翻訳『奇妙な仲間・アメリカの初代アヴァンギャルド』16章1 「余波」
余波 ╶─╴アヴァンギャルドは前進をつづける╶─╴
芝居には昔から、幕の降りる寸前に登場人物を慌ただしく妻合わせる手法がある。アメリカのアヴァンギャルド第一世代もこれに倣い、大団円を控えて恋愛の輪舞に身を投じる。それはまた男女の結びつきが仲間同士から夫婦関係へと、根本的に変化したことの表れでもあった。
フロイド・デルの変身は一九一七年の春に始まる。アメリカがドイツ相手の戦争に突入しようとするさなか、デルはサミュエル・タネンバウム博士に精神分析の治療を受けはじめた。デルはそこで親友たちの妻(クックの妻もふくむ)との情事に隠れた同性愛への願望、母親的な女性への執着、故郷アイオワ州ダヴェンポートを舞台に主人公の人格形成過程を描く長編小説がどうしても書けないことなどを、思いつくまま自由に語っている。不定期ながら一年におよぶ治療を受けるうちに三十路に入ったデルは、ヴィレッジ暮らしを青春時代の戯れにすぎず、すでに過去のものとみなすようになった。こうした思いはある晩ティールームで、アップタウンからやってきた男がデルをじっと見つめ、おもねるような口調で「きみは陽気なヴィレッジの住人ですか?」と訊ねたとき、鮮明に意識化される⑴。
華やかな情事をいくつも重ねた後╶─╴最後の相手エドナ・セント・ヴィンセント・ミレイの繊細を究める美しさはデルを激しい恋の虜にしたばかりでなく、それから数年後にエドマンド・ウィルソンの心も奪う╶─╴デルはその人が相手なら子供を設けたいと思えるような女性と出会う。そのひと、B・マリー・ゲイジは金髪碧眼の中西部出身者で、社会主義と反戦主義を信奉し、体制批判の演説会を主催するかたわら、図書館で司書をしていた。ゲイジは初恋の相手にそっくりなうえに、アイオワ生まれのデルとは出身地方も同じ、そしてヴィレッジじこみの急進思想も共有していた。後に誕生日に捧げた詩にもあるように、ゲイジはデルにとって「女神にして愛娘、恋人、お客、そして友人」⑵となる。ふたりは一九一九年二月に結婚して、ヴィレッジの飛び地のようなクロトン=オン=ハドソンに新居をかまえる。デルはそこに腰を落ちつけ、妻子を慈しみながら、執筆に励んだ。
デルは結婚を成熟のはじまりと呼び、ふたりはゲイジが年老いて世を去るまで仲睦まじく暮らし、穏やかな家庭生活をつづけた。結婚はまた一方で文化革命家としてのデルの影響力に終止符を打つ。ヴィレッジの住人の多くは、自由恋愛の旗手だったはずのデルの結婚に、裏切られたという思いを抱いた。また結婚を契機にデルが保守化するのではないかというかれらの恐れは、デルが夫婦関係や子供を持つことを讃える詩を書いたり、パウンド、エリオット等の実験的な詩人ばかりかシャーウッド・アンダーソンまで激しく非難しはじめるにおよんで、的外れでなかったことが判明する。若い世代のヴィレッジの住人の多くは、デルを「嫌悪すべきヴィレッジ正統派の中心人物のひとり」⑶とみなすようになった。デルはダヴェンポートでの成長過程を素材にした小説、『初な若者(Moon-Calf)』をようやく書き上げる。一九二〇年にこれがベスト・セラーなると、翌年にはシカゴ時代を題材とする実話小説『ブライアリーの藪(Briary Bush)』を発表し、一九二六年にはヴィレッジでの体験を『グリニッジ・ヴィレッジの恋(Love in Greenwich Village)』として小説化した。デルの作品は、同じく故郷の小村(ヴィレッジ)を逃れグリニッジ・ヴィレッジに移り住んだ体験を題材に選んだ他の作家たちには大きな影響をおよぼしたが、人生の「未熟な」時代を書きつくしたあと、デルの小説は月並みなものになってしまう。一九二〇年代末のデルは、将来を嘱望されながら期待外れに終わった二流作家と見なされていた。
一九一七年四月、291でジョージア・オキーフの初個展を開いたとき、アルフレッド・スティーグリッツは絶望的な気分に陥っていた。宣戦布告はアメリカの偉大なモダン・アート運動の飛躍的前進を頓挫させるだろうとスティーグリッツは予言し、また一方、禁酒法を巡る噂が真実ならば、酒造業を営む夫人の実家からの仕送りをあてに画廊と雑誌を維持するのは難しくなりそうだった。スティーグリッツはすでに何度か窮余の策に訴えていたが、そのなかでもとくに心を打つのは四月一二日付の全米廃棄物処理公社に宛てた手紙だろう。スティーグリッツは八千部近い「291」の在庫╶─╴インペリアル判(五八・五×七八センチ)の和紙に刷った特装版『スティアリッジ(Steerage)』をふくむ╶─╴をパルプ用古紙として売りたいと申し出た。それが全部で五ドル八セントにしかならなかったと知ったとき、スティーグリッツは全額を秘書に贈り、「これで手袋一組か、ひょっとすると二組くらい買えるかな」⑷と言ったという。スティーグリッツは「カメラワーク」のバックナンバーを六〇から八五パーセント引きで叩き売り、自分の写真まで半値で売りさばいている。商取引に手を染めるのを不愉快に思っていた人間がこのようにしゃかりきになって物を売り歩こうというのは、危機状況以外のなにものでもない。画廊、雑誌はともに命脈が尽きた。291の所有する作品をスティーグリッツはモダン、ダニエル、モントロスの三つのギャラリーに分け与えた。ステーグリッツは最終号となる六月号「カメラワーク」の編集にとりかかり、これをすべて新たに愛弟子となったポール・ストランドの作品紹介に充てることにしたけれども、予約購読者数はすでに三六人にまで落ちこんでいた。
初の個展が始まったとき、ジョージア・オキーフはテキサス州キャニオンのウェスト・テキサス・ノーマル・カレッジで教鞭を執っていたため、スティーグリッツから写真が届いて初めて、291に展示された自作の水彩画、油彩画、木炭デッサンを目にすることができた。その写真を見たとたん、オキーフはごく自然に三千キロあまり旅をしてニューヨークに行こうと決心し、五月末に291に姿を現す。壁にはもうなにもかかっていなかったけれども、スティーグリッツはオキーフの作品を元通りにならべ、291では最後となる、前代未聞の密やかな展覧会を催した。「こうしてわたしはありとあらゆる背信行為や残酷な仕打ちにもめげず、この場所を『栄光』と共に閉じることができた。画廊の小部屋が、その最後の展覧会の時ほどみごとに輝いたことはなかった……」⑸とスティーグリッツはフォト・シセッション時代の仲間に書き送った。
この展覧会が開かれるまで、スティーグリッツにとってオキーフは紙筒入りのデッサン届けてくる「紙上の女」にすぎなかった。一方オキーフにとってスティーグリッツは、多いときには週に五通もの手紙を送ってくる、おそろしく筆まめな男だった。オキーフは友人に、スティーグリッツに会えなくてよかった╶─╴「わたしが好きなのはあのひとの内面だけなの」⑹╶─╴とも言っている。一九一七年六月に291が閉鎖されてからも、スティーグリッツは「墓穴」と呼ぶ小さな倉庫から手紙を送りつづけたが、黒の袖なし外套を羽織って座るその姿は不機嫌の権化のようだった。初期の支持者たちが去っていったあとも、スティーグリッツは折々シャーウッド・アンダーソン、ヴァン・ウィク・ブルックス、ウォルドウ・フランク、ルイス・マムフォード、そしてポール・ローゼンフェルトといった新たな面々を集め╶─ところをプリンス・ジョージ・ホテルからホーン・アンド・ハーダートに代えて╶─╴ラウンド・テーブルをつづけていた。しかし文学畑に偏ったこのグループに前任者の穴埋めはおぼつかない。その役割を仰せつかったのがオキーフである。一九一八年の春には、スティーグリッツは「291の精神的な支えは彼女だ。わたしではない」⑺と書くまでになった。
一九一八年六月にニューヨークに戻ってきたオキーフは、インフルエンザをこじらせて憔悴しきっていた。スティーグリッツはオキーフをベッドに寝かしつけると、回復の様子を見守り、絶え間なく話しかけながら、片時も側を離れずかいがいしく面倒をみた。「一週間のうちに、わたしたちは何年もの時間を凝縮した」⑻とスティーグリッツは姪に宛てた手紙に記している。オキーフが体力を取り戻すと、芸術がふたたび架け橋となってふたりの仲をとりもつ。オキーフはスティーグリッツの被写体となった。オキーフが到着してから一月も経たぬうちにスティーグリッツは撮影にとりかかり、二十年後に仕事を終えたときには、三百点を超える作品を創りあげていた。ガラス板のネガにスティーグリッツは、オキーフの彫りの深い輪郭のはっきりした容貌、腋の下の産毛、胸のふくらみを捉えた。露光はときに四分もつづくことがあったが、オキーフはおとなしく言いつけにしたがった。スティーグリッツは飽くことを知らなかった。「写真を撮るとき、わたしは求愛しているのだ」とスティーグリッツは言い、オキーフは熱に浮かされたようなスティーグリッツの執拗な詮索を、「情熱と興奮の一種」⑼と受けとめたのだった。
オキーフがニューヨークに到着してから一月後、撮影中のふたりの様子を目撃したエメリーヌ・スティーグリッツは、オキーフと別れるか、それとも結婚を解消するかを迫る最後通牒を夫につきつける。スティーグリッツが二十四年を過ごした家を引き払うのに要した時間は、正味わずか一時間と五十分。スティーグリッツはオキーフを伴って姪の家に移り住み、当初は毛布を紐で吊るしてふたつのベットの仕切りにした。夫人が正式に離婚を認め、スティーグリッツがオキーフと結婚できたのはそれから六年後のことだが、ふたりはそのはるか以前に自分たちの関係を世間に公表した。
一九二一年二月七日、スティーグリッツがアンダーソン・アート・ギャラリーズに一四五点の作品を集めて開いた個展がその公表の場にあたる。既発表の作品は一二点のみ、ほとんどはそれに先立つ二年間に撮影されたものだった。うち四五点はオキーフを撮ったもので、背景にはオキーフの作品が大きく映っている。これはアーモリー・ショー以来、スティーグリッツが初めて開いた個展であり、オキーフとの親密な関係とともに、芸術家としての遅まきながらの蘇生を明らかにすることにもなった。この展覧会を見て、ひとりの女性がわっと泣きだし、「あの人はこんなにあの女を愛していたのね」⑽と呟いた。展覧会を見た数千人の観客は、おそらくスティーグリッツの芸術家としての復活よりも、あからさまにエロティックなオキーフの描写に魅惑されたのだろう。このときに発表された写真は、オキーフを早い時期に有名にする原動力となった。後年フローリン・ステットハイマー宛てに送った手紙のなかで、ヘンリー・マクブライドはこう記している。「名声というものは、あなたにはこれまでにも何度もお話してきた通り、それに値するからではなく、世論を騒がすことによって手に入るものなのです。ジョージアの場合は、すみからすみまで写真に撮られることによって、名声を得たということですね」⑾。
ふたりは一九二四年一二月一一日に結婚し、その関係は一九四六年にスティーグリッツが世を去るまでつづく。ふたりは別々に暮らすことが多く╶─╴オキーフは大のお気に入りのニュー・メキシコで絵を描き、スティーグリッツはニューヨークの画廊から離れられずにいた╶─╴またそれぞれに愛人をもった。しかし永続的な夫婦の絆こそ、ふたりにとっては偉大な芸術作品を産む霊感の源だったのである。オキーフ売出しの指揮を執ることを通じて、スティーグリッツは作家活動に精力的にとりくみ、傑作の数々を創りだした。オキーフはアメリカ最高の女性画家として、短期間のうちに伝説の人となった。
アメリカが宣戦を布告した直後、ジョン・リードは目標を失い途方に暮れていた。ルイーズ・ブライアントからは、その春に袖にされていた。プロヴィンスタウンで著作にいそしみたいというのが表向きの理由だったが、実際にはユージン・オニールとよりを戻したのである。リードの優しく、しかも絶望的な電報╶─╴桃の花が咲いて、ミソサザイが巣をかけた╶─╴を受け取ってクロトン=オン=ハドソンの家に戻ってはみたものの、ブライアントはリードから浮気の告白を聴かされ⑿、憤然としてふたたび家を出る。今度はフランス戦線の取材が目的だった。リードはヴィレッジでも異邦人のような感覚に襲われる。かつての友人たちがリードの反戦思想をあからさまに蔑む態度をとったためである。昼のあいだはニューヨーク・メイル用につまらない記事を書き、夜になると不眠症と闘い、自殺を考えた。七月にリードがブライアントに宛てた手紙には、「きみは英雄が自分のものになると思ったのかもしれないが、実はあるかなきかの才能の閃きさえ瞬く間に失いつつある、質の悪い小物につきあわされていたというわけだ」⒀との記述も見える。絶望的な気分と重苦しい政治情勢にうちひしがれて、リードは一九一七年の八月を「同世代の自由人がかつて経験したことのない暗黒の一ヵ月」⒁と呼んでいる。
このころにはブライアントもニューヨークに戻り、ふたりは一緒にロシアに渡る計画を練った⒂。リードとブライアントは九月にペトログラードに到着し、そのときからふたりはかつてない興奮に酔い痴れる。ツァーが撞球を楽しんだ部屋でレーニン、トロッキー、そしてケレンスキーにインダヴューし、徹夜の会合にお開きまでつきあい、群衆に唱和して「インターナショナル」を歌ったあと、大いそぎでタイプライターに向かう暮らしが媚薬代わりになった。リードは「革命的詩人の想像力のみが表現しうる」出来事をついに見いだし、秋にはそれまでとりとめもなく果してきた冒険家、ジャーナリスト、愛人、そして急進派の役柄がようやくひとつにかみ合い実を結ぶ⒃。ベストセラーになった革命の記録『世界を揺るがした十日間』が一九一九年三月に出版されてからというもの、リードはロシア革命と堅く結ばれ、その関係はブライアントとの夫婦の絆にも劣らぬほどになる。群衆の前で演説し、ワシントンの議会で証言し、無数の社会主義者の会合に根気よくつきあい、ロシアへの長旅をくりかえすリードには、家庭生活にふりむける時間はほとんど残らなかった。ブライアントも一九一八年に『共産主義ロシアで過ごした六ヵ月』を上梓した後、全国各地に講演旅行にでかけるようになる⒄。
革命はふたりの関係をもつれさす要因のひとつに過ぎなかった。ほかにもオニールがいた。リードとブライアントは一九一六年一一月九日に結婚したものの、情事は終わらない。結婚式から三日後、リードが肝臓の大手術を受けるためボルティモアにでかけるのを待っていたように、オニールはワシントン広場南三八番地の自宅から五軒先のリード宅に移って暮らしはじめ、ブライアントはこの間にオニールの子種を宿した形跡もある⒅。一九一七年にブライアントがロシアに旅立ってから後、オニールは二度とふたたびブライアントと会うことはなかったが、三角関係はそれでも終わらない。オニールは一九一八年に結婚したが、相手のアグネス・ボウルトンがなんとブライアントと瓜ふたつだったので、友人の多くは失恋の痛手をうけた反動で結婚したにちがいないと考えた⒆。ブライアントもオニールへの思いを断ち切ることができなかった。リードに先立つこと二ヵ月、一九一八年二月にロシアから帰国すると、ブライアントはオニール宛に、永遠の愛に心燃え立たせ、五千キロにおよぶ凍てついたステップの草原を越えて戻ってきたと書き送った。その手紙が届いたとき、プロヴィンスタウンで『水平線の彼方に(Beyond the Horizon)』╶─╴ひとりの女を愛するふたりの男を主題とするこの悲劇で、オニールは初のピュリツァー賞を受賞する╶─╴を執筆中のオニールは、ブライアントの誘いに応じなかった。オニールとボウルトンの結婚が破局に瀕していたにもかかわらず、ブライアントからはプロヴィンスタウンにつぎつぎと、ときには日に二通もの手紙が届いた。ブライアントと別れてから長い年月を経た後、オニールは九幕物の壮大な戯曲『奇妙な幕間(Strange Interlude)』を書き上げる。主人公のモデルはブライアントだった。
一九二〇年、リードとブライアントが最も長く離れ離れに暮らしたその時期に、リードは高熱にうなされ意識の混濁と闘いながら、一三週間をフィンランドの監獄ですごした。船員に変装してブライアントはロシアへ渡り、釈放されたばかりの夫と出会う。部屋にはいってくるリードの足取りは跳ねるようだったが、ブライアントには一目見て夫がすっかり別人になっていることがわかった。ボロをまとい、目のまわりに黒い隈をつくり、青白い肌が骨から垂れ下がるほど痩せこけたリードは、信じられないくらい老いさばらえ、悲しげではあったけれども、至福の輝きに満ちてもいた。余命は一月。最初の一週間、ふたりはモスクワの街を散歩してまわり、ブライアントが後にリードの母親に書き送ったように、「第二のハネムーンをこころゆくまで楽しんだ」⒇。やがて発疹チフスに冒されたリードの肉体は衰弱し、脳卒中で右半身が麻痺する。リードの考えることは子供っぽくなり、何度も自分の飲んだ水は歌で満たされているとくりかえした。ブライアントに手をとられて臨終の日々を過ごしたあと、リードは一九二〇年一〇月一七日に息を引き取る。
雪のちらつくどんよりと曇った午後、正式の国葬が執り行われた。ブライアントは霊柩車のあとについてひとり赤の広場まで歩きとおしたが、いつ果てるともない弔辞のつづくうち気を失い地に崩れおちた。リードの柩はクレムリンの壁のかたわらに設けられた墓に下ろされ、巨大な赤旗に覆われた。赤旗には金文字で、「指導者は倒れるとも、大義は絶えぬ」と記されていた(21)。
リードは生涯を通じてじつに様々なものに夢中になったが、死を迎えてロシア革命の英雄に祭りあげられ、一九二九年には社会党がついにジョン・リード・クラブを設立する。その年までに三度ピュリツァー賞を受賞したユージン・オニールは、アメリカ現代演劇の父をみなされていた。オニールは一九三六年にノーベル文学賞も受賞する。ルイーズ・ブライアントはその年、四九歳で世を去った。世間的には高名な外交官ウィリアム・ブリットとの短い結婚生活を経て、ブライアントはアルコール漬けの日々にしだいに心身を蝕まれ、ついにパリ左岸のホテルで息絶える。死の直前、友人のジャネット・フラナーがモンパルナスの貧民窟でブライアントと偶然ゆきあった。その顔にかつての面影はなく、肌からはすっかり血の気が失せていた。サファイアの指輪が眼につかなければ、その女があのブライアントとはとても思えなかっただろうフラナーは記す。

