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緊急特集 ルーサー・ヴァンドロスのドキュメンタリー『ルーサー:ネヴァー・トゥ・マッチ』を見て(パート1)


(値段はついていますが、最後まで無料で読めます)

緊急特集 ルーサー・ヴァンドロスのドキュメンタリー『ルーサー:ネヴァー・トゥ・マッチ』を見て (パート1)
 
【Watching Luther Vandross’s Documentary ”Luther : Never Too Much”】
 
ドキュメンタリー。
 
アメリカ時間2025年1月1日夜8時(日本時間2日朝10時)(東部西部時間等各タイムゾーンいずれも同時刻)からCNNでルーサー・ヴァンロスのドキュメンタリー映画『ルーサー:ネヴァー・トゥ・マッチ』が放映された。2時間枠(実際は正味約1時間38分)でオンエアされ、その後、CNNオンデマンドなどのストリーミング・サーヴィスでストリーミングが開始した。また、2025年1月4日夜9時(=東部時間、セントラル夜8時、マウンテン夜7時、太平洋・西部夕方5時)から再放送される。(日本時間5日朝11時) 現時点では日本での近いうちでの公開、また、CNNでの公開はないようだが、いずれ、たとえば、アマゾン・プライムなどのようなプラットフォームに載って公開されるかもしれない。そのあたりの情報が入り次第、こちらでもお知らせする。
 
さっそく視聴したので、今日・明日のブログで詳しくご紹介しようと思う。
 
結論から言うと、とてもいいドキュメンタリーだった。ルーサーの人と成り、そして彼の悩み、ソウル・サーチンの部分がよくわかった。
 
ルーサーについては、1977年コティリオン・レーベルから出た2枚のアルバムからリアルタイムで聴き続けてきたが、1981年『ネヴァー・トゥ・マッチ』での大ブレイク以降も、大スターになるも、なかなかグラミーが取れず、さまざまなアップス&ダウンズを経て、ついに10回目のノミネートでグラミーを獲得。そして、自分にとっての最大で最高の「キャリア・ソング」を作り出すが、その直後、脳卒中で倒れ、再度グラミーを獲得するものの、2005年7月1日、帰らぬ人となってしまうあたりまで、ずっと見てきたので、ひときわ思い入れの強いアーティストになっている。また、自身でも何枚もライナーノーツを書いたりした。特に2作目の『フォーエヴァー~』(1982年)には、当時日本語で読めるもっとも詳しいプロフィール、物語を書き、これを読んでルーサー・ファンになった方も多いと聞く。その後CD化されたときに、転載されたが、現在ではなかなか入手が難しくなったので、近いうちに全文をアップしようかとも思う。ただ、これを書いたのが1982年なので、その後の大活躍ぶりにはまったくふれていないので、キャリアの半分も書いてないのだが…。
 
このドキュメンタリーは、基本的にはルーサーのキャリアを丁寧に時系列で追っていくため、ひじょうにわかりやすく、その浮き沈み、心の悩み、成功の度合いなどがよくわかる。
 
予告編

 
(以後はネタばれになりますが、どうしても、本編内容を自分の目で見るまで知りたくないという人はご注意ください。いち早くこのドキュメンタリーの内容を知りたい方はぜひどうぞ)
 
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ACT 1 モータウン・チャイルド
 
プログラムは景気づけにルーサーの「エイント・ノー・ストッピン・アス・ナウ」から始まり、ルーサーのハイスクール時代の仲間から始まった音楽活動を振り返る。証言するのは、いずれも盟友、生涯の友となるフォンジ・ソーントン、ロビン・クラーク、カルロス・アロマーら。15歳のときに知り合ったフォンジ、11年生(16歳くらい)で知り合ったロビン、そして、同じ時期に知り合ったプエルトリコ系のカルロス。そして、彼らが音楽に魅せられ、ハーレムのアポロ・シアターなどで仕事をするようになる時期の話が描かれる。
 
『エド・サリヴァン・ショー』にスプリームスが出たときのこと。ルーサーは「僕は『モータウン・チャイルド』だから、その日曜のショーを観ることがなによりも楽しみだった。母親は、言うことを聞かないとテレビを見せない、と言うので、食器を洗い、ごみ出しをして、宿題を終わらせ、テレビの前に座ったものだ」と振り返る。
 
フォンジが振り返る。「僕とルーサーは音楽の趣味が一緒ということがわかってね。あの頃『エド・サリヴァン』は夜の11時くらいだったと思うが家中が寝静まっているのに電話が鳴った。(家の者を)起こしてはいけないからワンコールで取るとルーサーで、こんなことを言う。(エド・サリヴァンのスプリームスのライヴを見て)『なあ、フローレンス(スプリームスのメンバーの1人)がステップ、間違えたの見たか?』ってね」(笑) なんというマニアックな会話か。
 
彼らはシェイズ・オブ・ジェイド、アポロのハウス・バンド的存在になるリッスン・マイ・ブラザーとして活動。ルーサーもその一員として歌っていた。この時期の映像がカラーで残されているのもすごい。リッスン・マイ・ブラザーは1969年の『サマー・オブ・ソウル』にも出演したが、残念ながら、その部分のフィルムは残されていなかったという。
 
リッスン・マイ・ブラザーのリハーサルをジム・ヘンソンという人物に見せたところ、プロデューサーからこんど新しく子供向けのテレビ番組が始まるからそこで歌ってくれないか、という誘いが来る。


「リッスン・マイ・ブラザー」


 
それが『セサミ・ストリート』だった。この『セサミ・ストリート』はまさに『ハーレム』そのものだったという。確かに、そう言われればその通りだ。階段の雰囲気、ブラザー&シスターたちが多く登場すること、また楽曲がとてもリズミックなことなどが、そんな雰囲気を醸し出している。ただ、この頃からルーサーも他のシンガーも才能はあったが、そこから花開くことはなかった。
 
カルロスが説明する。「あの頃、ブラックで体が大きく、太っていると、見た目だけで判断されたんだ。才能ではなくてね。一種の偏見だな」
 
ルーサーは、ミシガン州の大学に行く。しかし、それは彼にとっては悲惨なもので、まったくなじめなかった。ルーサーは母に「学校を辞めたい。そして、音楽のキャリアを進みたい」と告げる。母親は「シュアー(わかった)」と答えた。結局ルーサーは1年でドロップアウト。ルーサーは、「そのとき母が『シュアー』と言ったのは、おそらく、僕が8歳のときに亡くなった父親がひじょうに歌がうまかったら、その才能を引き継いでいるのではないかと考えたからではないか」と推測する。
 
そして、1970年代初期頃から、フィラデルフィア・サウンドが台頭してくる。これにフォンジも、ルーサーも魅せられていく。そして、そのサウンドに魅せられたのはイギリスのミュージシャンも同じだった。そこで、デイヴィッド・ボウイが登場。1975年、ボウイがフィラデルフィアのシグマ・サウンド・スタジオで『ヤング・アメリカンズ』のアルバムを制作。一足先にギタリストとして声がかかっていたカルロスが、ルーサーやその仲間にスタジオに遊びに来ないか誘う。そこでルーサーは、いわゆるバックグラウンド・ヴォーカルのアイデアを出し、実際に歌うようになると、ボウイはすっかりそれに魅せられ、彼らを雇うことに。結局、アルバム制作から、そのツアーにまで参加することになった。そのあたりの映像が残っているところがすごい。


デイヴィッド・ボウイのレコーディング・セッション。左から2番目がルーサー。


 
デイヴィッド・ボウイのレコーディング・セッションの映像で、リハの模様から、スタジオでの模様、ライヴ映像まででてくる。
 
ここで、ルーサーの自作曲「ファンキー・ミュージック」をデイヴィッド・ボウイが気に入り、これを「ファッシネーション」と改題して録音した。その動画フィルムもでてくる。コティリオンと契約して2枚のアルバムをだすグループ名「ルーサー」については、ルーサー自身はテレビのインタヴューで「レコード会社が誰にでもわかりやすい名前ということで決めた名前なんだ」と答えている。さらに、「デイヴィッドは僕たちに30分の自分たちだけの曲をやる時間をくれたんだ。でも、オーディエンスは僕らのことは知らないから、『ボウイ、ボウイ!』と叫んでる。でも、そのときにステージでどうふるまうべきを学んだ」と振り返る。
 
カルロスが付け加える。「バックグラウンド・シンガーはアート(芸術)だ。どうやって(歌声を)ブレンドするか、どうやって(ディレクター)の指示にしたがってできるか。全部できなければならない」
 
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ACT2 頭角を現すシンガー
 
ルーサーは、ミュージカルから映画になった『ウィズ』に参加。その中から「エヴリバディ―・リジョイス」の動画。この『ウィズ』は、もちろん、マイケル・ジャクソンとダイアナ・ロスが主演のもの。
 
そして、ナイル・ロジャーズがインタヴューで登場。「1977年、ずっとルーサーのバックバンドの一員だった。あるとき、レディオ・シティ・ミュージックホールでマーヴィン・ゲイのオープニングをした。僕たちのショーをやって休憩があって、それからマーヴィンがでてくる。その休憩の間にスタジオに行って、僕たちは僕たちの初のヒットになる『エヴリバディ・ダンス』を録音したんだ。ルーサーはそのとき、彼のコーラス隊を連れてきてくれ、これを録音した。それはマジカルだったよ。以来、ルーサーは僕のシックのレコード、(僕たちがプロデュースした)シスター・スレッジのレコード、みんなでコーラスをつけてくれた。ルーサーを始め、みんなのコーラスは、シックの大きな要素なんだ」
 
ルーサー。「僕はディスコ時代で本物のシンガーの1人だった。そして、そこからジングル(CM)の世界に飛び込んだ」
 
「ジューシー・フルート・ガム」、ビールの「ミラータイム」、「ロウエンブライ」などなど。そしてそんなCMのひとつ「ジーノ・ピザ」の撮影のときに、ルーサーののちに「十八番」となる低音から高音まで一気に謳いあげるスタイルができたという。そのときプロデューサーから「ピザの『シズリン・ホット』(ジューシーで熱々な感じ)をうまく歌ってくれないか?」と言われ、そのシズリン・ホットというワードを下から歌い上げた。



 
こうしたCMは日本ではまず流れないので、昔のCMでルーサーの声を聴くことができるのは嬉しい。
 
マーカス・ミラーがCMを歌うシンガーのギャラがミュージシャンの何百万倍も高い(Hundreds Million Times)といい、その頃からルーサーがすごかったという証言をする。「ミュージシャンなんて34ドルの小切手をもらう程度でね」と自嘲気味に言う。
 
このCMシンガーの収入で、ルーサーは母と住んでいた実家から独立、また母もよりよい家に引っ越させることができたという。
 
ACT 3 ロバータ・フラックのツアー
 
こうしてルーサーは、「CMの世界でのナンバーワン・シンガー、レコーディングでもナンバーワン・シンガーになった」とマーカス。チェンジの「サーチン」「グロウ・オブ・ラヴ」などが登場。これらは大ヒットするが、この頃すでにルーサーは、「誰かのグループの雇われリードシンガーになる気はない。自分自身で曲を書き、プロデュースし、歌う。そういうのを目指してると言っていた」とフォンジが証言。
 
そして、1980年。御大ロバータ・フラックのバックコーラスの仕事がはいってきて、これが大きな転機になる。ロバータが「フィール・ライク・メイキング・ラヴ」を歌うバックにルーサーの顔とその歌声がでてくる。



 
ルーサー。「ロバータのギグでは、彼女がいないとき、僕がサウンドチェック、マイク・チェックで彼女の部分を歌ったりしていた。あるとき、それを見たロバータが『あなたは、私のバックで~ウーとかアーとか歌っているのはあわないわね。あなた自身のステイトメント、あなた自身のレコードを作るべきだと思う』と言って、彼女は僕をクビにするんだ(笑)」
 
ロバータ。「ルーサーは私が彼をクビにしたって言ってるけど、私は一度もクビにしたことはないのよ。(笑) 私が言ったのは、『自分自身を信じて、自分の行くべき道を行きなさい』ということ。彼のファースト・アルバム(この場合は、『ネヴァー・トゥ・マッチ』を指す)を作るよう勇気づけたくらいよ」
 
そのロバータのツアーでベースを弾いていたマーカス。「あるときルーサーから自分の曲のデモテープを作りたい、と言ってきた。『なあ、君はニューヨークのナンバー・ワン・バックグラウンドシンガーじゃないか。なんで、そんな面倒になることをやるんだ?』と訊くと、『僕の頭には(自分の)サウンドが鳴ってるんだ。それを表に出さないとがまんできないんだ』というんだよ。そこで、ある日曜、その日しかあいてなかったんで、スタジオに入った」
 
ルーサー。「マーカス・ミラー、ナット・アダレー・ジュニア、シシー・ヒューストン、、、みんなノーギャラで来てくれた」
 
ナットがアレンジしたあの曲が録音された。「ネヴァー・トゥ・マッチ」だ。
 
そして、そのデモ・テープがあちこちに売り込まれたが、すべて断られた。CBS、エピックからも最初は断られた。そこで、ルーサーは別の人物をたどり、再度、CBS、エピックにアプローチした。エピックと契約。見事に大ヒットに。
 
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(この項、明日に続く)
 
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今週(2025/1/9)放送の『AOR / Soul To Soul』でこのドキュメンタリーについて特集します。
JFN各局+関東インターFM。1月9日(木)夜8時から生放送。
 
https://radiko.jp/#!/live/INT
 
 
ENT>DOCUMENTARY>Luther Vandross
ENT>ARTIST>Vandross, Luther
 

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