【仕事について語る】/あれは適応障害だったなぁというはなし①
こんにちは。
「急激に変化する現実と自己の折り合いをつける」―――Mystic Pioneer(ミスティック・パイオニア)―――DEUKUです。
そういえばGWも明け、五月病になっているであろうこの頃、一足遅いかもしれませんが、今回は仕事について語ろうかと思います。
DEUKUも今でこそ仕事と自分の折り合いをつけて、この業界でまたしばらく様子を見るかと肚が決まりましたが、昨年までは常に「退職」のワードが脳内をちらついていました。
ただ、現在でも最終的な切り札として「退職」の選択肢は消していません。それは自己研鑽の動機づけにもなります。
このテーマで語りたいこと
仕事を継続するために重要な要素とは何か
仕事で挫折経験をしたときの立ち直り方
実績と配慮を獲得するまでのプロセス

DEUKUのスペック
○ 会社での属性
現会社に就職して10年め。正社員
全国転勤のある会社で、現在は転勤3ヶ所め
配属先はコロコロ変わるが、仕事内容が丸っきり変わってしまうことはない
上司・同僚・部下は1年ごとに人事異動で必ず変わる
昭和気質の残る会社で、かつては上下関係が厳しく、気の利いた行動ができなければ排除される傾向が強かったが、現在は「長い目で見てもらえる」というプラスの側面のみ残っている
○ DEUKU自身の素地
地元を離れて15年め。研究業界に5年→現職
今振り返ると現職に転職する前から病んでいた
今振り返ると年上の女性が苦手。特に20歳以上年上だと衝突する
「気を利かせる」ことや「根回し」がキライだった
いろんな刺激に敏感になっていたと今は思う
会社での立ち位置
○ 概要
1~3年めが1ヶ所め、4~7年めが2ヶ所め、8年めから3ヶ所め
1年めは新人待遇、2~4年めは社内ニート、5年めは再研修時期、6年めが唯一キャリアパスと合致する時期、7~9年めが社畜
新人時代のトラウマ的上司と10年めにして同じ職場。別の上司には正直に伝え、1対1での接触は極力ないよう配慮してもらっている
○ 1ヶ所め(1~3年め)
今振り返ると、わたしの側にも要因があり、入職前からかなり病んでいたと思います。会社としても扱いに困ったのだろうなと今は思えます。
「女性上司が苦手」とか、今思うと「子どもの頃の母親との関係性」がそのまま仕事でも出てしまっていたなど、育ちの影響として受け取れることも結構多いです。ただ、そのことについてはまた別記事で振り返るとして、この記事では仕事の事柄に絞りたいと思います。
・1年め
わたしはいわゆる「既卒」の採用でした。教育制度は充実していましたが、その分上下関係の厳しい職場で、「いくらあなたが年上だろうがこの会社では下っ端なんだから先輩の言うことを聞け」と、指示された経験もないうちから釘を刺されました。
一方、わたしはというと、今思えば年齢の割に社会性は欠如していたと思います。研究という独特の世界にいたのもありますし、その前は精神的に病んでいた時期が長くあったので、付け焼き刃のマナー集などを読んでいてもすぐにメッキが剥がれ。
例えば、電話対応なども、我が社の暗黙のルールとしては「上司からGOサインが出れば新人が電話に出てよい」ものだったっぽく(未だに真偽はわかりませんが、ここ数年の新人の様子を見ているとそのようです)、それを知らないわたしは「新人は積極的に電話に出るべき」というマナー集から得た思い込みで“勝手に”行動して会社の心証を害しました。必要だったのはマナー集などではなく、職場の空気を読み取る力だと後年になって理解します。
また、年功序列なので先輩がデキる人とは限らず、何を言いたいのか、何を訊かれているのかがわからなかったり、「なんで」ばかりを連発されて詰問されている気持ちになり「もういいです」とコミュニケーションを諦めたこともあります。
ここから先の転落は非常に速く、わたしは職場でどのような振舞いをすればよいのかわからなくなりました。
・2年め
2年めのときに直接の上司が替わりました。20程度年上の女性で、本社ではエリート、支社では若手潰しと名高かったようです。
その上司は独自の“進級試験”を設定しており、試験に合格すれば一人前の仕事を与えるというものでした。前述のとおり、どのような振舞いをすれば正解なのかわからなくなっていたわたしは頭が真っ白になり、動きが固まってしまいました。試験は不合格。ここから社内ニート期間に移行します。
相変わらず電話対応はしていましたが、問い合わせ等で対応方法がわからず、助けを求めても誰からも相手にしてもらえないので、先方に2~3日猶予をいただき頑張って調べるも、よくわからなかったため結局なんとなくで返したこともありました。
電話以外の業務は上司の見張りがないとできないいわゆる「マイクロマネジメント」状態で、お客様を前にしても上司が来ないと話しかけることもできないので、気まずすぎて対面での対応も嫌になってきました。
やる気がだんだんなくなっていくので、それを察した上司は更に業務に参加させなくなりました。わたしは自席にいることが殆どとなり、訳のわからない問い合わせと理不尽なクレーム電話を受けながら、資格の勉強をして過ごしました。
業務を外されるようになってしばらくはトイレで泣いていることも多かったですが、それさえも時間の無駄のように感じてきて、やがてトイレで過ごす時間は転職サイトの情報チェックに変わっていきました。
電話への耐性や転職情報チェックの経験は何気に現在でも活きています。
・3年め
3年めのときは新人が来ました。
また、直接の上司は相変わらずですが、支社のトップが替わりました。支社のトップも20程度年上の女性で、非常に感情的な人でした。全員に対して平等につらく当たるため、わたしとしてはパワハラであることが目に見えてわかるありがたい存在でした。
誕生日プレゼントにボイスレコーダーをもらったのは、後にも先にもこの時代だけです。
新人もまたマイクロマネジメントを受け、精神的に追い詰められていましたが、残業時間の計上が厳密になりつつある世の中だったので、いわゆる“お付き合いサービス残業”もなくなり、定時でさっさと退社し新人と夕食をともにするように。
互いに慰め合いながらなんとか過ごしてきましたが、わたしに対する支社の評価は「3年間様子を見てきたが、どの業務も自立して行うことができない。向上心もなく、成長が見込めない」という惨憺たるもので、この評価がそのまま申し送り事項として2ヶ所めの職場に引き継がれることになります。
そして、4年めも不適応状態を引きずることになるのです。
次回について
長くなりましたので、いったんここで話を切ります。
それにしても、恨み言というのはいつまでも、どこまででも語られるものなのだなと自分自身を見て思います(笑) 人の振り見て我が振り直せ・・・😌
次回は、4年め以降の状況が好転する過程を語りたいと思います。
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