【カウンセリングのif質問について】/動画の感想含む
本当は違う内容の記事を書くつもりだったのですが、つらつらと書いていたつぶやきだけで一記事分の文章量になってしまったので、こちらを上げますね。
なるほど・・・!と思う動画がありました。
しつけと虐待の境界線はどこ?
私もこの動画に出てきたマロ主と同じで、バチーン叩かれたり締め出しを食らったりする日常が3~4年ありましたが、かなえ先生の解説を聞いて、うちのマミーも言って聞かせる努力を諦めなければしつけの部類だったのになぁと感じたのでございました。
動画を視聴している途中では、あぁやっぱりあれはしつけだったんや!と思ったけど、最後まで見るとセルフコントロール力が全然身についていなかったのでほな違うなぁ・・・とミルクボーイみたいなことを言っていました。
まさに、親にとってはしつけだったんだろうけど私にとっては・・・と思う。
でうく、極力割安でカウンセリングを受けてみたいと思い(といいつつ、宗教を掴まされて結果的に高くつくことはありましたw)、モニターなどで触りだけ何度か体験したことがあるけれども、そのときに共通して訊かれたのが、
「あの頃のあなたは親に何と言ってほしかったのでしょう」
でした。
カウンセリングではどうして“if”の質問をするのか?
私はifの話が嫌いというか、あのときはあのときでお互いベターだと思ってその対応をしたと思っているので、この手の質問にはあまり乗り気になれずにいたのですが、どうしてこの手の質問が繰り返し必要だったのかというのが上の動画を見たときにわかった気がしましたね。
この手の質問は精神まで“あの頃”に返ってしまうと行き詰まるというか、精神まで子ども返りしているうちはその状況や発想に囚われているので、最終的には“大人となった今の心”で思考することが求められるんだなと思いました。そのために繰り返し質問するし、理性的になれないのなら理性的に思考できるフラットな状態にもっていくためにまずは子ども返りして、ギャンギャン泣いて、ワーワー怒ると。
また、これは母子分離とか、自他を切り離して考えることを促す質問でもあるなとも実感しまして、「あのときはあのときでお互いベターだと思って」とか「あのときは互いに精一杯だった」とか言ってるうちは生きづらさは変わらなくて、“お互い”ってなんやねんということなんですよね。
境界線をつくる練習
“お互い”というのは互いを傷つけないいい言葉ではあるけれど、そこが自他の境界を曖昧にしている。別に自分と相手が違う考えや感想を持っていてもいいんだけれども、そこがぱっくり分かれてしまうと責任の所在もはっきりしてしまうし、場合によっては優劣や勝ち負け、加害者被害者などのレベルづけにもなってしまうから、社会的には避けられているような事柄にも感じます。
それは物事同士の境界も曖昧にしているフシがあると感じます。
例えば、望ましくない“行動”について注意を受けただけなのに「“自分”を否定された!」と傷ついてしまう話は割とよく聞くと思います。
言霊などもその部類なのではと感じることがあります。
言語化したことが100%その通りになったり、物事の100%をカバーできるわけはないのに言葉を過大評価している。それもやっぱり、言葉と事象の境界があやふやになっているということだろうなーと感じます。
言葉は言葉、気持ちは気持ち、出来事は出来事、行動は行動、他人は他人、自分は自分と、それぞれを独立した存在として見る練習は必要なんだろうね。
母子分離というのは、自他境界や事象の独立性を理解する訓練の最初のステージで、それには言語化(自身の思考を独立させる)とコミュニケーション(独立した思考同士を披露し合うことで、違い=境界があることを知る)が不可欠なんだなぁと感じました。
言葉の重要性
我が家はパピーが風来坊で家にあまりいなかったので夫婦喧嘩は殆どなかったのですが、バチーン1時間+ガミガミ2時間半コース時にはバチーンガミガミ3時間半セットとかだったので、言葉に対するストレスのくだりもよくわかる。社会人になってからこそ支障が出てくるメカニズムもなぁるほどなぁと感じる説明でした。
それで「親に何と言ってほしかったのか」についてですが、結局“あの頃”に対する解像度が「親の機嫌が悪い」くらいしかないので「なんで機嫌が悪いのか、わたしは何をすれば正解だったのか、言語化してー!」が正直なところではございます。が、やっぱ言語化して、だよね。
言って聞かせる努力を諦めないでだよね。
子どもは言ってもわからないから、だから何を言ってもよかったのかもしれないけど、2時間半ガミガミと前もああだったこの態度が気に入らないとか説教をされるよりも、子どもでも理解できるように一つのことを掘り下げて、噛み砕いて説明してほしかったよね。
境界の数だけ“手段”が増える
じゃあ、それを今更親に言うのかというとその必要はないし、ただ、その思いを抱くこと自体は自由だよねということ。これは気持ちと行動の切り離しだね。
言ったとしても「ガミガミ説教」のことを言っているだけで、親の子育てに対する努力は否定していない。これは行動と行動の切り離しだし、私にとってはこうだったよ、でも、親にとってはこうだったんだね、と確認し合うのは自他の切り離しに繋がる。
少なくとも、「言語化」ができていれば言語化された思考をnoteに記すなり、親にぶつけるなりの“取り扱い可能”なものになるし、例えば「ガミガミ説教」のように“ポイント”が絞れれば、それもまた取り扱い可能なものになる。
中には、言っても理解してもらえないなどの取り扱い“不可能”なものもあるけれど、可能なものと不可能なものを分別して可能なもので固めてやっていくことができる点を考えると、やはり手段は増えていることになるね。
心理カウンセリングというのは歯科治療などと同じで、痛いとわかっている箇所をわざわざつつかれに、しかも本来は複数回にわたって行くので、当然話してスッキリ!で済むものでもありませんが、適切に扱えば医療行為に匹敵するほど強力なものだと感じました。
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