王は、はっ、と、顔を上げた。

 ぬぐった。目もとを、一度だけ、ちいさな腕で。それから、ひしゃげた冠の位置を、確かめた。息を、吸った。

 そして、王は、命じた。

「――探し物で、あるッッ!!」

 声が、軍勢の上を、渡った。

「桜と杉の徽章!! ちいさき、金物、ただ一つ!! この学び舎の、埃という埃!! 隙間という隙間!! 床下!! 天井裏!! 棚の奥!! 我が王国の、すべてを、検めよ!! ――何としても、見つけ出すのだ!! 我らが座敷わらし殿の、たった一つの、帰り道である!!」

 短い腕が、振り下ろされた。

「――かかれェェェェッッ!!!」

 軍勢が、動いた。

 それは、捜索であり、掃除であり、祭りだった。

 傘の槍隊が、いっせいに開いて、天井板を、下から、とんとんとんと突き上げ、天井裏の埃を、あらためていった。本の飛行部隊が、書架の裏へ、床板の隙間へ、紙の薄さを活かして、するすると滑り込んだ。モップの工兵隊が、廊下という廊下を、教室という教室を、猛烈な速度で磨き上げ、二十五年ぶんの埃が、床から、剥がされていった。剥がされた埃は、ただ舞うのではなかった。埃の一粒一粒までが、王の民だった。埃は、竜巻になって、自ら渦を巻き、渦の中で、自分たち自身を、ふるいにかけた。金物か。金物ではないか。桜と杉か。違うか。

 瀬戸大将の食器兵たちは、お玉としゃもじを梃子にして、床板の隙間という隙間を、次々に、こじ開けていった。跳び箱の重装歩兵は、動かせるものをすべて動かし、動かせない棚は、段を組んで足場になり、飛び首と歩き足が、その足場を、上へ下へと検分して回った。日めくりカレンダーが、めくれるページで、風を送って、埃の渦を、誘導した。

 そして、あの片っぽの上履きは、下駄箱の、自分の棲家の、いちばん奥の奥を、ぴょこぴょこと、確かめていた。自分と同じ、忘れられた小さなもののことなら、自分がいちばん、よく分かる、というふうに。

 ――一方、外では。

 闇のものたちが、荒れた。

 校舎の変化を、囲いが、内側から、締まり直し始めたのを、感じ取ったのだ。今を逃せば、二度と入れない。テケテケの連打が、狂ったように激しくなった。金次郎の背中が受け止め続けていた職員室の戸が、ついに、上の蝶番ごと、弾け飛んだ。割れた隙間から、白い腕が、鎌のような肘が、ねじ込まれてきた。

 そして、廊下側の窓が、外から、割られた。

 がしゃん!! と、ガラスが散って、白い着物が、窓枠を越えて、廊下に、滑り込んだ。口裂け女だった。マスクの上の目が、廊下の奥の、消えかけた座敷わらしと、その隣の子供を、見た。

 まっすぐに、来た。

「――縁ッッ!!!」

 考えるより先に、父の体が、動いていた。

 縁とサキの前に、割り込んで、両腕を、広げた。武器も、何もなかった。あるのは、日曜大工で豆だらけになった両手と、震える膝だけだった。膝は、震えていた。盛大に、震えていた。逃げ出したいと、全身が、言っていた。

 でも、父は、退かなかった。

「……こ、来い」

 声も、震えていた。震えたまま、父は、言った。

「……この子らに、指一本、触れさせねえ。……通りてえなら、おれを、通ってからにしろ」

 白いものが、迫った。裂けた口が、マスクの下で、開くのが、見えた。縁は、父の背中越しに、それを見た。父の背中は、大きくて、震えていて、汗みずくで、生まれてから見た、どんな背中よりも、大きかった。

 白い腕が、振り上げられた。

「――お父さんっっ!!!」

 叫んでいた。半年ぶりに、その言葉が、縁の喉から、飛び出していた。意地も、バリケードも、あの春からの何もかもを、恐怖が、まとめて吹き飛ばした。あとになって、縁は、自分が何と叫んだのか、覚えていなかった。父だけが――両腕を広げたまま、その一言に、確かに撃ち抜かれた父だけが、生涯、覚えていることになる。

 ――どどどどどどっっ!!!

 横合いから、跳び箱の隊列が、突っ込んだ。

 一段、二段、三段、四段。分解した跳び箱たちが、体当たりの縦列となって、口裂け女を、廊下の壁際まで、押し込んだ。同時に、天井から、本の飛行部隊が、何百冊と舞い降りて、白い着物の周りに、壁を、円陣を、築いた。紙の壁は、刃を、通さなかった。百年ぶんの、子供たちが読んだ物語の壁だった。

 職員室では、弾けた戸の隙間からねじ込まれたテケテケの上体を、瀬戸大将が、正面から、受け止めていた。

「――客人よ!!」

 銀の武者は、暴れる白い腕を、鍋蓋の大盾で、いなしながら、雷の声で、しかし、どこか、静かに、言った。

「気は、済んだか」

 テケテケの動きが、一瞬、止まった。

「……おぬしも、忘れられた口であろう。語られなくなった、怖い噂の、成れの果てであろう。眠りの底で、幾年も、幾十年も、誰かに思い出されるのを、待っておったのであろう。……分かる。分かるとも。我らも、ついさっきまで、同じ、眠りの中におった」

 髪の奥の目が、ぎょろりと、武者を見た。

「だがな、客人。ここは、狩り場ではない。ここは、学び舎だ。子供の、笑う場所だ。おぬしの居場所は、ここには、ない。……だが、消えろとは、言わぬ」

 瀬戸大将は、盾を、下げた。

「――帰って、眠れ。眠って、待て。いつかまた、夜道で、おぬしの噂を、こわごわ囁く子らが、きっと戻る。この村に。この山に。……そのときまで、な」

 傘の槍隊が、いつの間にか、テケテケの周りを、囲んでいた。槍として、ではなかった。開いた傘たちは、ぽん、ぽん、と、やわらかく、床を突いた。ぽん。ぽん。ぽん。一定の、ゆっくりした、拍子で。それは、攻撃の音では、なくて、あやす音だった。眠れない子の背中を、とん、とん、と、叩く音だった。

 テケテケの、狂ったような力が、少しずつ、少しずつ、抜けていった。がりがりと床を掻いていた爪が、止まった。髪の奥の血走った目が、とろり、と、緩んだ。傘たちに、ぽん、ぽん、と送られながら、白い上体は、ずる、ずる、と、来た闇のほうへ、退いていった。窓の外の口裂け女も、本の壁に包まれるようにして、夜の底へ、沈むように、去った。校門の外に渦巻いていた名もない気配たちも、一つ、また一つ、ほどけて、山の闇へ、還っていった。

 ――おやすみ。もう、いいんだよ。おやすみ。

 誰が言ったのでも、なかった。校舎ぜんたいが、そう、うたっているみたいだった。

 そして。

「――王よォォォッッ!!!」

 校長室のほうから、瀬戸大将の声が、轟いた。

「開かずの物置!! 最奥に、唐櫃(からびつ)が、ござる!!」

 校長室の、奥の奥。「開かずの物置」と、教員たちにすら呼ばれていた小部屋の、いちばん奥に、それは、あった。黒ずんだ、木の、古い長持、卒業式の備品をしまう、唐櫃だった。錠前は、赤錆びて、鍵穴ごと、固まっていた。瀬戸大将が、お玉の梃子で試み、跳び箱が体当たりを試み、開かなかった。二十五年ものあいだ、誰にも開けられなかった箱だった。

 軍勢が、割れて、道を、あけた。

 その道を、小さな王が、ころ、ころ、と、転がって、進んだ。

 唐櫃の前に、立った。三十センチの体で。見上げるほどの、黒い箱を。

 怪王は、ひしゃげた冠を、直した。それから、小さな両手を、蓋の縁に、かけた。

 ――それは。

 誰も知らなかったが、遠い、遠い昔、一枚の絵に描かれた、彼の遠いご先祖の姿、そのままだった。唐櫃をこじ開ける、塵塚の王。百鬼夜行の絵巻の隅に、確かに描かれた、その姿、そのままだった。

「ふ――ぬ、ん!!」

 小さな体の、どこにそんな力があったのか。

 めき、と、木が鳴いて。

 錆びた錠が、弾け飛んで。

 二十五年間、閉ざされていた蓋が、開いた。

 中には、式典用の、白い布。折り畳まれた、紅白の幕。教員たちの、名札の箱。卒業証書の、丸筒の残り。……そして、それらの、いちばん上に。

 桜と、杉を、かたどった、小さな徽章が、ひとつ。

 いちばん上等な白布の、ど真ん中に、ちょこん、と置かれていた。埃ひとつ、かぶっていなかった。ここに来てから、まだ、数日なのだ。

 ――そうか、と、縁は、悟った。あの祝祭の夜。はしゃぎ回るサキの胸から、ちりん、と落ちて、廊下を転がっていった、小さなしるし。それを、この古い箱が、拾い込んだのだ。式典の宝物を守ることだけが役目だった、この律儀な長持は、転がってきた学校のしるしを、役目のとおり、いちばん大切な布の上に、しまい込んだ。そして、錆びついた自分の錠を、自分では、開けてやれなくなった。抱えたまま、誰かが気づいてくれるのを、暗がりで、ずっと、待っていたのだ。

 開かれた唐櫃の蓋が、きし、と小さく鳴った。安堵の、ため息みたいに。

 怪王は、それを、両手で、そっと、掬い上げた。

 頭上に、高く、高く、捧げ持った。

「――あったぞ」

 その、瞬間。

 怪王の体が、光った。

 埃が。紙くずが。折れたクレヨンが。錆びた画鋲が。光の中で、ほどけて、溶けて、そして、編み直されていった。膨れ上がった。三十センチが、一メートルに。一メートルが、二メートルに。ひしゃげたアルミ皿の冠は、黄金の、荘厳な冠に。灰色の埃の毛玉は、緋色の肌の、髭たくましい、堂々たる偉丈夫の姿に。

 百鬼夜行絵巻から、そのまま、抜け出てきたような、赤い、大きな、王が。

 そこに、立っていた。

 積もり積もった塵が、百年の時を経て、ついに、「成るべきもの」に、成った姿だった。

 軍勢が、いっせいに、その場に、ひざまずいた。瀬戸大将が、片膝をつき、しゃもじの得物を、高々と、掲げた。傘たちが、いっせいに開いて、礼をした。本たちが、床に降りて、表紙を伏せた。片っぽの上履きが、ちょこん、と、かかとを揃えた。

「「「――王に!! 栄え、あれェェェッッ!!!」」」

 校舎を揺るがす唱和が、夜明け前の空へ、突き抜けた。

 真の姿となった王は、その唱和の中で、少し、ほんの少しだけ、照れくさそうに、こほん、と咳払いをした。それから、ゆっくりと歩いて、廊下の、消えかけた小さな座敷わらしの前まで来ると、片膝を、ついた。

 大きな、大きな手のひらに、小さな徽章を、載せて。

 差し出した。

「――待たせたな、座敷わらし殿」

 深い、あたたかい声だった。

「そなたの証。我が王国より、確かに、見つけ出したぞ」

 サキは、涙でぐしゃぐしゃの顔で、その大きな手のひらを、見た。それから、王の顔を、見上げた。

「……ちりづかの、王さま」

「うむ」

「……りっぱに、なったねえ」

「……う、うむ。……な、泣くな。ほれ、早う、つけぬか」

 サキは、両手で、徽章を、受け取った。

 胸に、つけた。

 ――校名。校歌。校章。

 三つの証が。

 揃った。


第十六章 朝

 三つの証が揃った、その瞬間のことを、のちに縁は、うまく言葉にできない。

 光った、というのとも少し違う。鳴った、というのとも違う。強いて言えば、校舎が、息を吸ったのだ。

 サキの胸の徽章から淡いあたたかな光があふれて、床板に染み、柱を昇り、梁を渡って、壁の中へ、天井の裏へ、屋根の上へと行き渡っていった。二十五年間ただの箱だった建物の隅々にまで、血が通っていくのが、誰の目にも見えた。廊下の空気が変わった。埃っぽく澱んだ空気が、すう、と澄んで、そこに給食の残り香と、チョークの粉と、子供の汗の匂いの記憶が、ふわりと戻ってきた。

 学校が。

 学校に、戻った。

 窓の外で、囲いが、閉じた。音はしなかったが、分かった。夜通し校舎に絡みついていた、あの、ぬめりとした視線たちが、ふっつりと、絶えた。杉林の闇は、ただの、夜明け前の杉林に戻った。東の空が、山の稜線のかたちに、藍色から、菫色へ、ほどけ始めていた。

 サキは、自分の両手を開いて、閉じた。

 透けていなかった。裸足のつま先も、赤いスカートの裾も、おかっぱの毛先まで、くっきりとそこにあった。頬っぺたに、りんごの赤みが戻っていた。サキは胸の徽章に、そっと触れた。桜と、杉。冷たい金属の、確かな手触り。

 それから、顔を上げて、みんなを見て――くしゃ、と笑った。

「……ただいま」

 と、サキは、言った。

「――おかえり!!」

 縁の声と、みんなの声が、重なった。

 そこからは、もう、めちゃくちゃだった。花子さんがサキに抱きついて泣き、サキも泣き、縁も泣きながら二人に抱きつき、人体模型が「ばんざーい!!」と両腕を突き上げて両腕とも落とし、骨格標本が拾い、歩き足がステップを踏み、飛び首が宙返りをし、上履きたちが、ぴょこぴょこと、跳ね回った。オルガンが、朝には似合わない大音量で、校歌を弾いた。今度は誰も、つっかえなかった。ベートーヴェンが、額縁の中で、力いっぱい、腕を振った。

 夜明け前の廃校――いや、もう、廃校ではないのかもしれなかった――の廊下に、この世のものとこの世のものでないものの、笑い声と泣き声が、ごちゃまぜに、響き渡った。

 父は、その輪の少し外で、へたり込んだまま、それを見ていた。

 立てなかったのだ。口裂け女の前に両腕を広げた、あのときの膝が、緊張の糸が切れたとたん、完全に、言うことを聞かなくなっていた。縁に言わせれば「四回目」である。父に言わせれば「あれは膝の判断であって、おれの判断ではない」とのことだった。

 その、へたり込んだ父の前に、大きな影が、立った。

 真の姿の、塵塚怪王だった。緋色の肌の偉丈夫は、黄金の冠の下から、父を見下ろして――それから、どっこいしょ、と、隣に、あぐらをかいた。二メートルの大王があぐらをかくと、廊下が、みし、と鳴った。

「……人間よ」
「……お、おう」
「……先ほどは、見事であった」
「……何が」
「両腕を広げたであろう。あの、白いものの前で。……震えておったな。膝が、笑うほど」
「……見てたのかよ。恥ずかしいな」
「恥ずかしいものか」

 大王は、明けていく空を見ながら、言った。

「恐ろしくないものが、前に立つのは、当たり前である。震えながら、それでも前に立つ者だけが――守る者、と呼ばれるのだ。……我は、生まれてこのかた、この校舎で、埃と忘れ物を守ってきたつもりでおった。だが、まことのところ、我は、守り方を、今夜、そなたらに教わった。そなたの、あの震える両腕と……そなたの娘の、あの、『よくない!!』という声にな」

 父は、何と答えていいか分からず、頭をかいた。

「……おれのほうこそ、あんたに教わったよ。……頼まれるってのは、ああいうことなんだな。頼まれて、応えて、初めて、そこにいる意味ができる。……おれ、会社で二十年、頼まれごとばっかりしてきたのに、一回も、ああいう顔で頼まれたことは、なかった気がするわ」

「ふ。……人間の王国も、なかなか、世知辛いようだな」

「世知辛えのよ」

 四十三歳の男と、塵積もりて成った王は、明け方の廊下で、しばらく、並んで、笑った。

 ――やがて、朝が、来た。

 最初の陽が、杉のこずえの上から、校庭に、差した。金色の光が、夏草の露を、いちめんに光らせた。

 それが、合図だった。

 オルガンが最後の和音を名残惜しそうに長く長く伸ばして、鍵盤を閉じ、のそのそと四本足で音楽室へ帰っていった。人体模型と骨格標本は互いの肩を組んで理科室へ引き上げていった。歩き足と飛び首は、首が足の上の定位置に浮いた、ほとんど一人前のシルエットで廊下の奥へ。花子さんは縁と長いこと手を握り合ってから、「またね。……こんどは、驚かせる練習、つづきをしましょうね」と言って、三番目の個室の戸を、何も言わずに、すうっと、余韻たっぷりに閉めた。完璧だった。

 軍勢も解けていった。傘たちは傘立てへ。跳び箱は体育館へ。本たちは、ぱたたた、と図書室の書架へ、一冊ずつ正しい場所に収まっていった。片っぽの上履きは下駄箱の自分のマス目に、ちょこん、と戻った。心なしか、かかとが誇らしげだった。

 校庭では、金次郎が、台座に上がるところだった。

 石像は、台座の上で、夜通し開いていた本に、見えない栞を、丁寧に挟む仕草をした。それから、薪を背負い直し、いつもの読書の姿勢に、体を、収めた。朝日が、その肩に、当たった。当たった瞬間、金次郎は――動かない、ただの石に、戻った。何百年でもそうしてきた、という顔で。

「……おつかれさま」

 縁が、窓から、小さく言った。石像は、答えなかった。答えなかったが、開かれた本のページが、朝の風で、一枚だけ、ぱらり、とめくれた。

 真の姿の怪王も、言った。

「……我も、そろそろ、である」

 その、緋色の巨躯の輪郭が、朝の光の中で、少しずつ、ほどけ始めていた。

「この姿は、力を、食う。夜明けとともに、我は、また、あの、ちいさき姿に戻って――しばし、眠る。玉座でな」

「……また、会えるの?」

 縁が聞くと、大王は、笑った。髭の奥で、あの、ビー玉の目と同じ目が、笑った。

「たわけ。王は、王国を、離れぬ。我は、ここにおる。ずっと、おる。……ただし、次に我を起こすときは――」

 大王の姿が、光の粒になって、ほどけていく。ほどけながら、声だけが、残った。

「――子供の、笑い声にせよ。それが、いちばん、よう効く」

 光の粒は、廊下を、ころころと転がって、職員室の隅の、段ボールの玉座の上に、集まった。集まって、小さな、埃の毛玉と、アルミ皿の冠に、戻った。三十センチの王は、玉座の上で、こてん、と丸くなり――すう、すう、と、寝息を、立て始めた。

 サキが、その玉座のそばに、しゃがんで、ちいさな王の、ひしゃげた冠を、そっと、直してやった。

「……おやすみ、王さま」

 ――そうして、朝の校舎に、残ったのは、三人だけになった。

 父と、縁と、サキ。

 三人は、昇降口の前の、上がり框に、並んで、座った。開け放した戸から、朝の光と、涼しい風と、蝉の一番鳴きが、入ってきた。誰も、しばらく、何も言わなかった。言葉が、追いつかなかったのだ。ゆうべ一晩の、あの、ぜんぶに。

 先に、口を開いたのは、父だった。

「……なあ、サキ……ちゃん。……ちゃん、でいいのか? 神様に、ちゃんは」

「サキちゃんで、いいよ。たっちゃん」

「……たっちゃんは、やめてくれ。四十三だぞ、おれ」

「じゃあ、おじちゃん」

「……たっちゃんでいい」

 サキが、けらけら笑った。縁も笑った。それから、父は、少し、あらたまった。

「……サキちゃん。あんた、これから、どうするんだ。その……『向こう』に、帰るのか。それとも」

 サキは、膝を抱えて、朝の校庭を、見た。

「んー……。ほんとはね、あかしが戻ったら、いったん向こうで、ゆっくりやすもうって、おもってた。……でもね」

 サキは、ちら、と、父を見た。いたずらっぽい、上目遣いで。

「たっちゃん、いったでしょ。ここ、子供のあそびばにするって。なつやすみに、子供が、いーっぱい、とまりにくるって。……あれ、ほんと?」

 父は、居住まいを、正した。

「――ほんとだ」

 まっすぐに、言った。

「来年の夏だ。来年の夏までに、床を張って、水回りを直して、役場と話をつけて、母ちゃんを説得して……この学校に、子供を、連れてくる。テントを張って、川で泳いで、カレー作って、花火やって。夜は――」

 父は、にやり、とした。

「――夜は、とびきりの、肝試しだ。なんせこの学校、本物が出るからな」

「――!!」

 サキの顔が、朝日よりも、明るくなった。

「じゃあ!! じゃあ、サキ、ここにいる!! 帰らない!! だって、子供が来るんでしょ!? 子供のいるところが、サキの、いる場所だもん!! サキ、まってる!! ここで、まってる!! おきゃくさん、いっぱい、おどろかせてあげる!! 花子ちゃんの、とっくんのせいかも、見せてあげる!!」

「おう。頼りにしてる。……なんせ、うちの施設の、看板娘だからな」

「かんばんむすめ!!」

 サキは、その響きが、よほど気に入ったらしく、上がり框の上で、ぴょんぴょん、跳ねた。座敷わらしのいる家は、栄える。座敷わらしのいる遊び場は――きっと、日本一、栄えるだろう。父の商売の見通しは、その一点においてだけは、盤石だった。

 ひとしきり跳ねたあと、サキは、ふと、縁の顔を、覗き込んだ。

「……ゆかりちゃんは? ゆかりちゃんも、来年、来る?」

「来るよ。……ぜったい、来る」

 縁は、言った。それから、少し考えて、つけ足した。

「友達も、連れてくる。クラスにね、二人いるの。怖い話、好きな子。……今まで、学校でその話、したことなかったんだけど。……帰ったら、してみる。『うちの父さんの学校、本物が出るんだよ』って」

「ほんとのことなのに、ぜったい、しんじないやつだ」と、父が笑った。

「いいの。来れば、わかるから」

 朝日が、三人の顔を、あたためていた。校庭の草いきれが、立ちのぼり始めていた。今日も、暑くなりそうだった。

 父が、ふいに、言った。

「……なあ、縁」

「なに」

「おまえの名前な。……縁(ゆかり)って、父さんが、つけたんだ。母さんと、さんざん候補を出し合って、最後に、父さんが、これだって決めた」

「知ってる。聞いた」

「人と人の縁を、結べる子になれって。……そういう意味で、つけた。……なれてたな。とっくに。父さんの想像なんか、はるかに超えて」

 父は、校舎を、振り仰いだ。眠る王の玉座と、三番目の個室と、台座の金次郎と、音楽室の窓とを、順に、目でなぞった。

「――お化けと、神様と、王様の縁まで、結んじまうんだからな。うちの娘は」

 縁は、何も言わなかった。

 言わなかったけれど。

 上がり框に置かれた、父の、豆だらけの、大きな手の上に。

 自分の手を、そっと、重ねた。

 父の手が、一瞬、びくりとして――それから、何も言わずに、その小さな手を、上から、ぎゅ、と、握り返した。大きくて、ごつごつして、あたたかい手だった。動物園で、水族館で、夏の海で、つないだ、あの手だった。ずっと、忘れていた。忘れていただけで――なくなっては、いなかったのだ。何も。

 蝉が、鳴いていた。

 世界のぜんぶを使って。今日も。

 サキが、二人の重なった手を見て、それはそれは、幸せそうに、笑った。庭に、丹精こめた花が咲いたのを見つけた、庭師のような顔で。

 夏の朝が、始まっていた。


第十七章 ただいま

 それからの夏は、驚くほど、あっという間だった。

 昼は床を張った。父の日曜大工の腕は最後まで上がらなかった。金槌は相変わらず親指を狙い、釘は相変わらず曲がった。それでもお盆を過ぎるころには、一階の廊下と教室二つぶんの床が、新しい木の色に生まれ変わっていた。歩くと、みし、とは鳴らずに、とん、と鳴った。古い校舎に新しい音が、一つずつ増えていった。

 夜は、相変わらず、賑やかだった。

 十時のチャイム。オルガンの一音。花子さんの特訓は続き、紙さんとの謎かけは通算七勝三敗になり、人体模型は新しい登場の型を三つ編み出して、三つとも自爆した。サキは毎晩来て、毎晩笑った。怪王は、玉座でよく眠り、ときどき起きてきては「王国は平和であるか」と見回りをして、カレーの匂いがすると、いちばんに現れた。

 母には、電話で、ぜんぶ話した。

 お化けのくだりは、当然、信じてもらえなかった。「はいはい、親子で夏の夜の夢を見たのね」と流された。ただ、電話の最後に、母は言った。「……まあ、何でもいいわ。あんたたち、声が、ずいぶん変わったもの。二人とも」。何がどう変わったのかは、教えてくれなかった。

 そして――帰る日が、来た。

 新学期が、始まるのだ。縁の、東京の学校が。

 最後の朝、二人は、荷物を軽トラに積み終えてから、もう一度だけ、校舎に入った。バスの時間まで、三十分あった。

 朝の光の差す廊下は、しん、としていた。夜の住人たちは、みんな、眠りの時間だった。それでも、二人は、順番に、回った。

 音楽室。オルガンの、閉じた鍵盤の蓋を、縁は、そっと、撫でた。「練習、続けてね。来年、聞くから」。ベートーヴェンの肖像画に、父が無言で、深く、頷いた。肖像画は、動かなかった。動かなかったが、眉のあたりが、心なしか、いつもより、穏やかだった。

 理科室。ガラス戸の中の人体模型に、縁は、手を振った。「来年、新ネタ、楽しみにしてる」。模型は、日中は、ただの模型だった。ただ、その右腕が、ゆうべはめ直したはずなのに、また、少しだけ外れかけていた。骨格標本が、隣でやれやれという角度で立っていた。

 三階のトイレ。三番目の戸を、縁は、こん、こん、こん、と、三回、叩いた。

「花子さん。……行ってきます。来年、友達、連れてくるから。……そのときは、本気のやつ、お願いね」

 返事はなかった。昼だから。でも、戸の向こうの気配が、ちいさく、こく、と頷いたのが、分かった。

 職員室の隅、段ボールの玉座では、小さな王が、丸くなって、眠っていた。すう、すう、と。縁は、しゃがんでそのひしゃげたアルミ皿の冠を、指先でそっと直した。

「……行ってきます、王さま。王国のこと、よろしくね」

 王は、眠ったままだった。ただ、その小さな手が、寝返りの拍子に、むにゃ、と動いて――敬礼、みたいな形になった。偶然かもしれなかった。偶然じゃないかもしれなかった。

 最後に、昇降口を出て、二人は校舎を振り仰いだ。

 夏の終わりの、高い空の下で、木造二階建ての校舎は、ひと月前とは、まるで違って見えた。同じ建物なのに。壁の色も、割れた窓の数も、ほとんど変わっていないのに。もう、墓標には、見えなかった。眠っている大きな生き物にも、見えなかった。それは、ただ――次の夏を待っている、学校の顔をしていた。

 門柱の文字が、朝日に、白く、読めた。『男鹿沢小学校』。その下に、父の手書きの看板。『あそび基地(仮) 来年の夏、ひらきます』。

「……サキちゃんに、挨拶してないね」

 縁が言うと、父は笑った。

「いいんだよ。あいつには、『さよなら』じゃねえもの。……なあ?」

 父が、校舎に向かって、声を張った。

「――行ってきます!! 来年、うるさいのを大勢連れて、帰ってくるからな!! 首を洗って――じゃねえ、腕によりをかけて、待ってろよ!!」

 校舎の、二階の窓が――一枚。

 風もないのに、からり、と開いて。

 小さな手が、ぶんぶんぶんと、ちぎれるほど振られた。

「――いってらっしゃーーい!! ぜったいだよーー!! やくそくだよーーー!!」

 蝉の声の向こうから、その声は、いつまでも、いつまでも、聞こえていた。軽トラが坂を下りきって、カーブを二つ曲がって、校舎が杉林に隠れて見えなくなっても、まだ、聞こえている気がした。

 ――東京の家に着いたのは、夜の八時前だった。

 新幹線と在来線とバスを、逆にたどって。車窓の景色から、山が減って、畑が減って、建物が増えて、灰色の空が近づいてきて。マンションのエレベーターを上がって、廊下を歩いて、うちのドアの前に立って。

 縁が鍵を出しかけたとき、ドアが内側から開いた。

 味噌汁と生姜焼きの匂いが、あふれ出てきた。

「――おかえり」

 母がエプロン姿で立っていた。

「ただいまー」
「……ただいま」

 母は玄関の灯りの下で、二人の顔をまじまじと見た。それから、吹き出した。

「なあに、あんたたち。真っ黒じゃないの。山猿の親子かと思ったわ」

 食卓には、三人ぶんの茶碗が並んでいた。

 この春からそこに並ぶのは、二人ぶんか、時間のずれた一人ぶんずつだった。父が遅くて二人で食べた。縁が塾で母と父がばらばらに食べた。三つの茶碗が同じ湯気を立てて並ぶのは――いつ以来か縁は思い出せなかった。

「いただきますは?」
「「いただきます」」

 声が揃った。

 そして、縁は喋った。

 箸を持ったまま、生姜焼きを口に運ぶのも忘れて、喋って、喋って、喋り倒した。オルガンが夜中にひとりでに鳴ったこと。ベートーヴェンが演奏指導していたこと。花子さんが実はあがり症で、特訓したこと。白い紙って答えたらティッシュをくれたこと。人体模型が自分の腸を追いかけたこと。金次郎が月夜の校庭を走っていたこと。サキちゃんのこと。サキちゃんが、ほんとうは、何だったのかということ。テケテケが、ほんもののテケテケが出て、お父さんが――

「――腰、四回も抜かして!」
「二回だ。あとの二回は、しゃがんだのと、膝の判断だ」
「膝の判断ってなに!?」

 ――ちいさな王様が、最後にほんものの王様になったこと。お城が、学校まるごとだったこと。朝日の中で、みんなが帰っていったこと。

 母は、生姜焼きを取り分け、麦茶を注ぎ足しながら、その荒唐無稽きわまる報告を、ずっと聞いていた。相槌の半分は「はいはい」で、半分は「へえ」だった。信じている顔ではなかった。当たり前だ。信じられる話ではない。

 でも、母は見ていた。

 娘が、目をきらきらさせて、身ぶり手ぶりで、喋り倒しているのを。夫が、「いや、そこはこうだった」「四回じゃねえ」と、いちいち楽しそうに、口を挟むのを。二人が顔を見合わせて、同じところで吹き出すのを。春には同じ食卓で、目も合わせなかったこの二人が。

 ――お父さんとふたりで、ごはん食べて、寝て、起きて、してごらん。

 バス停でそう言ったときの、自分の胸の中の祈りのかたちを、母は、覚えていた。賭けだった。分の悪い賭けだと半分思っていた。

 勝った。

 何がどうしてそうなったのかは、半分も分からないけれど。お化けだの王様だの、報告書としては零点だけれど。結果だけは、この食卓の上に、湯気を立てて並んでいた。

 母は、そっと目頭を指で押さえた。誰にも気づかれないように。それから、いつもの声で言った。

「はいはい、続きは食べながら。……ほら、二人とも、冷めるわよ」

 その晩、縁は久しぶりに自分のベッドで眠った。

 カーテンの隙間から、東京の夜空が見えた。灰色の、星のほとんど見えない空。天の川なんて、あるわけもない空。

 でも、縁は知っていた。

 目を閉じれば、あった。

 真っ黒な山の夜。懐中電灯の輪の外の、深い深い闇。ぱたぱたと走る、裸足の足音。つっかえるオルガン。父の下手な校歌。埃とワックスとチョークの匂い。前歯の抜けた笑顔。月夜の校庭を走る石像。震えながら広げられた、父の両腕。ひしゃげたアルミ皿の冠。

 ――ずーっと、ずうっと、こういうのが、したかったんだあ。

「……あたしも、だよ」

 縁は暗い天井に向かって、小さく答えた。

 明日から新学期だ。教室で聞かれるだろう。夏休み、何してた? 縁はもう、決めていた。ほんとうのことを言うのだ。うちの父さんが、山の中の廃校を買って、そこに泊まったら、ほんもののお化けが出たんだよ――と。

 誰も、信じないだろう。「またまたー」と、笑われるだろう。

 それでいいのだった。

 だって、怪談というのは、もともとそういうものなのだから。ほんとうかどうか、分からない。分からないから、こわい。こわいから、わくわくする。教室の隅で、放課後の帰り道で、こわごわ、ひそひそ、語られて――その、ひそひそが、あの子たちのごはんになる。

 だから、縁は語るのだ。何度でも。笑われても。

 夕暮れの帰り道、電信柱の影がふっと長く伸びる、あの時刻に。「ねえ、知ってる?」と。

 ――遠い、遠い、東北の山の中。

 時間の動き出した校舎の、教卓の上で。

 日めくりカレンダーが、今日のぶんを自分で、ぺらっと、めくった。

 夏が終わる。

 ただ、つぎの夏は――もう、始まっている。

(おしまい)

いいなと思ったら応援しよう!