創作大賞落ちたけど
中間発表があり選ばれませんでした。
悲しかったですが、納得もしちゃってるんです。
この自己処理能力の高さに逆に不器用さを感じてます。
創作大賞があったからこそ、文を書き始められたのでとても感謝してるんです。
けど選ばれないんだろうなって、文を書いたり人の文を読むとその感覚が明確にもなっていきました。
初投稿気負い過ぎたでも書いたんですが、自分の話をするのが苦手と言っていたんですが、苦手ではなかったんです。
してこなかっただけでした。
小さい頃からねぇねぇ聞いてという子供ではありませんでした。
今も私の話を聞いて欲しいって気持ちが全然ないんですけど。
多分私が思うに、
おそらくその話を聞いているかいないかではなく、聞いて聞いてということが愛情表現で、
聞くのが愛情表現なのかもしれないと思いました。
つまり話の内容は、二の次なんですよね。
母親に「何で聞いて聞いてみたいなの、俺しなかったんだと思う?」と、
「おれが話した時、おれの内面に興味あんまりなかった?」って聞いてみたんです。
そしたら帰ってきた答えは「余裕がなかった」って言われたんですよね。
あー確かにってなったんですよね。元々話さない子なのもあったし、聞いてくれる相手に余裕が無いから話せなかったなぁって妙に納得したんです。
私、オチのない話、対面だと中々できないんです。やっぱり話すなら、面白いと思って欲しいし楽しませたいと思うんです。
てか人と話す理由がそこって決め付けているのかもしれないです。
私と話したことによって、相手の生活が豊かになればいいなって。
けど相手が話してくれた話は、面白くも楽しくできるんです。それは返す返答だけでなく、相手が話したいと思っているという前向きな状態だからかもしれないです。文も内容は暗いものはあるかもしれないけど、そういう前向きな状態だと思うんですよね。違ったらすみません。
いわゆる、聞く方が得意なんですよね。
ここまで来ると、正直なら何で書いているだろうって話なんですけどね。
したことないから練習してみたいんです。
そこにまだ自分の知らない自分がいる気がして。
文だと余白ができていいんですよね。絵を人に見せるように。こんなのできたよ。どう?って
文って1回自分から離れるし、相手も見たい時に見れるじゃないですか?
今後は聞いて聞いてっていう文も書いていこうと思うし、人に言っていこうって思いました。
まぁこれ勇気がいると思うんですよね。最初は。
来年もまた創作大賞応募したいと思います。
