【掌編】 夜が歩く島 8影
8影 『島息の縫影』
桟橋に降り立つと,足元の木板が,ぎしりと鳴り,その音が島の静寂に吸い込まれていくように消えた.
島の空気がふわりと肌に触れた.
本土の土潤溽暑な重たい風とは違う.
もっと軽くて,もっと澄んでいて,まるで“水の気配”をそのまま風にしたような,そんな冷たさだった.
(気持ちいい~!)
肺の奥までひんやりとした空気が満ちていく.
胸の奥が,ふんわり軽くなる.
島に入っただけなのに,身体の重さがひとつずつ落ちていく.
重力が少しだけ緩んだような,時空の継ぎ目がこの場所だけ微かにずれているような,そんな不思議な浮遊感が足元からじんわりと広がった.
麦わら帽子のつばが,島の風を受けてふわりと揺れた.
まるで“島の空気を確かめている”ような,そんな慎ましい動きに見えた.
自分の輪郭が少しだけ軽くなるような,そんな奇妙な心地よさに,足元の影も世界の縫い目とともに,ひと筋だけ緩んで見えた.
「わぁ…」
思わず声が漏れる.
海はすぐそこにあって,陽光を受けてきらきらと跳ねていた.
友人は,潮風に髪を揺らしながら言う.
「ね,いいところでしょ」
「うん!なんか,空気が違う…風が歩く小径みたいな…」
「そうね.ここは“風の通り道”だから」
友人はそれ以上言わず,ただ微笑んだ.
「さ,行くわよ」
「うん!」
私は友人の後を追う.
桟橋を渡るたび,木材がぎしりと鳴った.
その音さえ,島の呼吸の一部のように静かに流れる.
蝉の声も,波の音も,風のざわめきさえも,どこか遠く,薄い.
まるで世界のボリュームが一段階下げられたような,そんな幽寂閑雅の気配.
さくっ…
島の地面に足を踏み入れた瞬間,空気がまた変わった.
足元の土は,陽に焼けているはずなのに,不思議と熱を持っていなかった.
踏みしめるたび,さくっさくっ,と乾いた音がして,その下に“もっと冷たい層”が眠っているような感触が伝わってくる.
まるで,地面の奥に“影の水面”があって,影だけがそこへ引き寄せられているような,そんな薄い吸い込みの感触が足首を撫でた.
視線を上げると,島の木々がゆっくりと揺れていた.
風に揺れているのに,葉の擦れる音はほとんど聞こえない.
空気の密度が変わる.
海風の冷たさとは違う,森の奥から吹き抜けてくるような,ひんやりとした気配.
「涼しいねぇ~」
私はこの状況に既に骨抜きになっていた.
ふにゃふにゃした声が溢れる.
「そうね.この島,海と森の境目が曖昧なのよ」
「へぇ~…」
友人は歩きながら,どこか“道を知っている人”のように迷いがなかった.
(慣れてる…)
その背中は,どこか“島の空気に馴染んでいる”ように見えた.
グランピング施設へ向かう道は,白砂が陽光を反射してきらきらと輝き,海風が草木を揺らすたび,静穏な葉擦れの音が風の手紙のように耳をくすぐる.
「ねぇねぇ?ほんとに誰もいないの?」
私が小声で問うと,友人は肩をすくめた.
「スタッフが数名いるはずだけど,準備で忙しいだろうし,こっちのエリアには私たちだけ.貸切よ」
「貸切!?なんで?なんで?なんで?」
「普通,オープン前の宣伝とかトラブルの未然確認とか改善事項とかやるじゃない?」
「プレオープン?」
「そう.そのプレオープンする前に,どんな感じか体験してほしいって,まぁ,身内特権?みたいな」
「プレプレオープンだね!」
「なにそれ」
とりとめのない話で顔がほころぶ.
テントが並ぶエリアに入ると,ドーム状の白いテントが整然と並び,ウッドデッキにはハンモックが揺れていた.
船の中で見せてくれた写真よりも,ずっとおしゃれで,ずっと静かだった.
白布が風に揺れ,その影が地面に淡く落ちていた.
(…あれ?)
どれも同じ形なのに,ひとつだけ,影の輪郭がわずかに遅れて揺れている…ように見えた.
風のリズムと微妙にずれているような,微かな違和感.
“風の揺れを真似している”ように,影が影であることを忘れたみたいに,どこかぎこちないリズムで揺れていた.
目を凝らすと,影はすっと形を整え,ただの布の影に戻った.
「どうしたの?」
友人が振り返る.
「ううん…なんでもない…よね?」
「なんで疑問形?船旅で疲れた?」
「そんなことないと思うけど…」
言葉が尻すぼみになる.
胸の奥の不安が,潮風に冷やされて,かえって鮮明になる.
島の空気は澄んでいるのに,どこか薄闇が潜んでいるような気がした.
ふと,足元をかすめるように風が通り抜けた.
(にゃぅ!?)
思わず目線を下げた.
その風は,ただの風じゃないように感じた.
ひんやりしているのに,どこか懐かしい匂いが混ざっていて,まるで“誰かがそっと触れた”ような優しさがあった.
(今の…どこかで…)
なにかが過るが,すぐに霞んだ.
胸の奥の,もっと奥――普段は触れない場所に,ひゅ,と細い糸が触れたような感覚が走った.
記憶の端っこを,誰かがそっと摘んで引いたような,そんな微かなざわめき.
(…なんだっけ…)
言葉になる前に,その感覚はすぐに霧みたいにほどけていった.
掴もうとした指の間から,さらさらと零れ落ちる砂みたいに,形になる前に消えてしまう.
胸の奥に残ったのは,“思い出しそうで思い出せない”あの,くすぐったいような,苦しいような空白だけ.
(まぁ…いいか…?)
波の音は遠く,蝉の声は薄く,風のざわめきは静かで――
その静けさの奥で,島だけが,ゆっくりと呼吸しているように感じられた.
その呼吸の中では,考えることを止めることが正解だと気づかされる.
ふと,海岸沿いの小道に視線が流れた.
視線の先には,古びた鳥居がぽつんと映った.
赤いはずの柱は色褪せ,ところどころ剥がれている.
太陽に照らされているのに,影だけがどこか冷たかった.
その細い柱は,まるで誰かの背骨のように見えた.
(わぉ…)
鳥居の奥は,陽の光が届かないのか,そこだけぽっかりと穴が開いたみたいに暗かった.
光が届かないというより,光そのものが“拒まれている”ような,そんな奇妙な密度を孕んでいた.
風が吹いているのに,草も木も揺れない.
耳を澄ますと,蝉の声も,木々のざわめきも,風の囁きさえも,鳥居の向こう側だけ風が“避けて通っている”ように静まり返り,“途切れている”ように感じた.
暗闇の輪郭がふわりと揺れ,まるでそこだけ別の空気が流れているように見える.
もっと深く,もっと古く,まるで長い時間をかけて何かがそこに沈殿していったような,そんな重さを帯びた気配.
「なにか出そうね」
「なにかってなに!?クマ!?」
「クマはいないよ」
「じゃぁ,な…」
声が裏返った.
その瞬間,鳥居の奥から,ざり…と砂を踏む音がした.
私の心臓が,ぼくんっと,一際大きく跳ねる.
ナニかがいる.
でも姿は見えない.
喉の奥が,きゅっと細くなる.
空気が上手く吸い込めない.
見えないナニかの“眼光炯々”とでもいうような気配に,そっと視線を掴まれたような感覚.
私の記憶の奥の奥に沈んでいる“名前のない何か”に触れるような,記憶の端をそっと摘んで引き寄せようとしているような,そんな冷たい気配.
さわさわさわっ…
風が吹いた.
鳥居の向こうから,気配がすっと近づいてくる.
鳥居の影が細く伸びていた.
風が吹いても揺れず,まるで“こちら側へ踏み出そうとしている足”のように見えた.
その影の先端だけが,かすかに震えていた.
麦わら帽子のつばの影が,鳥居の奥の気配を察して身をすくめるように,一歩退いた.
その動きは,まるで“触れちゃいけないよ”と,私にそっと知らせるような,そんな拒絶にも似ただった動きだった.
(なになになに~?)
体に余計な力が入る.
肩がきゅっと上がり,指先までこわばる.
胸の奥が,馬の群れが走り抜けるみたいに,どどどっ,と不規則に跳ねた.
空気が,薄い膜みたいにぴんと張りつめる.
世界が一瞬,息を止めたみたいに静止した.
(はぅぁぅ!?)
目をぎゅっと瞑りそうになった.
その瞬間――
「あら,かわいい~」
友人がしゃがみながら,息混じりのふんわりした歓声をあげる.
友人の足元に1匹の茶色い仔うさぎが擦り寄っていた.
ぱちん,と胸の緊張がほどけた.
ふっと,一気に力が抜ける.
さっきまで張りつめていた肩が,するりと落ちていく.
指先のこわばりも,ゆっくり溶けていく.
膝が少し震えて,思わずその場にへたり込みそうになる.
(…びっくりしたぁ…)
鼓動はまだ早いのに,胸の奥の重さだけがすうっと消えていく.
体の中のなにかが,潮が引くみたいに静かに遠ざかる.
一体何に怯えていたのか,わからなくなる.
でも,鳥居の奥の暗がりは,まだ静かにそこにあった.
まるで,こちらを見ているように.
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