もう書いちゃってもいいかな? 言わずと知れた、日本のゴルフ界のレジェンド、と言えば岡本綾子さん。国内44勝。米LPGA(Ladies Professional Golf association)17勝。1987年には米国人以外で初の賞金女王。強かった。昼のゴルフ、夜の酒。Tokyo Sportsの番記者第一号として、現地密着。連夜の鯨飲。よく無事だったもの。岡本さんの活躍で新聞は売れた。お世話になりました。
――by Drifter(Koji Shiraishi)。Tokyo Sports pressに約20年在籍した。岡本さんがLPGAツアー挑戦を始めた頃、もっぱら社内でまとめ役担当だった。しかし、あるトラブル勃発で、自ら現場へ。意気投合した部分も多く、よく飲んだものだ。どのくらい飲んだかって? では――
☆ヤマ師だった!? 綾子さんのガイド役
【アメリカで稼ぐプロに‼】
岡本さんのプロ入りの動機は、
「本場アメリカでプレーして勝つこと」だった。
これが業界の反感を買った。
「何言ってんだ。田舎の小娘が」
当時はこんな感じだったようだ。日本では男子プロは市民権があって、女子は"付け足し"(註=今は逆)。そもそも、その昔、スターになりそうな女子選手が出てきたとき、何とかプロ化へ漕ぎつけたい、その親類が男子の大御所を口説き落として、門を開いてもらったという逸話がある。実際はもっと生々しいのだが、これに留める。
岡本さんはソフトボールで異彩を発揮。投手で4番の二刀流。日本を代表する選手だった。将来の職を考えた時、プロボーラーが頭に浮かんだそうだが、父親が「ボウリングは早々にすたれる」のアドバイスで、目標がゴルフになった。お父さんは先見の明があったようだ。
大和紡のソフトボール部。ここから大阪の池田カンツリーを経由するわけだが、糸へんの会社に高卒で入る……当時は少し引け目のあるような立場だったのか、プロ入りまで、少し摩擦があったように聞く。ゴルフ場からすれば、丁稚奉公だと思っていたのが、実は所属は糸へんのままで、”腰掛”。人間関係でのぎくしゃくもあったようだ。
1974年にプロテスト合格。
1979年、大阪のPLカントリー・クラブで開催された第10回日本女子プロゴルフ選手権に出場して、大迫たつ子さんとのデッドヒートを制して初優勝した。三日間54ホールで17アンダー、2位の大迫さんが15アンダー、「これだけ出して勝てないには運が無かった」と。3位に女王樋口久子さんが4アんだー。二人の爆発力に、大物女子プロたちは度肝を抜かれる格好ともなった。
【岡本さんを目玉に、ゴルフのTokyo Sports‼】
岡本さんは1982年から、日本人として初めて米ツアーに本格参戦を始めた。試合のほとんどは、日本の明け方に結果が出るので、Tokyo Sportsにはお得意のパターンだった。岡本さんを軸に"ゴルフのTokyo Sports”を展開しようとなった。新鮮な海外からのゴルフの記事を展開すれば、広告面でも勝負しやすい利点があった。岡本さんは大きな冠は"大和紡"であるが、クラブ、ウエアは美津濃、ボールはダンロップ。広告で世界一速いTokyo Sportsの紙面に参加するメリットは大きいではないか。
そしてここに、打ってつけのような人間が現れた。当時、ゴルフ部のデスクの仕事を任されていたT氏(すでに他界)の顔見知りに、Iというゴルフ記者(すでに他界)がいた。クセがあったが、英語もそこそこのようで、某スポーツ紙で一匹オオカミのような存在感を持っていた。この人物が、新聞社を辞めて、米国LPGAツアーに仕事場をシフトするということだった。
格好の人材ではないか—―。
I氏はTokyo Sportsに顔を出して、我が部を仕切るSデスクに、あれこれと説明した。
「こちらへの原稿送りは気持ちだけいただければオーケーです。綾子(こう呼んでいた)の事は、美津濃さんからも頼まれているし、ちょこっとギャラももらうんです。キャディの手配、試合へのエントリーとか、いろいろありますからね」
とても好意的で、Tokyo Sportsにとっては有り難い話だった。間をつないだT氏の鼻も高かったようだった。
Sデスクも大いに感謝の気持ちを伝えていたが、
「一応、原稿を送りいただいて、こちらはそれを売るわけです。当社の規定で日当をお支払いいたします」とビジネスを明確ににしていた。さすがである。
I氏は笑顔を絶やさず、歯切れも良かった。やってきたゴルフブームに乗るべく、狭っ苦しい日本の社会を飛び出そうとしている……ちょっとばかり、うらやましかった。
岡本さんの試合が始まると、毎朝、几帳面に電話をかけてくれた。こちらはそれをまとめて料理して、"世界のアヤコ"の速報を始めた。評判は上々だった。単に挑戦するだけでなく、すぐにでも勝てそうな雰囲気があった。男子の場合は○○好発進、〇〇アンダー止まりだったが、岡本さんの場合は、射程圏、好位置、王手といった文字が躍った。
1982年春先のアリゾナ・コッパーで初優勝。岡本さんの一挙手一投足を速報する新聞は売れた。世界のアヤコの情報が世界一速く読めたのだ。スポンサーも通信社もTokyo Sportsの動きを気にしだしたのだ。してやったり、
【頼りのI特派員の様子が変わった】
岡本さんのアメリカにおける動向を几帳面に知らせてくれていた、と思っていた、I特派員の雰囲気が変わったような気がした。
「やっぱり、英語が分からないとさぁ、恥ずかしいことも多いんですよ。まぁ、そのカバ―もしなければ……しょうがないよね」
要するに、岡本さんの英語力がないので、ミスもする、一人では活動しきれない。そのカバーをするのが、どうした……ということを言っているのだ。
待てよ、この人は何か勘違いしていないだろうか? 岡本さんが米国の試合に出ているので、仕事が成立して、生活ができているのではないか……しかし、記者生活では少し先輩でもあるし、Tokyo Sportsにとっては、貴重な情報源である。こちらの感情は二の次にして、情報の受け手に徹することにした。
しかし、日増しに棘を感じるようになった。
「で、岡本さんのコメントはいかがでしょう?」
「コメントねぇ、ラウンド内容から、適当に作っても良いですよ。後で言っておきます」
そうか、まぁ速報なのでそうさせてもらおうか……。表面上は何事もなく進んでいた。しかし、実際は岡本さんとI特派員のコミュニケーションは崩れていたようだった。
7月下旬、Oklahoma Tulsa近郊、Broken ArrowにあるCedar Ridge Country clubでのUS女子オープンが見えてきた。岡本さんのメジャーへの挑戦だが、初優勝のチャンスが見え隠れ、と言っても言い過ぎではなかった。それだけ、LPGAにおいて、岡本さんの存在感があった。
本番が着々と近づいて、世間の期待も高まって言った。あと二週間だったか、I特派員より、奇妙な連絡が入った。
「こちらも色々と忙しくなって、Tokyo Sportsさんのリクエストばかり聞いていられないんですよ。条件が変われば、別ですが……」
人質を取っての値上げ交渉。窓口のTデスクの顔は丸潰れだ。一般的にメジャー大会への記者エントリーは3ヵ月前くらいから受け付けて、一ヵ月前にはクローズだから、このケースでは開幕まであと二週間ぐらいだから、普通はどうにもならない。I特派員の狙い通り、値上げ交渉を飲んで、情報を流してもらうしかない……とあきらめかけた。しかし、こんなことがあった上で、毎朝、"お疲れ様"!とか言って、情報を受けるのもしゃくに触る話である。
Tデスクもさすがに血が上ったようだった。
「上とも相談するので、答えは少し待ってください」
傍でこのやり取りをに立ち会っていた私も、"平気で裏切る"Iの噂は本当だったのか、と忸怩たる思いだった。
黙っていられなくなった。
「この際、I特派員と縁を切って、うちから行きましょう‼」
「だって、記者登録はすでに締め切りって話ですよ」
T氏は眉を寄せて、言葉を絞り出した。
「じゃあ、電話入れて事情を話して、OKが出たら、行きましょうか?」
「君、そんなことが可能なのかね?」
偉い人が、覗きに来た。
可能かどうか聞いてみなけりゃ、分からんでしょうが‼
これを言葉にすると、えらいことになるので、できるだけソフトに言った。
「USGA(N.J. Far Hills)へ電話入れますよ。岡本さんの活躍で、日本のゴルフが盛り上がっている。取材量を増やしたいので、記者の追加をお願いしたい、と言いますよ」
私は時差を睨みながら、USGA本部に電話を入れた。反応は非常に好意的だった。ここでも岡本さんの存在感に助けられたようだった。
「日本のゴルフが繁栄するのは喜ばしい。我が女子オープンの手厚い取材に協力させていただきます」
やったぜ‼ 私はそのまま、上司に報告した。
「オーケー、やったな‼」
Sデスクは満足げにうなずいた。
もう少し上の人間は、少し疑心案疑を漂わせながら、
「君、そうか‼ 大丈夫だな‼ 今の人間を切っても‼」
少しは部下を信頼したらどうなんだ。USGAがOK出しているんだぜ。

日々、小技の技術にも磨きがかかって、常に勝ちが狙える存在だった。
☆岡本さんとの付き合いが始まる
【災い転じて……】
妙な話である。I特派員の突然の"謀反"が無ければ、アメリカへ乗り込んで、岡本さんに仁義を切ることが無かったかもしれない。
私はUSGAからのwelcome を確認して、女子オープンの舞台である、オクラホマ州タルサ近郊のCedar Ridge CCへ飛んだ。
シカゴからの乗り換え便で、TBSのクルーと一緒になった。
「おや、Tokyo Sportsさんは現地スタッフに応援部隊ですか? さすがの態勢ですね」
まずは外交辞令を受けた。
「実はちょっとしたトラブルもあって、日本から駆け付けとなってしまって……」
「なるほど、そうでしたか。うちの方にも売り込みみたいなことがあったようですが、いろいろ聞こえてきていたので……」
問題のI特派員の元の会社と中継のTBSは系列であったから、普通に考えれば、岡本さんが米国挑戦の入り口から、"密着取材"している、I特派員は貴重な情報源となってしかるべき、だろう。それが……。
ゴルフ記者に限らず、ジャーナリストは口の悪い輩が少なくない。しかし、単に悪口を言う人間は少ない。話題に上るケースは、常識を外れた領域である。ここから先、ゴルフ記者の飲み会で、I特派員が話題に上らない日はなかった。
【Broken ArrowのCedar Ridge CCは40度越えの地獄】
暑かった。寒暖計は連日40度越え。地元の新聞は、牛が熱中症で何頭死んだ……などと、報じていた。ゴルフ・コースの芝生からの照り返しは+5度だろうから、我々の膝から下は45度越えの体感だったはずである。
大会本部、記者関係者建物の入り口には、"welcome to the Paradise‼"の文字が飾られていた。
プレス・ルームでは、センターの良い場所にデスクを用意してくれていた。見回していると、部屋の隅に”謀反”を起こしたI特派員がいた。目が合った。会釈が来た。近寄って来て、言った。
「色々と仕事を頼まれちゃって、Tokyo Sportsさんには無理を聞いてもらっちゃって、申し訳ない。分からない事があったら、遠慮なく」
何言ってんだか、今頃――。
Cedar Ridge——枝の張った杉の木でセパレートされ、フェアウエーは微妙なアンジュレーションがあり、百戦錬磨のプロと言えども、思い通りに攻めさせてくれないようだった。試合をリードしていた、ジャン・スティ―ブンソン、"ビッグ・ママ"ジョアン・カーナーらが切れかかるのを何度も見た。スティ―ブンソンなど、フェアウエーからのショットが噛んでショートすると、「オ~ノ~‼」とシャウトするや、アイアンをフェアウエーに叩きつけ、ヘッドを突き刺してしまったシーンもあった。スティ―ブンソンはモデルとしても、リクエストが絶えない容姿であったので、切れると、何か怪しい雰囲気を醸し出す人だった。
岡本さんは冷静なラウンドに見えた。おそらくメジャーでの戦い方……できるだけ、感情の起伏を押さえたプレーを心掛けていたようだった。ラウンド後はTBSのクルーも取り囲んで、40度越えの外気の中でのぶら下がり会見だった。しかし、気が付けば、”謀反”を起こしたI特派員はいないことが多かった。このメジャーには森口裕子さんも参加していたので、そちらへの張り付き……も可能性はあるが、やはり主役は岡本さんである。外すのは不自然だった。
灼熱の女子オープン。岡本さんはスコアを伸ばし切れずに8位。感情の起伏をあらわにしながら攻めたスティ―ブンソンが6オーバーで初優勝。1打差の2位タイにジョアン・カーナー、パティ・シーハンが付けた。文字通り、強豪たちの激戦譜であった。
岡本さんは勝てなかったが、ある意味、絵になる人が勝って、速報は迫力あるものになった。
「やっと勝てた。男性ファンが応援してくれるのは、有難いことだが、かといって"セックス・シンボル”になるつもりはない。このオープンの勝利は、私の立ち位置を明確なものにしてくれた」
スティ―ブンソンは強い女だったのだ。
【U.S.女子オープン8位の後……】
U.S.女子オープンの翌週、マサチューセッツ州ダンバースへ飛んだ。Radisson Ferncroft Hotel Golf Courseでのボストン・ファイブ・クラッシックである。
日本のマスコミがいなくなるので、岡本さんと近い所で話ができるんはずである。岡本さんには、Tokyo Sportsから二人のカメラメンが張り付いていた。Humio Miyasaka, Hiroshi Tezukaで、ゴルフ特集号用のカラー専門と本誌速報用、モノクロ専科に分かれていた。この二人が、ある意味で、I特派員の”いじわる”の防波堤になっていた。
二人から報告を聞いた。
「相当いろいろあったらしいですよ」
「というと?」
「英語が分からないのはダメだとか」
「だって、そのためにマネジャー役もやっていたのでは?」
「いや、最初だけだったようです。そのうち、英語が分からないんだから、文句言わないで、言う事を聞いていろ、とか。車の中では、嫌なら、車から降りろとか……」
"ボデーガード"の二人はまくしたてた。
I特派員の敵前逃亡の真相が見えてきた。噂は本当だった。"人質"が出来ると、都合の良い条件を突き付けてくる。これは言語道断。Tokyo Sportsにとっては、"ドル箱"的存在の岡本さん。雑音をシャットアウトして、 ゴルフに専念してもらわなければならない。
私も覚悟を決めた。
ボストン・ファイブ・クラシック。岡本さんが練習ラウンドを終えたところで、プレス・テントで顔を合わせた。私はもう一度、"よろしくお願いします"と仁義を切った。
「こちらこそ、ゴルフがお上手だそうで、よろしくお願いします」
岡本さんはニコニコしていた。二人の"ボデーガード"から、私の情報を得ていたようで、穏やかな笑顔だった。私はちょっと安心した。
ラウンド中は、二人の"ボデーガード"がロープの内外に張り付いて見守った。もちろん、カメラマンだからシャッターチャンスを狙っているのだが、どっちが本業かわからないほどの密着ぶりだった。そして少し離れたところを私は歩いて、ラウンドを取材した。時折、岡本さんが寄って来て、
「Shiraishiさんなら, 何番で打つの?」と小声で。
私はグリーンに目をやり、距離マークなどを確認して、170ヤードと判断、
「5で行きましょうか?」と口パク、右手を広げた。キャディー以外のアドバイス……ペナルティーの恐れあり。
岡本さんも口パクで、「やっぱり」と言って、笑いを浮かべた。
傍目には私が岡本さんのマネジャーのように映ったに違いない。あのジャパニーズは何者だ?
こんな調子で、I特派員には付け入るスキを与えなかった。
ラウンド後の時間も、夕食を共にする回数が増えていった。自然、お酒も入った。昼のラウンド中、次のパットに一口5ドル賭けたこともあった。もちろん内緒。目と小さいゼスチュアで。上りは夕食時の一杯になった。
しかし、岡本さんのプロ根性はさすがのもの。ラウンドを控えた夜は、ビール、ワインを気持ち程度でストップしていた。
岡本さんは独身だったので、日本の週刊誌が"お相手"を探し出そうとしていた。実際にはいなかったのだが、私がいつもそばにいて、ニコニコやっているので、もしや、と狙いを付けられたようだった。私は既婚だったし、その気はなく、仕事上のやり取りが、そう映ったようだった。
I特派員は仕事場には来ていたが、岡本さんに近づくことはなくなった。してやったり。
忘れないうちに書いておくが、私が日本に帰っていた時は、小川朗さんという敏腕の後輩記者が岡本さんに密着していた。若いので岡本さんにとっては、"パシリ"のように付き合えたはずだ。この人は今独立して、ゴルフジャーナリスト協会会長の要職にある。
【心身を揺さぶられた名勝負】
ボストン・ファイブから二週後に、オハイオ州のShaker Heights CCでのシボレー世界選手権。メジャー的な響きがあるが、準が付くくらいの受け止め方だったろうか。LPGAのビッグネームが12人の出場に限られていた。
6225ヤード、パー72。飛んで、小技も多彩でないとスコアリングできないタフなコース設定だった。岡本さんの調子は良かった。練習ラウンド、120ヤードくらいのショートホールでホールインワン。紙面を派手に飾ってくれた。Big thanks‼ 取材でありながら、興奮で心身が震え出した。
初日は1アンダーで3位タイ。紙面は踊った。2日目は68と爆発して首位。
紙面は"それ優勝だ‼"と燃えた。三日目の岡本さんは75と少し崩れ、"女王"ジョアン・カーナーが67とブレークして通算213の3アンダーで首位、岡本さんは2アンダーの2位。まさに実力世界一決定戦、一騎打ちの様相となった。岡本さんは前半のショートホール、練習ラウンドでホールインワンのショートホールで何と、また入れて見せた。カーナーの鼻先でホールインワン‼ これは勝ったと思った。
しかし、カーナーもさすが。最終日は一進一退の、まさに手に汗を握るデッドヒートとなった。結果、カーナーが69、岡本さんが70。カーナーが優勝、岡本さんは2打差の2位であった。だが、米国LPGAにおいて岡本さんの存在は、さらに大きいものとなった。
この試合が私の中では、岡本さんのベストバウトだと思っている。前述の小川さんや、その後を継いだWさんたちと、一杯飲んで昔話になると、必ずこの話題である。
【飲んで、飲んで】
岡本さんに三人も張り付いているのだから、何かのニュースを他社に抜かれることがあってはならない。試合のない時には、近い未来へ向けて、岡本さんの新鮮な"特報"を流した。それは、本人と打ち合わせした上で、三方が得になるように仕組んだのである。例えば新しいクラブを使う。もちろん、長年の付き合いのあるミズノから外れるわけではなく、ミズノが売り出そうとしている新モデルとか、である。しかし、これも"アヤコに新兵器"となれば、結構なニュースである。読者もスポンサーもうれしい、のである。
……だから、というわけでもないが、岡本さんからの夕食の誘い、カメラマンも一緒で、総勢4人、時々、日本のイベント会社の派遣スタッフが加わって5人になった。
現地の"タニマチ"からの誘いもあった。岡本さんはスーパースターだから、トーナメントの先々で、現地在住の邦人がラウンドに付いて回った。誘いも多々あったようだが、簡単には乗らなかったようだ。それは当然、相手の素性は不明なのだ。
カーナーとの死闘の翌週、デンバーへ飛んだ。Columbine CCでのColombia Saving classic。飛行場からしてmile high。真夏だが、日本の軽井沢のような気候だった。選手たちは家族を同伴したりして、トーナメントをエンジョイするようだった。
いつものように、岡本さんのラウンドにピッタリ張り付いて、コースを歩いていた。途中から、日本人の中年の紳士と一緒になった。Tさんとしておく。
「日本からですか? ご苦労様です。岡本さんは飛びますね。ゴルフが素晴らしい」
「やっぱり距離が出ないと、こちらでは勝負になりません。岡本さんはこちらに来てから、色々な芝生を経験されて、小技の引き出しもかなり増えたようで……」
「だから、強いんですね。しかし、こちらに長くなると、食事もなかなか大変ですよね」
「やっぱり、時々日本食がないとしっくりきませんよね」
「で、どうされてるんですか?」
「我々チームというわけではないんですが、その土地に着いたら、まず電話帳とかで日本料理店を探す、なければ中華、コリアン……米が食べられる場所を調べるんです。そして岡本さんにも知らせる。良ければご一緒する……そんな感じですかね」
「ほ~、よろしければ我が家に招待しますけど、いかがですか」
私がこの紳士の提案を預かって、岡本さんに伝えた。
「へ~みんな一緒なら、行ってみますか?」
初日の夜、岡本さんを連れて紳士のお宅へお邪魔した。高級車が二台。なかなかの邸宅だった。すき焼きパーティーだったか、高級なお肉がこれでもかと出てきた。相当なリッチ間違い無しであった。
「失礼ですが、こちらで何か御商売を」
「いや、こちらは住んでいるだけで、仕事場はラスベガスなんですよ」
「えッ!?」
「実はヒルトン・ホテルのギャンブルを担当しているマネジャーなんです」
想像を超えた人物だった。名刺をもらうと、ヒルトン・ホテル副社長とあった。
岡本さんともども、たっぷりと飲ませていただいた。岡本さんは翌日も仕事があるので、ビール、ワインを、話の相槌をうちながら、ちびちびと。
Tさんは相当な力があるようだった。この後、トーナメントの取材でラスベガスへ行くことを知ると、その場でヒルトンへ電話した。
「Shiraishiさんという方が、カメラマンを連れて行くので部屋をキープしてくれ」
後日、行ってみると、スイートルームが用意されていた。しかも、飲食はすべてサインでフリーですと言われた。あらためてTさんの力を知る事になった。
いつ酒の話になるんだ!? と言われそうなので、ぼちぼち”暴露"を始めよう。一番飲んだのは、シーズンも終盤、日本のスケジュールが見えてきた、ポートランド、シアトル連戦であった。
イリノイ州スプリング・フィールドでのRail Charity Classicを終えると、撥ね発ちしてポートランドへ入った。トーナメントのすき間で、自分たちの休み……遊ぶ時間を作るのと、海がらみの風光明媚な場所で、岡本さんのラウンド以外の"絵"を撮る目的もあった。
夜はゆっくり飲む時間もある。ポートランドで粋な日本料理店を見付けた。店構えもそうだが、入ってみると、酒飲みにうれしいつまみが揃っていた。日本酒も種類が豊富だった。
ビールをコップ一杯。すぐ日本酒になった。一升瓶で頼んだ。
「茶碗で飲まんねぇ‼」
岡本さんが湯飲み茶わんでやりだした。ほおっておけないので、私も湯飲みで対抗した。カメラマンも。あっという間に2~3本転がった。つまみが酒飲み用だし、海の幸も新鮮。話も弾む。I特派員も酒のつまみになった。笑いも巻き起こる。岡本さんはすっかり"呪縛"も解けたようだった。
店のオーナーシェフも湯飲みを片手に挨拶に来た。聞けば、総領事館の調理にも関係していたという。
5人で一升瓶が4本(記憶では)。しこたま飲んだ感じだった。車を運転して帰った。横に岡本さん。酔っ払い運転。ごめん。
翌朝、かねてよりの約束通り、"ニギリフィッシング"に行った。二日酔いで。大きめの釣り船でサーモン・フィッシング。先に誰が釣れるか、などなど、たわいないルールを決めて賭けていた。目的のサーモンは簡単には釣れなかったが、雑魚は大きいゴミ袋がいくつも。雑魚と言ったって、カサゴとかつまみには適切なやつである。これを例の日本料理店に持ち込んで料理してもらい、また同じように飲んだ。しこたま。次の日はオーナーシェフ宅でパーティー。また、しこたま。気が付けば、居間にごろごろとマグロのように転がっていた。この日夜は、どうやって宿へ帰ったのか、記憶にない。
「人生で、あの時が一番飲んでような気がする」
岡本さんは、どこかでそのようなコメントをしていた。こちらも同感である。二日酔いのまま、連日日本酒鯨飲に突入という経験はまずない。
1984年、岡本さんは全英女子オープンを含む3勝を挙げてランク3位に入った。しかし、パワーヒッターには付き物のような腰痛が、許容範囲を超えるところまで来たようだった。手術か保存療法か……岡本さんは悩み始めた。手術して復帰できる保証はない。といって、保存療法ではだましだましで、痛みはいつ顔を出すか分からない。
1985年夏、岡本さんは手術を決意した。腰椎が減って神経を圧迫している箇所にパパイアの酵素を注入してクッションを付ける"パパイア・インジェクション"を選択した。
秋口、岡本さんは評価の高かったマイアミの病院に入院した。私は別の試合地の宿舎のベッドでまどろんでいると、部屋の電話が鳴った。岡本さんだった。
「私です。(マイアミの病院の)ベッドにいます。手術の同意書にサインしました。間もなくです。少しナーバスです」
何か、少し涙ぐんでいるように聞こえた。
「大丈夫。アメリカの先進医療を信じましょう。治ったら、また勝って、また飲みましょう」
岡本さんは〝フっ”と笑ったようだった。
「じゃあ、行ってきます」
電話が切れた。大丈夫だろうか。マイアミの病院へ様子を見に行こうかと思った。しかし、動けば敏感な他社にヒントを与えることになる。知らぬ顔の半兵衛でトーナメントの取材に戻った。案の定、他社の1名はあちこちに探りを入れているようだった。
岡本さんを励ます意味でも、”また飲みましょう"と言ったが、再びの"痛飲”の機会はなかった。テレビの解説でお見掛けする度に、ポートランドでの3連ちゃんを思い出してしまう。お世話になりました。
