ネットは人を愚かにしたのか
はじめに
最近、ある訃報をきっかけに、昔から知られていた話がSNS上でもう一度掘り起こされているのを見た。
新しい事実が出たわけでもない。
それでも、まるで今起きた事件のように、また大勢の人が断罪し始める。
それを見ていて、少し気持ち悪さを感じた。
そして思った。
ネットは、人を愚かにしたのだろうか。
たぶん、少し違う。
昔から、そういう人はいた
昔から、根拠のない噂を流す人はいた。
知ったかぶりをする人もいた。
人から聞いた話だけで、簡単に他人を断罪する人もいた。
職場にもいた。
学校にもいた。
近所にもいた。
人間そのものは、昔からそれほど変わっていないと思う。
ただ、昔はそういう人が何か言っても、その言葉が届く範囲は狭かった。
職場。
学校。
近所。
居酒屋。
せいぜい、その場にいる数人から数十人。
誰かが酒を飲みながら好き勝手なことを言っても、その場で消えていった。
2ちゃんねるは「便所の落書き」だった
昔の2ちゃんねるにも、酷い書き込みはいくらでもあった。
誹謗中傷もあったし、デマもあった。
ただ、当時よく言われていた言葉がある。
「便所の落書き」
今になって考えると、この言葉は案外重要だったのかもしれない。
書く側も読む側も、
「ここはそういう場所だ」
と、どこかで分かっていた。
そしてもう一つ大きいのは、
見たい人が、自分から見に行く場所だったこと。
検索する。
板を開く。
スレッドを探す。
自分からそこへ行かなければ、基本的には目に入らない。
SNSは、便所の落書きを巨大スクリーンに映す
SNSは違う。
頼んでもいないのに、向こうから情報がやってくる。
フォローしていない人の発言まで、おすすめとして流れてくる。
興味があるのかどうかも関係ない。
反応が集まっている。
話題になっている。
炎上している。
それだけで、自分の目の前まで運ばれてくる。
2ちゃんねるが「便所の落書き」だったとするなら、
SNSは、
その便所の落書きをコピーして、わざわざ家まで配ってくる仕組み
なのかもしれない。
しかも、ただ配るだけではない。
SNSは巨大なスクリーンでもある
SNSでは、
刺激の強い発言。
怒りを誘う発言。
断定的な発言。
そういうものほど反応を集めやすい。
反応が集まれば、さらに多くの人へ表示される。
多くの人へ表示されれば、また反応が増える。
つまり、
2ちゃんねるが便所の落書きなら、SNSはその落書きを駅前の巨大スクリーンに自動投影する。
しかも、そのスクリーンに映す内容を選ぶ基準が、
「正しいかどうか」
とは限らない。
むしろ、アルゴリズムによって
「どれだけ反応されるか」
だったりする。
こうなると、昔からいた無責任な発言者に、
世界規模の拡声器を持たせた
のと同じことになる。
人間そのものが突然変わったわけではない。
変わったのは、
一人の戯言が届く距離と速度だ。
拡散されたことが「正しさ」に見えてしまう
さらに厄介なのは、
たくさん見られたこと。
何度も引用されたこと。
多くの人が反応したこと。
それ自体が、
「どうやら本当らしい」
という雰囲気を作ってしまうことだ。
専門家の発言も、
思いつきで書かれた発言も、
同じタイムラインに並ぶ。
しかも場合によっては、
丁寧で慎重な説明より、
短くて断定的な発言の方が広がる。
それを何度も目にしているうちに、
「みんなが言っている」
「よく見る話だから事実なのだろう」
という感覚まで生まれてくる。
でも、
拡散されたことと、正しいことは別の話だ。
表現の自由と、拡散される権利は同じではない
もちろん、発言する自由はある。
批判する自由もある。
それを否定するつもりはない。
ただ、
自分の発言を世界中に無料で拡声してもらう権利まで、当然にあるわけではない。
ここは分けて考えた方がいいと思う。
発言できること。
その発言が数百万人に推薦されること。
これは同じではない。
表現の自由の話と、
プラットフォームが何を、どこまで拡散するのかという話は、
本来、別の話なのだと思う。
最後に
ネットは、人を愚かにしたのか
たぶん、
ネットが人間を急に愚かにしたわけではない。
昔から、
無責任なことを言う人もいた。
知ったかぶりをする人もいた。
人を簡単に断罪する人もいた。
ただ昔なら、
半径10メートルで消えていた戯言を、
今は、世界中まで届けられる。
しかも、
本人が探しに行かなくても、
向こうから届けてくれる。
問題は、
誰でも発言できるようになったことだけではない。
誰かの戯言をコピーし、家まで届け、さらに巨大なスクリーンへ自動投影する。
そんな仕組みを、
私たちは毎日使っている。
SNSを見ていて時々感じる気持ち悪さの正体は、
案外そこなのかもしれない。
追記:Facebookグループやnoteでは、なぜ同じ違和感を感じないのか
考えてみると、私はネット上の他人の発言すべてに違和感を覚えているのではない。
Facebookのグループ投稿を見ていても、XやThreadsほど違和感を感じない。
ここにも同じ構造があるのだと思う。
Facebookグループは、基本的に自分が興味のあるテーマの「部屋」に、自分から入っていく場所だ。
趣味、仕事、地域、資格など、目的があって参加し、その中の投稿を読む。
もちろん、そこにも間違った情報やくだらない発言はある。
しかし少なくとも、自分でその場所を選んでいる。
これは昔の2ちゃんねるにも少し似ている。
2ちゃんねるも「板」を自分で選び、さらにスレッドを選んで読みに行った。
「便所の落書き」と呼ばれていたが、便所の中に自分から入って読んでいたとも言える。
noteも少し違う。
noteにもおすすめなどの導線はあるが、基本はタイトルを見て、自分が読みたい記事を選んで読む。
短い一言が突然目の前に飛び込んできて、それを起点に怒りや断罪が連鎖することが中心のメディアではない。
整理すると、
2ちゃんねる=便所の落書きみたいなもの
Facebookグループ=目的を持って入る公民館の掲示板
note=自分で選んで読む雑誌・ミニコミ誌
X・Threads=駅前の巨大スクリーン
という違いなのかもしれない。
YouTubeは少し特殊だ。
動画そのものはnoteと同じように「作品」を見に行くメディアだが、おすすめ動画やショートなど、アルゴリズムによる拡散機能も非常に強い。
つまり「作品を選んで見る場所」と「巨大スクリーン」の両方の性質を持っている。
ここまで考えて、自分の違和感は「素人がネットで発言すること」ではないと気づく。
誰でも発言していい。
くだらないことを書いてもいい。
間違ったことを言う人だって昔からいた。
問題は、自分が読むと決めてもいない他人の発言を、アルゴリズムが自分の目の前まで運んでくること。
そして、刺激が強く、怒りを誘い、断定的な発言ほど反応を集めやすく、結果としてさらに遠くまで運ばれやすいことだ。
だから問題の本質は「誰でも発信できるようになったこと」だけではない。
発言と拡散が一体化してしまったこと。
発言する自由はある。
しかし、
その発言を世界中に拡散してもらう権利まであるわけではない。
Facebookグループやnoteでは感じないが、XやThreadsでは違和感が出る。
その自分自身の感覚の違いが、むしろこの問題の構造をよく表しているのかもしれない。
結局、自分が違和感を覚えていたのはSNSそのものではなかった。
SNSを「人」で見れば、「変な人が増えた」で終わる。
SNSを「構造」で見れば、「情報が勝手に運ばれ、増幅される仕組み」が見えてくる。
私が書きたかったのは、後者だった。
