【白衣の記憶】大人の事情──あの子は、何も言わなかった
数年前。
40代の男性が、中学生の息子さんを連れて受診に来た。
息子が腕を怪我したので診てほしい、ということだった。
✴︎
処置のために袖をまくると、
左手首の内側に、いくつもの傷があった。
どれも10センチには満たないが、
ためらい傷と思われるものが複数。
そのうちの一つから出血していた。
✴︎
縫合はせず、テープ固定で処置を終えた。
✴︎
男の子は、終始一言も話さなかった。
処置が終わると、軽く会釈をして、静かに処置室を出ていった。
✴︎
✴︎
あのとき。
医者として、するべき処置はした。
けれど——
何も尋ねなかったことが、よかったのか。
理由を聞くべきだったのか。
いまでも、正解はわからない。
✴︎
✴︎
中学生という年頃は、
勉強や部活にエネルギーを注ぎ、
短い休み時間さえ惜しんで動き回り、
疲れきって帰宅して、そのまま眠ってしまう。
そんなふうに過ごせる年代でもある。
✴︎
それなのに。
✴︎
✴︎
ふと、自分のことを思い出した。
幼い頃、両親の喧嘩を初めて見た日のこと。
とても悲しくなって、
部屋で一人、泣いた。
✴︎
子どもなりに、空気を読んでいたのだと思う。
✴︎
それ以来、両親は私の前で喧嘩をしなくなった。
きっと、両親もまた、私を気遣ってくれていたのだろう。
✴︎
✴︎
あとから、少しだけ耳にしたことがある。
あの子を取り巻く家庭環境は、
決して単純なものではなかった。
✴︎
✴︎
もう成人している頃だ。
どうしているだろうか。
✴︎
✴︎
子どもは、何も言わなくても、
大人の事情の中で、静かに何かを受け取ってしまうのかもしれない。
☕️
