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分離した自我から「交流する自我」へ――宮沢賢治とAI・BI時代の人間観

割引あり

「私」は、本当に私だけのものなのだろうか。

私たちは、自分を世界から切り離された一個の存在だと思っている。しかし、宮沢賢治は「わたくしといふ現象」と呼び、仏教は「無我」を説いてきた。そこに共通しているのは、「私」を固定した実体ではなく、世界との交流の中で生まれる現象として捉える視点である。

そして今、AIの登場によって、知性や創造性さえも「私の内部にあるもの」とは言い切れなくなりつつある。さらにBIは、生存を市場での労働や交換能力だけに委ねる社会のあり方を問い直す。AIが生産を担い、BIが生存を支えるとき、人間は何のために生き、何のために働くのか。

その先に見えてくるのは、「分離した自我」から「交流する自我」へという、人間そのものの捉え方の転換である。


宮沢賢治


宮沢賢治の詩に、次のような一節がある。

「わたくしといふ現象は仮定された有機交流電燈のひとつの青い照明です」

初めて読むと、難解な科学用語を使った独特の詩的表現に見える。しかし、この一節を「自我とは何か」という問題から読み直してみると、驚くほど現代的な思想が浮かび上がってくる。

賢治はここで、「私は○○である」とは言っていない。

「わたくしという現象」と言っている。

これは極めて重要な違いである。

私たちは通常、「私」というものがまず存在し、その「私」が世界を見たり、考えたり、他者と交流したりすると考えている。

つまり、

私 → 世界

という構造である。

しかし賢治は、そうではなく、「私」そのものを一つの現象として捉えている。

しかも、それは「有機交流電燈」である。

つまり、「私」は独立して存在する固定的な実体ではなく、さまざまなものとの「交流」によって、一時的に灯る光なのである。

これは、仏教の「無我」や「縁起」と驚くほど響き合っている。


「私」は本当に独立した存在なのか

近代社会は、「独立した個人」を基本単位として成立している。

私は私である。

私は自分の身体を持っている。

私は自分の意思を持っている。

私は自分の能力を持っている。

そして、その能力を使って働き、所得を得て、自分の人生を選択する。

自由とは、自分の意思によって自分の人生を決定することである。

この「独立した個人」という考え方は、近代社会にとって極めて重要だった。

個人の権利を守るためにも、国家から個人を解放するためにも、「私」と「他者」の境界を明確にする必要があったからである。

しかし、その一方で、近代社会は次第に、

「独立した個人こそが、人間の本来の姿である」

と考えるようになった。

ここに一つの転倒が起きた。

本来、社会制度を作るためのモデルだったはずの「独立した個人」が、人間そのものの定義になってしまったのである。

そして、「自我が確立していること」が成熟の証とされるようになった。

自分の意見を持つ。

自分の意思を貫く。

他者に流されない。

自分の人生を自分で決める。

もちろん、これらは重要である。

しかし、それだけが人間の成熟なのだろうか。


「自我が弱い」のではなく、「自我のモデルが違う」

この問題を考えるとき、日本人に対する「自我が弱い」「自己主張が苦手」「個人として未成熟だ」という評価も、少し違って見えてくる。

日本社会では、

「空気を読む」

「相手の気持ちを察する」

「場を乱さない」

「自分を抑える」

といった行動が比較的重視される。

これを近代西洋的な「独立した個人」という基準から評価すれば、「自我が弱い」ということになる。

しかし、別の見方もできる。

それは、日本文化には、

自己を他者との関係から切り離して考えない傾向がある

ということである。

「私は何をしたいのか」だけではなく、

「この場で私はどう振る舞うべきか」

「相手はどう感じるか」

「この関係をどう維持するか」

まで含めて自己を捉える。

これは「自我がない」ということではない。

自我の定義が違うのである。

「私は私」という自己ではなく、

「私は、この関係の中にいる私」

という自己である。


さらに仏教は、その「私」さえ疑う

しかし、仏教はさらに一歩先へ進む。

「私は他者との関係の中に存在する」と考えるだけではない。

そもそも、

「私」という固定した実体が存在するのか

と問いかける。

身体も、感情も、記憶も、欲望も、言葉も、環境も、他者との関係も、すべてが変化し続けている。

昨日の私と今日の私は同じなのか。

幼少期の私と現在の私は同じなのか。

私の考えていることは、本当に「私だけ」が生み出したものなのか。

使っている言葉は社会から受け取ったものではないか。

知識は誰かから教わったものではないか。

価値観は文化によって形成されたものではないか。

こうして考えていくと、「私」というものは、独立した実体というより、さまざまな条件が重なったところに一時的に成立する現象だと考えることもできる。

これが「無我」である。

そして、この無我を詩的に表現したものとして、賢治の「わたくしといふ現象」という言葉を読むことができる。


「有機交流電燈」という驚くべき比喩

では、なぜ賢治は「現象」を「有機交流電燈」と表現したのだろう。

電灯は、それ自体が光を持っているわけではない。

電気が流れることで光る。

そして「交流電流」は、一定方向に流れ続けるものではなく、絶えず変化しながら流れている。

賢治の「私」は、まさにそのようなものとして描かれている。

私は固定した光源ではない。

世界との交流の中で、ある瞬間に光っている。

つまり、

「私が存在しているから世界と交流する」のではなく、「世界との交流によって私という現象が生じている」

のである。

ここでは「私」と「世界」の境界が逆転している。

「私|世界」

ではなく、

「世界 ⇄ 私 ⇄ 世界」

なのである。


AIは「交流する自我」を可視化する

そして、この賢治の言葉が、AI時代になって急に現実味を帯びてきた。

生成AIを使って文章を書くことを考えてみればよい。

そこに生まれた文章は、誰のものなのだろう。

自分が書いたのか。

AIが書いたのか。

自分が持っていた経験や知識と、AIが持っている言語的能力との相互作用によって生まれたのか。

おそらく最後の説明が最も実態に近い。

しかし、これはAI以前からそうだったとも言える。

私たちが使っている言葉は、自分が発明したものではない。

知識も、自分一人で作ったものではない。

思想も、教育も、文化も、社会も、自分の外部から与えられている。

つまり人間の「知性」そのものが、最初から巨大な交流の中に存在しているのである。

AIは、その事実を極端な形で可視化したにすぎない。


AIは「私の知性」を外部化する

これまでの技術は、主として身体能力を外部化してきた。

自動車は脚を拡張した。

クレーンは腕を拡張した。

望遠鏡は目を拡張した。

ところがAIは、知性を外部化する。

記憶する。

検索する。

翻訳する。

文章を書く。

絵を描く。

計算する。

推論する。

そして、場合によっては人間に問いを返し、人間の考えそのものを変えてしまう。

ここでは、もはや単純な

人間 → 道具

という関係だけでは説明できない。

むしろ、

人間 ⇄ AI

という相互作用が生まれる。

そして、その相互作用の中で新しいアイデアや文章や判断が生まれる。

つまりAIは、単なる「自我の拡張装置」ではない。

自我そのものが、最初から関係の中に存在していたことを明らかにする装置

でもある。


「私」はネットワークの中に灯る光になる

ここで賢治の「青い照明」が再び意味を持ってくる。

人間を孤立したコンピューターだと考えてみよう。

その場合、「知性」はそのコンピューターの内部に存在する。

しかし実際には、人間の知性はそうではない。

家族。

友人。

学校。

社会。

言語。

文化。

書物。

自然。

道具。

インターネット。

そしてAI。

これらとの交流の中で、人間の思考は絶えず変化している。

そう考えると、「私」とは巨大なネットワークの中に一時的に現れる一つのノードであり、一つの光である。

賢治の言葉を借りれば、

「有機交流電燈のひとつの青い照明」

なのである。


ここで「無我」は、虚無ではなくなる

「無我」という言葉は、ともすると「自分なんて存在しない」という虚無主義のように受け取られる。

しかし、賢治的な「無我」はむしろ逆である。

私は固定した実体ではない。

だからこそ、世界と交流できる。

私は世界から切り離された存在ではない。

だからこそ、世界の中で生きている。

私は自分だけで完結していない。

だからこそ、他者から何かを受け取り、また他者へ何かを返すことができる。

つまり、

「無我」とは、自己の消滅ではなく、自己の開放である。

自我という壁を取り払ったとき、その向こう側に、世界との巨大な交流が見えてくる。


これは「贈与」の世界観にもつながっている

ここまで来ると、経済の問題にもつながってくる。

近代経済学は、人間を基本的に「交換する個人」として捉える。

私は自分の労働力を持っている。

それを市場に提供する。

その対価として賃金を受け取る。

そして、その賃金によって自分の生活を維持する。

ここでも「独立した個人」が出発点になっている。

しかし、現実の人間は、最初から誰かから何かを受け取っている。

生命そのものがそうである。

親から生まれる。

食べ物を受け取る。

言葉を受け取る。

教育を受ける。

社会のインフラを利用する。

先人が作った知識を使う。

自然からエネルギーを受け取る。

つまり、人間は「交換する個人」である以前に、

「贈与を受け取る存在」

なのである。

ここにも「無我」と「贈与」の深い接点がある。


BIは「独立した個人」という前提を緩める

この視点から見ると、ベーシックインカムも単なる所得政策ではなく、近代社会の人間観を揺さぶる制度として捉え直すことができる。

近代社会では、

働く

所得を得る

生存する

という関係が強固に結びついている。

しかし、AIによって人間の労働と価値創出の関係が変化していけば、この結びつきはますます問い直される。

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