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「医者を呼べ!」と言われた医者の話 ー【白衣の記憶】番外編

研修医の頃、
患者さんにこう言われたことがあります。

「医者を呼べ!」

採血すらできない私は、
その場に立ち尽くしていました。


入院患者


鬼塚徳蔵さん、78歳男性。

大動脈弁閉鎖不全症という心臓の病気で、手術のための検査入院でした。
しかし実は、ここ最近1ヶ月ほど、毎日夜になると40度近い高熱を出し、心身ともに衰弱していました。

この謎の発熱を精密検査で解明しなければ、手術ができず、命を落としかねません。

なぜ発熱するのか。
心臓の病気では通常、発熱しません。

風邪や胃腸炎などの感染症の症状も特にない。

なぜか……。

上級医でも悩ましいこの患者さんを、担当することになりました。

お金持ちなのか……?
大物なのか……?
それとも裏社会の人なのか……?

この病院でも、差額ベッドの料金がとても高いと言われている個室に入院となったからです。

とりあえず、上級医でオーベンの榊原先生の後ろにそっと隠れるようにしながら、挨拶に行くことになりました。


鬼塚さん


さすが特別室。
入り口からはベッドが見えません。

来客用のソファーと小さなテーブルが置かれ、その奥、10歩ほど進んだところに鬼塚さんがいました。

「鬼塚です。お世話になります。
夜になると高熱が出るんですよ。よろしくお願いします。」

低いけれど、かなりはっきりとした口調でした。

私はほっとしました。

どうやら裏社会とは無縁の人のようです。

年齢の割に若々しく見えるのは、ロマンスグレーの髪がとても豊かで、さっぱりと品よく整えられていたからでしょうか。
しわも少なく、体調が悪いわりには声にも張りがありました。

少し怖い雰囲気はありますが、
「ちょっといいところの社長さん」
という印象でした。


初めての点滴


「高熱が続いているから、多分脱水になっていると思う。
採血のついでにルート取っておいて。」

榊原先生に指示されました。

採血、ルート……。

ルートとは点滴のことです。
練習はしていましたが、患者さんに行うのは初めてでした。

もう一度復習しよう。

韓国出身の李先生はとても後輩思いの研修医の先輩で、私たち後輩にとても優しく接してくれました。
一番初めに点滴のやり方を教えてくれたのも、李先生でした。

「まずは入りそうな血管を左右3本ずつくらい目星をつけるんだ。失敗を見越すことも大事。
手の先に行くほど痛みが強いから、まずは肘のあたりを狙う。

駆血帯を巻いたら、血管はツルッと逃げないように上からしっかり固定して、
針先は穴を上にして刺す。

皮膚を通過するときは痛みがあるから素早く、
血管に入ったらゆっくりと進める……」

血管が逃げる?
ツルッと?

今ひとつ実感は湧きませんでしたが、
李先生に採血させてもらう時はいつも成功していました。

意を決して、鬼塚さんの病室へ向かいました。


「医者を呼べ!」


「採血と点滴しますね。」

鬼塚さんはむすっとしていました。
さっきは機嫌がよさそうだったのに。

駆血帯を巻きます。
練習通り準備をして、採血針を刺す。

……

「いてーよ!!」

「なんだよ、血が取れないのか。
医者を呼べー!!」

……血管が、逃げた...
ツルッと......

「おい、早くしろ!!」


「……すみません!!」


私は、自分も担当医だとは言いませんでした。
いや、言えませんでした。

医師として何もできない自分を恥じていたのかもしれません。
確かなことは、その場から早く逃げ出したかったということです。

病気を治すどころか、採血すらできないなんて。
自分は最低だと思いました。


榊原先生の言葉


しばらくして榊原先生と朝倉婦長が来てくれました。

ものの数分もしないうちに、採血もルートも確保されました。

一旦病室を出たところで、朝倉さんには優しく肩をぽんぽんと叩かれました。

榊原先生が言いました。

「先生ね……」

(あ、怒られる)

説教を覚悟して俯いていた私に、榊原先生は続けました。

「先生は6年間、一生懸命勉強してここまで来た。
僕たちと同じ立場なんだよ。

自信を持つんだ。
プロ意識を持つんだよ。

足りないのは経験だけ。
誰だって初めてがある。

先生はよくやっている。
経験を積めばいいだけだよ。」

嫌な鬼オーベンだと思っていた人から、
こんな優しい言葉をかけられるなんて、
これっぽっちも思っていませんでした。

涙腺は涙で一杯になり、それを何とかこぼれさせないように、必死でこらえながら答えました。

「はい、わかりました。」


医者になるということ


プロ意識を持つ。

そうだ。
自分も医者なんだ。


自分の中で、
何かが少しずつ変わろうとしていました。


発熱の正体


結局、循環器内科の医局中の医師が検査結果を並べても、鬼塚さんの発熱の原因はわかりませんでした。

しかし心臓の状態が悪かったため、
大動脈弁を人工弁に置換する手術が行われることになりました。

発熱のない午前中に手術は組まれました。

そして——

榊原先生に、手術を執刀した循環器外科の医師から連絡がきました。

「……わかったよ。ついに。」

鬼塚さんの発熱の原因は
高安動脈炎でした。

若い女性に多い病気ですが、大動脈を中心とした太い血管に炎症が起こる病気です。

鬼塚さんの場合、この炎症によって大動脈弁にも異常が出ていたことが明らかになりました。

手術後、ステロイドの点滴が始まった途端に、あれほど毎日出ていた高熱がぴたりと止まりました。
高安動脈炎にステロイドが著効したのです。

鬼塚さんは日に日に元気になっていきました。


そして、退院


「鬼塚さん、発熱の原因がわかってよかったですね。
退院もそろそろですよ。

鬼塚さんはベッドの上で腕を組み、
あのとき怒鳴っていた人と同じとは思えないほど
穏やかな顔をしていました。

鬼塚さんは少し照れたように言いました。

「先生、今まで自分は悪い態度だったかもしれない、ごめんな……。
もう1ヶ月以上毎日熱が出ていたから、すごくイライラしていたんだ。

いくら金があっても、苦しさから逃げられないんだ。
それを悟ったとたん、一生懸命で元気なあんたを見ていて羨ましかったんだ。

あんたのこと、嫌いじゃない。」

「わかっています。」


白衣の重み


医師国家試験に合格したからといって、
すぐに医者になれるわけではありません。

たくさんの経験があって、
少しずつ医者になっていく。

みんな、初めてがあります。

榊原先生に言われたことも、
色あせずに覚えています。

私は今も、
その経験を積んでいる最中です。

そして明日もまた、
白衣に袖を通します。

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