現代狂歌とは何か(改訂版) 【後編】
作り方と読み方の小さな案内
前編では、現代短歌と多くの技術を共有している現在に、なぜ、あえて狂歌と名乗るのかを考えました。現代狂歌は、近世狂歌の流れへ意識的に接続し、〈狂〉と、そこから生まれる風流・おかしみを、作歌や鑑賞の大切なところに置きます。
そのとき、一首に向かって問いかける言葉が、
この歌は、何を狂わせたのか。
です。
ただし、何かをずらしたり反転させたりすれば、それだけで狂歌になるわけではありません。
その〈狂〉が一首の中で働いているか。
そこから可笑しみや諧謔、皮肉、自嘲、風刺などが生まれているか。
そして何より、一首の歌として立っているか。
そんなことを考えながら作り、読みます。
では、実際に何を考えながら作り、どのように読めばよいのでしょうか。
一首の骨とは何か
ここでは、その歌をその歌として立たせている中心的な関係を「骨」と呼びます。
何がなくなると、その歌ではなくなってしまうのか。
一首の言葉や場面を、どんな関係が結びつけているのか。
そんな中心だと考えてください。
たとえば、こんな歌があります。
洗面所
腰に一撃
天仰ぐ
祈りの声は
誰に届くか
洗面所で、突然、腰に痛みが走る。身体は反射的に天を仰ぎ、声が出る。
ここまでは、身近な災難の歌です。しかし、その声が四句目で「祈りの声」と呼ばれます。
ただの「痛い」という声が、誰かに助けを求める祈りへ変わる。それなのに、その祈りが誰に向けられているのかは定まりません。
突然の痛みによって発した声が祈りへ変わり、その宛先が宙に浮く。
そこに、この歌の〈狂〉があります。
そして、本人にとっては切実な腰痛が、どこか大げさな「祈り」の姿を取ることで、可笑しみも生まれます。
この関係が、この一首の骨です。
骨は、作者が隠しておいた正解ではありません。一首に置かれた言葉や場面を手がかりに、その歌をその歌として立たせている関係を捉えるための考え方です。
まず、場面を一つ選ぶ
現代狂歌の作り方はいくつもあります。
ここでは、まず場面から入る作り方を試してみます。
朝、なかなか起きられなかった。
朝、なかなか起きられなかった。
会議中に通知が鳴った。
片づけを始めたのに、昔の写真を見つけた。
洗車した翌日に雨が降った。
大事件である必要はありません。むしろ、誰にでも覚えのある小さな出来事の方が、別の見え方を引き出しやすいことがあります。
次に、その場面にある物や動作、言葉を拾います。
通知、会議、沈黙、振動。
洗車、雨、天気予報、徒労。
写真、片づけ、思い出、時間。
そして、その場面で何が起きているのかを普通に見ます。
何を狂わせるにしても、その前に、もとの関係が見えていなければ、ずれも反転も見えてきません。
反対に、面白い言葉の重なりや、掛け合う言葉から場面や趣向が生まれることもあります。
場面から言葉へ進むことも、言葉から場面へ戻ることもあります。
どちらか一方に決めるのではなく、場面と詞のあいだを往復しながら一首を作ります。
普通の関係を動かしてみる
場面と言葉を拾ったら、その中にある当たり前の関係を、少し動かしてみます。
通知を「知らせ」ではなく「追っ手」と見る。
片づけを「物を減らす作業」ではなく、「過去を発掘する作業」と見る。
雨を「自然現象」ではなく、「洗車への返事」と見る。
普段とは別の名前で呼んでみる。
原因と結果を入れ替えてみる。
大げさな言葉を、身近な出来事へつないでみる。
同じ言葉が、別の意味でも働かないか考えてみる。
自分自身を、少し離れたところから眺めてみる。
ここで大切なのは、ただ変わったことを言うことではありません。
関係を動かしたことで、その場面が前よりよく見えるか。
そこにいる人物が見えるか。
可笑しみや皮肉、苦笑、自嘲などが立ち上がるか。
そして、一首として何かが残るか。
そこまで確かめます。
〈狂〉は、歌を壊すためのものではありません。
もとの世界を残したまま、そこへ別の見え方を重ねるためのものです。
五・七・五・七・七に置く
関係が一つ見つかったら、五・七・五・七・七に置いてみます。
最初から、きれいに収めようとしすぎる必要はありません。
まず言いたいことを置く。
言葉の順番を変える。
別の言葉に置き換える。
削ってみる。
戻してみる。
一首の中で、あれこれ試します。
五・七・五・七・七は、言葉を閉じ込めるだけの窮屈な箱ではありません。何を残し、何を削り、どこへ重みを置くかを考えさせる枠です。
定型があるからこそ、余分な説明や、働きの弱い言葉も見つけやすくなります。
字余りや字足らずが、すべて悪いわけではありません。
ただし、収まらなかった結果として崩れることと、崩すことで必要な響きや意味を生むこととは違います。
まず定型の働きを知り、そのうえで必要なら動かします。
声に出して読む
歌がひとまずできたら、声に出して読みます。
意味は通っているか。
文字数のために助詞を抜いた結果、文が不自然に切れていないか。
口語で詠んだつもりなのに、途中へ雰囲気だけの文語が混ざっていないか。同じ音が続きすぎていないか。
どこで息が止まり、どこが強く聞こえるか。
目で追っているだけでは気づかなかったことが、声にすると見えてきます。現代の言葉や口語で詠むことは、普段の話し言葉をそのまま並べることではありません。口語だからこそ、実際に口にしたとき、無理なく一首として届くかを確かめます。
歌にすがり、十四音で狂わす
現代狂歌の構えを、ひとまず、
歌にすがり、十四音で狂わす。
と表してみます。
五・七・五で場面や意味をある程度立て、下の七・七、つまり十四音によって、それまでの見え方を別の方向へ動かす。
これは、狂歌を作るときに使える一つの型です。
先ほどの歌でも、
洗面所
腰に一撃
天仰ぐ
までは、腰を痛めた人物の場面です。
そこへ、
祈りの声は
誰に届くか
と続くことで、痛みの声が、宛先の定まらない祈りへ変わります。
下の十四音が、前の五・七・五をさかのぼって読み替えさせています。
ただし、これは必ず守らなければならない規則ではありません。
初句からすでに〈狂〉が始まっている歌もあります。
一つの言葉によって、一首全体の見え方が動く歌もあります。
下の七七で反転せず、五句を通してじわじわと関係が変わる歌もあります。
「十四音で狂わす」は、すべての狂歌を同じ形に収めるための決まりではありません。
歌を足場として残しながら、その内部で見え方を動かす。
その構えを覚えておくための、一つの旗印です。
言葉遊びだけを残さない
掛詞や駄洒落も、狂歌で使われてきた大切な技法です。
一つの言葉が二つの意味を持つ。
よく知っている言葉が、別の場面へつながる。
似た音の言葉が、思いがけない関係を作る。
そうした仕掛けから、一首が生まれることもあります。
ただし、仕掛けを入れること自体が目的ではありません。
駄洒落を成立させるためだけに不自然な言葉を置き、人物や場面が壊れてしまえば、歌の中に余分な出っ張りが残ります。仕掛けだけが目立ち、外した後に何も残らないなら、言葉遊びが歌を食べてしまっています。
言葉遊びは、歌を立たせるために使う。
歌を、言葉遊びの入れ物にしない。
この違いは、かなり大切です。
余白に任せすぎない
五・七・五・七・七は短いので、書かれていない部分が必ず残ります。
しかし、説明を省けば、自動的に深い余韻が生まれるわけではありません。何を想像してほしいのか。
どこまでは一首の言葉で導くのか。
どこから先を読み手へ渡すのか。
そこまで考えて、言葉を置きます。
「祈りの声は誰に届くか」という歌にも、いくつかの読み方があります。
神や仏への祈りかもしれません。
家族への救援要請かもしれません。
誰にも届かない独り言かもしれません。
ただし、何でも好きに読めるわけではありません。
「天仰ぐ」「祈りの声」「誰に届くか」という言葉によって、読み手の想像は、ある範囲へ導かれています。
複数の読みを許すことと、意味を読み手へ丸投げすることは違います。余白は、作らなかった部分ではなく、言葉を選んだ結果として残る部分です。
どう鑑賞するか
狂歌を読むときには、まず駄洒落や掛詞を探したくなります。
もちろん、それも楽しみの一つです。
しかし、仕掛けを見つけただけで読み終えてしまうと、その歌の一部しか見ていないことがあります。
まず、一首の歌として読んでみる。
そのうえで、
何と何が結びついているのか。
どの言葉から、場面の見え方が変わったのか。
そこにいるのは、どんな人物なのか。
何が少し妙な姿になったのか。
どんな可笑しみや皮肉が生まれたのか。
笑った後に、何が残るのか。
そして、
この歌は、何を狂わせたのか。
と考えてみます。
さらに、
その〈狂〉は、一首の骨として働いているか。
その〈狂〉から、どんな風流・おかしみが生まれているか。
と見ていきます。
ここでいう風流・おかしみは、大笑いできることだけを意味しません。
洒落。
諧謔。
皮肉。
自嘲。
風刺。
苦笑。
少し妙な可笑しさ。
さまざまな姿があります。
そのうえで、この歌の価値がもっとも強く現れているのはどこかを考えます。ここでは、それを「眼目」と呼びます。
眼目は、作者の意図を当てるための答え合わせではありません。歌に置かれた言葉や場面を根拠にしながら、どこにその歌の価値がもっとも強く現れているかを読むための手がかりです。
比べてみる
一首だけを読むのではなく、歌を比べてみると、別のものも見えてきます。
同じ題で作られた歌を比べる。
自分の推敲前後を比べる。
似た発想を持つ歌と見合わせる。
先人の狂歌や短歌と比べる。
同じ「通知」を詠んでも、仕事の邪魔として見る人もいれば、誰かとのつながりとして見る人もいます。待っている通知と、来てほしくない通知では、一首の中にいる人物も変わります。
比べることで、
何を題の中心にしたのか。
どの言葉を眼目にしたのか。
どこに〈狂〉を置いたのか。
何を残し、何を削ったのか。
が見えやすくなります。
狂歌を読むことは、面白い表現を見つけることだけではありません。その人が日常のどこを見て、何を歌として残し、どこを狂わせ、そこから何を生み出したのかを見ることでもあります。
三つの点検線
ここまでを、作った歌を見直すための三つの問いにまとめることができます。
歌として立っているか。
五・七・五・七・七へ言葉を押し込んだだけではなく、一首として意味と調べが働いているか。
〈狂〉が、その歌の眼目や骨として働いているか。
ずらしや反転、意味の重なりが飾りではなく、その歌をその歌として立たせる働きを持っているか。
その〈狂〉から、風流・おかしみが生まれているか。
可笑しみ、諧謔、皮肉、自嘲、風刺、苦笑など、風流・おかしみのある姿として立ち上がっているか。
この三つは、
これを満たせば必ず狂歌である
という判定式ではありません。
短歌の中にも、この三つが強く働く歌はあります。反対に、歴史上の狂歌すべてを、この三つだけで説明できるわけでもありません。これは、ここで試みている「現代狂歌」を、作り、読み、比べ、選ぶための点検線です。
まず、一首
現代狂歌に、唯一の作り方があるわけではありません。
また、先人の狂歌や短歌を読み、どのような言葉や関係が、どのように使われてきたのかを知ることはできます。
定型、言葉、音、推敲の方法を学ぶこともできます。
しかし最後には、自分の暮らしの中から題材を拾い、自分で一首を作ることになります。
まずは、今日あった小さな出来事を一つ選ぶ。
その出来事を、普段とは少し違う角度から見てみる。
言葉や物事の関係を、ずらし、重ね、反転させてみる。
五・七・五・七・七に置き、声に出してみる。
一首の中で遊び、削り、戻し、比べてみる。
そして最後に、
歌として立っているか。
〈狂〉が働いているか。
その〈狂〉から、風流・おかしみが生まれているか。
と、もう一度読んでみます。
現代狂歌は、短歌と多くの技法を共有しています。
その技法を狂歌だけのものだと主張する必要はありません。
それでも、近世狂歌の系譜を引き受け、〈狂〉と風流・おかしみを繰り返し問いながら、作り、読み、比べ、選ぶ。
その実践には、「狂歌」という名前を置く意味があるのではないか。
そんなことを考えながら、与鳳亭枝丸は、現代に狂歌を詠んでいます。
前編はこちら
現代狂歌とはなにか(改訂版) 【前編】
(2026年8月2日 初稿掲載)
(2026年8月11日 一部改訂)
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