創作とは何か。
僕にとって、
・ダラダラYouTubeを見ている時間
と、こうして、
・ダラダラnote記事を書いている時間
は、“等価”である。
どういう意味で等価かというと、YouTubeなら面白い動画が流れくればついニヤニヤしながら見てしまうし、クソみたいな動画ばかり流れてきたら「クソだな」と思う。
note書いてるときでも、面白い文章が思いついたらついニヤニヤしながら書いてしまうし、クソみたいな文章しか出てこなかったら「クソだな」と思う。
そしてどっちも、別にやってもやらなくてもいい、生きるためには必要のない活動であることも共通している。
つまり、気持ちとしてはどっちも同じ程度の娯楽活動だと思っている。
ちなみに、今この記事を書いている瞬間の僕の気持ちとしては、どちらかというと「クソ」寄りである。
こんなテーマで嬉々として書き始めてみたはいいものの、なかなか面白い表現や論理展開が見つからないので、ただ本当にダラダラと書いているような状態になっている。
そもそも、ネタが弱いのに書き始めたことでこんなことになっていて、
気持ちとしては、お気に入りのチャンネルの動画を見ていたのに、スクロールしていくうちに海外のクソしょうもないドッキリ動画ばかり流れている状態と同じだ。
こうして行き詰っている時にはふと、僕の体はパソコンの画面とキーボードへの集中力を落とし、
ふと、何の意味もなく机の引き出しなんかを開けてみたりする。
すると、なんということだろう。
引き出しを開けるとなぜか、「魚肉ソーセージ」の匂いがするのである。
もちろん、仕事机にギョニソなんて常備していない。
僕はそこまでのギョニラーではない。
だが、嗅げば嗅ぐほど、どう嗅いでもまごう事なきギョニソなのだ。
この机を使い始めて、もう2年以上は経つはずなのだが、不思議な事に未だかつて僕はこの机の引き出しに対してギョニソを感じたことは一度もない。
ただの木の机。
普通の、ニトリで買った木製のワークデスクである。
が、なぜだか今日という日に突然、ギョニソを感じる。
そんな突然のギョニソに、つい口角が水平より3°ほど上を向いてしまっている。
そしてこれが、今のこの創作活動(記事書き)の行き詰まりを劇的にブレイクする何かにならないか、と期待しながらあれこれ考える。
なぜこんなにも僕の机の引き出しから、ギョニソのかほりがするのだろうか?
そう思いながらも、ここから全く話が広がりそうもないので、せっかく勢いを得た顔面の表情筋も、すっかり元気を失い口角はまた水平に戻る。
こんなにもギョニソだが、改めてずっと嗅いでいると、なんだかこれが普通に木の匂いだったかな、なんて気もしてきて、
せっかくのギョニソ感も薄れてきた。
つまり、そういうことなのだ。
…と、何かの真理を見出したいのだが、特に何もでてこない。
こういう時に、頭を振り絞る。
つまり、どういうことなのか。
ダラダラ書き始める。
その行為が、ダラダラとYouTubeを見ていることと、気持ち的には完全に等価。
でも「だからなんだ?」の域を抜け出せない。
するとふと机を開けると不思議とギョニソのかほり。
だがずっと嗅いでいると、それが普通に木の匂いに感じてくる。
つまり…
つまり…
うん、今日は出てこない。
とりあえずこんな日は、書いた記事は全部ボツになる。
こんなボツ作品を山のように生産し、パソコンの中をゴミだらけにする。
だがせっかくなので、今日は無理やりそれっぽい言葉で締めようと思う。
「人生とは、机の引き出しからなぜかふと広がるギョニソの香りのようなものである」
ここに意味を見出した時、僕らの創作は始まるのだ。
あるいは、終わりかもしれない。
そして改めてまた机の引き出しを開けてみる。
「うん、やっぱりギョニソだ。」
想像以上のギョニソが僕の口角にまた元気を与える。
こんな日も悪くない。
出てこない事もまた創作である。
Jun@そろそろnoteの方向性を見失い始めている男
