第1部:上を向いたルームミラーと「味見」の規律
出勤してドライバー席に座り、まず最初にする
儀式がある。ルームミラーをぐいっと上へ向け
ることだ。
後部座席の女の子と目が合う気まずさ。
それは、この仕事に関わる人間なら誰にでも理
解できる感覚のはずだ。「見ていない」という
証明のために、僕はあえて視界を捨てる。それ
が僕なりの最低限のマナーであり、プロとして
の自衛策でもある。
だが、視線を遮っても耳までは塞げない。
背後からは、SNS用の日記を更新しようと躍起
になっている彼女たちの声が飛んでくる。
「パンツが浮いててセクシーに見えないw」
「昼間だからパンツ透けて筋が見えちゃって困
るw」
あんなにミラー越しに目を合わせることを拒絶
していた僕の耳に、あまりに無防備で、あまり
に露骨な日常が、楽しげな笑い声とともに飛び
込んでくる。
「ミラー上向けてるから、後ろ見えてないんで
大丈夫ですよ!」
そう返しながら、僕は少しだけ気恥ずかしくて
笑ってしまう。見えていないはずの視界の外側
で、綺麗で魅力的な彼女の姿を、脳が勝手に、
鮮明に補完し始めてしまうからだ。
「……それでも、彼女たちは商品なんだ」
自分に言い聞かせるように、自問自答を繰り返
す。
水商売が長い僕にとって、女の子の裸体や色気
なんてものは、今さら興奮する対象ですらな
い。ましてや、この商売に「味見」なんて選択
肢は存在しないのだ。
勝手に想像を膨らませた分だけ、心の中で自分
から座布団を3枚くらいひっぺがす。そうやっ
て無理やり自分を平静な場所へと引き戻し、今
日も静かにアクセルを踏む。
けれど、不思議と虚しくはない。
ドライバーは客と接することはない。だからこ
そ、こんな些細なやり取りで笑いをもらい、ホ
ッコリできている自分を、どこか誇らしくさえ
思うのだ。
上を向いたミラーの死角で、今日も僕の「プロ
としての日常」が始まる。
