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引きこもりで無職の期間は“無”じゃない理由


「あなたは、引きこもっていた間に何をしていましたか?」


もし、面接でこんな質問をされたら、

引きこもっていた経験がある人は、なんて答えますか?


引きこもっている期間というのは、とても曖昧でナゾに包まれがちです。




「この5年間は、何をしていたのですか?」


私は大学を卒業後、5年間引きこもりをしていました。

その後受けた面接で、責め立てられるように聞かれたときもありましたし、

逆に“はれもの”にさわるように、遠慮がちに聞かれたこともありました。



私はいままで、自分の引きこもっていた期間を、マイナスにとらえていました。

それは自分の中で、働いていないことや“普通“じゃないことへの罪悪感があったからです。

けれど実は、働いていなかったのではなく、働けなかった・・・・・・のです。

PMDDという、生理前になると心身の不調が生じる病気にかかっていました。

また、気分変調性障害という、抑うつ状態が長く続く障害も患っていたように思います。

あくまで自己診断ではありますが、そういった自分をうまく受け入れずにいたので、

“ただの甘えだ、心が弱いのだ、社会不適合者だ”

と自分で自分にレッテルをはっていたし、逆に自分自身を見下すことで、浮上・・しようとしていました。

けれど、働けないことは悪いことではありません。罪ではないのです。

それを、中途半端に自分の責任だと思い込み、恥や罪悪感とともに自己否定してしまうと

かえって社会復帰から遠ざかってしまう危険があるのではないかと思います。

皮肉なものです。

引きこもっている原因を必要以上に背負うことで、結果としてますます社会から遠ざかってしまう。

“しょうがなかった、しんどかった、働こうと思えなかった”

そう当時をふりかえり、開きなおってしまったほうが、自分の望む未来をひきよせられる気がします。


そして、

“学生時代にやっていたこと” “引きこもり時代にやっていたこと”

この2つは自分の中で同じものとして認識されるべきだし、評価されるべきだと思っています。

もちろん引きこもり時代は社会とのかかわりがほとんどないので、バイトやインターンシップなどがある学生時代とくらべると、どうしても説得性に欠けてしまいます。

けれど、引きこもりの期間には、ただ「無職」と表現しきれない“なにか”があるのです。

“なにか”を生みだし、“なにか”を経験しているのです。

むしろ、その“なにか”をするために引きこもっているのですから。


最近私は、たとえその“なにか”が他人には評価されないものだったとしても、せめて本人の中では大事にしていくべきだ、と思うようになりました。

(同じ立場のnoterさんたちの記事を読んで、そう思えるようになりました。ありがとうございます。)

そして、そうやって大事にしていくことが、自分が望む未来へとつながるのではないかと思うようになりました。


ということで、ここからは

「引きこもっていた間に何をしていましたか?」の質問に、私なりに正直に答えていきたいと思います。


答えその1「寝ていました。」

私は引きこもっていた5年間のうち、はじめの1年間をほとんど寝てすごしました。

“寝ていた”と聞くと、どうしても“怠けてる”とか“自堕落”だとか、そんなイメージを持たれてしまうかもしれません。

けれど、ときには寝る以外の選択肢がないこともあります。

身体がだるくて重かったり、何も意欲がわかなかったり、疲れていたり、外の刺激から身を守るためだったり、

“寝ること”一つとっても、その意味合いは抱えている事情によってさまざまです。

確かに、そこに“逃げ”の気持ちがなかったかといわれれば、嘘になります。

ラクなすごしかたを選んでいただけ、と言われればそれまでかもしれません。

けれど、そのときの自分はいったい何から逃げる必要があったのか、考える必要があります。

なぜなら、その行動に“罪”や“悪”は一切存在しないからです。

私の場合はなんでしょう。

親との関係もうまくいかず、また社会にもうまく溶け込めなかった、適応できなかった、自己肯定感がボロボロだった。

そんなボロボロに傷ついた自分を、ただただ守るのに必死だった。

加えて、体調も悪かった。

それでいい気がします。

それを、“自分が怠けていた”、“自分が悪かったのだ”と必要以上の責任・・を負うことで、

かえって自分でいることが苦しくなってしまいます。


答えその2「抑うつ状態に陥っていました。」

私は引きこもっていた当時、気分が落ちこんでしまうことがよくありました。

当時の日記をみると、よくドクロマーク💀が書いてあります。今思えば、あれは抑うつ状態に陥っていたときでした。

大学生という身分を失った自分を、うけいれることもできていませんでした。

なので、大学を卒業したばかりの頃は、「あなたは今一体何をしてるんですか?」と攻め立てるような連絡が大学からくるのではないか、という恐怖に怯えていました。

外に出たら、まわりにいた人たちに見られている気がしましたし、とにかく挙動不審で表情も暗く、明らかにメンタルがおかしかったです。


けれど、いいんですよ。

メンタルが落ちるときなんて、人間誰でもやってきます。

加えて私は、引きこもり2年目に姉を自死で亡くしています。

引きこもりなのに、遺品整理や姉の子どもたちの世話に追われ、かなりしんどかったです。

メンタルがおかしくなってもいいんです。

ただ、そんな自分を恥じてしまったり否定してしまうと、よけい自立が遠のきます。

面接で堂々と、「気分が落ちていました」とまで言う必要はありません。

ただ、自分の中で“あーあのときはメンタル落ちてたわー”と、自覚してあげる・・・ことが大事なんです。


答えその3「アニメやドラマや映画を見ていました。」

私は引きこもっていた間、アニメやドラマや映画をよく見ていました。

アニメは、子どものころによく見ていたものです。

大人になってから見る名作アニメって、新たな発見があって子どものころとはまた違った楽しみ方ができるんですよね。

今思えば、自分は大人になったと実感したかったのかもしれませんし、単純に“子どもがえり”していたのかもしれません。

ちなみに私が見ていたのは…

天空のエスカフローネ
カウボーイビバップ
コジコジ
無責任艦長タイラー

などなど。

(このラインナップ、ささる世代の人には、ささるはず…。)

ドラマは『愛していると言ってくれ』の再放送にドハマりしてました。

『最高の離婚』(2013年)は独身の身でありながら、ボロボロ泣きながら見てました。また、映画は男はつらいよシリーズも好きです。


今思うと、ドラマなどの登場人物に感情移入したり共感することで、癒されていたように思います。

登場人物と自分を重ね合わせ、一緒に壁にぶつかって、のりこえて、人を愛して愛されて…。

たとえそれが作りものの世界だったとしても、その世界に入りこむことで、人とのかかわりあいや触れあいを一緒になって経験していた気がします。

なので、ただやりたいことをしているように見える行動の裏にも、そこにはきちんと意味があるんですよね。

答えその4「園芸をしていました。」

私は引きこもっていたころ、園芸にドハマりしていました。

来る日も来る日も、土いじりばかりしていました。

今思えば、自分なりに得るものがあったからだと思ってます。

後から知ったのですが、昔から“園芸療法”というものがあるそうです。

園芸療法は、生活リズムを整えたり五感を刺激するため、うつ病や認知症の人たちなどに効果があるとされています。


これを本能でやってた感じですね。

とにかく、楽しい。園芸は楽しい、の一言につきます。

植物の成長を見るのが楽しいですし、そんな植物の命を育むことで、なにより自信がつきます。

特に、芽が出たのを発見したときに分泌されるアドレナリンの量は、尋常じゃありません(笑)

また、植物の世話をすることで、私自身が癒されていました。

当時はスーパーなどで、花がしおれてきたり弱ったりして値引きされた苗をよく買っていました。

もちろんお金がなかったこともあるのですが、その弱っている植物のお世話をすることで、自分自身の傷ついた心のケアをしていたように思います。

私が園芸に“夢中”になることは、傷ついて弱った自分に対して“夢中”になることと同じでした。

150円で売られていたひょろひょろのクレマチスの苗を大きくし、またさらに挿し木で増やし、

今ではたくさんの花を咲かせられるようになったのは、私の園芸自慢の一つです。


まとめ

ー引きこもりから卒業しよう。

そう決意し勇気をふりしぼって受けた面接で、「この期間は何をしていたのですか?」と聞かれる。そこで、

「抑うつ状態で寝ていました。」「アニメを見ていました。」「園芸に没頭していました。」

…なかなか言えるものではありませんよね。

(なかには正直にいって採用された方もいるかもしれませんが)


けれど、その行動一つ一つには、きちんとした自分なりの理由がありました。

一つは
体調をととのえること

そして、
引きこもりになった自分を受け入れる時間をもつこと

そしてなによりも、
自信を失って傷ついてしまった心を回復させること

私が引きこもっていた間にしていた“なにか”とは、この3つでした。


そして今現在、私はこれまでの生き方に限界を感じてしまい、人生何度目かの無職状態です。


引きこもり中は、人はだれしも“なにか”をしている。

私が今している“なにか”とは、なんだろう。

それは、今まで向き合ってこなかったもの、自分に足りなかったものを埋めることだと思っています。

おかげさまで、これまでnoteに記事を書くことでいろいろなものと向き合えるようになったし、知らない世界を知ることができました。


無職で引きこもり期間をカッコよくいうと、F1の“タイヤ交換中”のような感じがします。

それが数秒ですむ人もいれば、何時間、何週間もかかる人もいます。

もしかしたら、F1レースに戻るのはやめて、トラックに乗りかえて一般道を走り出す人もいるかもしれないし、自転車やスケボーに乗りかえる人もいるかもしれない。

また、乗り物に乗るのをやめて、舗装されていない道を歩いていこうとする人もいるかもしれない。

もちろん、乗り物に乗っているほうがえらいということでは決してなく、

風を切って走るのが好きな人もいれば、道ばたの草花を愛でながらゆっくり歩きたい人もいます。

なので本来は、78憶人いたら78憶通りの生き方があるはずなのです。(すごい数!)


なので、

生きている中で「これ違うな」と思って、その場ですばやく適応できる人もいれば、

私のように適応するのに時間がかかってしまい、根本的な生き方から見直そうと、一時的に止まってしまう人もいます。

けれど、そんな無職の引きこもり期間であっても、“無”ではないのです。

無職で引きこもっていても、かならずそこにはなにか“意味”があって、なにかが“必要”で、なにかを“生み出して”いるのです。

無職で引きこもりというのは、りっぱな一つの生き方です。

理由はどうあれ、無職で引きこもりという、一つの“前向き”な生き方を選択したにすぎません。


もちろん、それはまわりの支えがあってこそだという自覚は、最低限持たなくてはいけません。

ただ、引きこもりであるということを“罪”という形で背負ってしまうと、かえって自立から遠ざかってしまうような気がするのです。

“背負う”のではなく、“開き直る”。

「私にとっては、必要な時間だったんです。」
「空白期間が長い?あなたと私の時間軸はズレてるみたいですね。」
以上。

そんなスタンスで面接を受けたほうが、かえって道は開けるような気がします。


ふと思ったのですが、これってなんだか英語を話すのと似ています。

きちんとした英文法だけど自信なさげに話すよりも、たとえブロークンでも堂々としゃべったほうが意味が通じる、みたいな。


“人生、言ったもんがち。引きこもっていたことを、うまくセルフブランディングしていけばいい。”


これからは、そんなマインドで生きていこうと思います。


ここまでお読みいただき、ありがとうございました😊



あなたがなにも“していない”ときに、“している”ことはなんですか?




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