思いやりは、その人への本当の思いやりになっているか?

昨日の雑談の中でこの言葉が発せられた。

「他者を思いやる気持ちを持つ」と「闇雲に同情して巻き込まれる」は別。後者を誤ると善いことをしている気分にはなるが、それは害悪になる。

確かになと。他人を思いやることは必要だけど、どこまでをボーダーとするのか決めるのは自分の責任になる。それを誤ったら相手は救われなく、自分も苦しんで、周りの人も傷つけることになる。思いやることで、その人を守れるのだろうか、少なくともそれで自分に悪影響を及ぼさないのか確かめてから行動をしなければならない。
利他主義になるべきだが、健全な自己愛をもつ。自分がその行為をして壊れたり要らない物を背負ったりしたら良いことは何も生じえない。

そもそも「他者を思いやる気持ち」といっても、それは本当に他者を思いやっているのだろうか、自己満足の欺瞞なのではないか立ち止まることも、また大事なこと。自分にとっては正しいことで、自分基準での「思いやり」になっていることだとしても客観的にみるとそうなのだろうか。他人基準ではどうだろうか、自分―他人軸を取っ払ってもそれはいつでも当てはまることなのだろうか、真理にどう当てはまるかと考えなければいけなくて、それだから思いやることとは難しい。「他者を思いやる」ことが免罪符を手に入れると何をしてもよいのではない。それが正義マンを生んでしまう。これがよっぽど質が悪い。彼らはとても詭弁を使う。

思いやることが同調圧力になっているなら、それはもはや思いやりではなくただの強制。思いやりとは気遣いや心配りのことを言う。相手に最終判断を決める自由意志がそこになければ大きなお世話になる。

そうしてみると「やさしい人」なんていうのはそこら辺には生息していないことがわかる。ただのやさしい人とは本当のやさしい人ではなく、本当のやさしい人とはそれだけで十分信頼/尊敬されうるものに違いない。

誰かが言っていたことに大きい正義は大きい悪に勝てるが、小さい正義は小さい悪にも負けるのらしい。ただやさしいだけ/正義があるだけでは潰されて終わってしまう。だからこそショーペンハウエルの言っていたように適度な権力は持たなくてはいけないのだろう。力のない正義は無視されて終わる。正義が力をもっても方向が間違っていたら悪に加担することになる。
だから勉強をしなくてはいけないし、批判的思考は養わなければならない。そこに重要な意義をもつのが本来、教育であるはず。

おすすめされたブログ紹介